2-52 幕間『前夜』

 混沌の中を、モノクロの蝶が舞う。

 男は奇妙なほどに雑踏の中に埋没していた。その彫刻じみた美貌を考えれば衆目を集めても良さそうなものだが、不思議と周囲を行き交う者達は彼に目を向けることが無い。向けたとしても、それは路傍の石に対するそれだ。あるいは、その佇まいがあまりに静謐なために街中のモニュメントとして背景化しているための現象かもしれなかった。


 その彫像に、これもまた静かに依りそう影が五つ。

 

「キロンお兄様、追跡していた投射体が弾かれました」

 

 そのうちの一人、揃いの甲冑から筒状の兜のみを後ろに持ち上げて、麗しい紅顔を露わにした金髪の美少年が悄然と報告を行う。


 キロンと呼ばれた男は、しばらく指先で灰色の蝶を戯れさせてから、薄い微笑みと共に少年の頭に手を伸ばした。

 

「構わない。逃げに徹した【きぐるみの魔女】相手に無茶な追跡はむしろ命取りだ。これ以上はいいから、分離したアストラル体は戻していい。君の穢れない心に傷がついてはいけない」

 

 細い猫毛を強めに撫でられて、少年の顔はまるで飼い猫のように弛緩していく。相手に対して、あらゆるものを預けきった表情だった。


 他の四人――いずれもまだ熟し切らぬ年頃の少年達である――が一斉に溜息を吐く。それは羨望か、それともただ憧憬を共有しているのみか。

 キロンの瞳には、それらへの関心は無い。


 彼はただ与え、もたらすのみである。

 純粋に君臨する美。それは重力のようなものだ。ただあるだけで、あらゆるものを引きつける。

 

「監視などせずとも、アキラは来るだろう。人は、正しさの誘惑から逃れる事はできない」

 

 甲冑に包まれた長身が、流れるように動く。追随する五人の少年達。

 

「次は、どちらに向かわれるのでしょうか、お兄様?」

 

「挨拶だ。この地の支配者の所に」

 

 灰色の蝶が、鈍い色の軌跡を残して行く。

 後には、常と変わらぬ猥雑が残るのみ。

 

 

 

 暴力的な打鍵と怒号、そして断末魔。

 【公社】の第五階層支部は、端的に言って地獄だった。


 デスク上の据え置き端末から伸びたアダプタを喉元――声帯に接続し、声紋から呪力を発生させアストラルの世界へダイブする【公社】所属の呪術師達が、次々と断末魔の声と血反吐を撒き散らして死んでいく。


 彼らは皆、【公社】に楯突く相手へと制裁を加えようとしているだけだった。その相手がとるに足らないクラッカーならばそこで話は終わる。

 だが、今回の相手は異常の一言に尽きた。


 身の程を知らない、馬鹿な思いつき――そのような予断に基づいて下された攻撃命令。暗号通貨の交換所に攻撃を仕掛けた十六人の呪文使い達が一人残らず攻性防壁で脳を灼き切られたばかりか、感染呪術によって三親等以内の親族が皆殺しにされるという大惨事に直面して、ようやく【公社】の電脳保安部の責任者は事態が自らの手に負えないレベルにあることを認識した。


 最終的には即時に呪文の印字を行える旧型のタイプライターを持ち出さなければならない始末だったのだが、それだけでもまだ足りない。

 

「相手は間違い無く言語魔術師クラスです。総帥が不在の今、我々ではもはや対処不能。どうかセージ様のお力添えを」

 

「ん。お師匠様に留守を任されてるし。あとお父様が困るのヤだし。一応がんばる」

 

 水色の髪をした、どこかぼんやりとした印象の少女は、寝間着に大きな熊のぬいぐるみを抱えたままという姿でオフィスに現れた。場違い極まりない彼女に対して向けられた周囲の視線は、畏怖。


 怠そうに、一番良い造りの椅子に腰掛ける。即座にリクライニング機能を用いてほとんど仰向けになると、目を閉じて入眠の姿勢。抱きしめたぬいぐるみは抱き枕であったようだ。


 その周囲に、どこからともなく出現した水が浮遊する。まるで透明な水路が存在してでもいるかのように、水は細く、高速で目を閉じた少女の周りを移動する。

 

「【水使い】セージ様のアストラル投射――これならば、あの防壁の突破も可能なはずだ」

 

 その期待の声が呼び水になったのかどうかは定かではないが――。

 直後、少女の眼球と喉が弾けて、血飛沫と共に生命が消失した。


 スパークする生体電流が不健康そうな肌を焼き、数度はげしく痙攣した後、完全に沈黙する。

 即死であった。

 

