第3章 岸家へ

 ぼんやりと安寿が窓の外の曇り空を眺めていると、男がシルバートレイに青い花柄のティーセットをのせて戻って来た。男はティーポットから黄色味を帯びた液体をティーカップにゆっくりと注いだ。「よかったら、どうぞ」。手を差し伸べて男が安寿に勧めた。


 安寿は会釈をして、湯気の立つ温かいティーカップに口をつけた。極薄の口当たりのティーカップは、きっと高級な食器なのだろう。レモンのような爽やかな香りと淡い黄色のお茶だ。初めて口にする。

 

 男は安寿がお茶を飲み始めたのを見つめてから、細い指先でティーカップを持ち上げてお茶を飲んだ。とても優雅な所作だ。安寿はつい見とれてしまった。


 静かな時間が流れた。ふたりは何も話さない。安寿は男との間の沈黙をなぜか心地よく感じた。そして温かいお茶は少しずつ安寿の気持ちを落ち着かせてくれた。


 「あの、これはハーブティーですか?」。沈黙を破って安寿が尋ねた。

 

 「ええ。レモンバームのハーブティーです。心が休まる効能があるらしいです」。そう言うと、男はティーカップに目を落とした。


 「自宅の庭で私が育てたハーブです。お恥ずかしい話ですが、私は社交が苦手なもので。……個展の時の必需品なんです」


 (個展? このひとは、もしかしたら……)。安寿は男の琥珀色の瞳を見つめた。


 安寿が男の名前を思い浮かべていると、「安寿! ここにいたの、探したわよ!」と恵のいら立ちを含んだ声がした。一瞬で安寿は我に返った。振り返ると顔をしかめた恵が後ろに立っていて、その隣には華鶴もいた。


 「あら、素敵! おふたりでティータイムね」と言って華鶴は上品に微笑んだ。華鶴はティーカップを一瞥し、ふたりが来客用の紅茶ではなくハーブティーを飲んでいることに気づいたが、そのことには触れずに恵にもお茶を勧めた。


 恵はその男と初対面のようで緊張しながら丁寧にあいさつをした。「岸先生、初めまして。美術舎出版の白戸恵と申します。本日は、ご招待をいただきましてありがとうございます。……あの、姪の安寿が大変失礼をいたしまして、誠に申しわけありません」。恵は深々とお辞儀をした。


 その言葉に安寿は男の正体を知った。


 (このひとが、岸宗嗣先生……)


 「いいえ、可愛らしいお嬢さんですね。白戸さんと、おっしゃいましたか? 珍しいお名前ですね。……初めてうかがいました」。岸は心なしかしどろもどろな口調で答えた。華鶴がちらっと岸の顔を見た。


 受付にいた初老の男が、紅茶を淹れた四人分のティーセットとトリュフチョコレートを並べたガラスのケーキスタンドをワゴンにのせて運んで来た。

 

 「宗嗣さん、私、あなたにお話したかしら? 美術舎出版さまの先月の月刊誌に、川島先生の作品を掲載していただいたの。ほら、先生の新作の、あのブロンズの裸婦像よ。さっそくお問い合わせがあって、先日さっそくお買い上げいただいたのよ!」。華鶴は両手の指を胸の前で合わせながらさも嬉しそうに夫に話した。


 岸は微笑して答えた。「そうですか。それは、よかったですね、華鶴さん」


 安寿は目の前のふたりの上品な会話にいたく感心した。自分と住む世界がまったく違うと思った。


 華鶴は安寿が自分の出身高校の現役の高校生であることを岸に話し、甘い声で夫にねだるように提案した。「ねえ、あなた。恵さんと安寿さんを我が家にご招待しましょうよ! 私、おふたりとゆっくりおしゃべりしたいわ。ね、いいでしょう?」


 岸は戸惑った様子で苦笑いした。華鶴は夫の承諾を得る前に、「ね、ぜひ、いらっしゃって!」と恵と安寿に美しい笑顔を向けて誘った。


 安寿はひどく驚いた様子の叔母の顔を見たが、画家の自邸に興味を覚えた。安寿は胸の内で思った。(恵ちゃんがよければ、私、うかがってみたいかも)


