第7章 契約結婚 ──安寿の長い一日 第2節

 やっと、安寿と航志朗は画廊の前にたどり着いた。エントランスには華鶴と懇意の顧客たちから寄贈された豪華なフラワーアレンジメントがたくさん飾られている。一瞬、航志朗の脳裏にアンとヴァイオレットのウエディングパーティーの光景が浮かんだ。

 

 受付にいた伊藤が画廊のドアのガラス越しにふたりに気づき、血相を変えて飛び出して来た。


 「安寿さま! いかがなされましたか! 航志朗坊っちゃん、ご帰国されていたのですか!」。伊藤がこんなに取り乱している姿を、安寿も航志朗も初めて見た。


 「安寿さま、オフィスの方で休んでくださいませ! 私が背負いますので、どうぞお乗りください!」と伊藤は大声を張りあげて、すぐさま安寿の前に背を向けてしゃがんだ。

 

 思わず航志朗は苦笑いした。(おいおい、伊藤さん。いくらなんでもそれは無理だろう。歳を考えろよ)


 航志朗は「このビルはエレベーターがないから、ここは俺に背負わせろ」と強く安寿に言い渡した。だが、安寿はまったく聞く耳を持たずに左足を引きずって、ひとりで階段を上り始めた。

 

 (やれやれ、本当に頑固だな……)。すぐさま安寿を後ろから支えて一緒に上りながら半分あきれつつも、航志朗は改めて安寿の意志の強さに感心した。

 

 当の安寿は(皆さまの前で岸さんにおんぶしてもらうなんて、ものすごく恥ずかしくて、とてもじゃないけど無理!)と必死で抵抗していたのだった。

 

 その一時間前から、岸はオフィスでいつものようにハーブティーを淹れて休憩を取っていた。そこへ来客の応対がひと段落した華鶴がやって来た。岸の前に座った華鶴は艶やかに美しい脚を組んで微笑みを浮かべた。沈黙したままの岸は視線を落とした。


 突然、華鶴は岸に告げた。


 「白戸安寿さんを、岸家の養女にするわ」


 岸は驚愕した顔を華鶴に向けたが、岸は何も言わない。ティーカップの中のハーブティーがゆらゆらと小刻みに揺れた。その黄色い波紋を見て、岸は自分の胸の激しい動悸に気がついた。顔をしかめて岸はハーブティーを飲み干した。

 

 「安寿さんを養女にお迎えできるなんて、あなたは天にも昇る心地でしょう?」と華鶴は冷淡な笑みを浮かべ、刺々しく言い放った。岸は無言で空のティーカップを見つめた。


 「そう、まさに天から降ってきた僥倖よね。だって私は愛するあなたの本来の絵を、再び手に入れることができるんですもの。……もちろん、大きなお金もね」。華鶴は片方の口角を上げて岸の肩に手を置いてから、個展会場に戻って行った。

 

 安寿と航志朗は三階まで上がったところで、階段を下りてくる華鶴と出くわした。華鶴はふたりを見下ろすと、航志朗の方は無視して、安寿に親身に言った。「まあ、安寿さん、大変! いったいどうなさったの?」。とても優しい声だ。そして、航志朗を押しのけて安寿の肩を抱いた。航志朗は胸くそ悪く思った。(なんだ、この態度は! 彼女は完全にこの女にだまされているんじゃないのか)。華鶴はそのまま安寿を支えて階段を上り、四階のオフィスのソファに安寿を座らせて、自分も隣に座った。向かい側に座っていた岸があわてて立ち上がり、「安寿さん、どうされましたか?」と心配そうに声をかけた。後ろからついて行った航志朗は険しい顔をして、ソファから少し離れた窓際の椅子に腰を下ろして腕組みをした。すぐに伊藤も続いてオフィスにやって来て奥に控えた。

 

 安寿はオフィスの古めかしい木製の時計を見た。午後二時半だ。(時間がない。すぐに華鶴さんと岸先生にお願いして、早く家に帰らなくちゃ!)。安寿の胸の鼓動が早まった。

 

 安寿は「ちょっと転んでしまいました。でも、あの、岸さんにお医者さんに連れて行っていただいたので、もう大丈夫です」と申しわけなさそうに小さい声で言った。

 

 航志朗が付け加えた。「僕のせいです。僕が、彼女を転ばせてしまいました」

 

 「いいえ、岸さんのせいではありません。私が勝手に転んだんです」。あわてて安寿が訂正した。

 

