天恵先輩の婚約
第34話 一年生 夏
旧家特有の広大な敷地に、建て増しと改築を重ねた棟々が立ち並ぶ中、北側の隅にひっそりと隠されるようにして、
夏休みに入り、天恵は三洲山から、実家のある兵庫へと帰ってきていた。
本当ならば、帰省するつもりはなかったのだが、父に命じられての渋々の帰宅だった。
冷たい父に、自分を居ないものとして扱うその本妻。
妾である母と、その子である天恵は、この広大な屋敷の片隅で、肩を寄せ合って息を潜めるようにして生きてきた。
生活に苦労した事はなかったが、囲われているという感は否めず、どうしても息苦しさは拭えない。
『――親父に言われなければ、お前達など引き入れなかった!』
というのは、かつての父の言葉だ。
自分が父にとって望まれなかった子供だという事は、幼い頃に理解させられている。
それでも歪まなかったのは、母がその一身で愛情を注いでくれたのと、姉と祖父の存在が大きいだろう。
五年前に急逝した祖父は、商売に勤しむ父と違い、まさに武に生きる人だった。
老いてもなお筋肉質な身体を維持し、それでいて平時は物静かで優しく、姉と天恵に分け隔てなく愛情を注いでくれた。
姉の
そんな二人が居なくなり、そして今、母もまた居なくなろうとしている。
『――おまえの母親が入院した。癌だそうだ』
それは帰省してすぐに、父に告げられた言葉。
取るものとりあえず、教えられた病院に向かうと、やせ細り、顔色の悪い母に出迎えられた。
医師の話では、発見が遅かったため、治るかどうかは五分といったところ。
天恵は真っ白になった思考で医師の話を聞き終え、そのまま離れに帰ってきた。
母の両親は、母が帯刀に入ってすぐに亡くなっている。
母は中級商家の生まれなのだが、それも祖父母が亡くなったのを機に、帯刀に――父に乗っ取られてなくなった。
今は、あの父に縋るしかないのだ。
父は、姉が亡くなってから、自分に姉の代わりを求めるようになっていた。
武に生きる帯刀の娘を求めているのではない。自分の商売に都合の良い、政略結婚の道具としての娘を求めているのだ。
両親と反目していた姉はそれを嫌ったのか、中学に上がった頃から、まるで男の子のように振る舞うようになった。
『――おまえには見合いをしてもらう』
それが父の言う、母の治療を続ける条件。
冷笑するような、それでいて恨みがましい、そんな複雑な表情を浮かべた本妻の顔が印象的だった。
「……お姉様。私はどうしたら……」
もうなにも考えたくなかった。
都合のよいなにかが起きて、なにもかもすべて吹き飛ばしてくれたらいいのに、と。
そんな愚にもつかない事さえ思ってしまう。
姉がいなくなってから、いつかは政略結婚させられるかもしれないと考えていた。
だからこそ、一人前の防人になって自立し、母と二人で生きていこうと、実家から遠く離れた三洲山の女学校に入学したのだ。
「早すぎる……早すぎるんだよぉ」
ベットの上で身体を丸めて縋るように、祖父が姉とおそろいで買ってくれた、怪獣のぬいぐるみを抱きしめる。
あと半年と少し。
それだけあれば撫子資格をもって防人の入隊試験を受けられるというのに。
先の事を思えば、防人大まで進み、その上で入隊試験を受けた方が、その後の昇進や給料も良い事はわかっている。だが、そこまでの高望みは天恵はしていなかった。
一刻も早く自立する。それが天恵の目標だったのだ。
「――誰か助けて……」
そう嘆く人を一人でも減らしたくて、帰宅部を作って活動してきたというのに。
こんな時に誰も助けてくれないのが、天恵にはひどく皮肉げに思えた。
ぼんやりとしたまま数日が過ぎた。
母の見舞いには毎日行ったが、日に日にやつれて行く母の姿に、天恵は自身の心もまた、疲弊していくのを感じた。
母の前で明るく振る舞うのが辛い。
いっそ母も父に対して不平でも言ってくれたなら、一緒に愚痴でも言い合って、多少は楽になれたのかもしれない。
だが、母は今も変わらず父を愛していた。
――あれだけ冷遇されたのに。
そう口に出すことはできない。
一度も見舞いにすら来ない父に、母は忙しい人だからと、優しく微笑むのだ。
商家の令嬢として育てられた母は、世の中を知らない。
学校卒業と同時に嫁ぐよう育てられたのだ。
それが妾であっても、華族である帯刀と繋がりを持てる事は、母の両親からすれば僥倖だったのだろう。
一夜の過ちから母が天恵を身ごもり、帯刀の家に妾として入る事に、母の両親は特に反対しなかったのだという。