 言いづらそうに恵が口を開いた。「お誘いはありがたいのですが、ご迷惑になりますので」。やんわりと恵は断ろうとした。恵を見て安寿は軽く口をとがらせた。


 華鶴はパープルカラーのネイルをほどこした指先を、恵の手の甲に触れて言った。「迷惑なんてとんでもないわ。では、決まりね! 来月下旬の週末はどうかしら?」


 「ですが……」。恵は下を向いて微笑んでいる安寿を横目であきれ返って見た。


 結局、華鶴の一方的な態度に押し切られて、恵と安寿は期せずして岸家を訪問することになった。


 華鶴は「あとは、伊藤にお任せするわ」と言って、階下の顧客たちのもとへと戻って行った。華鶴は去り際に安寿に向かってにっこりと微笑んだ。安寿は顔を赤らめて会釈した。

 

 伊藤は岸家の執事である。五十代後半のなで肩の男で、個展の受付をして先程ティーセットを運んで来た人物だ。「かしこまりました、華鶴奥さま」と伊藤は頭を下げて、恵に名刺を手渡した。当日は岸家の運転手が車で自宅まで送り迎えをする旨と、「ご用の際は、この名刺の電話番号にご遠慮なくご連絡してくださいませ」と伊藤は腰を曲げて丁寧に言った。


 恵と安寿は、岸と伊藤にお礼を言って、黒川画廊を後にした。


 ずっと何ごとかを考えてうわの空の恵を引っぱって、安寿は恵と近くのデパートの地下に行き、お気に入りのベーカリーでお約束のパンを買ってもらった。安寿は先ほどまでの緊張がすっかりほどけて、楽しみにしていた焼きたてのバゲットの香りを嬉しそうにかいだ。安寿は遠慮して手をつけられなかったトリュフチョコレートの箱が入った紙袋もしっかりと手に持っている。岸が伊藤に頼み、包み直して持たせてくれたのだ。画廊を出た後、「もう、安寿ったら、本当に厚かましいんだから!」と安寿は恵ににらまれた。


 デパートの地下通路から地下鉄の駅に向かおうとすると、恵は突然立ち止まり、安寿の腕をつかんで言った。「安寿、今度こそ新しいワンピースを買おう! 岸先生のご自宅にご招待されたんだもの、それなりの格好をしていかなくちゃだめでしょう。上の売り場に寄って行くわよ!」


 それでも、やはり安寿は「もう、恵ちゃんったら! 私はこの制服があるからいいの!」と言って断り、ひとりでさっさと地下鉄の駅の方へ向かって歩いて行った。


 その夜、自邸に戻った岸は、スタンドライトだけが灯された薄暗いサロンのソファにひとりで座り、今日の突然の出来事を思い出していた。


 「白戸、……安寿」


 岸の琥珀色の瞳がわずかに陰った。岸は深く息を吸って吐き、目を閉じてソファに深く寄りかかった。


 そこへ華鶴が音もなくやって来て、岸の背後に立った。華鶴は身をかがめて夫の耳にささやいた。


 「……恵さんと安寿さん、どちらがお望み?」


 目を見開いた岸はすぐに後ろを振り返ったが、華鶴は背を向けてサロンを出て行った。


 安寿が清華美術大学付属高校に入学してから、二か月が経った。

 

 高校は安寿と恵が暮らす団地から電車で片道一時間半はかかるが、都心から離れた郊外に位置するので、行きも帰りもたいていは電車の座席に座ることができる。好きな本を読んでいれば、あっという間に着いてしまう。

 

 美術大学の付属高校ということで、どんな生徒たちが集まるのだろう、自分はそのなかに入っていけるのだろうかと、入学前、安寿はとても不安だった。だが、それはまったくの思い過ごしであった。

 