 華鶴は航志朗を一瞥し、「わかったわ。本当にお大事にしてね、安寿さん」と実に心配そうに言った。

 

 「はい。ありがとうございます」と目を伏せて言ってから、安寿は深く息を吸って姿勢を正した。

 

 (早くお願いしなくちゃ。早く!)。その時、安寿はなぜか航志朗の方を見てしまった。航志朗はすぐにそれに気づいた。その瞬間、ふたりは視線を交わした。

 

 そして、安寿は前を向いて、岸と華鶴に深々と頭を下げて言った。

 

 「岸先生、華鶴さん、私を岸家の養女にしてください。どうかお願いいたします」

 

 華鶴は色鮮やかな花が満開になるように微笑み、岸は哀しい瞳をして安寿を見つめた。


 「まあ、嬉しいわ、安寿さん! 私に可愛い娘ができるのね!」。華鶴は安寿の手を両手でしっかりと握った。

 

 その光景を黙って見ていた航志朗が安寿に問いかけた。落ち着いてはいるが、重々しい声だ。


 「なぜ、今、君は岸家の養女になるんだ? 君のご両親は承諾したのか?」

 

 安寿は冷静に航志朗に向かって説明した。


 「私には両親がいません。私の家族は、母の妹の叔母だけです。今、叔母は恋人に求婚されていますが、私のために叔母は結婚に踏み切れません。私は叔母のために早く自立しなければと思っています。それで、華鶴さんにご相談させていただいたら、養女のお申し出をいただきました」。その言葉の途中から、華鶴の大理石でできた彫刻のような美しい手は、安寿の背中を優しく支えた。

 

 いきなり航志朗は痛烈な衝撃を受けた。


 (両親がいない? 俺は、彼女のことを何も知らないんだな……)

 

 そして、航志朗は疑念を感じた。(でも、彼女の叔母は、自分が結婚するために姪が岸家の養女になるなんて、絶対に納得するはずがないだろう)


 航志朗は考え始めた。(よく考えろ、この状況の最適解はなんだ? よく考えるんだ……)。必死に航志朗は考えた。安寿を守るために。

  

 その時、突然、航志朗にあるひらめきが降ってきた。(そうか! 最適解どころか、正解はこれしかないな)。口元に笑みを浮かべて航志朗はこぶしを握りしめた。

 

 黙り込んだ航志朗に華鶴が言った。


 「航志朗さん、あなたに異存はないわよね? いちおう家族の一員として訊いておくけれど」


 それに対して航志朗は、強く厳しい口調で反論した。


 「僕は反対です。だいたい安寿さんの叔母さんが承知するわけがないでしょう」

 

 安寿はその言葉を聞いて底なし沼に突き落とされた感じがした。息苦しくなって思わず涙が出そうになる。そして追い詰められながら思った。


 (もう時間がない! 私のせいで、恵ちゃんと優仁さんが別れるなんて、絶対に嫌だ! いったい私はどうしたらいいの?)

 

 すると、航志朗はすっと椅子から立ち上がり、安寿のそばまでやって来た。航志朗は安寿の前にひざまずいて笑顔で言った。

 

 「安寿さん。今、君は何歳?」

 

 「……十八歳ですけれど」

 

 「じゃあ、法律的にはなんの問題もないな」

 

 (「法律的」? どういうことなの……)


 安寿は怪訝そうな表情を航志朗に向けた。

 

 そして、航志朗は安寿を見つめて言った。

 

 「安寿さん、僕と結婚しませんか?」

 

 「けっ、……結婚!?」


 安寿は突然の航志朗のプロポーズに仰天した。

 

 まず口を開いたのは、岸だった。


 「航志朗、何をばかなことを言い出すんだ! まだ高校生の安寿さんと結婚なんてとんでもないだろう」。岸は声を荒げた。

 

 華鶴はさも愉快そうに笑いながら言った。「航志朗さん。あなた、何をおっしゃっているの? あなたみたいな女性にだらしがないひとに、安寿さんが結婚を承諾するわけがないでしょう」

 

 航志朗は両親の反応をまったく意に介さずに、あぜんとした安寿にさらに尋ねた。


 「今日、君はずっと時間を気にして急いでいるけれど、どうしてなんだ?」

 

 「叔母が、今夜、恋人と別れようとしているんです。……私のために」。安寿は肩を震わせながら、微かな声で答えた。

 

 「そうか。だから、君は、今、自分の身の振り方を決めて、叔母さんを止めようとしているんだね」

 

 「……そうです」と言って、安寿は下を向いて唇を固く結んだ。

 