「おお、なんということだ我が娘よ。死んでしまったのかね。全く困ったことだ」

 

 呆れたように言いながら、足早に少女の骸へと近寄っていくのは巨体の老人、ロドウィである。

 【公社】の首領たる人物の登場に、その場にいる全員が佇まいを正す。

 

「も、申し訳ございません首領! ご息女をこのような形で――!」

 

「良い良い。どうせすぐ起きる」

 

(お父様ひどい。娘が死んだのに冷たい)

 

「おおセージ。冷酷な父を許しておくれ。今度とっておきの肉体をあげるからね。それより、どうだったかね」

 

 思考の中だけに響く呪的音声。死体が声を発するという異常事態も、この呪術の世界にあってはただの日常に過ぎない。


 物理脳は第一脳も副脳もショートしており完全に死んでいるのだが、呪術師としての彼女はまだ死んではいなかった。弛緩した肉体の周囲には透明な水流が複雑に交差して立体的な回路を形成しており、その中を無数の煌めきが通っている。

 

(防壁は信じられないくらい強固。同じ人類種族の処理能力とは思えない。高位の妖精種アールヴとかかも。――でも、別口っぽいのに対して【炎上】仕掛けてみたら成功したから、ちょっとは時間稼ぎになる)

 

「ふむ。別口とは?」

 

(なんか、通信格闘技の講座? 例の外世界人を広告塔にして何か企んでるみたいだったから、とりあえず攻撃しといた)

 

「ほう。詳しく聞かせてくれるかね」

 

 ロドウィは娘の説明を聞きながら、端末を開いて現状を把握する。その細い目が驚愕によって僅かに開く。

 

「シナモリ・アキラ。まさか、彼が既に敵の手に落ちていたとは。――セージ、もう一度侵入ダイブできるかね」

 

(再起動まで残り21,600秒――よりもうちょっとかかる。ごめんなさい)

 

 謝罪の声はどこか感情の色が薄い。

 水回路の呪術コンピュータがぶくぶくと泡を立てる。呪力によって指向性を与えられたせせらぎが音声に擬してロドウィに語りかけているのだ。


 やむを得んか、と嘆息して、ロドウィがセージに休息を命じて、自分はある人物へと通信を試みる。

 コール一回で相手は出た。

 

「大至急、君の力を借りたい」

 

「連絡をお待ちしておりましたよ、首領殿」

 

 いつからそこに男がいたのか、誰も気付くことができなかった。

 その男は、まるで社内に設置されたモニュメントのように風景と一体化していたのだ。

 

「キロン、貴様いつの間に!」

 

 ロドウィの背後に控えていた護衛の黒服。唯一の女性であり首領の娘でもあるアニスが風のように飛び出した。


 袖口から出現したのは旋棍トンファー型の呪具。柄に刻印された溝に指を這わせて安全装置を解除。エンチャントされた呪術を起動。吸い込んだ空気をコンプレッサが圧縮、内部の燃素と混合することで高温高圧のガスが発生する。呪具の後部から爆発的な推進力を発生させ、ジェット噴射の打撃を叩き込むのがアニスの得意とする戦術である。放たれる一撃は戦闘機もかくやという必殺の破壊力と速度を有する。


 だというのに。

 

「不良品か。安物を使っているな」

 

 呪具が、動かない。

 馬鹿な。地上における最大手、一流呪具メーカークロウサー社謹製の品である。アニス本人も整備を欠かしたことがない。動作不良など起こりようがない。

 

「次からはもっと高い道具を用意する事だ。高い質には高い価値が付くものだ。その逆も然り」

 

 冷淡に告げるキロンは、ただ単純に繰り出された通常の打撃をものともせずに軽く受け流し、浮いた体重を足払いによって崩し、アニスを地に這わせた。

 シンプルな実力差。屈辱に震える女を無視して、キロンは老人に向き直る。

 

「以前も思ったことだが、その少年達は君の趣味かね?」

 

「彼らは病院兄弟団の同士達です。元々は救護施設に端を発して設立された部門で、私の古巣と縁がありましてね。実際の兄弟関係を擬するのはただの慣例に過ぎない――もっとも、私は本当の弟たち同然の親愛を注いでいるつもりですが」

 

 キロンの言葉に、少年らが恍惚として聴き入る。

 大した趣味だ、と口の中だけで老人は呟き、本題へと移ろうとする。

 

「数日前に君から打診があった時には信じがたいと思ったものだが、このような状況に陥っては信じざるをえないようだ。我々は【騎士団】と手を組もう。共に魔女狩りといこうじゃないかね」

