第7話 「悪夢」
2001年5月20日。
交番の目の前に映る、人や車が行き来する光景。こんな光景を毎日見ていると、自分がなんでここにいるのか分からなくなってくる。
小さい頃から刑事という仕事に憧れ、高校を卒業してから警察学校に入学した。刑事ドラマの影響があったが、何より人のために役立つことをしている仕事というのが大きかった。人々の平和のために、悪人に立ち向かう。そんな仕事をしたい、そんな人になりたいと小さい頃から思っていた。
警察学校を卒業してから、警察官として活躍する自分の将来が楽しみであった。しかし、交番に勤務して1カ月程が経ったころ、自分が思い描いていたものとはまるで違うと感じ始めていた。
道が分からない者に対しての案内、落とし物の受付、酔っぱらいの対応など、ただ地味な仕事ばかり。パトロールをしても、行く先々で何か事件が起きるわけでもない。
刑事になるまでの過程だとは分かっているつもりだ。しかし、鬱屈した気持ちを毎日抱えてしまう。
いつものように目の前の景色をぼーっと眺めていると、自転車のスタンドをかける音が聞こえた。
-帰ってきたな。
そう思うと同時に、ワイシャツの首部分を濡らした男が息を切らしながら入ってきた。
「いやー、熱いな。宮本、何かあったか」
「いえ、四谷先輩。誰も来ませんよ」
「そうか。じゃあ、今日も平和ってわけだな!」
タオルで顔を拭きながら、
-むしろ、何かないと暇でしょうがないんだけどな。
宮本は心の中で愚痴をこぼした。
初めて会った時から和也に対して、明るくて優しい人という印象を抱き続けている。
身長は高く、肩幅が広くて分厚い胸板の体格に加え、厳つい顔で話しかけづらそうな見た目だった。しかし、そんな見た目とは裏腹に、誰に対しても笑顔で明るい声で話す。
酔っぱらいの対応をしている時、罵声を浴びせられても笑顔でいる。交番に戻ったら、愚痴でもこぼすのかと思ったが、“誰にでも、あんなに飲みたくなる時もあるだろ”と言っていた。顔を殴られたのに、どうして怒らない。宮本は愚痴をこぼしたくてしょうがなかったが、こらえることにした。
そんな和也は、地域住民からよく慕われている。宮本が一人でパトロールに行く際、近所の人からよく声をかけられることがある。
「この間の件、ありがとうねって四谷さんに伝えてくれる?重い荷物をうちまで運んでくれて助かったのよ」
-なんで、俺がそんなこと。
「分かりました」
笑顔で話す老婆に心の中で文句を言いながら、宮本は笑顔で返事をした。
どうしてこんなに人に優しくいられるのか。宮本は怒りっぽくて、せっかちな性格であることを自覚している。酔っぱらいに対して文句を言いたくなるし、早く刑事になれないことに苛立っている。
そんな性格である宮本はいつも疑問に抱いていたし、苛ついてもいた。しかし、それと同時に尊敬の気持ちを抱いていた。
-こんな人になれたらいいな。
そう思うものの、やはり無理があると思うのが常である。
午後9時。辺りはすでに真っ暗で、人や車がほとんど通らない。
「今日も何も起きなくてよかったな」
「そうですね」
宮本は適当に返事をする。宮本と和也は机に座り、報告書を書いている最中だった。その日の出来事を記し、署に報告するためのいつもの業務である。
「そういえば、愛子さんとはどうなんだ。もう付き合ってるのか?」
「そうですけど」
「結婚したい気はあるのか。だったら、早めのほうがいいぞ」
「人の恋愛事情よりも、日記を終わらせましょう」
宮本は恥ずかしくなり、無理矢理会話を打ち切る。向かいの机でニヤニヤと笑っている和也の顔を見て、苛立つ。
その時、チーンと受付のベルが鳴る音が聞こえた。宮本と和也が駆け寄る。和也がいつもの笑顔で尋ねる。受付に来ていた女性は、慌てているように息を切らしている。
「ああ、
知り合いなのか、宮本は気になったが、そんな場合ではないと考え直す。
「四谷さん!私の家の向かいから、女性の悲鳴が聞こえたんです!」
「どこの家ですか」
ただごとではないと察したのか、和也の顔つきが一瞬で真剣な表情に変わった。
「杉浦っていう人の家で」
「杉浦。会ったことがないですね。それは、何分前のことですか」
「ここに来るまで10分くらいかかったから、それ以上です。