 クラスメイトたちは、皆それぞれに個性的で自由な生徒たちばかりだ。仲良しグループがいくつかできてはいるが、ひとりでマイペースに過ごしている生徒もいる。


 安寿が高校に入学したばかりの時に一番驚いたのは、高校で最初にできた友人が、男子だったことだ。

 

 入学式から二日目の初めての昼休み、まわりを見回しても、誰にも誘ってもらえず誰も誘えず、とりあえずひとりで昼食を食べようと自分の席で自作の弁当を開けた時、おもむろに前の席にその男子生徒が座り、「白戸、一緒に食べよう」と誘ってきたのだ。中学では男子生徒と親しく話をすることがなかった安寿は飛び上がるほど驚き、同時に大いに警戒もしたのだが、その男子生徒、星野蒼ほしのあおいは「これから、よろしく」と切れ長の目を細めて、校内の購買部で購入したクロワッサンサンドを安寿の目の前でおいしそうにかじった。

 

 その後、もうひとりの男子生徒の宇田川大翔うだがわはるとと、女子生徒の原田莉子はらだりこが加わり、四人で一緒に過ごすことになった。親しく話をしていくうちに、蒼はファッションデザイナーを目指していて、莉子は絵本作家を目指していることがわかった。京都から上京して清華美術大学の大学生の姉とふたりで暮らしている大翔は、「僕は、ビジュアルアーティストとして世界に進出する!」とその時豪語したが、このままだと実家の染色業を継ぐことになるのでとりあえず言ってみたと、後日述懐していた。


 安寿はといえば、彼女が美術を学ぶ理由は、「絵を描くことが好きだから」ということしか思い浮かばなかった。それは亡き母と一緒に絵を描いたという、安寿にとっての数少ない生前の母との思い出による。しかし、それは安寿に自らの幼稚さを思い知らせ、自己嫌悪におちいらせた。「絵を描くことが好き」だなんて、幼稚園生にだって言えることだ。叔母の恵に無理をさせて学費の高い私立高校に通わせてもらっているというのに。


 そして、美術の実習が本格的に始まると、安寿は周りの他の生徒たちと比べてしまい、自分の画力に自信を持てなくて深く落ち込んだ。さすが美術大学付属高校に集まってくる生徒たちだ。基礎画力のレベルがとても高く、課題も素晴らしい作品ばかりだ。安寿は絵を描く手が止まってしまい、とにかく課題を期限までに提出することに精一杯のありさまだ。でも、絶対に恵には相談できない。余計な心配をかけたくないからだ。

 

 それに実習には、さまざまな画材が必要になる。学費の他に画材代もけっこうかかる。これ以上、恵に金銭的負担をかけたくない安寿は、恵に内緒でアルバイトをしようと考えはじめていた。


 高校に入学してから持ち上がってきたいろいろな問題を、誰にも相談できずにひとりで悩み、安寿は出口の見えない自らの画力に対する劣等感を抱え込んでしまっていた。そんな安寿を知ってか知らずか、初めての校内品評会で、安寿は美術教諭から手厳しい評価を受けた。休み時間に肩を落とした安寿の隣に座った蒼は、落ち込んで暗い顔をした安寿にさりげなく言った。


 「安寿、さっき先生にかなりディスられてたけどさ、おまえの絵、……俺は好きだよ。人体比率のバランスとかパースとかめちゃくちゃなのに、凄まじい存在感があるんだよな。なんていうか、不思議な魅力があるよ、おまえの絵には」。そう言うと安寿から目線をそらして、蒼は少し頬を赤らめた。


 目を潤ませた安寿はうつむいて言った。


 「……ありがとう、蒼くん」


 安寿は、蒼が彼の言葉で励ましてくれることがありがたかった。蒼が自分の名前を呼び捨てにしたり、「おまえ」と呼ばれることに、はじめはかなり嫌悪感を持っていたが、いつのまにか慣れてしまった。