 

「それは良かった。こちらとしても【公社】と協調できるのであれば心強い限りです――しかし」

 

「――? 何か、気にかかる事でも?」

 

 キロンは切れ長の目を細めて、周囲を睥睨した。その刃物のような視線が、水流コンピュータを使う少女の死体へと向けられる。

 

「――暗号通貨の強奪クラッキングという行為は、成功さえすればその通貨の信用度が減じていく為、強奪者の手に渡った暗号通貨は価値を失う。クラッキングは強奪というよりも信用を破壊するという効果の方が主であると言って良い」

 

 キロンは語り始めた。現状の分析というよりも、むしろ批判――あるいは嘲弄を。

 

「しかし、そのような攻撃を全て防御することができたとすればどうなるか。そのような無意味な攻撃は、強奪者自身が暗号通貨の価値を認めていると白状しているに等しい。同時に、強奪者たちがこぞって価値を認めており、加えて強固な金庫番を持った信用度の高い通貨であるという証明になる」

 

 皮肉にも、【公社】の攻撃は敵対者の評価を上げるだけの結果に終わっていた。


 否、むしろそれが相手側の狙いだったのかもしれない。

 それを公然と、それも【公社】のトップであるロドウィの目前で口にするキロンの意図は明白である。

 

「手を引け、と?」

 

「攻撃に対しての自衛は構いません。ですが、積極的な攻撃は控えるのがよろしいかと」

 

「それでは根本的な解決にはならない」

 

「ええ。ですから、それはこちらにお任せ下さい。そのための同盟だ」

 

 キロンの口調と態度から発せられる、あまりにも圧倒的な自負心に、思わずその場にいる全ての者が気圧される。直前に、アニスという【公社】指折りの実力者をあっさりと下したという事実が、その威圧感を助長させてもいた。

 

「先日の【仕込み】も機能しているようですし、しばらくは【公社】が壊滅的な被害を受けるということもないでしょう。あとは私が物理的に魔女を狩ってしまえば事足りる」

 

「信じてもよろしいのかな」

 

「無論。それともこの【まことの名】にかけて誓えばよろしいだろうか?」

 

「いや! それは結構! そのようなことをせずとも、キロン殿の高名に疑う余地などありはしないとも!」

 

 額に汗を浮かべて老人は早口でキロンの暴挙を遮る。

 当然であろう、このような場所でその名が明かされれば、どのような惨状が引き起こされるか想像もつかない。


 目の前にいるのは、それほどの怪物である。

 仮に、しばし前にシナモリ・アキラがキロンについて検索していたならば、その膨大な情報量に頭を抱えていたことだろう。


 検索結果。

 松明の騎士団における最上級聖騎士――数万の修道騎士たちを統べる九人の管区長【守護九槍】の第九位。


 地上の武術団体である【聖フォグラント兄弟団】において【達人】の称号を与えられた槍の使い手。


 弓の腕前は松明の騎士団で随一。


 病院修道会における位階は修道司祭ながら、【三倍の報酬を得る兵士】にして北辺帝国の歴史ある名家の出。


 高貴なる者の義務を体現するべく戦場に身を投じるという高潔な行いから【騎士の中の騎士】と呼ばれる英雄。


 その特異な神働術の性質から呪術師界隈では【個人博物館】の異称で知られる天才術者。


 他にも彼を示す異称、称号の類はそれこそ星の数ほどもあった。

 完璧という言葉を体現した男。


 それが、キロンという聖騎士を形容するのに最も相応しい言葉であろう。

 それで用は済んだのか、聖騎士は供を引き連れてその場から退出していく。


 歩きながら、付き従う少年のひとりが「良いのですか?」と問いかける。はてと首をかしげて、キロンは視線だけを下に向ける。

 

「何のことだ」

 

「【公社】の協力を得ずともよろしいのでしょうか。お兄様の力を疑うわけではございませんが、あの魔女が外世界人の他にも使い魔を有していた場合を考えますと、戦力は多い方が――」

 

「俺は、アキラをただの餌だとは考えていない。あの時の言葉は、全て本心だ」

 

「では、本当に彼を?」

 

「彼がそれを望むのなら、俺は全力でそれに応えるつもりだよ。それが、恩人に対するせめてもの礼だ」

 

「恩人、ですか?」

 

「親友を送ってくれたことに対しての礼だ。魂が異獣に穢される前に安らぎを与えたのは彼だと、報告にはそうあった。――尤も、彼にとっては傷になっているかもしれないことだ。あえて口に出したりはしないが」

 

