2-49 春の魔女⑨

 認知バイアスか乱数の偏りか知らないが、悪いことは続くものである。ひょっとしたら呪術的な世界なので悪運とかが実在しているのかもしれなかった。


 原因が何であれ、気晴らしに街に出てしばらくして、俺はそのことに気がついた。

 

「あの、店員さん、それは?」

 

 串焼きの代金を高価な呪石で支払うという迷惑な事をした俺に対して、昨日もお世話になった美人店員さんがお釣りとして用意したのは見慣れない紙幣だった。

 

「あら、ご存じありませんでした? 今朝から【公社】が発行している新紙幣ですわ。昨日起きた治癒符の価値暴落を受けて、新たに用意された基軸通貨がこれだそうです。昨日までの資産を申告することで一定額まで補填してくれるとかで――」

 

(ありえない! 対応が早すぎる!!)

 

 ちびシューラの声は掛け値無しに切羽詰まったものだった。対応そのものは想定内だったが、その速度が予想を上回っていたらしい。にしたって、そこまで早いか? 事前に用意しておけば翌日から対応するくらい可能なんじゃないだろうか。

 

(紙幣の発行っていうのはそんなに簡単じゃないの! アキラくんのいた国では紙幣ってどんなのだった?)

 

 そりゃあ、日本銀行が発行して政府に認められた――。

 

(そういうのじゃなくて、形とか何が描かれているかとか)

 

 うん? 著名な人物の肖像とかだな。あとは建物とか植物とか。

 

(この世界でもだいたい同じ。つまり、紙幣というのは例外なくその流通範囲に特有の文化的図像を含んでいるわけ)

 

 それがなんだというのだろう。

 塩味の効いた串焼きを囓りながら、店員さんの細い指がつまむ紙幣を眺める。長方形の紙切れには、蓬髪を振り乱した男性の肖像が描かれている。この世界の有名人の顔か何かだろうか。


 気になって店員さんに尋ねてみる。

 すると、店員さんは整った顔を僅かに曇らせて答えた。

 

「グレンデルヒ=ライニンサルという、いわゆる地上の偉人ですわ。現在も存命で、天才と呼ばれて讃えられております。毀誉褒貶の激しい人物で、正直わたくしはあまり好きではありませんが」

 

 ふむ。

 店員さんのような可憐で心の美しい(に決まっている)女性が好きではないということは、この男は底抜けのクズだということだ。よく知らない人物だが俺も嫌いになった。

 

(アキラくん、聞いてる?)

 

 聞いてる聞いてる。で、紙幣に文化的な意味を持つ図柄が描かれていたら何だっていうんだ?

 

(呪力っていうのは文化摸倣子ミームなの。この世界では、文化を媒介するものには全て呪力が宿る。それを国家なんていう呪的権威が承認したら、その呪術的強度は等比級数的に跳ね上がってしまう)

 

 話を聞いていると、【公社】には国家並の信用があるように思える。

 俺は【公社】を単なるインフラヤクザくらいにしか認識していなかったのだが、ひょっとして地上では巨大な勢力だったりするのだろうか。


 その想像は当たらずとも遠からずだった。

 

(地上の巨大複合企業群メガコーポ、その迷宮探索事業部門が【公社】だよ。多国籍を股に掛ける超巨大な産業体だから、下手な国家より遙かに強大な力を持っているし、信用だって国家レベルを超えてる。それだけの力があの紙幣に込められているの)

 

 想像よりも遙かに大きな相手が背後に控えているようだった。ていうかトリシューラ、そんな相手を潰すとか言っていたのか。まあ第五階層から支部を撤退させるとかその程度の意味なんだとは思うが。


 半ば呆れ、半ば感心する。そういう事実を踏まえると、トリシューラの大言壮語がより一層無謀で勇壮に思えてくる。

 

(紙幣っていうのはその在り方が既にして呪符なの。呪符は紙幣であるとも言えるけど)

 