 高校にはいちおう制服があるが、自由な校風のために私服も認められている。いつも私服の蒼は、ファッションセンスが抜群でおしゃれだ。そのうえ背が高く整った顔立ちで、成績も良い。実家はファミリー企業を経営していて、蒼の父はその社長をしていると大翔から聞いた。当然のことではあるが、蒼は女子生徒たちに人気がある。こんなみそっかすの自分と一緒に学校で過ごしてくれる蒼の気持ちが、安寿にはまったくわからない。


 莉子は誰もがその名を知っている老舗和菓子店の末っ子で、毎日、当主の父親が愛娘のために手作りする、それはそれは芸術的な弁当を持ってくる。安寿は莉子の弁当を見せてもらうのが楽しみだ。ときどき味見をさせてもらうが、味見と称するには申しわけないほどの、見た目にたがわない本格的な味にとても感心してしまう。


 「莉子ちゃんのお父さんって、すごい! 和菓子のプロフェッショナルなだけじゃなくて、お料理上手でもあるんだね」。自分の父親の顔を知らない安寿は、「お父さん」という言葉にいつも心のひだの引っかかりを感じる。


 「うちのお父さん、私が幼稚園生の時は、ものすごくど派手なキャラ弁つくっていたの。本当は恥ずかしくて嫌だったんだ。でも、ただでさえ朝早く起きなくちゃいけない忙しい仕事なのに、今も私のお弁当を作ってくれていて、まあ、感謝しなくちゃね」。莉子は肩をすくめて微笑んだ。


 「莉子さんはんは、安寿さんはんみたいに、自分でつくればいいんじゃないか?」。大翔は本日五個目のコンビニエンスストアのおにぎりをほおばりながら言った。大翔は、ラグビー部で鍛えている筋肉質のたくましい外見からは全然想像もできない、少々京都弁の入った柔らかい口調で話し、そのギャップがとても可愛らしい。いつも大翔本人は「さん」と発音しているつもりなのだが、周りにはどうしても「はん」に聞こえる。


 莉子は大翔に激しく両手を振って言った。


 「むりむり。お母さんに似て、私、朝に弱いんだもん」


 安寿はこのなにげない友人たちとの会話に救われていることを感じる。美術の実習は正直なところ心底つらいが、この高校に入学できて本当によかったと安寿は思った。 


 五月下旬になって、安寿と恵が岸家を訪問する日がやってきた。その日は朝から雨が降っていた。ところが、直前で予定が変わってしまった。

 

 午前十時にふたりが住む団地まで岸家の車で迎えに来てもらう手筈だったが、その直前に恵が出版社から急遽呼び出されて行くことができなくなってしまった。急に予定を変更するのは申しわけないので、仕方なく安寿ひとりで岸家を訪問することになった。

 

 恵は伊藤に連絡して謝罪し、安寿だけが伺うことを伝えた。そして、安寿にはくれぐれも失礼のないようにと釘をさし、急いで出版社に向かって行った。


 安寿が約束の時間よりも早めに団地の入口で待っていると、午前十時五分前きっかりに、岸家の黒塗りの車が到着した。助手席から伊藤が降りて来て丁寧にあいさつをして、傘を傾けながら後部座席のドアを開けた。そして伊藤は安寿を車に丁重に乗せた。安寿は自分の傘が車内を濡らしてしまわないかと心配になった。古い型の車のようだがよく手入れされていて、安寿はとても緊張してしまった。

 

 車中で伊藤は安寿を気遣うような温かい態度で接し、安寿に数項目の質問をした。まず車酔いをするかどうかからはじまって、アレルギーの有無、好きな食べもの、嫌いな食べもの、好きな色、はたまた猫舌かどうかまで尋ねられた。執事といわれてもまったくぴんとこなかった安寿だったが、失礼のないようにひとつひとつ丁寧に回答した。


 雨の日の週末で道が混んでいたこともあり、一時間近くかかって岸家の前にたどり着いた。


 安寿は傘をさしながら、想像をはるかに超えた岸家の自邸を前に立ち尽くしてしまった。


 (……なんて、美しい家なの!)


