その3【道徳】にしたがう
『苦痛を味わわせる』
男が味わえば死ぬと言われている苦痛を、自分の愛する人に強いることはできません。逆にどうしてできるのか疑問です。
それを友人に問うてみると「そうするしかないから」と返ってきます。そんなことはない。産ませないという判断だってできたはずなのに。産ませないと自分と配偶者の一族全員が殺されるなどと誰かに脅されたのでしょうか。
『流産の可能性』
これをゼロにすることはできません。
腹の中で生命が絶たれるという絶望を愛する人に味わわせることが有り得るわけです。私はそのようなことをしたくないですし、可能性が1%でもあるのなら避けます。
私は、子と母体の安全性が極めて博奕的であると思っています。こちらの努力で100%を担保できない以上、たとえ失敗率が1%だとしても大博奕であることは変わりなく、そのようなものに愛する人を巻き込みたくないと考えております。
『育児ノイローゼの懸念』
どんなに子を愛していても、育児ノイローゼになる親もいると聞きます。
自分が働きに出ている以上、子に接する機会が多いのは妻です。それゆえ育児ノイローゼになる可能性が高いのも妻。どれだけ自分の時間を割いて子育てに励んでも限界があるでしょう。まして妻の心のキャパシティなど私が広げられるわけもない。
精神的支柱になり、絶対に育児ノイローゼにならないようにするには、私がすべての育児を行う必要性がありますが、それは現実的ではありませんし、なにより妻がすべて私に投げてしまっているという罪悪感に囚われ、別の意味で精神に異常をきたしてしまうことになるでしょう。
『死は不幸なものである』
人というのは今のところ絶対に死にます。我が子も多分に漏れずいつか死にます。死ぬことが幸せなことでないのなら、いつか死ぬ不幸を与えるということなのです。生まれたということは死に始めたと同義でもあるのです。
健康に育てば育つほど、私が看取ってあげられる可能性は低くなる。自分のいないときと場所で死ぬ。これが子にとって不幸なことかを決めるのは子ですが、少なくとも私は生命に対しての責任を果たせなかったと感じます。
『生きづらい社会』
この世は良いことばかりではありません。寧ろ悪いことの方が多いかもしれません。そんな世界に子を招くという非道徳。これもまた払拭し難い感覚です。
妻も同じく「こんな世界に生まれたらかわいそうだ」と言っております。と同時に「産もうと言える人は、それまでの人生が幸せだったから言えるのだろう」とも。
その通りだと思います。これまでの人生が順風満帆だったら、子の人生に対して一抹の不安もないでしょう。そう言う人は「産めば良い」と思います。なので、我々夫婦に対しても「産まなければ良い」と思って頂きたいのです。
『競争すること』
人々は競い合います。それはスポーツの世界だけの話ではありません。就職試験、大学入試、高校入試……いつだって人は人と争っています。
と言うことは、我が子も生まれたが最後、競争の中に身を投じなければいけません。競争して、誰かを蹴落とすという非道徳的な行動をする。のみならずその正当化もおこないます。相手が弱いのがいけないのだ。自分が努力したから勝ったのだ。努力の数が多ければ、努力の少ない人をつまはじきにしてもかまわない。極端なことを言えば、努力さえしていれば努力のない人間を死に至らしめても良いというのが今の社会体系なのです。なんたる自己
誰かが自殺したのは、私が子を授かったからなのかもしれないという恐怖。これにも苛まれなければなりません。同時に、死んだのが自分の子ではなくて良かったという安堵を感じ、その直後に自己嫌悪に陥ります。自分の子でなければ、誰が死んでも構わないのか。そしてそんな男が父親なのか。こんな父親を持ったこの子は不幸だ。そのように思考がループするのが、もうこの時点からわかっています。
この世で夢を叶えられる人が限られているのなら、夢を叶えるために努力する我が子を応援することは、その他の応援を排除し、その他の子らを虐げる行為に他ならないと思うのです。しかしそれでも私は我が子を応援するでしょう。自分の精神が折れるのが先か、子の夢が叶うのが先かは知りませんが。
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