第10話 マラキ
スサからの使いが到着したのは昼過ぎだった。アルタクセルクセス王がギリシャとの講和を結んだという。領内の伝聞の速さはこの帝国の強みでもあるので、その日付からそう長い時間が過ぎていたわけではなかった。国内が長く続く戦乱に倦み初めていたという事情もあるだろうけれど、なんといっても王の決断と折衝力に負うところが大きい。ネヘミヤは、自分のことを友と呼んではばからない王のために、その講和を喜び、またそれを実現させた王のことを誇らしく思った。後の世にも平和を招来した王として名を刻まれることだろう。同時に、恐らく攻め入るよりもさらに困難な事業に取り組んだ王の苦労を想像すると、かつて献酌官として仕えていた自身が側にいることができなかったことを悔やんでもいた。
神殿でエズラと別れてから、ネヘミヤはいつもの通り、エルサレム城内を視察して回っていた。城壁の修復は終わり、町の防御は整った。しかし、帰還した同胞の規律の乱れは想像以上に深刻で、そのためにスサから招聘したエズラはわずかの期間ですっかりやつれてしまっている。神殿、城壁の再建。それだけではなく、彼らがかつてのようにしっかりと立つためにはもう一つ何かが欠けているのだ、と思っていた。
神殿の丘を下り、町の南端に近づいた頃、泉の門の前にたたずむ人影があった。ここは確か、コル・ホゼの子シャルンが再建した場所だ。乱れているとはいえ、総督であるネヘミヤが通りかかると、民は必ず平伏した。しかしその男は平伏するどころか、門の前で仁王立ちのまま、ネヘミヤの前に立ちはだかるようにしている。長い髪を結え、肩から垂らしている姿はこの辺りにはあまり見られず、むしろペルシャの領内でよく見かけた。
「誰だ」
自然とネヘミヤの口調は詰問調になる。ペルシャ本国から来たとすれば、王の目と呼ばれる巡察使とも考えられるが、総督であるネヘミヤに対して、不遜とさえ思える態度は王都との関連を否定していた。男は、ネヘミヤを正面から見据えて言った。
「エリヤがくる」
「なんだと」
「大いなる恐るべき日が来る前に、エリヤがやってくる」
この男は一体何を言っているのだ。予想もしていなかった言葉に驚き、ネヘミヤは懐に佩いた刀に手をかけながら男を見返した。応答次第によっては切りつける。しかし、男はふざけている様子はなく、しかもネヘミヤの態度を見て怯むこともなく、落ち着いていた。
「エリヤとは」
「知らないはずはないだろう。預言者エリヤのことだ」
体つきは華奢で若く見えるが、不遜なほどの物言いとその落ち着いた佇まいからすれば、意外と年齢を重ねているのかもしれない。
「アハブ王の時代に、サマリヤにいたという預言者のことだな。それがどうした。エリヤが来るとは、どういう意味なのだ」
トビヤやサンバラテといった政敵と対する時には毅然とした態度を崩さなかったネヘミヤだが、目の前の素性の知れない男にすっかり押されてしまっている自分に戸惑っていた。
「この民のことを、神は格別に愛しておられる。にもかかわらずこの民は神を敬わない。なるほど、神殿の再建はできた。城壁も修復された。しかし、民の態度は変わらない。このままだと、神の大いなる御怒りが再びこの民を襲うことになる」
それは、ネヘミヤ自身がまさに思い悩んでいたことでもある。刀から手を放し、少しだけ前のめりになりながら、男の言葉を待った。
「だから神はもう一度エリヤを遣わすと言われたのだ」
「神が、言われただと。預言者なのか」
問われて男ははじめて気づいたように、答えた。
「これは失礼した。私の名はマラキと言う。神の言葉を預かる者だ。あなたとエズラ殿が取り組んでおられるこの都の再建に、必要なものを携えてきたのだ」
「必要なもの、とは」
「どのようなことで誤っているのか。どのようにして、悔い改めるべきなのか。そういう、具体的な指針を示すことだ」
ネヘミヤはマラキと名乗るその男を見つめた。マラキもまた、ネヘミヤを見返す。しばし、にらみ合うような形で向き合っていた二人はやがてどちらからともなく、ふっと力を抜いた。
「もう少し、詳しく聞かせていただこうか。私の家で、食事でもしながら」
「たとえば総督のところに、民が病気の羊を持ってきたとしたら、どうする」
ネヘミヤとしては会話を打ち切ったつもりではないが、場所を移し、正式に話を聞こうと誘ったにもかかわらず、続けられた話に多少むっとしながら答えた。
「礼を失する、と怒るな。案ずるな、私のところではそんなものを食卓に出したりしない」
招かれた食卓の食材にそんな言いがかりをつけることもまた礼を失する、と暗に非難を込めたつもりだった。
「神殿でのささげ物も同じことだ。ささげられているのは、最良のものだろうか。そんなところに、民の信仰の在り方が現れているのではないか」
思わず、ネヘミヤはマラキの顔を見返した。具体的な指針。そういうことか。この男が携えてきたものが、重要な手がかりとなるかもしれない。それが今後も何百年もの間、この民が生き続け得るかどうかを分けるだろう、とも思った。
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