 なるほど、とトリシューラの説明に心の中で膝を打つ。

 現実に呪的なエネルギー源であり実用品でもある呪符は、それ単体で通貨としての価値を保持できる。最悪の場合は物々交換という形に持って行けるからだ。


 治癒符が第五階層で基軸通貨として流通していたのは探索者に必須であり流通が途切れなかったからでもあるが、元々呪符による取引が一般的だったからでもあるらしい。


 店員さんによると、この紙幣は【保全】の呪符であり、使い手を守る護符として使えるとのこと。状態を保ち、維持する呪術が込められているため、紙幣そのものの交換価値を維持し続けられるのだとか。わかるようなわからないような理屈だ。

 

(多分それだけじゃないと思うよ。詳しいことはこっちで解析にかけてみないとわからないけど、魅了とか思想の伝播みたいな洗脳系呪術も込められている)

 

 ぎょっとして思わず身を引いてしまった。

 

(多分そんなに強力なものじゃないし、万が一呪術をかけられてもシューラが解呪するから大丈夫だよ。ただ、すごく手が込んでるのが気になるかな)

 

 ちびシューラは二頭身の身体で腕組みをして、なにやら考え込むような素振りを見せた。

 

(固有の文脈、歴史、文化などを紙幣が反映するのではなく、紙幣から逆に反映させようとする逆説の理論――。多分、【公社】はシューラの攻撃に対抗して第五階層での支配力を強めようとしているんだと思う。流通する紙幣をメディアとして扱い、親【公社】的な情報を伝染させようとしているのかも)

 

 正直、そういう雲の上というか目に見えない感じの争いは俺にはどうしようもないので適当な相槌しか打てない。物理的に打撃可能な敵だったらわかりやすいのだが。

 

(図像に呪術的意味を付与した呪力紙幣の発行は、多大なコストがかかる上に、呪術が破綻した時にその信用を保証する組織全体に大きな反動がもたらされるハイリスクな行為なの。にも関わらず素早く仕掛けてきたということは、あちらに勝算があるということ)

 

 この第五階層の支配権を巡る争いにおいて攻勢に出ているのはトリシューラだとばかり思っていたが、どうやらその構図は一転してしまったらしい。

 ちょっと前まではかなり楽勝ムードだったように記憶しているのだが。

 

(つまりね、紙幣の発行には高位の呪符を大量生産できるレベルの高位呪術師の存在が必要不可欠なの。それが何を意味するかっていえば)

 

 トリシューラと同格以上の高位呪術師が【公社】にいるということになる――?

 彼女の慌てようからすると、そういう相手がいないという前提があったからこそ簡単に『潰す』などと息巻いていられたのだろう。ところが蓋を開けてみればこれだ。

 

(仕方ないじゃない! シューラと並ぶような呪術師なんて、それこそ【星見の塔】の他には世界中探しても数えるほどしか)

 

 それでも数えるほどにはいるんじゃないか。

 完全に油断なのでは。

 

(うぅ~。だってぇ~)

 

 情けない声を出しながら、萎れていくちびシューラ。メンタル弱っ。

 しかし、相手に強敵がいるっていうのは確かに由々しき事態ではある。

 どんなヤツなのか、情報は掴めないのだろうか。

 

(調べてみるけど。でも本当にあり得ないんだよ。トライデントならこないだ追い払ったし、この階層にシューラ以上の呪術師なんて、それこそセスカぐらいしか――あ)

 

 ちびシューラが気付くのと同時に、俺も気がついた。

 そう、コルセスカがいる。

 【公社】の紹介によって俺の前に現れた、高位呪術師が。


 元々彼女はトリシューラの味方というわけではない。競争相手の妨害くらい想定していて当然だし、てっきりトリシューラもそのつもりで正面から自らの手の内を明かしたのだと思い込んでいた。


 わざわざコルセスカにこれからの予定を説明したのは宣戦布告のようなもので、どんな返し手にも対応してみせるという不敵さの表れなのだと。

 だが、実際にはこの態である。

 

(違うの、シューラは、ああやってこっちの思惑を話しておけばセスカも協力してくれるかなーって思って)

 