 キロンの言葉には、偽りのない誠意があった。魔女――紛れもない【悪】に対する憎しみが真実なら、無知なる外世界人に対する厚意もまた真実なのだ。

 

「個人的で一方的に感じているだけの恩義に過ぎない。それでも、俺は彼がこちらを選んでくれることを祈っているんだよ」

 

 彫像の美貌が薄く微笑む。ここにはいない誰かへと向けられた感情。少年達は無駄と知りつつも羨むように彼を見上げる。

 

「――なんだか、妬けてしまいます」

 

 微かな声は、雑踏のノイズに紛れて消えた。

 

 

 

 所変わって、【公社】のビルディング最上階の執務室。

 轟音を伴って、高速で回転する旋棍が振るわれた。速度、威力共に直撃すれば絶命は免れないであろう一撃。まして、狙いは側頭部である。


 しかし。

 

「やっぱりちゃんと動くな。動作不良じゃなくて、アイツになにかされたようだ」

 

「不手際の言い訳か? 見苦しいぞアニス」

 

 殺意の籠もった一撃を放った直後には似つかわしくない、平然とした表情で首をかしげているのは黒服の女――アニス。


 だがより異常なのは頭蓋を砕く衝撃をまともに受けて、微動だにせず言葉を紡いでいる相手の方だろう。


 小揺るぎもしないその立ち姿は巌のよう。打撃を受けきったのがむくつけき巨漢の類であればまだ理解の範疇であったろうが――それが真っ白な色に彩られた、年端もいかぬ少女であることが事態の異常性を際立たせていた。


 無数のフリルに彩られた純白の衣裳。

 冷めた瞳は視点の低さにも関わらず周囲を睥睨するかのようである。豊かな金色の長髪が、純白の帽子から溢れるように流れ落ちる。


 深くかぶった帽子が片方の瞳だけを隠しているのが奇妙と言えば奇妙だった。


 一見しただけでは、高圧的なだけの金髪の少女にしか見えない。

 しかしそれは誤った印象に過ぎない。

 

「それなら姉さんが行けば良かったんだ。いつもいつも私にばっかりキッツイ仕事させてさ」

 

「私は敵の自動機械担当だ。知ってるだろうが。よりにもよって機銃で武装しててな、撃墜に手間取った。【銃使い】の使い魔なんざ十年ぶりに見たよ」

 

 少女は単独で武装した無人航空機を撃墜する、【公社】が誇る最強の魔人である。

 

「ご苦労だった、アルテミシア。さすがは私の自慢の娘だ」

 

 執務机の奧、椅子に深く腰掛けて、巨体の老人が部下を労う。

 アルテミシアと呼ばれた少女はそれに対しては反応を見せず、酷薄な瞳で父親を見据えた。

 

「で? まさかこのままおとなしく引き下がるって?」

 

「表立って動くわけにもいくまいよ。【騎士団】は体面を重んじる。一度交わした約定を違えれば、待つのは終わらない報復だ。相手をこの世から――否、地獄からすらも根絶しようとする。今、地上と地獄で行われている戦いのようにな」

 

「こっちの面子ってのもあるだろ。天下の【公社】がいいようにやられたままじゃ、他の有象無象が調子付く事になりかねない。【騎士団】様に泣きついて何とかして貰いました、なんて報告を本社の連中にするつもりかよ、親父?」

 

「ま、そりゃそうだなあ。――時に、ローズマリーはまだかな?」

 

(さっき玄関の監視映像に映ってたから、もうすぐ来るよー)

 

 浮遊する不定形の流体が、少女の形をとって答えた。【水使い】の呪術師セージは実体を持たない意識体を投射・拡散することで【公社】が敷設したネットワークを常に監視・掌握している。第五階層の住人がいつ、どこで、何をしているかという情報は八割方彼女の知るところである。


 エレベーターの到着と共に、三つの人影が室内へ訪れた。

 一人は豪奢な衣裳に身を包んだ艶やかな女性である。ホルターネックのドレスから覗く背中が艶めかしい。


 その後ろに続くのは似たような衣裳を身に纏った妙齢の女性と、その手にしがみついて不安げに辺りを見回す幼い少女。親子であろうか、その背にはよく似た印象の煌びやかな蝶の翅。


 第五階層で春を売る夜の蝶――怯える親子を引き連れてきた女は老人に向かって挨拶も無しに口を開く。

 

「久しぶりに呼び出されたと思えば、四姉妹勢揃いとはまた仰々しいねえ。戦争でもしようってのかい?」

 

「似たようなものだよ、私の可愛いローズマリー。それよりも、その二人が例の?」

 