 霧にけぶる大きな森を背景にした、それはそれは美しいクラシックな白い洋館だ。葉が豊かに生い茂るコナラの樹々に囲まれた広い庭には青々とした芝生が広がっている。エントランスへと続く玄関アプローチには乳白色の大理石が敷かれていて、小雨にしっとりと濡れている。伊藤は「先先代が昭和初期に建てられました。国の登録有形文化財になっております」とこともなげに言った。


 エントランスの前には、ロイヤルブルーのタイトワンピースをまとった華鶴が待ち構えていた。「安寿さん、いらっしゃい! またお会いできて嬉しいわ。さあ、どうぞ遠慮なく入って!」。優雅な笑みを浮かべた華鶴は安寿の手を取った。その手のひやっとした冷たさに、ずっとここで私を待っていてくれたのだと安寿は申しわけない気持ちでいっぱいになった。


 岸家の格調高い邸宅の中に一歩踏み出すと、磨き込まれた木の匂いがして時間がさかのぼったような感覚になった。そのすみずみまで清められた静謐な空間に思わず安寿は背筋が伸びた。


 庭に面した大きな窓があり、絵画や彫刻が優雅に飾られたサロンを通って食事室に案内された。サロンには黒光りするグランドピアノが置いてあった。ふと安寿は誰が弾くのだろうと思った。食事室には黒川画廊に置かれていた家具と同じ色のダークブラウンの大きなダイニングテーブルが置いてあった。華鶴にうながされて眺めのよい窓際の椅子に安寿は座った。さっそく伊藤がコーヒーと紅茶を運んで来た。安寿はコーヒーが苦手だと、先ほど伊藤に話したばかりである。華鶴がいくぶん緊張ぎみの安寿に微笑みながら言った。


 「安寿さん、お腹空いたでしょう? まずランチにしましょうね。咲さん、お願いします」


 食事室の奥のドアから、白いエプロンを身につけたグレーヘアの小柄な女が出てきた。女は大きめの藤のバスケットに入ったいろいろな種類のサンドイッチとカボチャの温かいスープ、オレンジジュースを木製のワゴンにのせて運んで来た。その女は安寿を優しいまなざしで見つめて微笑んだ。あわてて安寿は会釈した。


 「咲さんがおつくりになったサンドイッチ、絶品よ。さあ、安寿さん、ご遠慮なく召し上がってね」


 そこへ岸がやって来た。黒川画廊で会った時と同じく白いオックスフォードシャツに柔らかいベージュのスラックスを履いている。品のよい着こなしだ。先刻まで絵を描いていたのだろうか、ラフに腕まくりをしている。岸は目を細めて安寿を見て言った。「安寿さん、ようこそ。先日は個展にお越しいただきまして、ありがとうございました。今日は雨の中、妻のわがままに付き合わせてしまって、申しわけないです」。岸は可愛らしく夫をにらんだ華鶴の隣に座った。伊藤が岸の紅茶も運んで来た。華鶴が岸の前にティーカップを置いて言った。


 「本当は、このランチを庭園のテラスでいただくつもりだったのよ。ピクニックみたいで、安寿さんに楽しんでいただけるかしらと思って。でも、雨が降ってしまったわね」


 「華鶴さん、今日は残念でしたが、またいらっしゃっていただければよろしいのではないですか? もちろん、安寿さんのご都合がよろしかったらですが」


 「まあ、宗嗣さんのおっしゃるとおりね! 安寿さん、必ずまたいらしてね。約束よ!」


 目の前の息の合った夫婦の上品な会話を聞いて、安寿はまた心から感心してしまった。


 (……本当に、素敵なご夫婦)


 昼食後サロンに移ってゆったりとしたソファに座り、岸家の家政婦である咲の手作りのフルーツがたくさん入ったロールケーキを口にした。ふわっと柔らかい口当たりと甘い味覚に緊張がほどけてくる。絵画や彫刻が飾られた美しいサロンでのティータイムに、安寿は叔母の言いつけをすっかり忘れてうっとりとしてしまった。


