バナナ

春巻丸掃(ハルマキ マルハ)

バナナ


 起きると、一本の連絡が入っていた。


 『ヤバい』


 霞む目をこすり、続きを読む。


 『世紀の発見をした 今すぐ家に来てくれ あと腹を空かせてこい』


 伊藤からの連絡は、大体いつも不躾である。メッセージが来たのは三十分前のことらしい。

 窓のすりガラスの向こうでは、錆びた街灯の古いオレンジ色だけが闇の中を煌々と光り、時折、パツンパツンと電気の漏れる音を鳴らしている。

 すっかり夜だった。休日の無気力さに堪えかねて、不貞寝をしていた。

 『いまからいく』とだけ返信して、家を出た。

 空から雪がさらさらと落ちては黒の地面に消え、夜の静けさに一層の寂しさを加えていた。どうりで寒いわけである。

 足早に伊藤の家に向かう。

 伊藤は同じ大学の友人だ。伊藤は文学部に、俺は理学部に属している。サークルにも入っていない俺たちは本来であれば接点は無いのだが、奨学金の説明会で一緒になり、卒業間近になった今日まで、時折顔を合わせては他愛もない話をしている。

 思い返せば奇妙な縁だ。

 過去に思いを馳せる内、ボロいアパートの前に着いた。

 踏むたびにギシギシと軋む外階段を昇り、一番奥、201号室の扉を開く。

 「来たか鈴木よ。寒い中ご苦労」

 他人の家の臭いと共に、仁王立ちをする伊藤が姿を現した。

 「おう。ずっとその格好で待ってたのか」

 「そんなワケが無かろう。隣の住人の話し声も生活音も、そこの階段を昇る音も筒抜けだ」

 「それもそうだな」

 靴を脱いで部屋に上がる。中は散らかっていて、カップ麺の容器やら、書き損じの履歴書やらがそこらに転がっており、以前よりも足の踏み場が少なくなっていた。

 俺は改めて率直な感想を述べた。

 「よくこのきったねえボロ家に四年もいたな」

 「最初の一か月は綺麗だったんだがな。だがまあ、終わってみれば一瞬さ」

 「まあ、そうだな。いつ引っ越すんだ?」

 「……未定だ」

 「ていうかお前、就活してんの」

 「……」

 普段饒舌な伊藤が、珍しく押し黙った。

 「大丈夫かよ。そろそろマジでヤバいんじゃねえか」

 「まあ良いではないかそんなことは」

 そんなことと言える立場じゃないだろお前は、という発言は飲み込み、適当な場所に座る。

 「まあいいや。で、世紀の発見って何だ」

 「ああ、そいつはこれのことだ」

 伊藤は対面に座り、テーブルの上に静かにそれを差し出した。

 俺はそれを見て、ただ一言、発した。

 「バナナ」

 「ああ、バナナだ」

 「……バナナだな」

 「バナナは好きか?」

 「どちらかと言えば好き寄りだが、わざわざ公言するほどでもねえな」

 「そうか。まあいい、食え」

 「おう」

 俺はどっしりと構えるバナナの房から一本をもぎり、皮をむいた。

 もさもさと食していると、伊藤が語り出す。

 「では、本題だ。今お前が持っているそのバナナ」

 「ん」

 「私はそのバナナを今日一日ずっと眺めていた」

 内定を貰っていない奴がやることじゃない。そう糾弾すべきところだが、あいにく今は口の中がバナナで埋まっている。

 「そして、昼頃、ある一つの事実に気が付いたのだ」