「ああ、最期まで勤め上げたんでね。今日限りで自由の身ってわけさ。――ほら、首領に挨拶しな」

 

 娼館の女主人であるローズマリーは娼婦であった親子二人を前にやり、老人と向かい合わせる。


 緊張した様子でたどたどしく挨拶の口上を述べる二人。今まで世話になったという礼を少女が口にした段になって、周囲から失笑が漏れる。


 大方、母親からそう言えと教え込まれたのであろう。彼女たちが本心からそのような事を思っている筈も無い。空虚なやり取りの滑稽さ。思わず笑いもしよう。


 地上において、奴隷やそれに類する奴隷労働は禁じられている。少なくとも、形の上では。


 人身売買トラフィッキング――人権意識が自明のものとなった近代以降の社会における隠された奴隷制。 労働力の移動が当たり前のものとなった時代。グローバリズムが生む犯罪の温床がそれだ。


 【公社】の主要な仕事の一つが、犯罪組織同士を仲介し、第五階層をトラフィッキングの一大中継拠点に作り変えることだ。


 【下】と【上】の体制の差から生まれる需要と供給。双方に需要があるため双方向的に【送り出し】がある。犯罪組織による違法行為であるため、貧しい方から豊かな方へという従来の図式が必ずしも適用されないのがその特徴であった。お互いの種族が違うということも心理的ハードルを引き下げていた。


 性的搾取、強制労働、奴隷、臓器摘出、人体実験の素体、戦争奴隷(使い魔化)などその用途は多種多様である。

 親子は貧困の中で斡旋業者に手を差し伸べられた。


 新天地での明るい未来。この時代、外国人労働者は引く手あまたである。

 しかし実際に来てみれば斡旋料、仲介料、紹介料、運搬移動密航の各種コストを膨大な借金として提示され、借金返済という名目によって長期間の奴隷労働を強制される日々が待つ。


 それを指示した鬼畜外道に、感謝などしようがない。

 

「いやあ、今までご苦労だったねえ。ここまで勤め上げられる者はそう多くはないんだ、君たちは誇っていい。これからは自由の身だ。好きなように生き、幸せを掴むといい」

 

 口にする言葉は好々爺のもの。人のいい微笑みの下で、指先が奇妙な動きを見せる。

 【公社】でも一部の者にしか通じないハンドサイン。セージとアニスが喜色を浮かべ、ローズマリーが目を伏せる。


 その視線、仕草、手指の形が冷酷な意思を暗に示す。

 苦役から解放され、安心しきった親子に悪意が襲いかかる。


 旋回した棍が勢いよく女性の後頭部に叩きつけられ、血と脳漿を飛び散らせる。頭蓋を砕いただけでは物足りないとばかりに、もう一方の旋棍が首筋に、更に肩、腕、背骨と次々と骨を砕いていく。

 

「あぁ~、本当に硬いモノを砕くのって楽しいっ♪ 早くアキラの鉄腕も砕いてみたいなあっ」

 

 アニスの凶行を呆然と見上げる少女の頬に、血潮が降りかかる。次第に幼い顔が引きつっていき、その精神が決壊する寸前。

 

(新しいからだー。このコの顔けっこう好みだし)

 

 セージを構成する水が少女の口から体内に侵入し、内部から呪的なクラッキングを仕掛ける。がくんと顎を落とし、仰け反って痙攣する肉体。しばしして、首をぐるりと回して身体の調子を確かめる少女――その精神は既に本人のものではない。

 

「ん、良い感じの乗り心地かも」

 

「贈り物は気に入ってくれたかな? 四人とも、万全の体勢になってくれたのならば、これからの方針について話し合いたいのだがね」

 

「楯突く連中は私が潰す。それだけだ」

 

「私にもう一回機会をちょうだい。今度こそ敵の脳を焼き切ってやるよー?」

 

「うちの豚共ならいつでも動かせるけど」

 

「それよりローズマリー姉さん、アキラが敵の仲間って本当? 私! 私にやらせて!」

 

 各々が邪悪な闘志を露わにしていく。

 【公社】の頂点に立つ首領と、その四人の娘たち。


 人の良い笑みの老人と見目麗しい美人姉妹。見る者に好印象を与えるが、その内実は悪鬼羅刹すら嫌悪に顔を顰める醜悪。

 トリシューラのような叛逆の試みをこれまで誰もしてこなかったわけではない。


 そうした者達の企てた第五階層解放の芽を先んじて彼女たちが潰してきたからこそ、今の【公社】の支配体制が維持されてきたのである。

 第五階層に君臨するこの絶対悪を滅ぼさぬ限り、虐げられる弱者達に希望は無い。

 

