第2章 ザ・ウエディング・バンケット
浅い眠りのなかにいた男は、ドスンとした衝撃にゆっくりと目を開けた。
(……今、俺は、どこにいるんだ?)
男は寄りかかっていた壁に据えられている小窓の外を見た。
南国の太陽が滑走路のアスファルトを強く照らし、色とりどりの飛行機が次々に離発着していく。やがて、特徴的なデザインの管制塔が見えてきた。そして、男は機内の温度と湿度が一気に上がるのを感じた。それはすでに彼の身体には慣れ親しんだ体感になっている。
(……ああ、着いたのか)
男の乗った飛行機がゲートに到着し、シートベルトサインが消えた。男は手早く手荷物をたずさえて、あわただしく飛行機を降りた。早足で
「アン、俺だ。今、着いた。すまないが、予定より六時間も遅れたな」
背の高い街路樹が規則的に並ぶよく整備されたクリーンなハイウェイで、一台のタクシーが左手にビーチを望みながらかなりのスピードを出している。後部座席に座った男は見るからにけだるそうだ。また男のスマートフォンが鳴った。到着してからもうすでに五回目の通話である。
『コーシ、今、どこ?』
「イースト・コースト・パークウェイだ。あと十五分くらいで着けるかな」
『お願いだから、早く来て!』
通話をオフにして、男はため息をついた。男は一時間ほど前に出張先のオランダから戻って来たばかりだ。時差には強いほうだが、これから出席する結婚披露宴のことを考えると面倒な気持ちでいっぱいになった。
(いったい何時に帰れるんだ? まあ、日付はまたぐだろうな……)
シンガポール現地時間は、午後一時を過ぎた。
その男の名前は、
航志朗はイギリス留学時代からの親友であり、現在はビジネスパートナーでもある
イギリスの大学院を修了して、なかば強引にアンの故国に来星させられてから一年が過ぎた。アンと始めた国際投資事業は、本日晴れて彼の妻になる
タクシーが白亜のコロニアル様式のホテルの車寄せに滑りこんだ。この国で最も歴史のある最高級ホテルだ。格調高いエントランスには、ウエディングバンケットの開催を告げる色鮮やかな花々のアレンジメントがいくつも飾られていた。
航志朗はタクシーの精算をするために紙幣をインド系らしい高齢の運転手に手渡そうとした。だが、運転手はじっと微動だにせずに、賢者のように深遠な瞳で航志朗を凝視した。そして、運転手は航志朗に意外な言葉をかけた。
「サー、……あなたは、本日の花婿ですか?」
航志朗は、一瞬、目を大きく見開いた。
「まさか。私は花婿の友人ですよ」
運転手は航志朗の左隣を見て言った。
「私には、あなたが花婿に見えます。それから、あなたの花嫁が隣に座っているのも見えます」
航志朗は一瞬背筋がぞくっとしたが、もちろん航志朗の隣には誰もいない。すぐに航志朗は気を取り直すと、かえって面白みを感じて冗談まじりに尋ねた。
「そうですか。では、私の花嫁はどんなひとに見えますか?」
「カワイイ花嫁。美人ではない」。運転手は大まじめに即答した。「カワイイ」だけは日本語だった。
航志朗は笑みをこぼして、紙幣をさらに一枚追加して運転手に手渡した。
「ありがとう。占い代も払いますよ」
「サンキュー、グッドラック」
タクシーを降りると、背の高いターバン姿のドアマンが重厚なドアを開けた。磨きあげられた真っ白な大理石の床が生え、高い天井からの陽光が降り注ぐ明るい空間が目の前に広がった。
ロビーで航志朗の到着を待っていた顔見知りのアンの友人が、新郎新婦の控え室になっているスイートルームに案内すると言って、海外から帰ってきたばかりの航志朗をねぎらった。
「ミスター・キシ、お疲れじゃありませんか? 我われ中国系のウエディングバンケットは長丁場ですよ。かくいう私は、午前六時から主役たちにアテンドしています」
「ああ、例の結婚の慣習ですね? セレモニーの前に花婿が花嫁が待つ彼女の実家の部屋まで、友人たちを引き連れてお迎えに行く。花嫁の部屋には、花嫁とその友人たち、きょうだいたちが待ち構えていて、わざと花婿の邪魔をするという」
「おっしゃる通りです。アンは、あなたにも一緒に来てもらいたかったみたいですよ」。思わず航志朗は苦笑を浮かべた。
ふたりはホテルの奥に進んだ。観光客が立ち入れない二階に上がり、南国の植物が植栽された美しい中庭を見下ろしながら回廊を通り、スイートルームに着いた。
