その2【精神】がいかれる

 私は自分の弱さを知っています。追い詰められたとき、誰かにすがってしまうことを。


 親は子供のために命を投げ出す覚悟をしなければならないと思っています。

 実際、多くの親御さんがそうなのではないでしょうか?


「自分の子供を守るためなら、この命は惜しくない」


 そう思っている方々は少なくないはず。

 しかしながら、人生はどうでしょう?


「子供の人生のために己の人生を捨てられる」


 と言える人は案外少ないのではないでしょうか?


 命懸けになれるんだから、人生も同じことだろうと思う方もいらっしゃると思いますが、人生と命は大きく違います。命は目に見える個体ですが、人生は目に見えない時間や進路で未来に帰結するものです。

 つまり、子どもの未来や今後の人生に対して、己の人生を蔑ろにできるか。ということです。

 例えば、子供との会話を増やすためにスマフォゲームをやめるとか。

 例えば、子供の教育費のために副業を始めるとか。その副業のために趣味を減らすとか。

 そう言う人ならいるかもしれません。それだけでも尊敬の念が堪えません。


 しかしこんな例はどうでしょう。


 例えば、老いて介護が必要になったから、子供の人生の妨げにならないように自殺する。


 このような方、居ないのではないでしょうか? 居るとしてもごく少数かなと思います。

 ですがこれができるかどうかというのが私には重要で、自分が親になれるかどうかのポイントでもあります。


 私の父親は

「死に目に会いに来なくていい」

「弱った姿は見せたくない」

「介護はしなくていい」

 と言って、徹底的に父と子の人生を区別しています。

 親として自分の子には強い姿を見せて人生を終えたいというまっすぐな志があるからこそできることです。そんな父を、私は心から尊敬しております。


 ひるがえって、私にそんなことができるのかと自問すると「無理だろう」と返してくる自分が居ます。


 私は弱い。


 だから、いざ体が不自由になって助けが必要な事態に陥ったら、周りに救いを求めると思います。周りに頼れる人が居なければ、結局子に介護を頼んでしまうように思うのです。


 介護は死ぬまでずーっと介護する側の人生を食いつぶす行為です。こんなことを言ったら、現在介護を受けている方には申し訳ないのですが、事実ではあるのです。

 実際私の元職場に介護で悩んでらっしゃる方が居ました。その方はいつも「早く親に死んでもらいたい」と世間話をするような当り前さでおっしゃっておりました。自分を育ててくれた親に対してそのような感情を当たり前に持ててしまう。他人事ながらそれほど介護はつらいものなのだと思いました。


 献身的な姿勢で、「そんなことはないよ」と言ってくれるお子さんもいらっしゃるでしょう。ですが、どれだけ献身的であろうとも、その人の時間を奪っているという事実はやはり変わらない。気持ちの問題ではないのです。親子間の愛が強ければ時間は増えるのか。増えません。物理的に奪っているんです。ときは金なり。介護している時間、もしも副業をしたら? もしも友達と遊んだら? もしも家族と旅行に出掛けたら? その方はもっと有意義な時間を過ごせるのではないでしょうか?


 恩返しという言葉があります。

 しかし、子が親に返す恩などそもそもないのです。子が生まれてくれたという喜びといつか死ぬ運命を与えた罪悪の返済を、子育てという行為でもってあがなっているだけなのですから。子育ては贖罪なのです。

 子が親に恩に感じること自体は尊いことです。素晴らしいことです。しかし、恩があるというのは子側の錯覚なわけですから、その錯覚を利用して親が「恩を返せ」というのは厚顔無恥こうがんむちの極みであるわけです。


 もちろん、親孝行は素敵なおこないですよ。ですがそれは、返したのではなくて与えたと捉えるべきです。プラスオン。マイナスをゼロにしたのではなくゼロをプラスにしたのです。


 だから本来、親は子に頼ってはいけない。愛とは見返りを求めないものなのです。もしも「いつか介護をしてもらうために子を育てよう」と考えているのなら、それは愛でもなんでもなくただの打算、保険、貯蓄です。子は積立預金ではありません。しかも、子育ては成長するという喜びが伴いますが、介護にそんなものは有りません。あるのは、大きかった背中が小さくなっていく寂しさと時間と金を奪われてく虚しさだけです。ズルいでしょ、こんなの。


「そうはいっても、自分は親の面倒を見た。子が親の面倒みるのは当たり前だ」


 と、を押し付けてくる人もいると思います。です。そこには自身の考えなど一切なし。「あれがこうだからこれもこう」「今まではこうだった」という思考停止状態での、なんの理論も成立しない声がでかい人の願望に過ぎません。

 そこまで言うのなら、もういっそ自分の言葉で言ってください。


「私は、老後の面倒を子供にしてもらうために産ませた(産んだ)」と。その方がまだ潔い。


 閑話休題。


 誤解を恐れずに言うなら、私は子にすがる親を醜いと思います。

 私は醜くなりたくない。

 慈しみ、愛するだけで、求めたくはない。

 しかし子が生まれたら、きっと頼ってしまう。縋ってしまう。醜い、自分が成りたくない自分になってしまう。それがわかっているから、産ませるという決断は、絶対にできないのです。

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