「我々【公社】は、弱者を救済する為、公共の利益の為に存在している」

 

 臆面もなく、老人は言い放った。

 変わらぬ笑みのまま、心底からその美辞麗句を信じ切っているというような口ぶりで。

 

「どうやら敵は哀れな外世界人――我々も良く知るシナモリ・アキラを利用しようとしているらしい。このような非道が許されるだろうか? 否だ。断じて否」

 

 ロドウィはアキラもまた人身売買の犠牲者であると認識している。

 無数の異世界に転生労働力を安く買い叩かれているあの世界は、いずれこの世界の植民地になるだろう。


 理論上、階層レイヤーが同じ二つの世界は相互の往来が【異世界転移】によって可能である。


 アキラのメディアへの露出はその事実を広く受け入れさせてしまう。【秩序派】の政治家たちは混乱を回避するためにそれを防ごうとしているが、今後は両世界で人の移動が活発化していくだろう。それも加速度的に。


 侵略を是とする【大神院】や帝国主義の国家群【連帯】は嬉々として当該世界に攻め入るだろう。ロドウィとしては、せいぜいその後で儲けさせてもらうつもりだった。


 何も知らないアキラを転生労働力としていいように使っている点で、敵と自分たちに差は無い。

 であれば、付き合いが長く、必ず勝利する自分たちに取り込まれた方がよほど彼の為というものだ。


 心底から自らに都合の良い理屈を信じ切って、ロドウィは穏やかな笑みを浮かべた。

 

「彼を取り戻すのだ。全ての弱者は、我々が保護せねばならん」

 

 

 

 

 第五階層は常に薄暗いが、建造物の配置によって意図的に薄暗さを演出した一画がいくつか存在する。


 【公社】をはじめとして【夜警団】や【松明の騎士団】といった秩序を司る集団に見つかりたくない裏取引――その他の後ろ暗い行為を行いやすいようにするための空間。


 おぼろげな輪郭以外の全てが闇に覆い隠される路地裏で、ある暗闘が密かに終わりを告げていた。

 後ろで束ねた長髪が軽やかに翻る。


 特徴的な、親指を立てた貫手。疾風の如き連撃の後、どうと倒れ伏す三つの人影。

 第五階層で覇を競い合ういずれかの組織が雇った刺客を事も無げに返り討ちにしたその男の名は、ロウ・カーイン。


 雇われの用心棒としてシナモリ・アキラと渡り合ったのが数日前のこと。

 今の彼は、命知らずの外世界人同様に【悪鬼】を敵に回した狂犬と見なされている。


 それもまた面白い、とばかりに微かに喉を鳴らす。

 熾烈な闘争こそを至上の快楽と定めた男の精神性は、尋常のものではない。


 と、その長身が急速に反転し、長い脚から生み出される圧倒的リーチの蹴りが背後へと放たれる。

 空振り。


 何も無い空気を裂く感触に、馬鹿な、と驚愕の吐息が漏れる。

 鍛え上げられた鋭敏な感覚は、確かに背後に立つ刺客との間合いを正確に捉えていた。


 だが、これは一体どうしたことか。

 鋼鉄の一撃に耐え、巨獣を退かせる達人にもミスはあるということなのか――否。

 

「高位呪術師か」

 

「ふふ、はじめまして。お目にかかれて光栄ですわ、小人さん」

 

 対峙する相手の姿は、暗闇の中に隠れてしまっているが、その声は女のものだ。

 しかしそれよりも、カーインは女の放った言葉に鋭い反応を見せた。

 

「貴様、どこでそれを知った」

 

 絞り出すような声に、殺意よりも濃い排除の意思が込められている。

 カーインは一見してそれなりの長身である。強烈な蹴りとそれを支える長い脚からもそのことは明らかだ。だというのに、【小人】とは一体どのような意味なのか。

 

「それなりに知識のある呪術師ならばわかりましてよ。貴方の母親が試験管であるということも――それから闇の薫陶を受けていることも」

 

 もはや言葉は不要と、カーインは疾走した。狙うは女の頭部、経絡から内力を注ぎ込みその肉体を完全に死滅させる。

 

「貴方は五番しらべるひと。観察者の相が見えますわ」

 

 直前で急制動をかけ、全力で後退する。

 女の背後から突如として出現した【何か】の恐るべき威圧感に、生存本能が撤退を命じたのである。

 

「――だというのに、自らの長所を放り捨てるような真似をするべきではありません。もっと相手を注意して洞察しなくては」

 