 (登録有形文化財のお屋敷に住むなんて、どんな気持ちがするのかな……)


 失礼なふるまいだとわかっていても、つい安寿はサロンを見回してしまった。よく見ると、太い柱にはアール・ヌーヴォー調の花や植物の模様が控えめに彫られていて、サロンの雰囲気をさらに優雅にしている。

 

 華鶴は今日も高校の制服を着ている安寿を見て、「本当に懐かしいわ。宗嗣さんは信じられないかもしれないけれど、私だって昔は安寿さんみたいに可愛い女子高生だったのよ」と夫に面と向かって言った。


 安寿の高校生活の様子を華鶴は知りたがった。安寿は岸夫妻の温かいもてなしにすっかり緊張がゆるんでしまっていた。安寿は自分の画力の力不足をとてもつらく思っていることや、画材代がかかるので家計を助けるためにアルバイトを探していることまで、つい口に出してしまった。 


 すぐに安寿は後悔した。(私ったら、なんてつまらないことを言ってしまったの。恥ずかしい……)。安寿は顔を赤らめて下を向いた。


 ずっと黙って安寿の話を聞いていた岸が、安寿を見て穏やかに言った。それは、静かな湖に白い花びらをそっと浮かべるような慎み深い口調だった。


 「私は、画力とは、絵を描こうとする情熱と意志の力そのもので、画力が足りるとか足りないとか判断することは、まったく意味がないと思います。絵を描きたいという強い想いが、絵を描く美しい力になる。その美しい力のすべ、……美術とは、よく言ったものですね」


 安寿は岸の言葉を心に染み入るように反芻した。岸先生はきっと私を励ましてくれているのだと感じる。安寿は目の奥が熱くなった。


 (私のなかに、岸先生がおっしゃる「美しい力」があるといい。岸先生は、本当に心優しいお方だ)


 するとしばらく思案していた華鶴は何事かをひらめいた様子で、実に楽しげに安寿に提案した。「私、いいことを思いついたわ! お忘れかしら? 目の前に画家先生がいらっしゃるじゃないの! 安寿さん。あなた、宗嗣さんに絵の描き方を習えばいいわ。宗嗣さんは若い頃、大学の講師をしたことがあるのよ」。岸は困惑した表情をして華鶴と安寿を見た。


 (岸先生は、大学の講師をされていたんだ……)。安寿は意外に思った。


 華鶴は安寿の隣に座って言った。「それに、安寿さん、我が家でアルバイトをしたらどう? そう。宗嗣さんのモデルになるっていうのはどうかしら? 私たち、一石二鳥、いいえ、三鳥以上になるわ。安寿さんが我が家に通ってくださったら、私はおしゃべりの可愛いお相手ができるから嬉しいし。ね、おふたりとも、素敵なアイデアだとお思いにならない?」


 安寿は華鶴の突然の申し出に驚愕して、頭のなかが真っ白になった。

 

 (私が岸先生のモデルに! まさか、本当に……。でも岸先生は風景画家のはずなのに人物画はお描きになるの? それにしても、突然、絵のモデルにって言われても、こんな私なんかに務まるの? もちろん、ここでアルバイトできるのならとてもありがたいけれど、絶対に恵ちゃんは反対するだろうな)。頭がくらくらするほど安寿は思いをめぐらせた。


 華鶴は黙り込んでしまった安寿を優しく見つめて言った。


 「安寿さんは、恵さんが許してくださるかどうか心配しているのね? だいじょうぶよ、私に任せて」


 岸は何も言わなかった。奥に控えていた伊藤が伏し目がちに新しいコーヒーと紅茶を持って来た。華鶴は湯気の立つコーヒーをひとくち飲んだ。


 「そうだわ。安寿さん、せっかくだから、宗嗣さんのアトリエをご覧になったら?」


 「えっ、岸先生のアトリエですか? あの、よろしいのでしょうか?」


 華鶴は「ええ、もちろんよ。どうぞ、おふたりでいってらっしゃい」と言い、安寿に微笑みかけた。


 岸のアトリエは屋敷の離れにあった。いったん母屋の北側の裏口から出て、母屋と離れをつなぐ通路を通り、敷地の後ろに広がる森に隣接した小さな和風の家屋に設えられている。