 「ん」

 「気になるか」

 「んー」

 「では発表だ……、まあその前に私も一本食すとしよう」

 伊藤は、どこか寂しげに見えるバナナの房から一本をもぎり、皮をむいた。

 「さっさと言え」

 「まあそう焦るな、夜は長い」

 「さっさと言えボケ」

 「せっかちな奴め。仕方ない、ではお答えしよう」

 伊藤は、満を持して、という具合に溜めてから、こう言い放った。


 「バナナとは、『歴史』だ」


 「あ?」

 「そう。バナナとは、『歴史』だ」

 「理解できる部分が一ミクロンもねえよ」

 「聞け。バナナと歴史には重要な共通点がある。肝心なのはそこだ」

 伊藤はテーブルの上のバナナを指差した。

 「いいか? この三本のバナナたちが繋がっているここの一点、これを果柄(かへい)と呼ぶ」

 「へえ」

 「この果柄が今我々のいる地点だとする」

 「おう」

 「そしてこの三本のバナナ……、これは我々が今後進んでいく、未来の数多ある選択肢を表しているのだ」

 「歴史っつったよなお前」

 「そうだ」

 「歴史なのに未来の話なのか」

 伊藤はハッとした表情になり、目を見開いた。伊藤の手に持たれたバナナがゆらゆらと動いている。

 「論理が弱すぎねえか」

 「分かった、では過去にしよう。これら三本のバナナはこれまで我々が過ごしてきた道筋……。その歴史たちが一点に収束し、新たな物語を作っていくのだ」

 「リカバリの速さは認める」

 「うむ、その方がいい。見ろこのバナナのしなやかなアーチを。一筋縄ではいかない人生の難しさの表れに外ならん」

 伊藤は一人納得した後、房からバナナをもう一本もぎり、皮をむいて一口食べた。歴史をそんな簡単にもぎっていいのかと思いつつ、自分も一本もぎった。

 テーブルの上には、残り一本になってしまったバナナが力なく横たわっている。それは『歴史』というには、見るも無残な姿だった。

 伊藤はバナナを飲み込み、話を続けた。

 「それに、根拠はこれだけじゃないぞ」

 「言ってみろ」

 「バナナと歴史の第二の共通点。しかもこれはガチのやつだ」

 「急に言葉が安いな」

 伊藤は言った。

 「バナナと歴史のガチの共通点……、それは、放っておけば黒くなるという点だ」

 「……しょうもねえ」

 歴史が黒くなる、要は『黒歴史』ということだろう。

 詰まる所、ダジャレだ。

 伊藤は不満そうに口にした。

 「何を言うか。お前はホワイトな歴史を歩んできたのか」

 その質問に俺は自分の半生を振り返り、一人勝手に肝を冷やした。暴れたくなるような苦い思い出たちが蘇り、手汗という形となって現れる。

 「……人並に黒くはあるな」

 「それじゃあここからは黒歴史大暴露大会としよう」

 「何故そうなる」

 「黒、いや、毒を吐き出して笑い話にするのだ。他人に黒歴史を語り、それを肴にしてバナナと一緒にまた飲み込む。いつまでも黒歴史のままでは勿体ないだろう」

 「一理ある」

 「黒歴史とは、言い方を変えれば内に溜まった後悔、心残りだ。懺悔して楽になる、それが一番良い」

 心残り。そんな風に考えたことは無かった。

 伊藤は大抵は滅茶苦茶を言ってばかりだが、時々、的の真ん中を射貫くような鋭い発言をする。

