第4章 出会い 第1節

 安寿は高校に入学してから、初めての夏休みを迎えていた。

 

 学校から秋の学内展覧会に出展する作品制作の課題が出ていた。その画材やモチーフは自由だ。安寿は油絵を選択して、岸家の裏の森の風景を描こうとしていた。華鶴はそれを聞くととても喜んで、岸のアトリエで安寿が使う新品のイーゼルをさっそく用意してくれた。


 「恵ちゃん、いってきます」


 半袖の夏制服を着た安寿はあえていつも通りを装い家を出た。連日、高温注意情報がアナウンスされている。今年の夏はうだるような暑い日が続いていた。まだ午前中の早い時間にもかかわらず、すでに三十度を超えている。昨晩は熱帯夜のためではなく、岸家に伺うことにいまだに緊張してしまって、安寿はあまりよく眠れなかった。約束の時間の五分前に岸家の車が団地の入口に迎えに来た。いつものように穏やかな微笑みを浮かべた伊藤が後部座席のドアを開けて、丁重に安寿を車に乗せた。


 安寿が岸のモデルになってから、もうすぐ三か月になる。岸夫妻の予定にもよるが、毎週土曜日に岸のアトリエに通っている。安寿は別の意味で、土曜日に予定ができたことを内心喜んでいた。自分が出かけている間、きっと叔母の恵は恋人の渡辺とゆっくり会うことができるだろうと考えたからである。恵は安寿を気遣い、安寿を一人にして外泊をしたことがない。恋人同士なら、きっと朝まで一緒にいたいと思うはずなのに。


 岸家に着くと、二階の一番奥の部屋で、安寿は制服から白いシルクのティアードワンピースに着替えた。少々透ける素材なので、下に同じ素材のペチパンツも穿く。華鶴が岸家御用達のテーラーに仕立てさせたワンピースだ。しっとりと光沢のある上質なシルク生地が素肌に触れて気持ちがよい。

 

 安寿は裸足にスリッパを履いて、ゆったりとしたワンピースの裾をひるがえしながら、母屋の裏口を出て早足にアトリエに向かった。アトリエのドアは開いていて、岸がイーゼルの前に座っているのが見えた。安寿と岸はあいさつを交わした。


 「岸先生、おはようございます」


 「安寿さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします」


 「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 岸が窓から入って来る自然光に照らされた安寿をまぶしそうに見つめた。安寿の身体が透き通って、白く柔らかく光っているように画家には見えた。それは本当に無垢な美しい姿だった。岸は絵に取りかかる前に、それを安寿に伝えたいと思って言葉に出した。


 「安寿さん。そのワンピース、よくお似合いですね。とても美しいです」


 そう言ってはみたものの、(私は、彼女に、私の本当の想いを伝えることができない)と岸はその琥珀色を瞳を陰らせて思った。


 (私には絵しかない。空っぽの私は本当に絵を描くしかない)


 岸の想いを知らずに、安寿は画家に美しいと言われて胸が高鳴っていた。だが、すぐに美しいのは私ではなくこのシルクのワンピースだと思い直して、安寿は気持ちを落ち着かせた。

 

 この三か月間、岸は制服姿の安寿を目の前の椅子に座らせて、スケッチブックに鉛筆でデッサンしていた。ポーズは特に指示せず、どうぞリラックスして座っていてくださいと画家は言った。

 

 安寿はとても緊張した。こんなに他人ひとから見られるのは初めてだ。ましてや相手は画家である。服を着ているというのに、自分の裸をさらけ出すような恥ずかしさに襲われる。でも嫌な気持ちはしなかった。自分で選択したことだ。私はここに覚悟して来ている。岸の美しく澄んだ琥珀色の瞳と、画家が絵を描く姿を長時間目の当たりにして、安寿はこの居心地のよいアトリエで岸とふたりで一緒にいられることを、何よりも嬉しく思っていた。思わず安寿は岸に微笑んだ。岸も安寿に穏やかに微笑み返した。