 航志朗は、安寿の目の前に右手をそっと差し伸べて言った。


 「わかった。俺が、君に協力するよ」


 安寿はその航志朗の手をしばらく見つめてから、顔を上げて航志朗の目を見た。その琥珀色の瞳は穏やかに透き通っている。安寿は何も言わずに航志朗を見つめながら、吸い込まれるように航志朗の右手に自分の右手を重ねた。航志朗は安寿の右手をしっかりと握った。


 それを見た華鶴があきれ返った様子で言った。「あなたたちは、今夜のために、とりあえず結婚するというのね。でも、安寿さんが自立するまでという契約の上での結婚ということでしょう。だって、お互いに愛し合って決めた結婚じゃないんだから。まあ、安寿さんの将来のためにも期限付きならいいんじゃないかしら。ねえ、宗嗣さん?」。華鶴は岸に視線を向けた。華鶴の口元は冷たく笑っていた。無表情の岸は、しばらく目を閉じて考えてから言った。「私は、期限付きの契約をするというなら、この結婚を認めよう。結婚の期限の一つ目は、安寿さんが自立した時。そして二つ目は、安寿さんがモデルの人物画を、私が描き終えた時だ。それに加えて離婚が成立したら、岸家は安寿さんに相応の慰謝料を支払うことも契約条件に入れる」。それを聞いて、華鶴は目を細めてから伊藤に言った。「伊藤、さっそく契約書の作成をお願いするわ」。うつむいて顔を青ざめた伊藤が言った。「かしこまりました。華鶴奥さま」

 

 (「契約結婚」だと! 余計なことをしてくれたな……)。航志朗は激しい怒りを感じたが、(絶対に俺は離婚しない!)と胸の内で航志朗は叫んだ。


 すぐに航志朗が安寿の目を見て言った。


 「安寿さん、これから、婚姻届を書こうか」


 (「婚姻届」……)。安寿の頭のなかは真っ白になって、もう何も考えられなくなっていた。


 その時、伊藤が航志朗に言った。「では、航志朗坊っちゃん。私があさっての月曜日に婚姻届の用紙を役所に取りに参ります」。そう言って伊藤は、この非常識な結婚を止めようとした。二日間でも先延ばしにすれば、安寿と航志朗が考え直すかもしれないと伊藤は考えた。

 

 だが、航志朗は不敵に笑って言った。「伊藤さん、婚姻届は、今、ここで、用意できますよ」。航志朗はオフィスのパソコンを開き、婚姻届のフォーマットをダウンロードしてプリンターで印刷した。そして、スーツの内ポケットから万年筆を取り出して、躊躇なくサインした。そして、その万年筆を安寿の手に握らせた。あっという間の出来事だった。


 (わ、私、今、いきなり、……けっ、結婚するの?)。安寿は隣にいる航志朗の顔をうかがった。航志朗は安寿を見て笑っている。(どうして、そんなに嬉しそうなの? わけがわからない……)。それでも安寿はもうこの激流に呑み込まれたような成り行きにあらがうことはできなかった。安寿は万年筆を握り直し、どうしても震えてしまう右手でなんとか自分の名前を婚姻届にサインした。


 婚姻届の証人欄の片方には、華鶴にうながされた岸がサインした。サインする直前に、岸は急に思いついたように言った。「もう一つ、契約の条件を付け加える。それは、私が死んだ時だ。この契約した三つの条件のうち一つでも満たしたら、ふたりはすみやかに離婚するように。伊藤さん、その時が来たら、必ずあなたが離婚の手続きを滞りなく進めてください」。伊藤は腰を深く折り曲げて言った。「かしこまりました。宗嗣さま」。安寿は、初めて見る厳しい表情の岸の顔を見つめた。


 サインが終わった婚姻届を丁寧に折りたたんでスーツの内ポケットにしまった航志朗は、放心状態の安寿の手を取って言った。

 

 「安寿、まだ終わってないぞ。叔母さんのところへ行って、説得するんだろう?」


 (そうだった。それにしても、このひと、いきなり私の名前を呼び捨て?)。安寿は航志朗に抗議したい気持ちになった。


 安寿は、今、何時だろうと思い、振り向いて時計を見ようとしたら、「午後四時前だ」とすぐに航志朗が答えた。


 「大変! 早く帰らないと! 叔母は、午後五時ごろ出かけるって言っていました」


 「安寿、行くぞ」と言って、航志朗は有無を言わさず安寿を横向きで抱き上げた。そして、両親の顔を見ずに画廊の階段を下りて行った。階下で居合わせた画廊の顧客たちがいっせいに驚いた様子でふたりを見た。そのなかには、彫刻家の川島もいた。「おやおや? あのおふたり、ただならないことになっているなあ」とつぶやいてぽかんと口を開けたまま川島は安寿と航志朗を見送った。