 特段どこかに一緒に出かけたり、学内で行動を共にしたりはしないが、たまに会って話をしてみたくなるのは、こういうところが理由なのかもしれない。

 伊藤は食べかけのバナナを片手に、自らの黒歴史を語り始めた。

 「では私からいこう。あれは中学の頃の話だ」

 「人生で一番黒い時期だな」

 「ああ、太陽でいうところの黒点だ。最も寒い部分なのも同じ」

 俺はテーブルに一つ残されたバナナを取り、皮をむきながら話を聞いた。

 「それでだ。中学時代の私は、精霊使いの生まれ変わりだった」

 「もういい。それだけでお腹いっぱいになった」

 胃の中からバナナが出そうになる。

 「そう言うな。バナナならまだあるぞ、ほら」

 伊藤は横に積み上がった段ボールの一番上からバナナを二房取り出し、一房をこっちに放り投げた。そうじゃない。

 「それでだ。精霊使いの生まれ変わりだった私は、常人には見えない、現世に漂う精霊たちの姿が見え、会話もできた」

 「会話か」

 「精霊たちは所かまわず話しかけてくる。たとえ授業中であっても」

 のっけからあまりにも重い。第一話がこれでは、最終話には疲労困憊である。

 「それで、その日は二限目の国語の時に話しかけてきた」

 伊藤は下を向き、苦虫を嚙みつぶしたような表情をしている。

 「だが私は、中途半端にわきまえていたのだ」

 「何を」

 「ネットによくある中二病エピソードなら、わざとらしく大声で話してみたり、あるいは小声で話したりするところだ」

 「そうだな。『学校には付いてくるなって言ったろ!』的な」

 「ああ。だが当時の私はわきまえていた。声を発するのはあまりにわざとらしい……、そう考えた私は、精霊とのやり取りをジェスチャーで行った。しかも声を発さない分、動きだけは大げさに」

 「うっわ……」

 「印を結んだり、あるいは手をこうして気を溜める感じだ」

 伊藤は手を強張らせ、何かを鷲掴みするような形にした。

 「アニメでよくあるやつだな」

 「そうだ。そして問題はこれだ。手のこの形が良くなかった」

 伊藤は手をワキワキと、気持ち悪く動かしている。

 「その日も私はいつものように気を溜めて精霊たちと会話をしていた。そしてそれを見た国語の教科担任が言ったのだ」

 伊藤は一呼吸置いて、続けた。


 「『おい伊藤、何やってんだ。おっぱい揉む練習か?(笑)』……。」

 

 「ウぐっ」

 羞恥の念が押し寄せる。頭痛の前兆だろうか、思わず額を手で覆った。

 「クラス全員の視線が私に集まり、対する私は手をこの形にしたまま固まった。そして一瞬の静寂のあとに爆笑の渦が起こった」

 「……お疲れ」

 少年時代の伊藤へ、ねぎらいの言葉を投げかけた。

 「ああ。別に後ろを振り返って確認したわけではないが、あれは確実に全員が笑っていた。台風の中心は静かなのだと、あの時初めて知ったよ。元々孤立気味だったのもあって、その日以来私はみんなの丁度いい嘲笑の対象になったというわけだ」

 「マジで苦しい」

 「まったくだ。教師の中には、自分がいかに子供たちに影響を与えるかを分かっていない奴が多すぎる。純粋で幼気な子供だった私の心は、大きく大きく、月のクレーターのように抉られた」