「コーシ、遅いよー!」
本日の花婿であるアンが、ぷうっと子どものように頬をふくらませながら、航志朗に抱きついた。アンはシルバーの燕尾服を着ていて、それが長身で細身の彼によく似合っている。
「コーシ、おかえりなさい!」
淡いピンクのシルク地にプラナカンスタイルの紫色のスミレの花の刺繍がほどこされた可憐なドレスを身にまとった花嫁が、アンの背後からやって来た。花嫁は頬を赤らめて航志朗にはにかんだ。
「ヴィー、ただいま」
航志朗は花嫁を優しいまなざしで見つめた。アンとこの花嫁は、航志朗にとって命の恩人である。長い間近くにいてふたりを見てきた。航志朗にはまったく不可能な、時にはあきれてしまうほどのピュアな男女関係だった。
(本当によかったな。俺は、君たちの幸せを心から願っているよ)。航志朗は心のなかで親友たちを祝福した。
そして、航志朗は花嫁を心から美しいと思った。結婚する予定も、さらにはこの先結婚するつもりもない航志朗にとって、一生縁のない花嫁の輝きがまぶしかった。
「ヴィー、きれいだ」と航志朗は目を細めて言った。航志朗の琥珀色の瞳に見つめられて、ヴァイオレット・ウォンは胸がときめいた。花嫁のヴァイオレットは頬を紅く染めて航志朗に微笑んだ。
ヴァイオレットは、航志朗に好意を寄せている自分の気持ちに気づいている。それは夫となるアンに対する愛情とは違う種類の、尊敬に似た感情だ。
ヴァイオレットは裕福な華僑の一族に生まれ育った。曾祖父母の時代は戦争と終戦後の復興で困難を極めたらしいが、ヴァイオレットはなんの不自由もなく育った。少なくとも表向きは。十四歳の時、アンと運命の出会いをした。それから十年後、ヴァイオレットはアンの妻になる。
ヴァイオレットは「うそ」が大嫌いだ。うそをつく人は、すぐわかる。どんなに隠していても、その瞳には必ずけがらわしい汚泥が浮かぶ。父がそういう人だ。子どもたちの前で父は母を愛していると言っているが、それはうそだ。なぜなら父にはずっと愛人がいるから。当然母はそれを知っている。そして、母もうそつきだ。いつも笑顔で幸せそうな妻のふりをしている。
今日は人生最良の日のはずなのに、ヴァイオレットは本当に朝からうんざりしていた。
伝統的な美しいドレスを身にまとうのは心ときめく。一生に一度の花嫁姿。そして、やっと今日から愛するアンとずっと一緒にいられる。いずれ可愛い赤ちゃんが生まれて、私はママになるだろう。でも、朝から私はうそばっかりのおべんちゃらに囲まれている。「美しい」だの「お幸せに」だの口先だけの祝福の言葉。吐き気がする。でも、わかっている。私だってうそつきだ。ゲストに笑顔をふりまく幸せな花嫁を演じている。花嫁の父と母の前で、これみよがしに。
航志朗はうそをつかない。彼の美しく透き通る琥珀色の瞳がそれを証明する。またアンもうそをつかない。アンと初めて出会った瞬間、その確信がヴァイオレットを貫いた。十四歳の時からずっと全身全霊を込めて愛してくれるアンの優しいまなざしがすぐ隣にある。今、ヴァイオレットはこのふたりの男の瞳に守られている。
「アン、俺、ちょっと自宅に戻って着替えてくるよ。シャワーも浴びたいし」と航志朗が言った。するとアンは航志朗のために部屋を用意してあると言って、カードキーを航志朗に手渡して大声で言った。
「コーシの衣装も部屋に用意させてもらったよ。着替えたら、すぐに僕に電話しろよ。昼寝なんか絶対にするなよ!」
(やれやれ、……用意周到だな)。航志朗は思わず両肩を上げた。
その部屋も上品ではあるが、だだっ広いスイートルームで、中央に大きなキングサイズのベッドが鎮座している。航志朗はとりあえず豪華なバスルームでやけに重たいシャワーヘッドと格闘しつつシャワーを浴びた。そしてふかふかのバスローブを羽織り、ミネラルウォーターを飲んだ。テーブルの上に置かれた数種類のフルーツが盛られたバスケットがふと目に入った。中から小ぶりの青リンゴを取ってかじり、航志朗はベッドに腰掛けた。
西向きの窓を開けると、心地よいそよ風が入って来た。航志朗は、この土地特有の南国のフルーツが甘く香ってくるような風が気に入っている。まさに「
(最後に桜を見たのは、……いつだ?)