 航志朗は羞恥心で身体を硬直させた安寿をそっと助手席に降ろしてから車に乗り込んだ。航志朗はすぐに車のエンジンをかけた。


 「君の叔母さんは、今どこにいるんだ?」

 

 「……自宅です」


 航志朗は、カーナビゲーションに行き先を入力してから車を発車させた。


 「首都高に乗れば、四十分以内には着くだろう。その前に、いちおう叔母さんに連絡しておいた方がいい」


 「でも、岸さん。私、携帯を忘れてしまって」


 「じゃあ、これを使え」と言って、航志朗は自分のスマートフォンを安寿に手渡した。安寿は礼を言ってから、恵のスマートフォンに電話をかけると、すぐに恵が応答した。


 『もしもし……』。発信元が不明で恵は不審そうだ。


 「恵ちゃん? 私よ。実は、黒川画廊の近くで転んで捻挫しちゃって。今、岸さんの車で送ってもらっているの。五時までには帰れるから、家で待っててね」


 『えっ? 安寿、どういうことなの』 

 

 恵は嫌な予感がして、ざわざわと不安な気持ちになった。


 「帰ったら、説明するね。私は大丈夫だから、心配しないで」。そう言うと安寿は通話を終了した。航志朗は安寿の少し青ざめた横顔を見てから、その膝の上に目を落とした。安寿は両手で航志朗のスマートフォンをきつく握りしめている。


 車は首都高を走った。航志朗が先程からずっとうつむいたままの安寿に言った。


 「安寿、さっきの残りのドーナツ、俺に食べさせてくれないか。これから頭使うんだ、糖分補給しておかないとな。君も食べたらいい」


 (えっ? また食べさせるの……)。安寿は航志朗をまじまじと見つめた。航志朗は楽しそうに笑っている。仕方なく安寿はピンク色のアイシングがされたドーナツをひと口大にちぎって航志朗の口に運び、自分の口にも入れた。イチゴの香りがする甘さが安寿の心と身体を少しだけゆるませてくれた。


 「それから、夫の俺のことを『岸さん』じゃ、都合が悪いだろ。名前で呼べよ」


 (おっ、おっ、……夫!)。安寿は結婚する自覚がまったくない。思わず狼狽して次の言葉が出てこない。


 航志朗は深いため息をついた。


 「もしかして、俺の名前を覚えてないのか? ……航志朗だ」


 「はい。こ、……航志朗さん」と、か細い声で言って、安寿は顔を赤らめた。


 すると、航志朗はひとしきり満足そうに笑った。


 つくづく安寿は思った。(こんな状況で、どうしてそんなに嬉しそうに笑うの? ほんと、わけがわからない)


 カーナビゲーションがはじき出した時間通りの四時四十分に、ふたりを乗せた車は安寿が住む団地に到着した。だが車を駐車しても、安寿は膝の上で両手を固く握ったまま動こうとしない。ネクタイを締め直しながら、航志朗は安寿を穏やかに見つめた。


 (恵ちゃんに、なんて言ったらいいんだろう……)と安寿は思い、だんだん胸の鼓動が早くなって身体がこわばった。そんな安寿に、航志朗が力強く言った。「大丈夫だ、安寿。俺がフォローする」。安寿は航志朗の目を見てしっかりとうなずいた。


 安寿の自宅は十階建ての建物の四階にあった。ふたりはエレベーターに乗って四階に上がった。安寿と航志朗は、安寿の家の玄関ドアの前に立った。思わず安寿は自分よりずっと背が高い航志朗を見上げた。航志朗は安寿に微笑んでうなずいた。一度深呼吸して、安寿はドアホンを鳴らした。すぐに恵が玄関ドアを開けて出てきた。


 「恵ちゃん、ただいま」


 怪訝そうな表情で恵は並んだふたりの姿を見た。そして航志朗の方に会釈してから、安寿の包帯が巻かれた左足をじっと見て言った。


 「安寿、いったいどうしたの?」


 「あの……」。安寿が言いかけると、突然、航志朗が口を開いた。


 「安寿さんの叔母さん。私は、以前ごあいさつさせていただきました、岸航志朗と申します。本日の正午前に、黒川画廊の近くで私が突然安寿さんを呼び止めまして、それに驚いた安寿さんは転んで捻挫してしまいました。彼女がけがをしたのは、私のせいです。この度は、大変申しわけありませんでした」と言って、航志朗は恵に深々と頭を下げた。