 「いるよなあ。良い先生もいるけど、先生たちも人間だから、全員が全員ってワケでもねえしな」

 「そうなんだがな……、まあ一つ目はこんなところだ。あと九十九個」

 「百物語かよ。それだけ黒い部分ばっかりなら逆に開き直れそうなもんだが」

 「朱に交われば赤くなる……、闇に交われば黒くなると言ったところか」

 「中二病が治ってねえな」

 「なんでもよい。さあ、次はお前だ」

 「……ふう」

 バナナを一口食べ、ゆっくりと語り出す。

 「高校生の時だ。特にエピソード系では無いんだがな」

 「ほう」

 「特に理由は無かったんだが、何故か俺は、水筒を持つのがダサいことだと思っていた」

 「高校生にありがちな謎の固定観念か。よくある話だな」

 「それだな。エナジードリンクの茶色いビンに麻の紐をくくりつけてな」

 「興味深いな」

 「……それを腰に提げて持ち歩いていた」

 「鈴木よ。やはりお前はなかなかヤる男だな」

 「うるせえ」

 「単純明快な分、ストレートに苦しいな。三年間ずっとやってたのか」

 「いや、入学から高二の終わりまで」

 「受験で我に返っている辺りがより苦しい」

 「俺の黒歴史を解き明かすな」

 バナナの皮をむいて一気に口に放り込み、余計な力を入れて噛み砕く。

 伊藤の追撃は止まらない。

 「他人の黒歴史はひと際面白いな。温故知新とはよく言ったものだ。中身は何か入れていたのか?」

 「色々だったな。高校生で金も無かったから、そういう時は家で作った麦茶入れてた」

 伊藤は笑いながら俺に聞く。

 「それは、家で継ぎ足すのか」

 「場所が無えだろそれ以外」

 「ハハハ! 家の台所でポットからちまちまと注ぐ姿が今にも浮かんでくるぞ。カッコつけの演出の裏に、甲斐甲斐しい努力アリというわけだ」

 伊藤はバナナを食べながら、うんうんと頷いている。

 俺は当時を思い出し、そして、台所に立つ母親の顔を思い浮かべた。

 「……今思えば、親がいる前でもよく注いでたが、何も言わないでくれたのは優しさだったんだな」

 「だろうな。しかし、その気遣いもなかなか苦しいな。二度と会わん奴らにどうこうされるよりよっぽど」

 「かもな」

 言ってほしかったような気もするが、もし指摘されれば、反抗期の名残とその場の恥ずかしさで反発していただろう。両親が自分のことをよく分かってくれているのだと、こんな黒歴史から実感することになろうとは。

 「持ち歩くタイプの黒歴史なら私もあるぞ。あれは高三の冬、受験真っ盛りの時だ。私は冬期講習で塾に通い、勉強に勤しんでいた」

 合間合間にバナナを食べ、そして房の最後の一本を食べると、伊藤はまた段ボールから新たな房を取り出した。

 「ちなみにその頃はもう精霊使いは引退していた」

 「さすがにか」

 「そうなのだが、当時流行っていたアニメの影響で、私はまた別のキャラに感化された。推理ものの主人公で、天才系のキャラだ」

 「ああ、そういえば何年か前にあったな」

 「見たことあるか」

 「いや、受験で結局見なかった」

 「そうか。そのキャラは推理で頭の回転を促すために、チョコレートや黒蜜などの甘味をよく口にしていた」

 「そういやネットでも人気だったな。一瞬だったけど」

 「私も多分に漏れず、それに憧憬の念を抱き、以来、糖分補給に余念が無くなってな。それで私は塾によくスティックシュガーを持参し、サラサラと口に流し込んだ。自習室では机の上に大袋をこれ見よがしに置いたりしてな」

 「程々に痛えな」

 「程々か……、そうかもしれんな。中学校時代の苦い経験を糧にした私は、適度な奇人感を演出するのにギリギリのボーダーを攻めた。それ故の行動だったのだと思う」

 「奇人に適度もクソもねえだろ」

 「でも、言いたいことは分かるだろう」

 それは、分からなくもない。他人に無い何かを求めて自己探求をした結果が、私にとってのエナジードリンクのビンだった。当時は探求とか、そんなムズカしいことはそこまで深く考えてはいなかったが。

 「特別でいることやオンリーワンでいることと、常人から逸脱することは同じだ。私も人並にはモラトリアムの中でもがいていたのだよ」

 「そうか」

 「うむ。さて、次はお前の番だ」

 「待て、提案がある」

 「なんだ」

 「ここで手打ちにしてくれ……」

 これ以上は身が持たない。

 それに、今日に限っては日付も悪い。

 「何だと、これからだというのに。こらえ性のないやつめ」

 俺は後ろに手を付き、改めて現状の歪さを確認した。

 「なんでクリスマスにわざわざこんなことを……」

 今日は12月24日、クリスマスイブである。恋人もおらず、卒業間近でアルバイトも辞めていた俺は一切のやる気を削がれ、さっきまで独り寂しく床に伏していたというわけだった。