 安寿は岸の後ろをついて行った。裏口から出ると、雨に濡れた鬱蒼とけぶる森の樹々の匂いが安寿を包んだ。辺りは薄暗く霧がかかっていて、水滴がしたたって流れ落ちる音が聞こえた。まるで別世界に迷いこむようだ。なぜか安寿はこの場所を知っていると思うが、急に恐れを感じて立ち止まった。


 今なら私は元の守られた私の世界にまだ引き返すことができる。


 (私は、……この先に行きたいの?)


 安寿は岸の大きな背中を見つめた。それは安寿に言い知れない安心感をもたらした。そして、その背中について行くと安寿は心に決めた。


 岸は振り返り、申しわけなさそうに言った。


 「どうぞ、お入りください。安寿さんがいらっしゃると知っていれば、きちんと掃除をしておいたのですが」


 岸が引き戸を開け、ふたりは中に入った。西洋風とも和風ともとれる不思議となじんだ空間が広がっていた。屋敷の北側にある家屋のためか、廊下は昼間でもライトが必要なほど暗かった。安寿はその暗闇の奥に何かが隠れているような気がして怖くなり、思わず岸に身を寄せた。岸はそんな安寿を見て柔らかく微笑んだ。


 「安寿さん、すいません。暗くて怖くなってしまいますよね。この離れは元は茶室でした。私の父は茶道をたしなんでいましたので。この部屋が私のアトリエです。元は和室だった部屋を洋室に改築しました」

 

 思いのほか広いアトリエに入ると、慣れ親しんだ油絵具を溶くオイルの匂いがした。森の樹々を眺めるウッドテラスに通じる窓のそばにある大きなイーゼルに、描きかけの風景画が立てかけられていた。油絵具と画筆が置かれたチェスト、デスクと数脚の椅子、カウチソファが置かれている。そして、たくさんのキャンバスが造りつけのシェルフに収められていた。アトリエの調度品はダークブラウンにまとめられていて、どれも古い家具のようだ。あるいはアンティークなのかもしれない。そして細かい幾何学模様が織られた色あせた赤い大きなラグが無垢材の床に敷かれている。安寿は、簡素ではあるがそのすべてが美しく調和しているアトリエを心地よく感じた。


 (なんて素敵なアトリエなんだろう。私もここで絵を描いてみたい)と安寿は思った。


 「安寿さん、どうぞこちらにお座りください」。岸が真紅のベルベットが張ってある肘掛け椅子を窓のそばに外向きに置いた。


 「はい。ありがとうございます」。安寿は肘掛け椅子に座り、窓の外の森を眺めた。


 「今日はずっと雨降りの一日ですね」。カウチソファに腰掛けた岸が窓の外を眺めながら静かに言った。「でも、森の樹々は生き生きとしていますね」


 安寿はふと気になって岸に尋ねた。


 「あの森は、中に入ることができるのですか?」


 「ええ、入れますよ。小道があって少し歩くと大きな池があります。元は、私の一族が代々所有していた森でした。先代が亡くなった時に手放しましたが」


 「そうですか……」。微かに岸の琥珀色の瞳が陰ったのに安寿は気づいた。


 ふたりは黙って窓の外を見ていた。静かな時間が流れる。岸は安寿の横顔をそっと見つめた。そして、岸は安寿の目を見て言った。


 「突然の話でご気分を害されたのでなければよいのですが、……私は、安寿さんをモデルにして、絵を描いてみたいと思います。ですが、安寿さんがおいやでしたらお断りいただいても、私はいっこうに構いません」


 安寿は驚いてしまった。てっきり華鶴の独断だと思っていたのだ。


 (岸先生ご自身が、私を描いてみたいと思われるなんて……)