 

 航志朗の率直な態度に面食らった恵は、「ええと、とにかく中に入ってください」とあわてて言い、ふたりを家に招き入れた。


 南向きの八畳ほどの明るいリビングルームに入り、航志朗は安寿と並んでソファに座った。部屋は掃除が行き届き、ホワイトとベージュ系でまとめられていて、居心地がよい。二枚の小さな風景画が壁に飾られているが、安寿が描いた絵ではないと航志朗はすぐにわかった。恵が三人分の緑茶を入れてきて、ローテーブルの上に置いた。三人の間には、しばらく沈黙の時間が流れた。

  

 航志朗は初めて明るいところで恵を見て思った。(きれいなひとだ。理知的で生真面目そうな。でも、どう見たって、安寿とは姉妹にしか見えないな)

 

 安寿は、座布団に座ってうつむきかげんで緑茶を飲む恵を見た。なんだか今日の叔母はいつにも増してきれいだ。恵は薄化粧をして、よそいきのネイビーのワンピースを着ている。耳には、昔、渡辺にプレゼントしてもらったというダイヤモンドのシンプルなイヤリングをつけている。そして安寿は気づいてしまった。恵の目元が赤く腫れていることを。自分が外出している間、きっとひとりで泣いていたのだろう。安寿の決意はここにきて最終的に固まった。


 (恵ちゃんには、渡辺さんと結婚して幸せになってもらう。そのために、私はどうなっても構わない!)


 安寿はソファを下りて左足を投げだしつつも床に座り、突然、恵に言った。


 「恵ちゃん、あのね、私、岸さんと結婚する。もう決めたの」


 顔を上げて恵は絶句した。恵が持っていた湯呑みの中の緑茶が揺れて、ローテーブルの上にこぼれた。


 「けっ、けっ、……結婚!?」


 「そう。だから、恵ちゃんも優仁さんと結婚して、一緒に北海道に行って幸せになってね」


 航志朗は安寿の凛とした横顔を見つめて思った。


 (「私、航志朗さんと結婚する」じゃないか? ……まあ、いいか)


 恵の顔色は真っ青になって、その目には、みるみる涙がたまっていった。恵は悲痛なまなざしで安寿をにらみつけて怒鳴った。


 「あ、安寿、あなた! あなた、まさか、妊娠したって言うんじゃないでしょうね!」


 安寿は、その言葉を聞いて凍りついた。(そんなこと、絶対ないのに!)。安寿の身体は震えて言葉が出なくなってしまった。

 

 安寿と恵は膠着状態になってしまった。気まずく張り詰めた空気が流れる。


 (やっぱり、想定通りのシチュエーションになったな。そろそろ俺の出番だ)

 

 航志朗はネクタイを整えてソファを下り、恵の前に正座して座った。そして怒りと悲しみでいっぱいの恵の目をまっすぐに見て、航志朗は言い切った。


 「安寿さんの叔母さん、私の話を聞いてください。私は、二年前、父のアトリエで初めて安寿さんと出会った時から、安寿さんを心から愛しています。実は、私はずっと安寿さんとの結婚を考えていまして、彼女が学業を終えるまで待つつもりでいましたが、今回、安寿さんの叔母さんのご事情を聞くにおよんで、彼女に結婚を申し込みました。もちろん、安寿さんには承諾していただきました。また、安寿さんは妊娠などしていませんし、そもそも、私たちは妊娠するようなことはいたしておりません。私は、安寿さんを一生大切にします。私は、安寿さんを一生、全身全霊でお守りします。どうか、私と安寿さんとの結婚をお許しください。お願いいたします」


 そして、航志朗は、恵の前で土下座した。


 航志朗の長々とした甘過ぎるもの言いにあっけにとられて安寿は思った。


 (このひと、すごい。大うそつきだ……)


 恵もまた、航志朗の情熱的な申し出に呆然自失となっていた。そして、恵はすでに感情の抑制が効かなくなっている自分がどうしようもなくなってきて、ついに涙をぼろぼろこぼしてつぶやいた。


 「私、優ちゃんのところへ行く……」


 航志朗は「承知しました。では、私が車で送りましょう」と言って、今、彼が守らなければならない目の前の二人の女を自分の車に丁重に乗せた。


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