 「安寿さんがよろしければ、今日は午後も引き続き描きたいのですが、いかがでしょうか」と遠慮がちに岸が言った。安寿は姿勢を動かさずに軽くうなずいた。


 この三か月間、モデルになったのは午前中の二時間程度だった。正午を回ると岸家の家政婦の咲がつくった昼食を岸夫妻と食事室でとる。午後は、岸に学校の課題を見てもらったり、仕事の予定がない華鶴と一緒にお茶を飲みながら華鶴の一方的なおしゃべりを聞いた。時には華鶴が運転する車で都心まで行き、華鶴の買い物に付き合った。華鶴は自分には息子しかいないから、娘のような安寿と女同士で出かけるのがとても楽しいと語った。華鶴は遠慮する安寿を押し切ってテーラーメイドの老舗洋品店に連れて行き、高級な生地で洋服を何着もオーダーし安寿にプレゼントした。「私に『女の子のママごっこ』をさせてね、安寿さん!」と美しい笑顔を浮かべながら華鶴は愉快そうに言った。さすがに高価なバッグや靴やジュエリーは伊藤に訴えて断ったが、何かにつけて安寿に物を買い与えようとする華鶴に、安寿はほとほと困り果てていた。モデルとしての充分すぎる報酬をいただいているというのに。


 その日は華鶴が不在で、岸とふたりで昼食をとった。咲が素麺に数種類の野菜と海老の天ぷらを添えて用意してくれた。安寿はシルクのワンピースを着たままだったので、咲に割烹着を借りてワンピースの上に着て汚さないように気をつけて食べた。その様子がなんとも可愛らしいと言って、岸と伊藤と咲は、顔を見合わせて微笑んだ。

 

 食後に岸に電話があった。安寿は岸家の化粧室を借りて歯磨きをしたり身支度をしたりして、先にアトリエに向かった。 


 午後になるとその日の最高気温に達して、さらにひどい暑さになっていた。だが森に面した窓を開け放ったアトリエには涼しい風が通りクーラーが不要だった。安寿は岸が戻って来るまで学校の課題を進めようとした。キャンバスバッグから描きかけのキャンバスを取り出し、イーゼルに立てかけてワンピースを汚さないように気をつけながら画筆を走らせた。目の前の森を描いているが、まったく色づかいが違う。安寿は初めてこのアトリエに来た時に見た森を思い出しながら描いている。真夏の樹々が緑鮮やかに生い茂る森ではなく、灰色にくすんだ霧深い森を。


 少し疲れを感じて、安寿は画筆を止めて深呼吸した。すると、岸が少し表情を曇らせてアトリエに戻って来た。安寿はすぐに岸のイーゼルの前に置かれた椅子に座り直した。


 「お待たせしてしまって、申しわけありません。……あの、安寿さん、お願いがあります。そのカウチソファでポーズをとっていただきたいのですが」


 その突然の岸の申し出に安寿は驚いた。岸からポーズを要求されるのは初めてだ。安寿の胸の鼓動が早まった。


 「……はい。わかりました」


 安寿は椅子から立ち上がって、カウチソファに座った。岸がアトリエの奥にある洋風の衝立ついたてにかけてあったレースのベールを腕にかけて持って来た。


 「安寿さん、横向きに寝ていただけますか」


 安寿は一瞬戸惑ったが、岸に言われた通りにカウチソファの上に横向きに寝そべった。すると「ちょっと、失礼」と岸は言い、持っていたレースのベールを優しく安寿に掛けた。


 「このベールは、私の母が結婚式の時に使ったものです」


 安寿は繊細なレース刺繍がほどこされたベールが肌に触れると胸がしめつけられた。


 (なんて美しいベールなんだろう……)


 イーゼルの前に座った岸が言った。


 「安寿さん、どうぞリラックスしてください。では、始めます」


 画家の琥珀色の瞳が今まで見たことがない熱気をともなった光を帯びたように安寿は感じた。


 (本格的に岸先生のモデルとしての役目が、今、始まったのかもしれない)と安寿は身を引きしめて思った。


 岸が鉛筆で安寿の姿態をデッサンする音がアトリエの空間に絶え間なく気勢を注ぐように響く。目の前の画家が持つ「美しい力」を感じたいと心の底から強く思い、安寿はその視線を一途に岸に向けた。

 

 

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