航志朗は東京の私立中学校を卒業した後、一人でイギリスに渡った。十五歳の時だった。もう両親とこの家にはいられないと思い、必死で英語を習得し、家出同然で日本を離れた。どうしてイギリスだったのか、それは彼自身にもわからない。ただ家を出て遠くに行かなければならなかったのだ。彼が生き延びるために。
あれから十年近く経つ。あの家には一度も帰っていない。航志朗は広いベッドの上に力尽きたかのように仰向けになった。そして、航志朗は目を閉じた。
その日の陽光が傾きかけ、西日が航志朗の顔にかかった。航志朗はうっすらと目を開けた。
(……今、俺は、どこにいるんだ?)
航志朗は横になったまま、辺りを見回した。
(ああ、そうか。あのまま眠ってしまったのか)
隣に誰かが寝ているような気がした。航志朗は通り過ぎていった
スマートフォンの時刻を見ると、午後五時すぎになっている。着信履歴はなかった。きっとヴァイオレットが航志朗を気づかって休ませてくれたのだろう。呼び出そうとするアンを阻止して。
航志朗はクローゼットを開けて、アンが用意してくれたセレモニー用の衣装を取り出した。華やかな光沢があるダークネイビーのスーツと白いシルクタフタのシャツだ。袖を通すとサイズがぴったりで、思わず航志朗は苦笑いした。おそらくアンの長姉夫婦が経営しているテーラーで仕立てたものなのだろう。
身支度を整えると、アンのスマートフォンに連絡を入れた。にぎやかな音楽と話し声を背にアンが大声で怒鳴った。
『コーシ、やっぱり寝てたのか? もう、寝すぎだよ、おまえ! 何回も電話しようとしたんだけど、ヴィーに止められた。あ、今からそっちにヘアメイクアーティストが行くから、髪、カッコよく整えてもらって!』
「……ヘアメイクアーティスト?」
すぐに部屋のインターホンが鳴り、大きな黒いボックスを抱えた上から下まで黒ずくめの男女が入って来た。男は、自分で適当に整えた航志朗の髪をプロフェッショナルにヘアアレンジし、航志朗の眉毛までカットして整えた。
メイクブラシで航志朗の頬をはらった男が、突然甲高い声で言った。
「パーフェクト! あなた、いい男ね。背は高いし、スーツの上からでもわかっちゃう引き締まった筋肉質の身体。もうドキドキしちゃう。漆黒の髪はさらさらしていてヘアアレンジのやりがい満載だし、顔立ちもノーブルに整っているし、鼻の形もエクセレント! なんと言っても、その美しいアンバーアイ! ああ、吸い込まれちゃうわ!」と大騒ぎして話が止まらない。航志朗は面倒くさそうに顔をしかめた。
後ろで控えていた女が、ショップカードを航志朗に手渡して不愛想に言った。「ミスター・キシ、お気に召しましたら、こちらへ。貴殿のご来店を心よりお待ちしています」。女は航志朗を見つめてうっとりしている男を強引に引っぱって、部屋から出て行った。
呆然としながら、航志朗は姿見に映った自分の全身を見て思った。
(ただの花婿の友人なのに、ドレスアップしすぎじゃないのか……)
午後六時すぎに広大なバンケットホールに行くとすでにパーティーが始まっていて、大勢の招待客たちが食事をしながらにぎやかに談笑していた。目の前を豪華な中華料理が次々に運ばれて行く。食欲を誘う肉汁の香りがホール内を漂う。午前中に軽い機内食を食べたきりの航志朗はまたたく間にお腹が鳴った。
とりあえず、航志朗はアンの家族とヴァイオレットの家族のテーブルに行き、それぞれに祝賀のあいさつをした。両家の年頃の従姉妹たちが熱い視線を送ってきたが、航志朗は慣れた様子でそれをかわした。それから、アンの友人に案内してもらい席に着くと、航志朗がやって来たことに気づいたアンとヴァイオレットが大きく手を振ってきた。アンはまた頬をふくらませて航志朗をにらんだが、隣に座っているヴァイオレットに二本指で頬をつぶされた。
アンの友人たちが、次から次へと中華料理を取り分けてくれた。皆、もうすでに酒がまわり上機嫌だ。
航志朗はパーティー会場のかたすみで静かに座って、この時間をやり過ごすつもりだった。だが、年頃の娘たちとその母親たちが取っかえ引っかえ話しかけてきて、ゆっくり食事どころではない。
