第35話 一年生 晩暑

 その日、天恵あめは父と一緒にヘリに乗せられ、名古屋と調布で給油して、さらに東を目指す事になった。


 パーティは三洲山みすやまから訪れる華族に配慮して、千葉沖に浮かべた貸し切りの大型浮舟で行われるのだという。


 上機嫌だが無言の父と、ヘリの客室に二人でいるのがひどく苦痛だった。


 辿り着いた大型浮舟は、天恵が三洲山と内地の行き来に使っているフェリーより大きく、数百メートルサイズの船体に、マンションのような客室がそびえる豪華客船だった。


 招待客に御家の経済力を見せつけようかという考えが透けて見えて、吐き気がした。


 船体前方のヘリポートに降りて、出迎えの係員に招かれるが、天恵は振り返って父を見た。ここで別れたら、あとは山城の家で暮らす事になる。

 

 ――だから。


「お父様。母を……よろしくおねがいします」


 深々と頭を下げて、それだけを告げる。


 この想いだけは、伝わって欲しいと思う。


 どれほど自分に冷たくても、母が愛した人なのだから。


 父は鼻を鳴らし、短く「ああ」とだけ応えて、先に船内に入って行った。


 係員に案内されて控室に招かれ、洋装――クリーム地のドレスに着飾られた頃に、来客があり、この場で自分に客がある事に不思議に思いながら部屋に通すよう係員に頼むと、スーツを着込んだ一条先生がやってきた。


 なるほどと、天恵は思った。


 公家華族の嫡男である彼ならば、この場に来客として現れても不思議ではない。


帯刀たてわき君。ご婚約おめでとう!」

 笑顔でお祝いを言ってくれる一条先生に不快な表情を見せないように、天恵は顔を取り繕うのに努めた。


 返礼して、頭を下げる。


「君のような優秀な撫子を失うのは惜しいけれどね。御家の務めなら仕方ない。祝福させてもらうよ。それじゃあ後ほど、会場で――」


 そう言い残し、彼は退室する。


 入れ替わるように婚約者である山城兼好かねよしが、その巨体を揺さぶりながらやってきた。


 身体に合わせた特注のスーツ姿で、薄い頭髪を後ろに撫でつけ、ただ歩いてきただけなのに、額に汗が浮かんでいる。


 彼は天恵の前までやってくると、その父親ゆずりのトドのような喉を撫で擦り、

「ふむ。先日の和装も良かったが、やはり洋装も良いな。剥き甲斐がありそうだ」

 挨拶の言葉すらなく、開口一番、兼好は言い放った。


 その言葉の意味を天恵は理解できず、首を傾げる。


「わからんのか? 察しの悪い奴だ。

 俺はな、おまえのような武人気取りの女や、気の強い女を屈服させるのが好きなのよ。

 ――今晩が楽しみだ」


 喉を鳴らすような不快な笑い声を出しながら、兼好は舌舐めずりする。


 ようやく彼の言いたい事を理解し、天恵は青ざめる。


「待ってください。私達はまだ、婚約段階ではありませんか」


「どうせ明日から我が家で暮らすのだ。遅いか早いかの違いだ」


「その違いが、私達、女には重要なのです」


 言い募るが、兼好は聞き入れそうにない。


 その下卑た視線に、自分が彼の脳内で丸裸にされている様を想像して、天恵は吐き気を覚えた。


「どんなに撫子などと気取ろうとも、剥いて抱いてしまえば、涎を垂らして悦ぶ雌犬になる。おまえだってきっとそうだ」


 頬を舐め取られ、怖気が立った。


(……この人は――ッ!)


 頬を拭いながら睨みつけるが、それさえもが彼を愉しませる行動となる。


「さあ、行くぞ。パーティなど面倒だが、周囲に力を見せつけるのは大事だからな」


 強引に腕を捕まれ、天恵は引きずられるようにして、パーティ会場へと向かった。





 立食式で行われるパーティで、天恵は様々な人に挨拶された。


 顔や名前を知っている華族だけではなく、知らない華族、士族や商社の人達までもが挨拶に訪れた。


 対応に困っている天恵の横で、兼好は上機嫌で、だが横柄に対応していく。


 公家とはみんなこうなのだろうか。天恵は乾いた笑顔を貼り付けたまま思う。


 一条先生も悪い人ではなかったが、人の感情に疎いところがある。


 なんでも自分の思い通りになり、他人がそれに従うのを当然のように思う家に入るのだと思うと、どうしようもないやるせなさに苛まれる。


 と、挨拶客もまばらになった頃、会場入口にひとりの女性が姿を現した。


 背中が大きく開いた黒のイブニングドレスに身を包み、後ろで結い上げた髪を風になびかせて、颯爽と会場を横切ってやってくる彼女を見つけ、天恵は思わず息を呑んだ。


「――静江様……」


 会場の視線を独占しても怯むこと無く、高いヒールを高らかに響かせてやってくる彼女は、まさに撫子の極みとも思えた。


「これはこれは穂月ほづき女伯」


 兼好が進み出て、静江を迎える。視線は大きく開いた胸元に釘付けだ。


 彼女はその切れ長でキツい印象を与える目元を笑みの形にし、

「ああ、久しいね。あんたの親父にゃ、こないだ会ったが。

 ――そこの娘に挨拶したいんだが、良いかい?」


「ええ。お知り合いで? ああ、貴女は女学校の理事をしておられましたな。その繋がりで?」


「そんなトコだよ」


 脇に寄った兼好の後ろから進み出て、天恵は静江の前でカーテシー。


 洋装の授業を真面目に受けていてよかった。


 尊敬する彼女にだけは、女として恥ずかしいところを見られたくない。


「お久しぶりです。静江様」


「ああ。本当にね。孫も寂しがってるよ。

 ――それはさておき、あんた、本当にいいのかい?」


 なにが、とは彼女は言わなかったが、言いたい事は察せられた。


「――御家の為ですから」


 そう言えば、家の為に結婚した彼女は黙るしか無いと、天恵は考えた。


 だが、そんな小娘の浅知恵など見透かしたように、彼女は手にした扇子を開いて口元を覆い、鼻で笑う。


「良いかい? 私はあんたの事情をすべて把握した上で、聞いてるんだよ?