 急に安寿は胸の鼓動が早くなり顔が熱くなった。岸と目を合わせられず、下を向いてなんとか言った。


 「岸先生、少し考える時間をいただけますか? 叔母にも相談したいと思いますし」


 「わかりました。突然、勝手なことを申しあげて、あなたに大変申しわけないです」。その言葉に安寿はうつむきながら首を振った。


 安寿は、呆然としたままで岸家を後にした。雨はまだ降り続いている。


 帰りの車の中で、思い切って安寿は伊藤に尋ねた。


 「あの、伊藤さん。私は岸先生のモデルになるなんて、まったく自信がありません。私のようなものに務まるのでしょうか?」


 助手席に座った伊藤は安寿の質問には答えずに、しばらく沈黙してから重い口を開いた。


 「宗嗣さまは若かりし頃、人物画をお描きになられていましたが、ある日、描けなくなってしまわれたのです」


 安寿はそこに何か深いわけがあることを感じたが、私にはそれを詮索する資格はないと思った。


 「僭越ながら、私は、安寿さまがご自身でモデルになるかどうかお決めになればよろしいかと思います。ゆっくりお考えになって、お決まりになりましたら、いつでも私にご連絡ください」


 その日は夕方になっても雨が降り続いていた。家に着くと、まだ恵は帰宅していなかった。ライトもつけずに薄暗い部屋の中で安寿は両足を抱えて座り込み、深いため息をついた。


 (私が、岸先生のモデルになるなんて……)


 その時、雨に濡れた恵が肩で息をして帰って来た。


 「ただいま、安寿! さっき、華鶴さんからお電話をいただいたわよ。岸先生が、あなたをモデルにして人物画を描きたいっておっしゃっているって! 驚いて傘落としちゃったわ」


 安寿の胸の鼓動が早まった。(恵ちゃんに、もう話したの! 私は、まだ決心がつかないのに)


 「安寿、どうするの?」。恵は強い調子で尋ねた。


 「どうしよう。それよりも、恵ちゃん、いいの? 私が、岸先生のモデルになっても」


 「正直、私はわからないわ。岸先生ご夫妻は、名実ともに素晴らしい方々だと思う。それに、私たちとは住む世界が明らかに違う。でもそれが、もしかしたら安寿にとって、良い経験をもたらすかもしれない。でも、心配だわ。だって、あなたの姿が世に出ることになったら……。華鶴さんは、安寿がモデルになった油彩画を国内の展覧会に出展することはしないし、売却する場合は、海外在住の懇意にしている顧客にするから大丈夫って、おっしゃっていたけれど」

 

 (……油彩画の売却?)。安寿は一抹の不安を覚えた。


 恵は安寿の目を見すえて言った。


 「安寿、あなたはどうしたいの?」


 (私は、どうしたいの?)。安寿は自問自答した。でも、どんなに否定しようとしても答えはひとつしか出てこないのだ。むしろ答えを出すというより、もうすでに逃れられない運命の流れに身を投じてしまったような後戻りができない感覚を感じる。


 そう、私は、岸先生のアトリエに自ら足を踏み入れたのだ。その瞬間、安寿の心は決まった。

 

 「私は、岸先生のアトリエにまた行きたい」。安寿ははっきりと恵に向かって言った。


 恵はもはや安寿の選択をひるがえすことはできないと悟っていた。安寿は慎重に思慮深く考え、こうと決めたら一途に突き進む気質だということを恵が一番よく知っている。しかし、恵には大きな不安も襲ってきた。安寿は、彼女の母である姉に本当によく似ている。だから底の見えない恐怖を感じる。安寿と二人きりになってから、姉と同じ無残な結末を安寿が迎えないように私がこの子を全身全霊で守ると、恵は身体じゅうが震えるような想いで何度も誓ってきた。たぶん天国にいる彼女の姉に、父と母に。

 

 その日のうちに安寿は伊藤と連絡を取り、岸のモデルになることを承諾する旨を伝えた。


 こうして、この時、十六歳の白戸安寿は、画家、岸宗嗣のモデルになった。

 

 

 

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