航志朗は、アンの魂胆にやっと気づいた。
(やれやれ、アンのやつ、そういうことか……)
アンは、航志朗にこの国で自分のそばに留まってほしいのだ。イギリスの大学を卒業する前に、母国で起業することが決まっていたアンは、航志朗に協力してほしいとなかば無理やり、彼のカンパニーのCOOの地位を航志朗に押しつけた。だがその時、航志朗はアンに言っていた。「オーケー、俺の命の恩人である親友の君に全力で協力するよ。でも、君の事業が軌道に乗るまでだ。俺は俺でやらなければならないことがあるからな」。そこでアンは切実に考えた。航志朗がここで最愛の
(俺の見合いの席を設けたっていうわけか。でも、アン、よく考えてみろよ。俺はおまえの身内に簡単に手を出せるわけがないだろう)
また化粧の濃い着飾った娘に声をかけられた。航志朗は愛想笑いをして丁重にあしらった。航志朗はため息をついた。俺は何をやっているんだと。
午後十時半が過ぎた。そろそろお開きの時間だ。夜がふけて、招待客たちはそれぞれに酔いと満腹感で疲れ果ててきた様子だ。
そこへ、車椅子に乗った黒光りするドレス姿の老婆が、車椅子を押す忠実な番犬のような男とともに、アンとヴァイオレットの席に近づいた。急にふたりは緊張した面持ちになった。ホールはいつの間にか静まり返り、招待客たちは三人の動向に注目した。アンの友人が、いぶかる航志朗に耳打ちした。
「ヴァイオレットの曾祖母です。彼女は、
「見えないものが見える方?」。航志朗は眉間にしわを寄せた。アンの友人は意味ありげに微笑んだ。
老婆はヴァイオレットの瞳の奥をじっと見つめた。ヴァイオレットは、まっすぐに曾祖母の瞳を見返した。その隣で、酒に酔って顔を赤くしたアンは明らかに取り乱した様子でヴァイオレットの手を握りしめた。老婆は微かに目を細め、そして、
「ヴァイオレット。私の可愛いひ孫娘よ、よく聞きなさい。その隣の花婿殿もだ。おまえたちの後ろに、二人の少女の姿が見える。いずれ、おまえたちのもとにやって来るだろう」
「私は二人の女の子のママになるということですね、大おばあさま?」。ヴァイオレットが落ち着きはらって言った。
「そうだ。おまえたちは安心して家庭を築くがよい。十年前、おまえがその男に受け止められたことは、あらかじめ定められた恩寵だった。李安よ、私の愛するヴァイオレットを頼みましたよ」
「はい、大おばあさま!」。目に涙を浮かべたアンが床に額づき、こつんと音を立てて礼をした。中国式の「
その光景を見て、航志朗はアンから聞いたふたりの出会いのエピソードを思い出していた。
十年前、アンとヴァイオレットは同じ学校に通っていた。資産家の優秀な子弟が集まる学校だった。アンは十歳の時に実業家であった父を亡くしたが、年の離れた三人の姉たちとその伴侶である義兄たちが、末っ子で長男でもある彼のために尽力して教育を受けさせた。毎日アンは家族の期待を背負って学業に専念していた。ある日、アンはいつものように放課後も学校の一階の図書館で自習をしていた。閉館時間になって帰宅しようと、アンはエントランスに向かって夕陽が差し込んだ廊下を歩いた。階段の前にさしかかった時、アンは、突然、女生徒の短い悲鳴を聞いた。見上げると、女生徒が制服のスカートをひるがえして階段の上から落ちて来た。アンは、とっさに彼女を全身で受け止めた。その時、アンは右の前腕骨を骨折した。一か月入院して、完治まで半年かかった。落ちて来た女生徒の方は無傷だった。この女生徒こそ、
その話をした時、アンは驚く航志朗にあっけらかんと言い放った。「大けがだったけどさ、ぜんぜん痛くなかったんだよね。あの瞬間、僕たちは恋に落ちたからさ。恋の麻酔薬が効いたって感じかな。……ふふ」。頬を赤らめてアンは幸せそうに笑った。
(ん? いつのまにか、のろけ話にすり替わった)
「その後、ヴィーは大泣きで毎日病院に見舞いに来てさ、学校に戻った後もずっと一緒にいた。利き腕ギブスに包帯ぐるぐる巻きでいろいろ不自由だったから、こまごまと世話してくれたよ。そうそう、男子トイレにまで一緒に入ろうとしてたっけな……」