 暗闇の中に、【何か】がいた。

 正気の者が直視すれば、狂乱しかねないほどのおぞましい、巨大な存在。

 その場所が暗闇であることは、およそありとあらゆる者にとっての救いであっただろう。

 

「カッサリオに一撃を与えたと聞いて警戒していましたが――なるほど、【それなり】ですね」

 

「何者だ」

 

「貴方を殺す者です」

 

 無造作に発せられる敵意に対して、カーインの思考に一瞬だけ迷いが浮かぶ。

 このまま応戦すべきか、それとも撤退すべきか。

 撤退の選択肢――彼をしてそれを考慮せざるを得ないほどに、目の前の相手は危険だった。


 女の背後で蠢く【何か】が強大な呪力を発していく。路傍に打ち棄てられた刺客達の死体が、強すぎる呪波汚染に耐えきれず、腐るように崩壊していく。

 

賽は投げられたAlea jacta est

 

 不可解な呪文詠唱と同時に、空中で十面体の賽子が回転する。浮遊するカード型端末から投影された立体映像の賽子は、十進数の乱数を発生させるべく虚空で静止、真上を向いた面が数値を出力した。

 

「御使いたちよ――その形を成せイェツィラー

 

 目も眩む閃光が、女の背後で幾何学的図形を形成する。

 背後に展開された図形は円周を九等分して作図された、エニアグラムと呼ばれるものに似ていた。


 九つの分割点に一から九までの番号が割り振られ、頂点の九、三、六を結んで正三角形を描いており、他の点もまた直線で結ばれている。


 発光と同時、一瞬だけ女の顔が露わとなる。

 それはカーインにとっては見覚えのないものであったが――


 もし仮に、この場にシナモリ・アキラがいたなら驚愕にその表情を歪めていただろう。

 彼女がここにいるはずがない。


 この場所から、とある屋台、あるいは携帯端末のショップまでは第五階層の端から端までという埋めようのない距離がある。

 加えて言えば、現在彼女はパートタイム労働の最中である。


 だというのに、なぜこんな所に彼女が――彼女と同じ顔の女性がいるのか。

 尤も、実際に彼がこの場所にいたとしても、そんなことを考える余裕は無かっただろうが。

 異形の魔法円。そこから這いだしてくる、地獄そのものの具現。


 カーインがかつて対峙した巨獣カッサリオに勝るとも劣らぬ、凄まじい威圧感。


 その数八体。

 更に、呪術師本体の呪力が凄まじい勢いで膨れあがるのが肌で感じられた。

 つまりこの呪術師は、単独で魔将九体に匹敵するだけの――あるいはそれ以上の戦力を有しているのだ。


 絶望的な戦力差を前にして、カーインの目が観察者と評された冷静さを取り戻す。

 

「その背後の輝きは、あの魔女たちと同じ――そして見覚えのある青い光と流体、そして高位の召喚術。そうか読めたぞ。つまり彼女達が言っていた【敵】というのは」

 

「勘の良い鼠ですこと」

 

 闇の中を暴虐が吹き荒れた。


 一切の抵抗を許さぬ、死の奔流。たとえカッサリオとの戦いを凌ぎきった猛者といえど、それに匹敵する猛威を同時に八体から受ければ助かることなど万に一つもありはしない。


 しかし――

 

「おや、思ったよりもしぶとい。仕留め損ないましたか」

 

 巨大なクレーターと粉塵が立ちこめる中で、女は不思議そうに小首をかしげた。

 相手の力量を軽く見積もったつもりはない。故にこその全力の八体同時召喚。


 紛う事なき、地獄における最大最強の攻撃である。

 

「つまりは、凌ぎきった彼をこそ褒めるべきなのでしょうね。さすがは呪祖の勇士――裏切りさえしていなければ、彼女の手元から引き抜いて魔将にしても良かったというのに。残念です」

 

 襲撃に失敗したにも関わらず、女の声音は愉快げである。

 光が収束していき、やがて強大な気配も一つ、また一つと消えていく。

 

「あれと渡り合ったというのなら、かのサイボーグにも【それなり】のものを期待してもいいのでしょうね。楽しみなこと」

 

 巨獣のいなくなった呪術師の背後に、今度は別の影が集っていく。

 闇に埋没する黒肌。皺だらけの小さな体躯は、【悪鬼】と呼ばれた種族のものだ。

 

「最下層からわざわざ中層まで足を運んだだけの価値はありましたね。わたくしの不肖の弟子エスフェイル可愛いペットカッサリオを倒した転生者ゼノグラシア。なるほど、確かに面白いファクターです」

 