 意図が良くわからない。基本的に二人は対立している筈だ。

 

(基本的にはね。でも【公社】は有力な探索者を抱えているから、最速で迷宮の制覇を目指しているセスカにとっては競争相手なの。シューラが【公社】と事を構えるなら、セスカも協力してくれるんじゃないかと)

 

 どうやら、どこもかしこも内部は一枚岩ではないらしい。地上は地上で内輪の競争や派閥争いめいたものがあるのだろう。おそらくは、下の方も似たり寄ったりに違いない。

 それでも、コルセスカが地上側の勢力であることは間違い無い。この状況でコルセスカが【公社】に付くとすれば、それは。

 

(シューラと組むより、【公社】と組む方が自分にとって利があると判断したってことだよね)

 

 まだコルセスカが敵に回ったと決まったわけじゃないけどな。

 

(でも、シューラより強力な呪術師の反応なんてセスカ以外には全く感じられないんだもの。よほど強力な隠蔽呪術を使っているか、もしくはよほど特殊な性質の呪術で紙幣の発行を可能としているかのどちらかだよ)

 

 後者の可能性もあるのなら、予断は禁物だと思うが。

 それに、自分でこういうことを言うのも何だが、一応俺はコルセスカへの返事を保留にしたままでちゃんと断っていないわけで、俺と敵対しかねないような行動をとったりはしないんじゃないか、という推測も一応立つ。

 

(本当に自分で言うのも何だね、それ)

 

 ――自分で考えてけっこう死にたくなったので、やっぱり今のは無しで。

 というか、本人に直接尋ねた方が早いだろう。

 

(そう思ったんだけど、なんか朝早くに外に出ちゃったんだよ。安静にしてなきゃなのに)

 

 タイミングが悪い。コルセスカはここ最近は部屋に引きこもっているので、昼食時にいなくても不自然だとは感じなかったのだ。レオはちゃんといたのでてっきりコルセスカもいるものだとばかり思っていた。


 ――そうなると、やはりコルセスカはトリシューラと袂を分かつことに決めたのだろうか。

 いずれにせよ、このまま考えていても埒が明かないことは確かだった。


 まだそう遠くには行ってない筈だ。実際にコルセスカに会ってみないことには始まらない。

 カード型端末を操作して通話を試みるが電源が切られている。仕方なくメールだけ打って送信。

 

「店員さん、これごちそうさまです。それと少々訊ねたいことが」

 

 期待はしていなかったが、コルセスカをこの辺りで見かけた覚えは無いという。その代わりに、店員さんは妙な情報を寄せてくれた。

 

「昨日ご一緒だった、レオ様――でしたか。少し前にこの辺りで見かけましたが」

 

「レオを?」

 

 レオなら今頃は巡槍艦の内部でトリシューラについて研修とかしていると思っていたのだが、なぜこんなところに?

 

(あー、それがねアキラくん。あの子、さっき街に買い出し頼んだんだけど何故か帰ってこなくて。端末に連絡入れてるんだけど、なんか電源切ってるみたいでさー。何のために携帯してるんだろうね)

 

「お前それ早く言えよ!」

 

 思わず肉声で突っ込んでしまった。行方不明者が二人とか一大事だろうが。報告とか連絡とか、仲間ならしておくべきだろう。と脳内で怒鳴りかけたが、直前で思い留まる。


 仲間ならたしかにその通りなのだが、今の俺はトリシューラの正式な仲間とは言い難い立場なのだった。彼女がわざわざ俺に何でもかんでも報告する義務は無い。コルセスカがそうであるように、俺もいつトリシューラの下を離れて敵対するかわからない身なのだから。


 感情の矛先を見失ったため、とりあえず鎮静作用のある視界エフェクトを発生させて気分を落ち着かせる。


 溜息をついて現実に意識を戻すと、俺がいきなり叫び声を上げたせいで店員さんが身を竦ませてしまっていた。驚かせてしまったようだ。罪悪感があるが、楚々とした美女が両手を胸元にあててびくりと震えている様子には大変、なんというかその。

 