「行ってみないと分かりません。警察に電話はしなかったのですか」
「考えたんですけど、四谷さんにまず相談した方がいいかなって」
「そうですか。お話、ありがとうございます」
和也は受話器を持ち、電話口に向かって話し始める。一分くらい経ってから、宮本の方に向き、指示を出す。
「宮本、様子を見に行くぞ」
宮本は大きな声で返事をし、和也の後に付いていく。宮本は緊張し始める。
-ようやく、大きな事件が目の前にやってきた。
地味な仕事ばかりで、つまらなかった日々に刺激を与えるような出来事。警察官としてふさわしくない気持ちであると自覚しているが、この心躍る気持ちは抑えられなかった。
「これはどういうことだ」
和也は目の前の光景にただ立ち尽くしている。隣に立つ宮本も同じだった。
“杉浦”と表札が掛かっている家が、燃えているのだ。家全体はもちろん、
二階建ての一階にある窓ガラスから内部に赤い火が燃え広がっているのが見える。
燃えている家の前に群がっている群衆に向かって、宮本は呼び掛ける。
「危ないから、下がってください!」
必死に呼びかけるも、群衆は動く気配を見せない。群衆の中に、カメラを持った男性を見つけ、宮本は怒りの感情を抱く。
「あんた、何撮ってんだ」
「宮本!」
拳を作った宮本の腕を、和也が掴んだ。宮本は気持ちを押さえ、腕を下ろす。すると、和也は群衆の方を向いた。
「消防隊に連絡された方はいらっしゃいますか!?まだなら、誰か連絡していただけないでしょうか!」
「さっき電話してきたよ」
「俺も!」
「ありがとうございます!」
和也は群衆に向かって、感謝を伝えた。
「中から、誰か出てきたのを見た方はいませんか」
和也が呼びかけるも、誰も返事を返さない。静寂が包まれ始めた空気の中、和也が後ろに振り返った。
「中にまだ人がいるはずだ。助けないと」
宮本は慌てて前に立つ。
「先輩。消防隊が来るのを待ちましょう。警察官はここで住民を近づけないように見るだけでいいんですよ」
ゆっくりと家の方へ歩き出す和也を宮本は制する。しかし、和也は宮本に視線を向けることはしない。宮本は和也の腕を強引に引っ張った。
「四谷先輩!危険です!」
「このまま放っておけるか!」
和也に振りほどかれ、宮本はしりもちをついた。和也はそのまま、中へと入っていってしまった。
「先輩!」
俺も駆けつけないと、そう思ったものの身体が動かなかった。さっきまで、意気揚々と現場に駆け付けたのに。目の前の光景を見てから、恐怖でいっぱいになった。火の中に飛び込んで人を助けるなんて、自分にはできない。
-俺に何ができる。
臆病な自分にできることは何だ。考えた先にたどり着いたのは、群衆が近づかないように大声で注意を促し続けることだけだった。
和也が家に入ってから、どのくらい経ったのか分からない。消防車のサイレンが未だに聞こえてこない。宮本は心配でしょうがなかった。
家の玄関に視線を固定し続けていると、中から和也が出てきた。成人くらいの男性を右肩に抱え、左腕には小さな子供二人を抱えながら、ゆっくりと近づいてきた。
「先輩!」
「宮本!この人とこの子を頼む!」
息を切らしながら、和也が二人を地面に横たわらせる。
宮本は安否を確認するため、口元に耳を近づける。二人の男の子と男性は目を閉じたままだが、小さく呼吸をしている音が聞こえた。
「先輩!無事です」
「そうか。子供と旦那さんだけじゃない。悲鳴を上げていたという女性がまだ中にい
るはずだ」
「もうやめましょうよ!危険すぎます!」
宮本が必死に制するも、和也はそのまま再び中に入って行ってしまった。
-どうして、そこまでできるんだ。
火の海と化している家に入っていく和也の背中を見ながら、宮本は苛立ちを感じ始めた。
-人のためにそこまでするなんて、どうかしてる。
和也が再び中に入ってから、すぐに消防車が到着した。消防士が何人かやってきて、火消しの準備をしている。
消防隊が大きいホースを持つと、ホースから大量の水が出始める。大量の水と燃え盛る火がぶつかりあっている光景を見ながら、宮本は焦りを感じていた。
「なんで、出てこないんだ」
再び中に入ってから、どのくらい経ったのかは分からない。中で倒れてしまっているのではないかと不安が襲ってくる。
「早く出て来いよ」
火が弱まっていくものの、家の中から誰も出てこない。
やがて火が鎮火した。しかし、それでも中から和也が出てくることはなかった。
救出された二人の男の子と男性は無事だった。しかし、救出に行った和也は亡くなった。さらに、和也が命懸けで救出した男性は父親ではなかった。
半分以上焼けた家から発見された男性と女性の遺体は、杉浦夫妻であった。救出さ
れた男は、杉浦夫婦を殺害した後、火を放った殺人犯であった。
病院で目を覚ました殺人犯の男は、こう供述したという。
「幸せそうな家庭を壊したかった。不幸で何も良いことがなくて、ずっと死にたかった。でも死ぬ前に、そんな家庭を、誰でもいいから道ずれにしてやろうと思ったからやった。ただ、あそこで死ねなかったのが残念だった」
22歳の青年が起こした凶行。この事件は、連日マスコミで騒がれることとなった。
事件の翌日。宮本は遺体安置所で眠る遺体の前でただ立ち尽くしていた。部屋の壁は灰色で、上から照らす白い光が異様な雰囲気を醸し出している。白い布で全身を被せられている遺体と遺体の後ろにある仏壇がさらに強調している。
初めて見る光景。宮本はこの空間にいたくないという気持ちに駆られるが、出ようという意志がなかった。
尊敬していた先輩の死。すでに死んでいるが、なるべくそばにいたい。
布をめくり、顔を見たかったが、近くにいる警察官に警告を促された。この先、後悔するだろうからやめておけと。
後ろからドアが開かれる。そこには、和也の妻と幼い男の子の姿があった。会ったことはないが、写真では見たことがあった。
和也は暇になると、自分の机の上に飾ってある写真立てを眺めながら、家族の話をしてきた。
和也と若い女性、まだ5歳にも満たないであろう少年が写っている。父と母の間でピースをする息子。公園を背景に、3人とも笑顔を浮かべている。なんとも幸せそうな家族だなと見て分かる。実際に、家族の話をしている和也も嬉しそうに話していた。
宮本の後ろに立っている和也の妻と息子は、写真とは違う表情を浮かべている。信じられないとでもいうように、目を見開き、口を半開きにしている。ゆっくりとした足取りで、和也の傍に近づいていく。
和也の遺体にそっと触れると、そのまま崩れ落ちた。慟哭を上げる妻の悲痛な叫びが部屋中に響き渡る。そんな彼女に向かって、宮本は頭を深く下げた。
息子の俊は、ただ無表情のまま父親を見つめていた。
* * *
目の前に広がる雑木林。雑木林の中を、
舗装がされていない石だらけの道のせいで、車が小さく揺れ続ける。揺れる度に、後ろに積んでいる何枚かの木板が互いを打ち付け合う音が聞こえる。
雑木林を抜けると、家が見えてきた。コンクリートでできた2階建ての家。一人で住むにはもったいないくらいの大きさである。
普段住んでいる家ではない。金持ちだった父方の祖父が遺した別荘。いつのまにか自分のものになっていた。
一生使うことはないと思っていたが、実験の場としてはうってつけだった。耐火性に優れたコンクリートのおかげで、室内で棺桶を燃やしても火が広がりにくい。外でやればいいのではと考えていたが、誰かに見つかる可能性があると思い、その考えは捨てていた。
車から降り、後ろに積んでいた木板を抱えながら家に入る。リビングに入り、電気を点ける。リビングの入り口に立てかけるように置き、肩に下げた鞄を机の上に置く。
鞄から一通の封筒を取り出し、封を開ける。封筒は“富樫探偵事務所”からのもので、3回目の依頼であった。中から何枚かの写真と左上にホッチキスで留められた二枚つづりの資料を取り出す。
資料を読もうとした時、ズボンのポケットに収まっているスマホが振動したのを感じた。誠はスマホを取り出し、画面を見る。
“今日、会えない?”
2カ月前に知り合った女からだった。誠はLINEを開き、メッセージを打ち始める。
“ごめん、これから仕事”
誠はメッセージを送り、スマホの電源を落とした。
「さてと、早速読もうかな」
誠は封筒から取り出した資料を手に取り、ある写真を眺める。写真を眺めながら、誠は笑みを浮かべる。
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