 「だからこそだろう。身寄りの無い男二人がこの狭い部屋の中で、黒歴史に塗れた闇夜を過ごすのさ」

 「言ってもなあ」

 「仕方ない、まあ一つ聞けただけでも充分だ。大きな爆弾を抱えていたようで何よりだ」

 「はあ……」

 思わず安堵のため息が出た。これでもう誰も傷つかずに済む。

 「いやなに、こないだ入用で外に出たのだが、今や街はクリスマス一色だ。駅でもコンビニでも本屋でも、行く先々で似たようなクリスマスソングを延々と聞かされ、ほとほと嫌気がさしていたのだ。それで、聖なる夜から縁遠い催しをしてプラスマイナスゼロに打ち消そうという魂胆さ」

 「付き合わすな俺を」

 「話し相手がいなければしょうがないだろう。呼べるのはお前くらいなものだ」

 「やれやれ」

 「ホワイトクリスマスに対するブラックヒストリー、実に良いコントラストだろう」

 伊藤は一人満足した面持ちで、バナナを頬張った。

 そしてまた、段ボールからバナナを二房取り出した。

 俺は伊藤に聞いた。

 「……おい」

 「何だ」

 「どういうことだその無限バナナは」

 ついに聞いた。

 ゴミ箱に積みあがったバナナの皮が、いつの間にかてんこ盛りになっている。

 墨汁の如き真っ黒な歴史たちの裏に隠れ、すっかり聞きそびれていた。

 「……ああ、実は叔父がフィリピンにいてな」

 「初耳だぞ」

 「別に言う機会も無かった故だ。毎年送ってくれるのだが、今年は特に量が多くてな。一人で消費できそうになかったから呼んだのだ」

 「腹を空かせて来いってのは、俺に処理させるためか」

 「そこに気付くとは聡い奴め。ほら、この中は全部バナナだ」

 伊藤はまた段ボールからバナナをドサドサと出した。めまいを起こしそうな量のバナナに少しだけうんざりする。

 「多すぎる」

 「だからそうだと言っているだろう。ちなみにこれ以外にも冷蔵庫にギッチリ入ってるぞ。熟すのを遅らせるために冷蔵しているのだが、入り切らなくてな。ちなみにどうだ? 旨いか?」

 「まあ、旨いぞ」

 「そうか。それは良かった」

 黙々と食べていたが、ところどころに蜜の入っているのが見えるバナナは、上品でまろやかな甘味を舌の上に届けてくれる。これは確かに、今まで食べたどのバナナよりも美味しい。

 そういえば伊藤とは、今日みたいな大して中身のない話はよくしていたが、伊藤個人について話をする機会はあまり無かったような気がする。

 俺は話の流れで聞いてみた。

 「叔父さんがフィリピンにいるのか」

 「そうだ。私が生まれた頃には既にな。小学生時代に旅行に行って、収穫の手伝いをしたこともある。市内でも有数の大農園らしくてな。日本人もいたが、ほとんどがフィリピン人で恐怖した記憶がある。何せ言葉が通じんからな」

 「まあそうだろうな。しかし旨いぞこれ。今まで食べた中でも結構」

 伊藤はぽつりと、小さな声で言った。

 「……俺も卒業したらフィリピンだからな。そう言ってもらえると励みになる」

 「えっ、は?」

 「ああ、すまない。言ってなかったな。卒業したら私はフィリピンに行く。叔父の手伝いをすることになっていてな。時間も無いし、ここ最近はバナナとタガログ語の勉強漬けだ」