(シューラも確かに悪かったけどさー。アキラくんは別方向にサイテーだよね)

 

 はい、すみません。

 内心でトリシューラと店員さん、両方に謝罪する。そんなことは露知らず、店員さんの方も平謝りにこちらへ頭を下げる。

 

「申し訳ありません。わたくしとしたことが、気がつかず――。あの方をお捜しなのですね?」

 

「あ、いや違うんです。今のは店員さんに言ったんじゃなくて」

 

「わたくし、人捜しならいくらか心得がございます。少々お待ち下さい」

 

 店員さんは腰のホルダーからカード型端末を取り出すと、背負っていた杖の先端部に次々と挿入していく。円盤状の杖先から小さな惑星が幾つも浮かぶ小宇宙の立体映像が投影される。すると今度は他のカードを鮮やかな手並みで立体映像内部に配置していく。


 俺とちびシューラから、同時に驚きの声。俺の方は複数のカードが浮遊していることに対しての反応だったが、トリシューラは違った。

 

(在野の占星術師なんて珍しい。塔の外では絶滅したと思ってたよ)

 

 どうやら店員さんは稀少な才能を持っているようだった。さすがである。

 立体映像の星々が巡り、カードが規則的に位置をずらしていく。カードを扱う手付きには淀みが無く、まるで生前に記録映像で見た占い師のようだった。


 十字に配列されたカードと惑星の位置が一致し、中央に配置されたカードが強く光を放つ。繊手がそれを抜き取り、杖先の円盤に置いた。皿状の先端部は中央がわずかに窪んでいて、カードが設置できるようになっているようだった。元々同一規格なのだろう、ぴたりと杖と合わさったカードが、更なる映像と文字情報を虚空に投影する。


 店員さんは、透徹とした表情とどこか虚ろな瞳で静かに言葉を紡いだ。

 

「星の導きが出ました――。四つの月が貴方の行く先を示し、四つの遊星が貴方の足跡を示すでしょう。輝く恒星が照らし出すのは貴方の本質であり、これらを繋ぐ星座の形があるべき姿を映し出します。九つの星々は貴方が辿るであろう過去、現在、未来、全ての生命の流れを暗示するのです」

 

 という所から始まり、およそ数分掛けてもってまわった解説が続く。極めて象徴的で、具体的な意味が取りづらい、幾通りにも解釈できそうな内容であり、一通りの話が終わったところで思わず訊ね返してしまった。

 

「つまり、どういうことなんでしょうか?」

 

「――その、では、地図を描きますね」

 

 気のせいか、店員さんの表情はやや沈んで見えた。

 いや、店員さんの説明が悪かったわけではなくてですね、ちょっと俺の方にそういうオカルト的な説明を受け取るだけの素地が無いと言いますか。

 

(最初からそうすればいいのに、面倒だなー)

 

 せっかく店員さんがレアなスキルを発揮して協力してくれたというのになんてことを言うんだ。失礼だろ。

 

(アキラくんだって同じこと考えてた癖に。いやらしい)

 

 俺は店員さんの厚意に応えたいだけだ。この純粋な気持ちのどこがいやらしいと言うんだ、失礼な。


 端末上で描かれた仮想の地図を転送して貰い、店員さんにいずれお礼をすると約束して目的の場所へ向かう。

 

(サイッテー。お礼にかこつけて食事の約束取り付けるとかこんな時になに考えてるわけ、この万年発情期!)

 

 だんだんと遠慮が無くなってきているちびシューラの罵倒を無視しながら早足で喧噪の中を進む。しかし、確かに妙と言えば妙ではある。俺はここまで異性に対して積極的な性格だっただろうか。


 なんと言えばいいのだろうか、あの店員さんといると、何故かは知らないが頭の中の変な回路に電流が流れるような感覚があるのだ。その理由までは判然としないが、単に好みのタイプとか美人だからとかそういう問題でも無いような気がする。

 

(別に、魅了の呪術とかが使われた形跡は無かったけど? アキラくんが脳の代わりに下半身で思考してるせいじゃないの?)

