第29話 一年生 初夏
周囲のざわざわという声に、舞はゆっくりと目を開けた。
身体の火照ったように熱く、関節が痛い。
(……あんなに走ったんだもの。筋肉痛にもなるわね)
心の中で呟いて、悲鳴を上げる身体を強引に引き起こす。
白い間仕切りカーテンの引かれたベッドで目を覚ました舞は、鼻腔を突き刺す消毒液の匂いに、ここが治療施設なのだと理解した。
気絶から復帰した為か、それまで維持されていた水干の装束が解除され、制服姿に戻る。
掛けられていたタオルケットがずり落ちて、ベットの下に落下する。
拾い上げると、やはり装束から解除された革靴が、揃えて置かれているのに気づく。
癒術が施されたのか、逃げる際にあちこちぶつけたり擦ったりしたにも関わらず、身体は筋肉痛以外の不調は感じられなかった。
タオルケットを拾った事で、舞が目覚めた事に気づいたのか、外からカーテンが開けられる。
「――あら、気づきましたのね」
そう言って顔を覗かせたのは、鮮やかな赤毛をした少女で。
「身体の調子は如何ですの? どこか痛いとか気持ち悪いとかございませんこと?」
舞は首を振って応え、
「あの、ここは? それに貴女は……」
制服の赤いリボンの色から同じ一年だとはわかるが。
「ここは封鎖棟の医務室ですわ。わたくしは一年桜組の
豊満な胸に手を添えて応える紅葉。
「医務室……」
カーテンの向こうに、舞と同じようにベットに座った級友達や、その脇で談笑する級友達の姿が見えて、舞は安堵する。
「重傷者はおりませんから安心なさって。精神的に強いショックを受けた子はいらっしゃるようですが、そういう子はただいま、催眠療法を受けてらっしゃいますわ。
――貴女も受けられますか?」
問われて舞は首を振る。
魔道的に行われる催眠療法は、精神的ショックにかなり有効とは聞くけれど、多くの場合が原因となっている記憶の消去が伴う。
それは舞の望むところではなかった。
気絶する直前に見た、あの鮮烈な光景。
絶望しか見いだせなかったあの状況で、まるで閃光のように現れ、瞬く間に恐怖を打ち払った――あの人。
「あの。私を助けてくれた方はどうしました? それに帰宅部?」
「帰宅部は、貴女達のように、魔道にまつわる突発事象に巻き込まれた方に対して、帰宅支援を行う為の部隊の事ですわ。正式名称は帰宅困難者援助部隊と言いますの。
貴女を助けた方は紗江さん。
得意げに説明する紅葉に、舞は胸の前できゅっと両手を握り合わせた。
(……穂月、紗江様。それがあの方のお名前……)
大切な宝物をもらった子供のように、舞は大切そうにその名前を繰り返す。
「――呼んだー?」
と、その名前の主が、ひょっこり部屋の入り口に現れた。
制服姿の彼女は、あの時のキレのある動きが嘘だったかのように、頭を
「ええ。この方が貴女のお名前を知りたいと仰って、教えて差し上げてたのですわ」
手の平で指し示された舞はピョンと跳ねて居住まいを正し、寝癖が付いてないか確かめるように手櫛で髪を整える。
「改めまして、
一礼すれば、紗江は照れたように両手を振って微笑む。
「お礼なんていいよー。わたしはやれる事をやっただけだしね」
「やれる事、とは?」
ふと突いて出た言葉に、紗江は頭を擦りながら応える。
「舞ちゃん――あ、舞ちゃんって呼んでいいよね? あの時、叫んだじゃん? 誰か助けてって。その誰かが、たまたま、わたしだったって事だよ」
人差し指を立ててにんまり笑う紗江に、舞はヒュッと息を呑む。
(……届いていた? あの誰にも届かないと思っていた叫びを……)
それは言葉にならない情動で。舞はこの感覚をなんと呼ぶべきか戸惑った。
胸の前で握りしめた拳を掻き抱く。
「で、そういう事をするのが帰宅部だからね」
と、紗江は頭を抑えなが胸を張った。
「紗江さん、貴女、頭さっきから気にしてますけど、どうされましたの?」
「それがさー、咲良様にめっちゃ怒られちゃってねー。拳骨もらっちゃった」
てへへと舌を出し、苦笑する紗江。
「なんかさ、ああいう時はまず保護対象を連れて退避すべきだったんだって。わたしてっきり舞ちゃんを守りながら、ぶっとばせって指示だと思ってたからさぁ。
見て? コブになってる」
「あら、ほんと……」
紗江が紅葉に頭を差し出し、慣れ触れた紅葉が口に手を当て驚く。
「あの、コブ程度でしたら、癒術で治してしまえばよろしいのではないですか?」
