第1章 黒川画廊
今、開けた窓から、ひとひらの桜の花びらが舞いこんできた。
まだパジャマのままの
若葉が出始めた山桜の樹々に覆われた築二十年ほどの団地の一室で、安寿は同居している叔母の
その画家の名前は、
「恵ちゃん、私とじゃなくて、
高校の制服に着替えた安寿は洗面台の前で普段より入念にメイクをしている叔母の隣に立った。寄り添ったふたりは互いの鏡に映った顔を見ながら話を続けた。
「何よ、今さら。優ちゃんは、安寿がものすごく受験勉強がんばって、晴れて第一希望の美大付属の高校に合格したご褒美だよって言っていたのよ。今度会った時に、彼にお礼を言うのを忘れないでね」
「それにしても、やっぱり安寿にフォーマルなワンピースを用意しておけばよかった。私たち、会場で場違いにならなければいいけれど……」。叔母のいつもの口癖「××しておけばよかった」がはじまった。
「だ、か、ら、たった一度しか着ない洋服をわざわざ買うなんてもったいないでしょう。高校の制服があるんだから、これでいいじゃない。私、この制服けっこう気に入っているし、まだ一か月も着ていないから真新しいし、失礼にはならないと思うよ」と安寿は彼女のいつもの口癖「もったいない」で応酬した。
恵は幼い頃からなんでも必要以上に欲しがらない安寿をときどき不憫に感じている。それに安寿が学費の高い私立高校に進学したことを、自分に対して胸の内で申しわけなく思っていることも知っている。安寿は優しい子に育った。そう、姉のように。でも、安寿の
(しっかりしなくちゃ。私は、
安寿の母、
安寿は丁寧にアイロンをかけた丸襟の真っ白なブラウスの上にクラシックなデザインのジャンパースカートを穿いて、その上にブレザーを羽織った。ジャンパースカートもブレザーもグレーのギャバジンの無地で仕立てられていて、シンプルではあるが上品な印象の制服だ。安寿は少し迷ったが、校章と学年章はそのまま付けていくことにした。
安寿は鏡の前で髪をとかした。入学前に肩にかかるくらいのボブカットにした。今まで髪を染めたことは一度もない。鏡を見ると後ろ髪が寝ぐせではねてしまっていて、ドライヤーで整えた。そして高校生になってから使い始めた少しだけピンクに色づくリップクリームを薄く塗って身支度を整えた。それは、ティーンズファッション雑誌の編集をしている恵の大学時代の友人からのプレゼントだ。
今、十六歳になったばかりの安寿には、誰が見ても人目を引くような美しさはない。小柄な方で胸だって小さめだ。だが安寿をよく知る数少ない人たちは、安寿のなかにこのうえない美しさのつぼみが開く予感を感じている。それが意識的であるか、無意識的であるかは人それぞれだが。
安寿は人の心の奥底をざわめかせるところがある。あえて言ってみれば、今、目の前にいる彼女がいつか高く高く飛び立って、まったく自分の手の届かない美しい世界に行ってしまうだろうという哀しい予感と、そして罪深き地上に無残にも置き去りにされてしまうだろうという恐怖を暗に人に感じさせるのだ。もちろん当の本人にまったく自覚はない。
安寿は、保育園から小学校、中学校までを公立の学校に通ったが、親しい友人はいなかった。クラスではほどよい中立的な女子グループになんとなく入れてもらっていて、ひとりぼっちでいたわけではないが、中学を卒業してからも会うような関係ではなかった。でも、安寿はそのことを寂しいとは思わなかった。それは、もちろん、母や姉のような、また親友のようでもある存在の恵がいるからである。そして安寿は叔母を心から愛していて、叔母の幸せを何よりも願っている。