 

 直球過ぎだろ。下品な勘繰りは止めろ、俺の気持ちは純粋なんだよ。

 

(うわキモ)

 

 脳内で馬鹿な会話を交わしつつ、俺は街のある一画に辿り着いていた。

 昨日も訪れた覚えがある。多くの路上生活者、身体欠損者、社会的弱者が集まる第五階層の貧民街である。


 ここにレオがいるというのだろうか。

 確かに、昨日はやけにこの場所を気にしていた様子だったが――。


 周囲からの胡乱げな視線を感じつつレオを探すが、一向に姿が見えない。地図によるとこのあたりにいるはずなのだが。


 目に入るのは四肢欠損の物乞いや、煌びやかな蝶の翅を露わな背中に生やした街娼たちばかり。あとは少数の樹木のような人々(たしかティリビナ人だったか)や銀色の甲冑姿が散見されるくらいだ。特徴的な猫耳は見当たらない。


 ほんの僅かな、違和感があった。しかし、それが何なのかわからない。自分の認識に何かフィルターがかかっているかのような感覚。

 色とりどりの蝶の翅、その中に混じって、灰色の翅を持った小さな蝶がひらひらと飛行する。


 くすんだ色の蝶はある一点に留まる。

 それは予兆だったのだろうか。

 ふと、視線がその場所に吸い寄せられる。


 外観は、俺の元いた世界で言えば証明写真の自動撮影機に似ていた。縦長の箱で、入り口にはカーテンが引かれていて、駅の構内などによく置いてあるものだ。


 しかし目の前にあるこれは写真を撮影するためのものではなかった。

 

(こんな所に自動礼拝機なんてあったっけ?)

 

 自動礼拝機というのは、その名の通り、迷宮内部で宗教儀式を簡易に済ませるためのサービスである。


 呪術が生活の一部として扱われているこの世界では、宗教の地位は俺の元いた世界よりも遙かに高い。第五階層のような多様な種族が暮らす空間では、こういった機械の需要があるのだろう。


 そして、カーテンが開いた。

 自動礼拝機の屋根に留まっていた蝶が、表れた人物の肩へと舞い降りていく。


 変化は劇的だった。くすんだ灰色に強い金属光沢が加わり、輝くような白銀へと変化していく。

 蝶が新たな止まり木に選んだ白銀の甲冑、その色彩が伝染したかのような現象だった。


 内側から出てきた松明の騎士は、兜をしていなかった。露わな顔立ちは、端的に言って美男子のそれだ。


 同性の俺でさえ息を呑むほどの美貌。レオのようなイノセントさとも、カーインのような精悍さとも異なるタイプ。ギリシャ彫刻のように整った精巧な顔立ちはまるで美術品のようだ。受ける印象としてはトリシューラに近いが、はっきりと違っているのはその表情に【遊び】が無い事。


 美麗な造型が作り出す表情には、硬質な意思が浮かんでいる。

 思わず目を引きつけられるほどに華のある男。敵対している松明の騎士から隠れることも忘れて、俺はぼうっと彼を眺めてしまっていた。


 目があった。

 視線というものに物理的な力があれば、俺は貫かれていただろう。心臓が止まるかと思うほどの威圧感。


 その場に縫い止められたかのように、身体が動かない。いや、身体は動けるはずなのだが、心が動けなくなってしまっている。

 致命的な相手と出会ってしまったという確信だけが脳内を駆け巡り、それでいて全く行動が起こせないというもどかしさが苛立ちを募らせる。


 この状況は危険だ。この上なく。

 無根拠な直感がアラートを鳴り響かせる中、その男は悠然とこちらに近付いてくる。

 嬉々として、そいつは口を開いた。

 

「やあ、シナモリ・アキラ。奇遇だな。良い出会いだ。俺はこの時をずっと待ち焦がれていたんだ。アズーリアから君の事を聞いたその日から、ずっとね」

 

 灰色の瞳が、熱病にかかったかのようにこちらを見つめてくる。

 そして俺は、出会ってしまった。

 運命の、分岐点と。

 

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