自身の両親と父の為に人生を捧げた母と、今、父に人生を捧げさせられそうになっている自分。
ままならない世の中に、心が死んでいくのを感じる。
みんなは今頃どうしているだろうか。
上女での生活がひどく懐かしく感じた。
また数日が過ぎた。
その日、天恵は父に着飾らせられ、京都のとある料亭に連れらて来られた。
見合いだ。
「おまえは余計な事は言わず、聞かれた事にだけ応えればいい」
と、父に言い含められ、慣れない振り袖で席につく。
移動の車内で見せられた釣書によれば、相手は三十代の公家華族の侯爵家嫡男なのだという。
父にとっては、相手の年齢より家柄の方が重要らしい。
現れたのは、やたら肥え太った親子で、見合い相手の息子の方は、釣書と似ても似つかぬ体型だった。
山城と名乗った親子の質問に、なんと応えたのか覚えていない。
ただただ、息子の方の舐め回すような視線が、ひどく気持ち悪かったのだけが記憶に残った。
帰りの車中、父が上機嫌でなにか言っていたが、疲れを理由に眠ってやり過ごした。
離れに戻ると、化粧を落とす事すら忘れて、そのまま眠ってしまった。
翌日、父に婚約がまとまったと告げられたが、天恵はただぼんやりと聞いていた。
もうどうでもよかった。
どんなに心が沈んでいても、母の見舞いにだけは通い続けた。
自分が行かなければ、あの人は本当に独りになってしまう。
「……なにか、あったの?」
一度だけ、母が心配そうにそう訊ねた時があった。
だが、天恵は余計な心配をかけたくなくて、なにも言えずに誤魔化すしかなかった。
暑く晴れた夏の下、病院と離れを往復する毎日が続く。
三洲山に、上女に帰りたいと強く想う。
朝、結納の日取りが決まったと告げられた。
合わせて盛大なお披露目パーティをするのだとも。
それは、夏休み明け初日――始業式の日で、つまり父も婚約相手の山城も、天恵をもう学校に戻らせるつもりはないという事なのだろう。
すぐに帰る気になれず、すっかり人の居なくなった夕方の待合室で、缶コーヒーを片手にぼんやりと天井を見上げる。
「……なんでこんな事になったんだろう」
ぽつりと呟けば、思わず涙が溢れそうになる。
『――天恵は賢いねぇ』
そう言って頭を撫でてくれた、優しい姉はもう居ない。
「そんな事なかったよ。お姉様……」
姉のようになりたいと思った。上女での毎日で、姉のようになれると思った。
けれど、実際の自分は、こんなにも弱く、脆いままで。どうしたらこの泥沼のように絡みつく状況から抜け出せるのか、なにも思いつけない。
「私はどうしたら……」
目を閉じて、涙を堪える。
泣く事だけはしたくなかった。それだけが自分に残された、ちっぽけだけど最後の矜持。
コーヒの苦味で涙をやり過ごす。
――と、
「帯刀様。お伺いしたい事がございます」
背中合わせになった長椅子の背後から声がかかった。
「突然、失礼。私は穂月のものです」
そう告げる男は、作業着姿に帽子を目深に被り、天恵と同じく缶コーヒー片手に休憩中の業者といった風体で。
「帯刀様のご婚約についてなのですが、ウチのお嬢が心配なさってます。
――帯刀様。ご婚約は帯刀様のご意思ですか?」
違うと言いたかった。助けて欲しいと喉まで言葉が込み上げた。
学生の紗江はともかく、あの女伯なら、天恵には思いもよらない方法で助け出してくれるかもしれない。
だけど。
「――そうです。私は私の意思で、山城に嫁ぐんです」
母を想えば、言えなかった。
この婚約を反故にしたら、父は母を見捨ててしまうだろう。
そうなってしまったら、天恵にはもう手の打ちようがない。
男は探るように天恵の目を見たが、天恵は目線を反らさず、まっすぐに男を見返した。
「……わかりました。それじゃ、失礼します」
立ち上がり、くずかごに空き缶を捨てて去っていく。
「――あのっ!」
思わず呼び止めてしまい、天恵は後悔する。まだ未練があるというのか。
「なにか?」
尋ねてくる男に首を振り、
「紗江君に……みんなに、元気でと伝えてください」
天恵は頭を下げた。
「承りました」
そうして男は去っていく。
――終わった。
下げた頭をしばらく上げられそうにない。
そうして夏休みは過ぎ去り、天恵は父に言われるがままに、婚約のお披露目の日を迎えた。
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