途端、紅葉が息を呑み、紗江が乾いた笑いで苦笑した。
「わたしね、魔術使えないんだ。だから癒術もムリ。
昔、事故で魔道器官、壊しちゃってねー」
なんでも無い事のように言う紗江に、舞は青くなって驚く。
「え? でもあれほどの武をお持ちですのに!」
「そこはほら、わたしも腐っても穂月の端くれっていうか」
帰宅部での活動で、多くの探索者や生徒と関わるようになってから、さすがの紗江も、自分の基準がおかしいという事を理解し始めていた。
そして穂月の名前を出せば、たいていの人が抱く疑問や道理もまた、引っ込むという事を理解し始めたのである。
だが、公家出身であり、自身も魔道に精通している舞は、魔法だけであれほどの武を鍛えるのがどれほど難しいか、正確に理解している。
なにか言えない事があるのだろう。
魔道器官が損傷した以上に隠さなければいけない秘密が。
だが、それを暴こうとは思わない。
そんなものを知らなくても、彼女が自分を助けてくれたのは変わらない事実なのだから。
「紗江様、貴女は……」
自分でもなんと続けようとしたのかわからない。不意に口を突いて出た言葉に、自身で驚き、言い淀む。
「――衣笠君が目覚めたって? ちょっと通してくれるかい?」
その時、医務室の入り口で、いまだ談笑している生徒達の向こうから男声が響く。
「さあさあ、みんなはそろそろ戻ろうか? 元気なのに医務室を占拠するものじゃないよ」
そう言いながら現れたのは、実践魔法学の一条先生だ。今回、一年百合組の芸妓授業で
イケメンの一条先生に促され、生徒達はきゃあきゃあ言いながら退室して行き、
「じゃ、舞ちゃん。またね」
紗江達もまた医務室を出ていく。
一条先生は起きている舞を見て、安堵の表情を浮かべ、ベットの横に丸椅子を持って来て腰掛けた。
ふわりと金木犀の香の香りがする。
「君は単独行動をしていたから、一応、聞き取りをする必要があってね」
報告書にでも使うのか、先生はメモを取り出して告げる。
「……一条先生。勝手な事をして申し訳ありませんでした」
頭を下げると、彼は苦笑して首を振った。
「いや、説教をするつもりはないんだ。
今回は突発的に起きた事故のようなものだし、僕もお咎めなしだった。ただ、今後似たような事が起きた場合に備えて、対処マニュアルを作れと言われてね。
――君もあの時は、クラスメイトを守る為に必死だったんだろう?」
本当にそうだっただろうか。
(あの時、私は……)
少なくとも級友達を想って行動したわけではない、と舞は思い返す。
ただ単純に、あの場に居合わせた者の中で、自分が一番上手く、状況を打開できると考えただけだ。
そこには善も偽善すらもなく、ただ増長した自分の自意識だけがあったように思える。
(ああ、だからこそ私は紗江様が眩しく思えたのね……)
事務的に問いかけてくる一条先生に、淡々と転移直後の状況を答えていきながら、舞は内心で呟く。
(なぜ紗江様は……あんな風に誰かの為にその身を差し出せたの?)
自分が同じ事をできるだろうか。自問してみるが、答えは出ない。
「ところで――」
その時、一条先生の声色が変わる。優しい教師のものではなく、公家侯爵家の若君としての、低く深い声音に。
「衣笠の娘として、君は穂月君をどう思った?」
家の名前を出されて、舞は息を呑む。
まるで……いや、事実として探るような視線。
肺腑が締め上げられているような錯覚に陥る。
「……どう、とは?」
なんとか声を絞り出すと、一条先生は――公家一条
「中層のその場で、君はなにか気づく事はなかったか?」
「私は……すぐに意識を失ってしまったので……特には」
顔を俯かせて吐く一条のため息が、やたら大きく聞こえた。
「そうか。まあいい」
そう言って顔を上げた時には、もう一条先生の顔に戻っていて、舞は気づかれないよう安堵する。
「君は疲れているだろうからね。もう少し休ませてもらうといい。
――なにか思い出したら、いつでも声をかけてくれ」
そうして舞の肩を叩いて、一条先生は医務室を出て行った。
(紗江様……わたしは……)
その先の言葉をどう続けたいのか。
自分でもよくわからないまま、舞は再び横になった。
本当に身体はまだ疲れていたのだろう。すぐに眠りがやってくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます