第7章 契約結婚 ──安寿の長い一日 第1節
季節はいやおうなくめぐる。今年の春もまた桜が咲きほこり、やがて散っていく。登校途中の安寿は自分の足元を見て思った。地に落ちた桜の花びらはいったいどこに行くのだろう。あんなにたくさん降りつもっていたのに、すべていつのまにか消えてしまう。
この春、安寿は高校三年生になった。不安ではちきれそうな心を抱えてこの高校の門を初めて通ったのは、つい昨日のようだ。
「安寿ちゃん、おはよう!」
弾んだ明るい声に安寿が振り返ると、莉子が笑顔で寄って来た。
「先週はありがとね。パパとママったら、安寿ちゃんのこと、ものすごく気に入っちゃって、また泊まりに来てもらいなさいって。兄貴たちも、……まあ、そっちは、ほっといていいから」
春休みに、安寿は莉子の家に泊まりに行った。莉子の家は誰もが知る老舗和菓子店を営んでいる。繁盛する店の奥に、落ち着きのある美しい日本家屋が建てられていた。莉子が生まれ育った家だ。初対面の莉子の家族にあいさつした安寿は、大歓迎されて楽しい一晩を過ごした。莉子の父が目の前でかたどった美しい菜の花やクローバーの上生菓子をいただいて、莉子の祖母と母と一緒に夕食をつくった。それから独特の良い香りがする檜風呂に莉子と一緒に入り、鯉が泳ぐ池がある中庭に面している莉子の部屋で、莉子と布団を並べて夜遅くまでおしゃべりをした。まるで高級温泉旅館に一泊したかのようだった。帰り際に莉子の両親に頭を下げられて、安寿は大変恐縮してしまった。小さい頃から莉子は親しい友だちがいなかったからとても嬉しい、莉子の友だちになってくれてありがとうと莉子の両親は言ってくれた。それから、莉子の社会人と大学生の二人の兄たちから携帯の番号を訊かれたが、それは彼らの妹によって即座に阻止された。
安寿の高校は美術大学の付属高校で、毎年、三年生の約七割が内部進学する。あとの三割は受験をして他大学に進学するが、海外のアート・スクールへの進学を選択する生徒も少なくない。安寿は高校に入学した当初から内部進学を希望していた。安寿は学科の成績も良好なので、特に問題なく内部進学できるだろう。もちろん、叔母の恵も安寿の選択を尊重し応援している。
だが、今年に入ってからずっと、安寿には気がかりなことがあった。あきらかに恵の元気がないのだ。朝、目を腫らして起きてくることがよくあって、何かあったのかと尋ねても、なんでもない、大丈夫と一点張りで通す。几帳面で何事にも慎重な恵が、包丁で指を切ってしまったり、アイロンをかけていてやけどをしてしまったり、何か話しかけてもうわの空だったりと様子がおかしい。
安寿にはその心当たりがあった。昨年の年末に恵の長年の恋人の渡辺優仁の父が亡くなった。渡辺の実家は、北海道で農業法人を営んでいる。葬儀に参列するそぶりを見せない恵に、行かなくてもいいのかと安寿は尋ねたが、恵は「結婚するつもりがない女がうかがっても、ご迷惑なだけでしょう」と無表情に言っていたことを思い出す。
恵と渡辺の間に何かあったのかもしれない。安寿は恵が心配で仕方がない。愛する叔母の幸せを心から願っているのに、自分がその幸せの邪魔をしているのだという思いがどうしてもわいてきて胸が苦しくなる。
安寿は相変わらず毎週土曜日に岸のアトリエに行き、モデルのアルバイトをしている。この一年間に何回か自分がモデルになった素描画が売れたという話を華鶴から聞いていた。だが、安寿はその詳細までは聞いていない。
また、昨年の春に航志朗から言われた「自分で自分自身を守る」ことを、はたして自分ができているのかどうか確信が持てない。画家の自分を見つめる穏やかな優しい琥珀色の瞳を見ると、どうしても吸い込まれるように見返してしまう。それでもなんとか自分の今描いている絵のことを考えながら心をずらし、意図的に視線を落とすか遠くを見るように心がけてはいるが、それが航志朗の言う自分自身を守ることになっているのかわからない。
ますます華鶴は安寿のことを可愛がっていて、自分の仕事先にまで安寿を同伴している。招待客しか入れないプライベートな展覧会や音楽会、はたまた画壇のパーティーにまでも。華鶴に見立てて買ってもらった上品なワンピースを着て、安寿は上流社会に属する華鶴の世界を垣間見る。あるパーティーで、華鶴とは旧知の仲である清華美術大学付属高校の校長にばったり会った時があった。あわてふためく安寿をよそに、華鶴は安寿のことを校長に「身内だ」と話した。校長は喜んで華鶴に高校での安寿の優等生ぶりを語った。
実の母や叔母とはまったく違うタイプの女性だが、画廊を実質一人で経営して、聡明で美しく優しい華鶴を安寿は慕い、あこがれを持つようになっていた。ただ、いまだに安寿に高価な品を次々と買い与えようとするのには、ほとほと困り果てている。
一方、航志朗は忙しく世界中を飛び回っていた。シンガポールでアン・リーのベンチャーキャピタルのCOOとして精力的に仕事をこなしながら、合間を縫ってイギリスの大学院に通い、アート・マネジメントの博士学位を取得しようとしている。安寿を彼女の高校まで送ってから十か月の間に航志朗は二回帰国し、華鶴から岸の素描画を受け取っていた。結局二回とも安寿に会いに行く機会はなかったが、安寿が描かれた絵と共に過ごすひとときに航志朗は安らぎを得ていた。その絵のなかの安寿は、
(天使から仏か。画家はどこに向かっているんだ)
顧客たちに絵を手渡すたびに航志朗は胸に激しい痛みを覚えた。そして、今すぐ安寿に会いたいと心の底から狂おしく思った。空港で東京行きの便を見かけると何度乗り換えたいと思ったことか。航志朗は空を見上げて、安寿のことを想う。
(彼女は、今、どうしているのだろう)
安寿は十八歳の誕生日を迎えていた。その日は土曜日で、咲が安寿のためにイチゴと生クリームのデコレーションケーキを二台も焼いてくれた。一台は岸家の午後のお茶の時間のためのケーキで、もう一台はご自宅で叔母さまと召し上がれと咲は優しく目を細めて言ってくれた。岸と華鶴、伊藤夫妻に祝福され、それぞれから誕生日プレゼントまでもらってしまった安寿だったが、浮かない顔をしているのを華鶴は見逃さなかった。
「ええっ、恵ちゃん、優仁さんと別れるって、本当なの!」
先週、安寿はその恵の決心を聞いて気が動転していた。渡辺は四月いっぱいで出版社を退職し、実家の農業法人を継ぐために北海道に行くことになったというのだ。
それを聞いた安寿は恵に言いづらそうに尋ねた。
「恵ちゃん、……優仁さんと結婚しないの?」
「うん。実は、今年の一月に、優ちゃんに結婚して一緒に北海道に行こうって言われたけれど、結婚なんてできるわけないでしょ。安寿を一人でここに置いて行くわけにはいかないし、だって、私、来年には四十歳になるのよ。優ちゃんは私なんかじゃなくて、もっと若い
(やっぱり、私は恵ちゃんの幸せの邪魔をしているんだ。ママが死んじゃってから、私を育てるために恵ちゃんはずっと自分を犠牲にしてきた。私は早く大人にならなくちゃ。大人になって、一人で立たなくちゃ。恵ちゃんの幸せのために、今、私がなんとかしなくちゃ!)。安寿はこぶしを握りしめた。強く、固く。
岸家の午後のティータイムが終わった。咲の手作りバースデーケーキはありがたかったが、今の安寿にはその甘い味さえおいしく感じない。華鶴はそんな安寿をさりげなく自室に誘った。華鶴の部屋に入るのは初めてだ。華鶴らしい瀟洒な調度品が並ぶ美しい部屋だった。だが、安寿にはそれらを目に入れる余裕はまったくない。
(私が、今、頼れるのは華鶴さんだけだ。華鶴さんにお願いするしかない)と安寿は思いつめて華鶴の後ろ姿を見つめた。
華鶴はエレガントな刺繍がほどこされてあるレースの白いカバーが敷いてあるベッドに腰掛けて、先程からずっと押し黙ってうつむいた安寿を自分の隣に座らせてから尋ねた。
「安寿さん。あなた、なんだか最近元気がないようね。私、あなたが心配なのよ。もしよかったら、私に話してくれない? 私は安寿さんの味方よ」
華鶴は優しく安寿の手に自分の手をそっと重ねた。その手は冷たい。安寿は意を決して顔を上げた。
(私は一人で立つの! 恵ちゃんのために!)
「華鶴さん、あの、お願いがあります。私を……、私をこの家の住み込みの使用人として雇っていただけないでしょうか?」
「えっ? 安寿さん、なんですって?」
華鶴は目を見開いて驚いた。安寿はこれまでの経緯を詳しく説明した。華鶴は口に手を当てて、しばらく沈黙した。安寿はベッドから降りて真っ赤なカーペットの上に正座して頭を下げた。
「華鶴さん、なんでもしますからお願いします! 来年の三月まででいいんです。お願いします!」。安寿は華鶴に懇願した。華鶴はため息をつき、安寿をまた自分の隣に座らせて、今度は安寿の肩を優しく抱いた。
「安寿さん、わかったわ。でも、可愛いあなたに使用人なんてさせられないわ」
安寿は自分の無力感に打ちのめされて、がっくりとうなだれた。
(やっぱり断られた。私は自分で嫌になるほど子どもだし、本当に何もできないから。私は華鶴さんになんて非常識なことを言ってしまったんだろう)
しかし、華鶴はそんな安寿に優しく微笑んで言った。
「ねぇ、安寿さん。……私の養女にならない?」
岸家を出ると外は薄暗くなっていた。安寿は咲がつくったバースデーケーキが入った箱を膝にのせて岸家の車の後部座席に座っている。安寿はひとことも話さずにその顔色は青白い。助手席に座っている伊藤はそっと安寿の顔をうかがい、眉間にしわを寄せた。安寿の送り迎えを始めてから、もうすぐ二年になる。いつの間にか伊藤にとって土曜日は心楽しい日になっていた。それは、伊藤にとってはまったくの想定外だった。まさかこんな日々がやって来るとは思ってもみなかった。伊藤の妻の咲も同じ気持ちだ。土曜日が近づくと安寿にどんな昼食やおやつを用意しようかと、咲は心を弾ませながら考えている。伊藤はこれから起こりうる出来事に思いをめぐらせた。そして、この真珠のように清純な少女に自分は何ができるのか目を閉じて考えた。
午前零時すぎ、シンガポールのコンドミニアムの真っ暗な部屋で、デスクライトだけをつけてノートパソコンのキーボードをせわしなく叩き、航志朗は博士論文のためのリサーチ・プロジェクトの成果をまとめていた。航志朗はイギリスの大学卒業後、二つの修士号を取得し、現在は博士課程に在籍して二年目である。先週の大学院の指導教官との面談で今後のスケジュールを相談してきたばかりだ。大学院の講義はほとんどないので、シンガポールでの多忙な仕事と両立できている。博士号を航志朗は最短の三年間で取得することを目標としている。そのため、オフィスから帰宅後は睡眠時間を削って研究に当てていた。そんな時、航志朗のかたわらに置いてあるスマートフォンが鳴った。着信画面を見て、航志朗は顔をしかめた。
それは華鶴からだった。航志朗はスマートフォンを無視してしばらく着信音を鳴りっぱなしにしておいたが、なかなか鳴り止まない。航志朗は手を止めて息を音を立てて吐き、いら立ちながらスマートフォンをタップした。
「……はい」
『今、話せるかしら? それとも、いい
その母の品のない低俗な言葉に、航志朗は心底うんざりした。
「あなたが直接電話してくるとは、珍しいですね。お察しの通り、取り込み中なので、手短かにお願いしたいのですが」
華鶴はくすりと艶っぽく笑って言った。
『あなたに、可愛い妹ができるわよ』
「は?」
『宗嗣さんのモデルを養女に迎えるの』
(……どういうことだ?)
突然の告知に航志朗は混乱した。まったくわけがわからない。
『で、家族会議が必要でしょ? ちょうど今週末から宗嗣さんの個展が始まるし、あなた、画廊に顔出しなさいよ』と華鶴は言って、一方的に電話は切れた。
この一週間、安寿は考えに考えていた。考えすぎて頭が痛くなるほどだった。授業もうわの空で莉子に心配された。「安寿ちゃん。もしかして好きなひとでもできた?」と莉子に言われた。そんなことだったら、どんなにか楽でよかっただろう。華鶴には「すぐに返事ができることではないから、ゆっくり考えてね」と言われたが、時間の猶予はないのだ。安寿は夜も眠れずにベッドの中で、「養女」という二文字について考えた。(私が岸先生と華鶴さんの娘になるの? あのお屋敷に一緒に住むの?)。それがどういうことになるのか、安寿にはまったく想像ができない。でも、安寿は十八歳になった。もう大人だ。親の同意を得なくても、自分の意志で自分のことを決めることができる。唯一の肉親である叔母の同意がなくても、安寿が決断すれば、「養女」になれる。
(でも、いいの? 本当にいいの?)
恵は安寿の前では平静を装い、いつものように出版社に出社して午後九時頃に帰宅する。恵はすでに心に決めていた。長い間付き合ってきた渡辺と今度こそきっぱり別れることを。
恵と渡辺との出会いは、ふたりが中学生の時にさかのぼる。中学時代の二年間と四か月、ふたりは同じクラスだった。さらに同じ美術部でともに絵を描き、親しく話すようになった。渡辺は文武両道の優秀な生徒で、成績は常にトップであった。恵も成績がよかったが、それは渡辺のおかげだった。渡辺を見習ってよく勉強したし、理解できないところは渡辺に教えてもらっていたのだ。休日には、一歳年上の姉の愛をともなって渡辺と三人でよく美術館に通った。愛は気を利かせて、さりげなく渡辺と二人きりにしてくれた。だが、中学三年生の夏に渡辺の父親の転勤で、渡辺は家族でドイツに渡ることになった。渡辺がドイツに出発する日の前日、ふたりは互いを想い合っていることを確認した。そして、その日の夕暮れ、恵と渡辺は初めてのキスをした。それからふたりは文通をして、渡辺が一時帰国した際は必ず会っていた。高校卒業後、大学進学のために渡辺は単身帰国し、恵と渡辺は同じ大学に進学した。ふたりはまた毎日会えるようになった。そして、恵が大学三年生の春に安寿が生まれた。姉の愛は未婚で出産し、両親と愛と恵姉妹、安寿で五人家族になった。またその頃、銀行員をしていた渡辺の父はドイツで有機農業に出会い、帰国後、故郷の北海道で農業法人を設立した。大学卒業後、ふたりは同じ美術舎出版に就職した。渡辺は編集者として頭角を現し、社内では史上最年少で美術月刊誌の編集長に抜擢された。恵と渡辺は順調に交際を続けていたが、結婚を意識しはじめた二十六歳の時、安寿の母である姉の愛が、突然の事故で亡くなった。数年後、後を追うように両親も亡くなり、恵は幼い安寿を一人で育てる決心をした。
この一週間、恵は無口になっていて、思いつめた表情で何かを考え込んでいる様子だった。安寿はそんな叔母のただならない様子が心配でたまらなかった。
土曜日の朝、岸の個展が開催されているためにモデルのアルバイトが休みになっていた安寿は、いつもより遅い午前八時半すぎに起きて自室から出てきた。昨晩もよく眠れなかった。パジャマのままの安寿は、恵が家じゅうをすみからすみまで大掃除していることに気がついて驚いた。私物の整理もしているらしく、ぱんぱんにふくらんだごみ袋が並んでいた。恵はすっきりした顔で、「安寿、おはよう。今日は遅かったのね」と言い、「朝ごはん、トーストと目玉焼きでいい?」といつもの叔母になっていた。遅い朝食後、温かいミルクティーを淹れてふたりで飲んでいると、突然、恵は軽い口調で言った。
「安寿、今夜、私、外泊して来てもいいかな。もう一人でも大丈夫だよね?」
そんなことを恵が言うのは初めてだ。はじめ安寿はほっとして嬉しく思った。きっと渡辺と仲よく二人で素敵な夜を過ごすのだろう。だが、次に恵が言った言葉に、安寿は仰天した。
「私ね、今夜で優ちゃんと別れることにしたの」。恵は晴れ晴れとした笑顔で言った。
思わず安寿は叫んだ。「どうして? 恵ちゃん、優仁さんのこと、ずっとずっと大好きなんでしょ!」
「もう決めたのよ」と恵は微笑んで言って席を立ち、朝食の食器の後片づけをし始めた。
安寿は自室に戻り固く決心した。「私は岸家の養女になって、恵ちゃんに結婚してもらう」と。養女になることで何が起ころうとも、私は一人で大丈夫。そう、私は、今日、大人になるんだ。安寿は必死の想いで覚悟を決めた。そうと決まったら、画廊にいる華鶴に養女になると言いに行かなければならない。今夜、恵が渡辺に別れを告げる前に。安寿は急いでベージュのコットンタイプライターのワンピースに着替えて身支度をした。そして、腕まくりをして熱心に浴室の床掃除をしている恵に言った。
「恵ちゃん、私、これから画材屋さんに行ってくる。足りない油絵具があるの。それから本屋さんにも行くつもり。お昼ごはんは外で食べてくるね」と安寿は努めて普段どおりに声をかけた。
恵は、安寿の普段と違う様子にまったく気づかない。「そうなの? 私は、午後五時ごろ出かけるわね。戸締りを確認したいから、私が出かける前には必ず帰って来てね。あと夜ごはんにシチューでもつくっておくわ」と顔を上げて言って、また浴室の床を磨きはじめた。
「わかった。恵ちゃん、ありがとう。いってきます」
安寿は黒いレースアップシューズを履いて、皮靴の紐を固く縛った。そして玄関のドアを静かに閉めるやいなや、一目散に駆け出した。安寿は地下鉄の駅に向かって、息せき切って走って行った。
その頃、航志朗は急遽帰国し、東京のマンションに戻って来ていた。おとといの深夜に母から不可解な電話があった後、すぐに無理やりスケジュールを調整した。月曜日の朝にはシンガポールに戻らなければならない。航志朗は安寿のことを心底心配していた。母が安寿を巻き込んで何かを企んでいるのに違いないと航志朗は考えた。
(養女に迎えるって、彼女も彼女の家族も承知するわけがないだろう……)
航志朗はシャワーを浴びてから、ダークグレーのスーツに着替えた。ネクタイは締めずに首にかけたままで航志朗は考えた。画廊には個展に招待された顧客が大勢やって来るだろう。当然、彼らとの表面的な付き合いは免れない。それがどんなに退屈だとしてもだ。
道は空いてはいたが、その途中で航志朗は事故車を見た。二台のパトカーの間に、ボンネットが破損しフロントガラスにひどいひびが入った白いセダンが見えた。遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。航志朗は嫌な予感がして顔をしかめた。
車は二十分ほどで銀座に到着し、航志朗は銀座の裏通りにある黒川画廊にほど近い駐車場に車を停めた。航志朗は運転席に座ったまま、しばらく目をつむって休んだ。そして、一回深いため息をついてから、車の中でネクタイを締めて駐車場を出た。
その時、突然、駐車場に面した裏通りを駆け抜けていく少女の姿が、航志朗の目に飛び込んで来た。その瞬間、航志朗と彼女が存在している空間が、水晶のように透き通ったかたまりのなかに閉じ込められた。
ふたりを取り囲む空間の時間が止まった。
それは、まぎれもなく安寿だった。安寿はベージュのワンピースをひるがえして、走って行く。航志朗はあわててそのあとを追い、大声でその愛しい名前を呼んだ。
「安寿さん!」
安寿はとてもあせっていた。とにかく一刻も早く画廊に行って華鶴に会わなければならない。そして、養女になると伝えなければ。その時、突然、自分の名前を呼ぶ聞き覚えのある声を聞き、安寿は反射的に振り返った。そして、その拍子に道路の縁石に左足を引っかけて安寿は転倒した。
最初に驚いたのは、航志朗の方だった。航志朗の目の前で安寿が倒れ落ちた。航志朗は急いで安寿のもとに駆け寄り、その身体を抱き起こした。
「大丈夫か!」
航志朗は大声で叫んだ。航志朗の顔は血の気が引いている。自分のせいだ。自分が不用意に安寿に声をかけたせいだ。
安寿は、突然、自分を襲った出来事に呆然となっていた。安寿はまず航志朗に抱きかかえられていることをぼんやりと意識した。服を通してでもわかる航志朗の大きくて冷たい手を感じる。そして、航志朗の厚い胸板も。その胸の鼓動は激しく打っている。そして、(このひとは、いつも、私の前に突然現れる……)と安寿は思った。それから、至近距離で航志朗の琥珀色の瞳がまっすぐに自分を見つめていることに気づいた。(このひとの瞳は、なんて透き通っているんだろう。……怖いくらいに)と安寿は航志朗の瞳を見つめ返して思った。
航志朗は自分を見つめる安寿の視線に危うくとらわれそうになったが、(今はそれどころじゃないだろ……)と理性を無理やり引きずり出して、安寿に謝罪した。
「すまない。俺が悪かった。安寿さん、立てるか?」と言う航志朗の声に、安寿は我に返った。またたく間に羞恥心がわき起こり、あわてて航志朗から離れた。安寿の頬は真っ赤に染まった。「岸さん、あ、あの、大丈夫です! 立てます!」と言って安寿は立とうとしたが、その時、左足首に激痛が走った。安寿は声を出さずに痛みに耐えた。その様子を見てすぐに航志朗は、安寿の左足を自分の膝にのせてから、注意深く左の靴と靴下を脱がせた。安寿の左足首は明らかに内出血をしていて、ところどころ赤紫色に腫れている。また、レギンスに開いた穴からむき出した膝頭はすりむいていて、血がしたたっている。航志朗はあせった。(ひどいけがだ。とにかく早く医者に連れて行かないと)。航志朗はすぐにスマートフォンをスーツの胸ポケットから取り出し、病院を検索しようとした。
その時、場違いなほど甲高く穏やかな声が、安寿と航志朗にかけられた。
「あの、どうなさいましたか?」。そこには、赤い丸眼鏡をかけて、えんじ色のクラシカルなスーツを着た小柄な老婦人が立っていて、心配そうにふたりをのぞき込んでいた。
「あっ、
航志朗はそれを聞いて思い出した。
(……三枝? ああ、三枝洋服店の社長の母親か。どこかで会ったことがあると思った)
老婦人は「あら、岸家の安寿お嬢さまじゃありませんか。まあ、大変だわ! 早くお医者さまに行かないと!」と大声で言い、それから、航志朗の顔を見て気づいた。「あら、こちらは、航志朗お坊っちゃん? ずいぶんとご立派になられて」。航志朗は会釈してから、老婦人に尋ねた。
「三枝さん。このあたりで彼女を診ていただける病院をご存知ないでしょうか?」
「ええ、そうねえ、山田先生のところがいいんじゃないかしら」
「山田先生、ですか?」。航志朗にとって、初めて聞く名前だった。
「山田整形外科医院よ。あそこの角を曲がってすぐそこよ。あらっ、今、何時かしら?」。老婦人はハンドバッグからスマートフォンを取り出して見た。そのスマートフォンは、カラフルなクリスタルガラスでデコレーションされていてきらきらと輝いている。「あらあら、もうすぐお昼だわ。山田先生のところ、土曜日は正午までなの。電話して開けておいてもらいましょう」と言い、慣れた様子でスマートフォンを操作して電話をかけた。
安寿は、今現在の時間が正午と聞いて驚いた。(もうそんな時間なの? 早く画廊に行かなくちゃ!)。安寿はあせった。でも、左足がずきずきしてものすごく痛い。安寿は下を向いて泣きそうになるが、必死に我慢した。
「安寿さん、医者に行くぞ!」と言って、航志朗は安寿の前にさっと腰を下ろして背中を向けた。顔を上げた安寿は思わずどきっとした。
(えっ! 背中に乗れってこと?)
躊躇する安寿に、航志朗は強くうながした。
「歩けないだろ? 早く診てもらった方がいい」
「でも……。上等なスーツが汚れてしまうし、しわになってしまいます」。安寿はなんとかして回避しようとした。
そんなふたりのやり取りを見守っていた老婦人が見かねて口を挟んだ。
「安寿お嬢さま。お洋服は汚れたり、しわになるものなんです。ちゃんと着て使っているっていう証拠です。きっとお洋服だって新品のきれいなままでいるより嬉しいはずですよ。それに航志朗お坊っちゃんにおんぶしてもらえるなんて、うらやましいわ。私に代わってもらいたいくらいですよ。さ、お医者さまに行きましょうね」
それは妙に説得力のある言葉だった。安寿は老婦人にうなずいた。
安寿はおずおずと航志朗の背中に身を寄せた。そして安寿は航志朗にぐっと両腕で力強く引き寄せられて、あっという間に背負われた。声には出さなかったが、心のなかでは悲鳴をあげた。医院までお供するという老婦人を丁重に断って礼を言い、航志朗は安寿を背負って歩き出した。
老婦人は、安寿と航志朗を見送りながら思った。
(あのおふたり、もしかしてご婚約中かしら? ふふ、とてもお似合いだこと)
航志朗に背負われた安寿は、断続的に続く左足首と膝の痛みを他人事のように感じていた。それよりも胸がどきどきして頬が熱くてたまらない。航志朗はスマートフォンで医院の情報を見ながら歩いていた。
たまらず安寿は航志朗に話しかけた。
「あの、岸さん、重くないですか?」
航志朗は安寿をちらっと見て、冗談半分に言った。「ああ、重いな」。その言葉に安寿はさらに拍車をかけて恥ずかしくなり、居ても立ってもいられずに早く降ろしてほしいと思ったが、今はどうしようもない。航志朗は安寿を背負い直して、「もっとしっかり俺につかまってくれないか。その方が俺は楽だ」と頼んだ。安寿は「はい。すいません」と言って、言われた通り航志朗の首に回した腕に力を込めた。強くしがみつかれた航志朗は背中に安寿の胸のふくらみを感じてしまい、思わず顔を赤らめた。
(俺は、彼女に大けがさせておいて、内心、喜んでいるみたいじゃないか)
安寿と航志朗は、五分ほどで山田ビルの前に着いた。六階建ての新しいビルのフロア案内板には、山田がつく店舗名が並んでいる。その一階が山田整形外科医院だ。医院の自動ドアが開くと白髪交じりで小太りの山田医師が待合室の椅子に腰かけて待っていた。
「岸さんですね? さあ、こちらへ。三枝さんからうかがっていますよ。大変でしたね」と山田医師は言って、ふたりを診察室に案内した。航志朗は、安寿を注意深く診察室のベッドの上に降ろした。安寿はすぐに診察を受けてレントゲンを撮った。診断結果は、捻挫だった。山田医師から、三日間以上痛みがとれるまで安静にするようにと言われた。
航志朗は有無を言わさずにまた安寿を背負った。とりあえず駐車してある自分の車に行こうと言ってゆっくり歩き出した。山田医師の診察を受けてから急に安寿は疲れを感じて、はからずもぐったりと航志朗の背中に寄りかかってしまった。目を閉じた安寿は、航志朗の匂いを感じた。
(本当に、このひとは不思議な匂いがする。……いい匂い。ほっとするような)。そして思った。(なんて大きな背中なの。お父さんの背中って、こんな感じなのかな)。安寿はなんだか眠くなってしまった。
駐車場に着くと、航志朗は安寿を慎重に後部座席に座らせた。そして、ここで少し待っていてと言って、航志朗は裏通りに走って出て行った。安寿は時間を調べようと黒革のショルダーバッグを開けたが、携帯を家に忘れてきてしまったことに気づいた。身体を傾けて運転席の前の時計をを見ると、午後一時すぎになっていた。安寿はあせった。(五時までには家に帰らなくちゃ。ゆっくりとしか歩けないから、早めに帰らないと)。やがて、航志朗が大きい紙袋を抱えて戻って来た。「喉が渇いたんじゃないか?」と言って、航志朗はスリーブがついた温かいペーパーカップを安寿に手渡した。
「ほうじ茶だ。けがしているから、カフェインは避けたほうがいいだろう」
「岸さん、いろいろありがとうございます」と頭を下げながら言って、安寿はひと口飲んでひと息ついた。(このひとは、案外優しいひとなのかもしれない)と安寿は思った。
「君の好みがわからないから、いろいろ買ってきた。好きなの選んで」と言って、航志朗は紙袋を安寿に手渡した。ずっしりと重い。開けてみると、キッシュやイングリッシュマフィン、数種類のドーナツ、スコーン、シナモンロールが入っている。焼きたての甘い香りがふわっと漂った。思わず安寿は航志朗を申しわけなさそうに見た。「いいから、遠慮するなよ」と航志朗は軽く微笑んで言った。安寿は「すいません。では、いただきます」と言ってシナモンロールを取り、外側からくるくるとはがしながら食べ始めた。安寿は甘くておいしいと心から思った。
(そうか。彼女、シナモンロールが好きなのか)。おいしそうに食べる安寿を見ながらドリップコーヒーを飲み、航志朗の方はチョコチップ入りのチョコレートドーナツを取ってかじった。それからキッシュとイングリッシュマフィンをふたりは半分に分けて食べた。安寿は少し元気が出てきた。
包帯が巻かれた安寿の足を見て、航志朗は心がひどく痛んだ。(三日間は安静か。俺が当分の間、彼女の学校の送り迎えをするか)。航志朗は自分のスケジュール調整を考え始めた。
そして、ふと航志朗は疑問に思い、安寿に尋ねた。
「そういえば、君は黒川画廊に向かっていたのか? ずいぶん急いでいたけど」
その言葉に安寿は大事な目的を思い出した。安寿はあわてて航志朗に訊いた。
「今、何時ですか?」
「ん? 二時前だけど、どうした?」
「あ、あの、私……」と安寿は言いかけて、まじまじと航志朗を見て気づいた。
(そういえば、このひと、華鶴さんの息子さんだった。私が養女になったら、このひとは私のお兄さんになるんだ。このひとは、私が養女になろうとしていることを知っているの? それに、もし私が養女になったら、どう思うんだろう?)
「あの、私、華鶴さんに早く申しあげたいことがあって……」と安寿は言って、下を向いた。心なしか顔が青ざめている。
航志朗はすぐに、(母が言っていた養女のことか?)と思った。ここで安寿に問うべきなのか判断に迷った。航志朗は華鶴から安寿の個人的なことをまったく知らされていない。
「岸さん、すいません。私、早く画廊に行かなくてはならないんです。ごちそうさまでした」。そう言って安寿は車を降りようとした。航志朗はあわてて言った。「わかった。一緒に行こう」。航志朗は先に車を降りて後部座席のドアを開け、安寿に手を差し伸べて言った。
「また、俺が、君を背負うよ」
だが、画廊まで自分で歩くと安寿が言いはったので、仕方なく航志朗は安寿を自分の左腕につかまらせて一歩ずつ遅々と歩いた。安寿の包帯が巻かれた足はかかとを踏んで革靴からはみ出し、いかにも歩きづらそうだ。きっと左足を踏み出すたびにひどい痛みが走るに違いない。航志朗は何度も安寿にけがの回復に差し障るから自分の背中に乗れと言ったが、安寿は「自分で歩きます」と一点張りだった。
(けっこう、頑なな性格なんだな……)。航志朗は内心ため息をついて思った。安寿の横顔を見ると、安寿は前を見すえて唇をきつく閉じている。それは、何かを固く決意しているかのようだった。
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