 実に明るい口調で、伊藤はそう言った。

 「いつから決まってたんだ、それ」

 「はっきり決めたのは二か月くらい前だな。その話が出たのは随分前なのだが、行くかどうかずっと決めかねていたのだ。それで就活もしていなかった」

 「お前……、言えよ」

 「……そうだな。すまない」

 伊藤は頭を下げた。

 「言い出せなかったというわけではないのだが、どうにもこういうことに関して、私はタイミングが分からんのだ」

 「いつ行くんだ」

 「三月になってからだが、まだ詳しくは決まっていない」

 「そうかい。まあ、頑張れよ」

 「無論だ」

 「いいじゃないか。フィリピンは美人が多いらしいし」

 「ああ。だが、あいにく結婚願望は無いのでな。それに覚えなきゃならないことも多い。女にうつつを抜かす暇は無いかもな」

 「まあ、そうか。こっちには帰ってくるのか?」

 「……たまには帰ってくるだろうが、分からん。叔父もだいぶ高齢でな、一応は手伝いの名目だが、実際は半ば継ぐ形での出立なのだ」

 「じゃあ、帰ってきた時は連絡しろよ」

 「ああ、そうする」

 「おう」

 ふと時計を見ると、時刻は0時を回っていた。

 そして、今日の日付を思い出す。

 「……クリスマスだな」

 「お、もうそんな時間か」

 「そろそろ帰るかなあ」

 「そうか。バナナはもういいか?」

 「さすがにもういい。旨かったけど口が甘ったるくてしょうがねえ」

 「それもそうだな。塩味が欲しいところだ」

 「だな」

 「……牛丼でも食いに行くか」

 「……行くか」

 「うむ、それがいい。何せ今はクリスマスの一番いい時間帯だ。そんな時間に労働に勤しむ気の毒な奴の顔を拝みに行くとしよう」

 伊藤は笑いながらそう言った。

 俺たちは家を出て、小盛りの牛丼を無理やり胃の中に押し込み、そして、そのまま解散した。



  ◆◆◆


 

 あれから幾年月か経った。

 俺は結婚し、息子もでき、仕事をしながらそれなりに暮らしている。

 腹周りに肉が付き、白髪も増えた。息子は大学に通うために、いつの間にか家を出た。

 結局、奴と会ったのはあのクリスマスの日が最後になった。以降は連絡を取っていない。というよりは、取れなくなったの方が正しいだろう。

 卒業式にでも会えるだろうと高をくくっていたが、奴は来なかった。既に日本を発ったと、後になって文学部の教授に聞いた。

 元々の連絡先にメッセージを送っても音沙汰は無く、あの日牛丼屋で聞いたフィリピンの住所に手紙などを送ってみても、返事は無かった。

 住所を知っていたのだから、フィリピンに行って訪ねることは可能だったかもしれない。だが、それもしなかった。特に理由は無いが、わざわざフィリピンに出向くほどでもないと思ったし、それに奴は『帰ってきたら連絡する』とも言っていた。

 だからそのまま、なあなあになった。

 そうして何も起こらないまま、日々を過ごした。

 俺はクリスマスになるたびに奴のことを、あの夜のことを思い出す。

 奴は何をしているのだろう。今もフィリピンで暮らしているのだろうか。異郷で上手くやっているだろうか。

 雪の降る夜を過ごしながら、そんなことを時折、頭の片隅で考えた。

 そんな日常の最中、一本の電話がかかって来た。

 国際電話だった。

 不思議な緊張を抱きながら電話に出たが、残念ながら電話の主は俺の望んだ相手ではなかった。

 

 なかったのだが、それは思わぬ連絡だった。

 

 受話器からは若々しい男の声が聞こえた。

 その男は伊藤秀治と名乗り、自らを伊藤の息子だと言った。

 秀治の話によると、伊藤は先月、フィリピン郊外の病院で亡くなったらしい。

 何故今になって連絡してきたのかと聞くと、遺言にそう書いてあったのだそうだ。秀治は伊藤に代わって謝ってくれた。

 そして、伊藤の遺言に書いてあった文を読み上げた。


 『鈴木よ ―― 連絡が出来ず済まなかった。思った以上にこちらでの生活が忙しく、しばらくは日本に帰れなかったのだ。気付けば何年も経っていた。私は連絡無精だ。済まなかった。私は今でもお前のことを友人だと思っている。分かってほしい。 ――』

  

 ほどなくして、フィリピンから段ボールが二箱届いた。蓋を開けると、伊藤とその家族と思しき人たちの写った写真と、溢れるほどのバナナが姿を見せた。

 まだ青かったが、旨かった。

 

 

 

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