第9話 ゼカリヤ
苔の生えた、岩の上に座っていた。神殿の礎石として据えられた岩だった。
ゼカリヤは雲一つない空を見上げながら、考えていた。このところ、矢継ぎ早に幻を見た。それは眠っている時に見る夢とは違って、大抵は日中、はっきりと目覚めている時に、起こる。不意に音がかき消され、気付くと目の前にあった景色が変わっている。そして自分に向かって語りかける声が聴こえてくるのだ。夢ならば、目覚めて後、ほどなく曖昧になっていくが、幻についての記憶はいつまで経っても消えず、むしろ鮮明に何度でも思い出される。
神が自分に、語りかけているということは分かった。いや、自分を通して、民に語りかけようとしているのだ。預言者か。人に幻の内容を語った時に、言われてはじめて自分がそのような役割を負っているのだということを知った。
「バビロンに70年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束をはたして、あなたがたをこの場所に帰らせる」
かつてエレミヤが語ったという、預言の言葉だった。王室の書記官だった、バルクという老人に見せてもらった巻物に書かれていた。
幻の中で、御使いが言っていた。
「あなたが憤られて、70年になります」
それにこたえて、神は確かに、エルサレムに戻ると宣言された。それが今、自分がここにいるという現実とつながっている。
エホアハズ王がエジプトに連れ去られたのが始まりだった。それからちょうど70年。その間にエルサレムは幾度も蹂躙され、バビロニアは並ぶもののないほどに強くなり、その都バビロンは、自分たちが見ていただけでも、驚くほどの変化を遂げた。しかも、永遠に続くかと思われたバビロニアの隆盛は、王の暗殺により、あっという間に崩れ去った。恐らく、辺境から見れば支配者が変わったことすら気付かなかったかもしれないくらいのあっけなさだった。そして、新しい為政者の命令により、自分たちは今ここにいる。
エルサレムに戻り、神殿を再建せよ。あり得べきことではなかった。一度は完全に破壊され、その宝物のことごとくが略奪された地なのだ。しかも、かつてのダビデ王のように、自分たちの民族が王権を取り戻したわけではない。あくまでもアケメネス家に従属する民の一部という扱いだった。
ほどなく夭逝したキュロス王のその奇怪な命令を、後継の王たちが理解できるはずもなかった。むしろ、周辺民族の中傷を受けて、工事を中断させたアルタクセルクセス王の判断こそ、正しい。今自分たちは、歴史の奇跡のさなかにいる。
そんなことを考えているうちに、丘のふもとから、人が上って来た気配がした。
珍しいな。そう思ったが、あえてそちらの方に目をやることはしなかった。少なくとも、野盗の類ではなさそうだ。それよりも、幻のことについて思い巡らせることを中断したくはなかった。これから、総督や祭司たちのところに行って、その内容を話さなければならない。
「ゼカリヤじゃないか。こんなところで、何をしているんだ」
そうか、この男か。声を聞いて、理解した。ハガイは自分と同じ、神の言葉を取り次ぐ預言者だった。バビロンからこの町に来る道中で、出会った。自分と違ってその言葉はいつもするどく、激しかった。きっと本当はあんな風に、はっきりと大きな声で語るのが預言者のあるべき姿なのだろう。しかし、ゼカリヤは無口で、昔から、声も小さかった。見せられた幻を頭の中で何度も繰り返し言葉にしてから、ようやく口を開く。それまでの自分の姿は、ただぼんやりしているようにしか、きっと映らない。
「10年にもなるかね」
思わず、声に出していた。この神殿が、再建工事半ばで放置された年月である。いつまでだろう。ずっと、思っていた。そして幻を通して自分に与えられた神の言葉は、神殿再建の、さらにその先のことまでも示していた。
「神殿の建設工事を、再開させなければならない。たとえ、妨害があっても、だ。神が私たちと共におられる」
ハガイが続けた。妨害があっても、か。そこまで、この男は読んでいる。そして、その妨害が起こったとしても、きっとこの男ならば屈せず、毅然とした態度で反論するのだろう。
ゼカリヤは、少し愉快な気持ちになった。自分一人なら、どうしたらよいのかすぐには分からず、言い負かされてしまうだろう。しかし、この男と一緒ならば、自分にも語るべき言葉はありそうだ。
「そうだな。僕たちはそのために、いる」
僕たちに、という言葉にの中に、一緒に行こうという思いを込めたつもりだった。
「私はこれからゼルバベル総督と大祭司ヨシュア殿のところに行く。神の守りがあることを伝え、人を恐れずに神殿再建にとりかかるように、力づけるつもりだ」
ハガイが頑丈そうなあごから伸びているひげを撫でながら言った。本当に、力強い。それにしても、ゼルバベル総督と、大祭司ヨシュアか。つい先日、彼らに関する幻を見たばかりだった。汚れた服を着て神の前に立っていたヨシュアに、その服を脱がせてきよめ、大祭司としての務めを果たすようにと励まされていた。また、ゼルバベルについては、権力によらず、能力によらず、神の霊によって神のわざをなすと言われていた。
「僕はね」
そう答えながら、ゼカリヤは、自分の見た幻について、まずハガイに語っておこうと思った。
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