安寿と恵は地下鉄を二回乗り換えて、岸宗嗣の個展が開催されている銀座の画廊に到着した。安寿は画廊の入った建物を見上げて思わずため息をもらした。まるでパリの街角にやって来たような気分になった。とはいっても、安寿は海外に一度も行ったことはないし、飛行機にすら乗ったことがない。建物の外壁はニュアンスのあるグレイッシュな白壁でツタに覆われている。エントランスには、立て札がついた豪勢な花のアレンジメントがいくつも飾られていた。ふたりともいささか緊張の面持ちで互いの顔を見合わせた。
「安寿、……入ろうか?」。恵が覚悟を決めたように言った。
「うん。ちょっとどきどきする」
画廊に一歩踏み出した安寿は、一瞬、自分の左足がうずいたのを感じたが、気にもとめなかった。
個展が開催されている「黒川画廊」は、都内有数の老舗アートギャラリーである。オーナーを務めるのは、
五階建ての黒川画廊は、銀座の閑静な裏通りに北向きでひっそりと建っている。一階から二階は企画画廊、三階は常設展示、四階はオフィスで、五階は住居スペースになっている。企画展が開催される以外は、オーナー兼ギャラリストの華鶴が基本的に一人で経営している。貸画廊業はしていない。住居スペースは、いわば華鶴個人の別宅のようなもので、本宅は画廊から車で五十分ほどの東京郊外にある。
恵は入口脇のレセプションで白髪頭の初老の男に招待状を見せて受付を済ませ、安寿と会場に入った。一階には十人ほどの客がいて、やはりひと目で富裕層に属する人びとだとわかるような身なりをしている。思わず安寿は上品な物腰の夫人が着こなした
「あれ、白戸さんじゃないの? 久しぶり。そちらはあなたの娘さん? 意外に大きなお子さんがいらっしゃるんだね」
入場者の中では比較的若くこざっぱりした和装姿の男に恵は声をかけられた。恵は特に訂正もせず急にビジネスライクになり、その男に向かって丁寧にお辞儀をした。
恵はダークネイビーのワンピースにボレロ風のジャケットを着ている。制服姿の安寿と並んでいるとお受験ママのように見えるのかもしれない。
その男の隣には、ゼニスブルーのジョーゼットのボウタイブラウスにホワイトのワイドパンツを穿いた細身の女が立っている。
「安寿、仕事でお世話になっている彫刻家の
安寿はあわてて叔母のまねをして、ふたりにお辞儀をした。緊張でこわばった顔を上げると、はっと息を吞むような華鶴の美しい微笑に迎えられた。
(こんなに美しい
華鶴はふいに何かに気づいた様子で、安寿に微笑みながらやや低めの甘い声をかけた。
「あら、可愛らしいお嬢さん。あなた、
(たかの先生?)。安寿は聞いたことがある名前だと少し考えて、はっと思い浮かんだ。
「あ、あの、校長先生のことですね!」
「まあ、お元気そうで嬉しいわ。高野先生、私の担任の先生だったのよ」。華鶴はさも嬉しそうに微笑んだ。
「おやおや、華鶴さんのご後輩なんですね。よろしくね、お嬢さん」。川島は笑顔でなかば強引に安寿の手を取って握手した。
その川島の態度を見て眉間にしわを寄せた恵は、「私は少しおふたりと仕事の話をするから、ひとりで作品を見せていただいてね」と安寿に声をかけた。安寿は恵にうなずいて、また華鶴と川島にお辞儀をしてからその場を離れた。華鶴は微笑みながら安寿をずっと目で追っていた。
安寿は一階の場違いなほどの華やかな雰囲気がどうにも落ち着かないので、奥の階段を上って二階の展示室に入った。二階でも数人の客がいて何やら声高に歓談している。その様子を見て安寿はひそかに思った。
(皆さん、作品に背を向けておしゃべりしている。作品を見ていないんじゃないのかな)
二階の岸の作品は、田舎の田園風景が中心で季節ごとに展示されている。安寿は一枚一枚丁寧に見ていった。
(誰もが好むような明るく柔らかい色彩。それに細密なタッチで描かれていて、本当に美しい写実画。だけど、なんだろう。無気力感というか、もの悲しさを感じる)