 闇の中で、より濃く深い影が蠢いていた。

 女は、まるで巨大な匙のようにも見える錫杖を地面に突き立てて、背後の悪鬼達に命ずる。

 

「残存する全ての構成体を集めなさい。ただし指示があるまでは待機。手を出すことは禁じます」

 

 狂気じみた妄執を抱えた悪鬼達が、一斉に跪いた。

 悪鬼達は上位者に対して絶対の服従を誓う。たとえ憎き血族の仇に手を出すなという内容であっても、上位者の命令は彼らにとって絶対である。


 女は微笑みを浮かべた。

 不確定な要素は彼女の嫌うところではない。排除すべきだと判断すれば排除するが、そうならないのならばそれはそれで良しとする。そうした無責任な気紛れさが彼女にはあった。


 もしかするとそれは、状況がどう転んでも自分ならばどうにでも対処できるという、圧倒的な自信の表れであったかもしれない。

 地上と地獄の戦いの中で、現時点で緩衝地帯となっている第五階層。


 中立と言うことは【下】の味方、【上】の敵にも転じうるということだ。実際にそうならなくても、その可能性が存在するということに意味がある。

 今回の騒乱の成り行き次第では、泳がせておく方が下方勢力の利に繋がるやもしれぬ。

 異獣を従え、魔将を招く女呪術師は密やかに笑みを浮かべた。

 それに加えて、より大きな理由が彼女にはあった。


「シナモリ・アキラ――わたくしと同じ、忌むべき転生者ゼノグラシア


 呪わしい――怒りと憎しみが入り交じった感情が言葉の中で煮え立つようだった。

 杖の先端から溢れた呪力の光が照らすその横顔は、美しくも壮烈な表情を浮かべている。

 その足下から伸びる筈の影は存在しない。

 まるで実際にはその場所にいないかのようにも見える女は、ふと足下にあるはずの影を幻視したように瞳の焦点をぼやけさせ、どこへともなく語りかけた。


「――ええ、ごめんなさい。少し用事があって、扉を開いてしまったの。負担をかけてしまいましたね。貴方は気にしなくていいんですよ。ここでの戦いは全てわたくしが終わらせます。貴方はただ平穏の中に紛れていればそれでいい――わたくしの大切な半身に、血塗られた戦いは似合わない」


 ここにはいない誰かと話す女の表情はひどく柔らかい。足下に存在しない影、その輪郭を慈しむように、空いた手で虚空を撫でる。存在しないものに触れるかのように。


「仕事の邪魔をしてしまいましたね――え? 面白いお客さんがお見えになったのですか。あら、そんな古い言語――それに例の転生者? ――わかりました。報告ありがとう。けれど、なるべく関わらずに見かけたら行動を報告するくらいで構いません。貴方はあくまでも自分の安全を最優先すること。こちらの用事が終わったら、ゆっくりとお話をしましょう。ええ――それでは、また」


 誰かとの会話を打ち切ると、その顔にわずかな不安と心配を浮かばせて、すぐに打ち消した。

 そして再び呪力を練り上げると、強い敵意をその瞳に宿らせていく。

 錫杖の先端から伸びた三条の青い光。

 闇の中で伸び上がる杖のシルエットは、まるで三叉の槍のように見えた。






 闇の中に、大量の血が流れていく。

 ふらつきながらも、その足取りは止まることがない。

 常人ならば即死しているであろう傷が、何の処置をするでもなく自動で治っていく。その強靱な生命力、回復力は人の領分を疾うに超えている。


「全く、信じられん怪物だな。噂には聞いていたが、あれ程とは。しかし――裏切り者の定めとは言え、かつての同胞に殺意を向けられるというのは中々に堪える。【下】を離れてから、そう長い時間も経っていないというのに、もう粛正の手が迫るとは」


 気息は乱れ、言葉もどこか荒々しい。だが彼の心を波立たせるのは肉体的な不調よりも、より大きな懸念事。

 あの強大な呪術師の殺意が自分ではなく彼に向いた時、果たして彼は生き延びる事ができるのだろうか。


「――守らねば。それが、主命なのだから」


 自分はシナモリ・アキラの好敵手として彼の前に立ち塞がり、彼の一段上の目標として、そして時には彼を守る盾としてその身を捧げなければならない。

 それが、都合の良い道具として用意されたロウ・カーインの使命だからだ。


「全ては、あの方の御心のままに」


 虫の息で血の中を這いずる男の瞳に、静かに炎が灯った。

 階層を震撼させる騒乱の前夜。

 一人の転生者を取り巻いて、幾つかの思惑が動き出していた。


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