第11話 余禄
「生きた人間としてのイメージを持つことで、聖書そのものに少しでも親しみを感じられたら。そう言ってたんじゃあないのか。俺たちは生きた人間じゃなかったと言いたいのかい」
そんな声が、胸の内に響き続けていた。「記す人々」を書き終えた後のことだ。確かに、前作では小預言書の筆者を省いた。正確に言えば、12小預言書のうち、10書を省いた。ホセアとヨナは短いながらもはっきりとした人物像があったし、昔から惹かれていた書でもあったので、物語に起こすことにそう困難はなかった。しかし、その他の10書に関しては、お手上げだった。なにせ、ほとんど名前だけが記されている程度で、どんな人物だったのかということを想像する手がかりがほとんどない。解説書の類をいくつかあたってみたが、大抵は、人物については詳細不明、という一文だけだった。だから敢えて省いていたのだが、確かなことは、彼らが決して架空の人物ではなかったということだ。それならば、たとえ完全にフィクションであったとしても、彼らの人となりだけでも描けないだろうか。彼らが活躍した背景を想像し、それぞれの預言書の特徴と合わせて人物像を浮き上がらせてみてはどうだろうか。そんな風に考えて、やや恐る恐る、書き始めた。
書き始めると、意外なことに、それぞれに感情移入ができ、楽しい作業になった。最後まで書けるかどうか、確信はなかったが、始めた以上、誰か一人二人を落としてしまうと、天国に行った時に責められるだろうな、と思ったのでとにかく時間をかけてでもやり遂げてみようと思った。
ヨエルは預言の言葉を書き残した、最初の預言者だと言われている。決してその言葉や活動が喜んで受け入れられていたわけではないだろうということは想像できる。ならば、預言書という形にしたのはそうせざるを得ない状況があったのではないか。神から預かった言葉を、語ることさえ許されず、失意の中で、それでも伝えることをあきらめずに文字に起こしていったその熱意と口惜しさを描いてみた。同様に、北王国のヤロブアム2世の前から追い払われたアモスは、その預言書の中にヨエルの書の引用が出てくる。恐らく100年ほどの時代の違いがある2人は、文字を介して出会ったのではないだろうか。
オバデヤについては、諸説あり、逆に人物像がどうしても特定できなかった。そこで、オバデヤ自身を直接描くよりも、彼を知る者の述懐から、人物像を浮き上がらせられないかと考えた。その語り部としては、エゼキエルを選んでみた。彼の預言の通りエドムが滅ぶという場面から書くには、恐らくその時期にいたであろうという理由からだが、彼に関してはその妻が急死するという悲劇が書かれているので、妻と一緒に登場させてみたかったというのも、ある。
ミカについては、その出身地モレセテを地図上で見た時、エルサレムへの途上にダビデとゴリアテが戦った古戦場があるということに気付いた。きっとそれはイスラエルの民にとっては誇らしい記憶であるはずだが、その王家の政治が民の生活を圧迫してしまっている。その皮肉な事実をミカの憤りを通して描いてみた。
ナホムはエルコシュ人と書かれている。エルコシュがどこにあったのかということに諸説ある。興味をひかれたのは、後代に使徒たちがいたカペナウムという町の名が、「ナホムの町」という意味だという点である。エルコシュがガリラヤ湖畔の町で、アッシリア侵攻の際に滅んでしまっていたとするなら、ナホムの町という名が再興された廃墟につけられるというのも分からなくもないが、少々まわりくどい気もする。実は現在でも、イラク北部にエルコシュという町はあり、そこに預言者ナホムの墓とされている遺跡もあると知り、これはやはりナホムはそこで生まれたのだとする説を取ろうと思った。
ハバククはとにかく真っ直ぐに神に向き合っていた、真面目な人だっただろう。ハバクク書が礼拝式文にも用いられていたという記事を読んだことがあるが、そこから想像できることは恐らく彼自身も祭司もしくは神殿に仕える人で、その言葉を取り上げられるだけの地位にあったということだろう。時代的にはエレミヤの活躍した年代と変わらないので、その書記官としてエレミヤの預言を書き記し、恐らく後代に残す役割を担ったのであろうバルクの若き日の相談相手として登場させてみた。
ゼパニヤはヒゼキヤ王の4代の孫にあたるとされている。ユダの歴代王は善王と悪王が入れ替わりで現れたと言われるが、善王であったヒゼキヤに続いた悪王のために、宗教的には堕落していたとされる。ゼパニヤが活躍したのは乱れていたユダ王国の宗教改革を断行したヨシヤ王の時代で、かなり厳しい口調で王室に迫ったということから、彼自身が王族の出身としてそれなりの発言力を持ち、ヨシヤ王にも耳を傾けさせるだけのひたむきな熱心さを持った人物だったのだろうと思われる。この頃にはエジプトやアッシリヤなどの列強がオリエント世界を脅かしていたので、神の裁きによって国が失われるということも決して単なる妄執ではないというムードが国内にはあっただろう。そんな中で王と共に律法の書ののろいを読んで、戦慄したのではないだろうか。
ハガイとゼカリヤは、預言者としては珍しく、エズラ記に二人して名前が出てくる。ところが、ハガイ書の短く激しい断罪の迫りに対して、ゼカリヤ書は小預言書の中でも長く、その内容は黙示録を連想させるような、幻に関する記述が主となっている。二人のキャラクターが対照的だったのではないかと想像して、この2人については互いの視点を入れ替えたパラレルな物語としてみた。
聖書の示す世界の歴史としては、エズラとネヘミヤによる宗教改革以降が中間時代とされるのだが、400年の時を経て、新約聖書の世界に現れてくるユダヤ人のコミュニティは頑迷なまでの律法主義が支配的になっている。その正誤は別としても、宗教的な熱心さはネヘミヤ時代の彼らとはまるで別人のようになっている。無論400年の間には様々なことがあったのだろうけれど、旧約聖書がその間の記述を必要としなかったというのだから、やはりその原型はエズラとネヘミヤの時代に形作られたと言ってよいのだと思う。そうだとすれば、謹厳な二人の働きに不思議な力が加わったと考えるのが自然だ。マラキに関しては、彼自身に関する情報はどこにもなく、謎の人物になっている。しかし、彼が記したのであろうマラキ書は、旧約聖書の締めくくりであり、それを最後に、聖書が空白の中間時代を迎えるという節目を担っている。旧約時代の締めくくりに、エズラ・ネヘミヤを助けた不思議の象徴のように、マラキを描いてみた。
書き終えてみて改めて振り返ると、聖書の迫力に圧倒される。パソコンどころか原稿用紙もボールペンもなく、日々の安全さえ時にままならない困難な中で、文字を刻むことの重み。「律法の一点一画も決して消えることはない」とは聖書の、神のことばとしての確かさを示したものだが、聖書記者たちの営みの尊さも忘れ去られることはないのだと思う。比較するなどおこがましいにもほどがあるが、文章を書き記す者として、軽きに流されないようでありたいと思わされている。
続・記す人々 十森克彦 @o-kirom
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