 よく考えな。本当に、いいのかい?」


 天恵は言葉に詰まる。


「……良くない、と言ったら。この状況は変わりますか?」


 それだけをなんとか絞り出し、静江を見つめる。


「それは私だけじゃ、ね」


 静江は苦笑する。


 それはそうだろう。ここまで来てしまったのだ。いかに彼女が女傑であろうと、ひっくり返せるものではないだろう。


 そもそも一度差し伸べられた手を振り払ったのは自分だ。いまさらもう一度を期待するのは都合が良すぎる。


「そろそろ良いでしょう? 私も彼女もこの後の予定があってね。女伯は引き続き、楽しんでいって欲しい」


 兼好が天恵の腰を抱き寄せ、静江に言う。


 汗でほのかに湿ったスーツの感触が不快だ。


「そりゃすまなかったね。じゃあ、失礼するよ」


 踵を返し、離れようとする静江だったが、ふと思い出したように足を止める。


「そうそう、次期侯爵。ひとつ忠告しといてやる。親父にも伝えな」


 扇で顔下半分を隠した彼女は、目元だけで婉然と微笑む。


「――後先考えないバカってのはね。怖いよ?」


 そう言い残して、今度こそ静江は去っていく。


「さあ、俺達も行くぞ」


 特徴的な喉を鳴らすような笑みで言い、彼は天恵の腕を引いて会場を後にした。


 連れてこられたのは、この客船の最上階にあるスウィートルームで。


 贅を凝らした調度品が立ち並ぶ部屋の最奥に、やたらと巨大なベットがひとつ。


 天恵が戸惑って立ち尽くす間にも、兼好はジャケットを脱いでネクタイを緩め、ローテーブルに置いてあった、ふたつの黒い腕輪を取り上げると、無遠慮に天恵の腕を掴んで左右それぞれに着けた。


 ――封喚器!?


 と、気づいた時にはもう遅く。胸の奥で魔道器官が眠りにつくのがわかる。


 外そうとしても、ロックされているのか、手では外せそうになかった。


「これはな、ただの封喚器じゃないぞ?

 初めての女でも女の歓びを十分に味わえるよう、感度を上げられるよう作らせた。

 どうだ? おまえの婚約者は優しいだろう?」


 真性の変態だ。


 初めて自分に向けられる、男という生き物の獣性に、天恵は足が竦んでしまいそうになる。


 ドレスの開いた胸元から手を突っ込まれて、胸を揉まれた瞬間が限界だった。


 染み付いた体術の型をなぞって身体が動き、全体重を乗せた掌底で兼好の鼻を撃ち抜く。


 いかに体重差があろうとも、急所への一撃は相手をひるませるのに有効だ。


「――ぷひっ!?」


 生まれてこの方、暴力など振るわれた事のない兼好は、ブタの鳴き声のような悲鳴を漏らし、尻もちを突く。


 その隙に天恵は、ドレスの乱れを直す暇すら惜しんで、部屋を駆け抜け、ドアの鍵を外して廊下に飛び出した。


 エレベーターを待つのももどかしく、非常扉を開いて、外部にある非常階段を駆け下りる。


 甲板まで辿り着いた所で、兼好の連絡を受けたのか、スーツ姿の護衛と思しき男達が天恵を追って、船内から飛び出してきた。


 甲板を走り、端にある手すりを乗り越えて、

「それ以上近づいたら、飛び降ります!」

 男達を威嚇する。騒ぎを聞きつけたのか、招待客達が集まってきた。


「天恵! なにをしている!」


 その中から父が飛び出してきて叫んだ。


「あんな下衆に、この身体を穢されるくらいなら、死んでやろうというのです。お父様!」


「――なんだとっ!?」


 父は血相を変えて背後を振り返る。


 そこに鼻を赤くしたままの兼好が、群衆を掻き分けてやってくる。


「貴様ぁっ、嫁入り前の娘をなんだと思っている!」


 あの父が怒っていた。自分の為に。


「……お父様?」


 兼好の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした父は、しかし護衛に阻まれ、組み伏せられてしまう。


「なにをしている! どうせハッタリだ! さっさと引きずり戻せ!」


 兼好が男達に命じ、それに従って男達が駆け出す。


「――帯刀天恵!」


 その時、凛とした声がその場に響いた。


 すべてを圧倒し、その場に縫い止める圧力を持ったその声の主を、誰もが見ずにはいられない。


 割れた群衆の真ん中で、静江は紫煙煙る煙管を携え、天恵に微笑んだ。


「バカな男共に、撫子の覚悟を見せてやんな」


 天恵は目をつむり、息を吸い込む。


「――お父様! 母を、どうか母を頼みます!」

 叫び、天恵は船縁を蹴った。


 ――落下が始まる。


「――天恵っ!」


 泣き出しそうな父の悲鳴が印象的だった。

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