ここまで熱心に鑑賞してきて安寿は少し疲れを感じたが、せっかくなので常設の作品も見せてもらおうと思い立った。安寿は三階にも上がった。室内には誰もいない。華鶴の個人的なコレクションなのだろうか、華やかな静物画が品よく展示されていた。ひととおり目を通した安寿は息が詰まってきた。
(ここにはたくさんの素晴らしい作品が並んでいるけれど、私が好きだと思える絵はない。たぶんお金持ちの人たちが玄関とかリビングルームに飾るための絵画なのかも。いくらなのか見当もつかないけれど、とても高価そう)
ため息をついて恵のところに戻ろうとした時、安寿は窓際に置いてある猫足のついたダークブラウンの古いコンソールテーブルの上に額に入っていない油絵が置かれていることに気づいた。その油絵は遠目にぼうっと灰色に鈍く光っているように見える。吸い寄せられるように安寿はその絵に近づいた。そして内心ではいけないと思いつつも、思わず手に取ってしまった。
その油絵は夜の湖畔の風景が描かれているのだろうか、深い霧に覆われた暗い森のなかにたたずむ灰色の湖畔が描かれている。きわめてシンプルで見ようによっては無彩色のグラデーションだ。
安寿はしばらく呆然とその静謐な絵を見つめていた。
安寿はふと何かずっと忘れていた大切なことを思い出したような気がした。でも、それは思い出してはいけないものだ。思い出したら、きっと自分はそれにひどく傷つけられてしまうだろうという言い知れぬ恐怖がわいた。だが、同時に思った。この風景のなかに入って思いきり泣きたい。たくさん涙を流して、大きな泣き声をあげて。でも、あの日、安寿は外の世界では泣かないと心に決めた。それ以来、他人の前で泣いたことはない。
その時だった。突然、安寿は後ろから声をかけられた。
「その絵を気に入っていただけましたか?」
安寿は心臓が飛び上がるほど驚いて振り返った。
そこには、白髪交じりで長身の痩せた男が立っていた。影を失ってしまったかのようなとても静かなたたずまいだ。男は遠慮がちに安寿に尋ねた。
「よかったらどんなご印象を持たれたのか、うかがってもよろしいでしょうか?」
安寿はその男と目が合った。男の目の虹彩は
「あの、もう会えないひとたちが、この湖畔にたたずんでいるような気がしました」
安寿は微かに震える声でやっと答えた。
その男は少し不思議そうな顔をした。
「もう会えないひとたち、ですか?」
「はい。……亡くなった母とか、祖父母とか」
思いがけない自分の言葉になぜか涙がこみあげてきて視界がにじんだ。もう抑えられない。涙が安寿の頬を伝った。でも、安寿は泣き声をあげない。だだ涙が頬を濡らすだけだ。そんな自分に戸惑いつつも安寿は思った。
(どうして、私は初めて会ったひとの前で泣いているの。どうして、私はこんなにも胸がしめつけられるの)
男は安寿の感情が落ち着くのを待つかのように、無言で安寿を見守った。それはあらかじめその男に予定された役割をただ
ふたりの間に静かな沈黙の時間が流れた。しばらくしてから男が言った。
「あなたに何かつらいことを思い出させてしまったようで、申しわけありません。よかったらこれを使ってください」
目を伏せた男は真っ白なハンカチを安寿に差し出した。だが、安寿は身体が硬直して受け取ることができない。そんな安寿の様子に気づいて、男は自ら安寿の涙をそっとぬぐってから、安寿の手にハンカチを握らせた。そして安寿を窓際の椅子に座らせると、「温かいお茶でもいかがでしょうか? ご用意いたしましょう」と言って男は奥に消えた。
湿ったハンカチを握りしめた安寿は、窓の外を見た。無機質なビルディングの連なりが見える。その連なりの小さなすき間にどんよりとした曇り空が見えた。
曇り空を薄い小さな影が横切っている。たぶん飛行機が飛んでいるのだ。あの飛行機はどこに向かっているのだろうかと、安寿はぼんやり考えた。
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