その一年後、ヴァイオレットの父であるウォン・ファミリーの当主に見込まれて、アンは当主から留学資金の全面的な援助を受けてイギリスに渡った。
その時、航志朗は胸の内で思った。
(「留学資金の援助」だって? それって建前だろ。彼女の父親に体裁よく引き離されたんじゃないか)
ウエディングバンケットの最後で最大のイベントを見守った招待客たちが帰り支度を始めた。酔いつぶれて連れ合いに支えられている男たちや、やかましい声でいまだにおしゃべりが止まらない女たち、またホールの外から大泣きする赤ん坊やぐずる幼児をともなったベビーシッターたちが大勢入って来て雇い主を探していたり、後片づけを急ぐホールスタッフたちでバンケットホール内は騒然となった。そんな状況下で航志朗が会場から出るタイミングを見はからっていると、先程の車椅子に乗った老婆が航志朗の目の前を通った。
ふと老婆が横を向き、航志朗と目が合った。老婆のどろんとにごった瞳に見つめられて、一瞬、航志朗の全身が凍りついた。航志朗は老婆から目が離せない。通り過ぎた老婆は車椅子を押す男に指示して、航志朗の前に戻って来た。同席しているアンの友人たちが驚いたように航志朗を見た。航志朗は老婆の意図がまったく理解できないが、いちおう老婆に会釈した。
老婆はぎろっと航志朗をにらみつけて、英語で彼に冷ややかに告げた。
「……そこの男。やがて、おまえは白い翼を持った女を愛することになる。だが、心してよく聞け。これは、忠告ではなく警告だ。おまえが、その女の白い翼の羽を一枚でも傷つけたら、おまえと女は暗黒の池に落ちて沈む」
その思いがけない言葉に航志朗は身体じゅうが硬直し、目の前が真っ暗になった。何も言い返すことができない。
(
老婆は去って行った。その後、年頃の娘たちもその母親たちも、いっさい航志朗に近づいて来なかった。
すぐに航志朗はバンケットホールを後にした。航志朗は嫌な汗をかいていることを自覚していた。まっすぐスイートルームに戻ろうとすると、部屋の前でアンとヴァイオレットに鉢合わせした。もともとアルコールに弱いアンは断れないおびただしい乾杯で酔いがすっかりまわっていて、足元がふらついている。さらにアンの人生最良の日の感動に泣きはらし、目も当てられない状態である。ヴァイオレットは、そんなアンを健気に全身で支えている。疲れきって深いため息をついたヴァイオレットは航志朗に気づくと、彼に笑顔で話しかけた。
「コーシ、今日は本当にありがとう」
アンも航志朗に気がつくと、「コーシィィー。僕、とっても、とっても、ハッピーィィー」と涙をにじませて航志朗に抱きついてきた。航志朗はそんなアンを抱きとめた。本当に放っておけない愛しい親友だ。ヴァイオレットはそんなふたりを温かく見守った。そして、ヴァイオレットは航志朗の肩に手を置くと、背伸びして航志朗の頬にそっとキスした。
「おやすみなさい、コーシ。ゆっくり休んでね」
「ありがとう。おやすみ、ヴィー」
アンとヴァイオレットは、自分たちのスイートルームによろよろと向かって行った。そのふたりの後ろ姿を見送りながら、航志朗は少し心配になった。
(アン、これから、……大丈夫か? 余計なお世話だけど)
航志朗はアンに用意してもらった部屋に入った。長い一日が、やっと終わった。ベッドに腰掛けると、窓の外に上弦の月が見えた。それは航志朗に先ほどの老婆の瞳を思い出させた。
(今日、いや、正確には昨日から、立て続けに三回も奇妙なことが起こったな……)
航志朗はほどいたボウタイをサイドボードに向かって投げて、そのままベッドに身を投げ出した。
(……俺が、白い翼を持った女を愛することになる?)
甘美な予感なのか、不吉な予感なのかを分析するには、航志朗はあまりにも疲れすぎていた。
そして、航志朗は眠りに落ちた。
白く光る月が目を閉じた航志朗を森閑と照らした。
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