終章
縁繋ぎ
あなたを殺してしまったなんて、嘘。
祖母から絵馬を受け取ったとき、初めて祖父の名を知った。その名が、絵馬様寺の最後の住職――大昔に寺へ火を放ち、乱心の末に炎に呑まれて命を絶った人物と同じであることにも気づいた。
『おばあちゃんね、昔、神隠しのようなものに遭ったことがあるの。そこであなたのママを授かったのよ』
幼い頃に聞いた祖母の声が、ふと脳裏に蘇る。
焼失する前の絵馬様寺の姿を、彼女が克明に証言できた理由。ひたすらに祖父の情報を閉ざし続ける理由。それらの答えは、祖母の身に、現実には考えられないことが起きたという事実にこそある。
『いつかあなたが大きくなったら、私をあの人のところへ送ってね』
――最期まで、頑張って生きるから。
死に憧れていながらよく言えたものだと思う。だからこそ僕は、愛する人と死に別れた人たちにとって死は不幸ではなく、むしろ甘美にさえ映るものなのだと、余計に信じざるを得なくなってしまった。
母が結婚したとき、それから僕が生まれた後、祖母は二度も死後婚を断念している。祖父から託された絵馬に自ら名を刻むことを、一度のみならず諦めたということだ。
『お願いね』
あなたの最期の声を思い出す。細く、優しく、それでいて懺悔でもしているような声を。
あなたは、寿命が尽きるとほぼ同時にその時を選んだ。そのことも吐き気がしてくるほど明確に理解できている。それでも。
死に対する甘美な期待は、あなたから流れ込んでくる感情の蠢きによって僕自身にも深く根づいていた。愛する人と死に別れた経験なんて僕にはないのに、感情だけが勝手に植えつけられている、そんな感じ。
だから、あなたに絵馬を託されたとき、僕はあなたのせいにしてしまうことにした。
あなたを殺してしまったなんて、嘘。
あなたは僕にそうさせないためにこそ生き抜いた。目が見えなくなっても、自力で動けなくなっても、精一杯、命の灯火が尽きる瞬間まで。
意図はどうあれ、あなたが僕に吹き込み続けてきた死への憧憬は、如月が現れて以降瞬く間に花開いた。如月に対して、どうか早く僕を殺めてほしいとすら思っていて、だから僕は彼をすぐ傍に置いて……それなのに。
彼女と再会したのはちょうどその頃だった。
根の部分で死へ憧れを抱き続けていた僕が、分かったような顔で「生きろ」と諭してしまった、僕のかつての恋人。
雨宮伊織は、とにかく僕を嫌っている。
けれど、僕は彼女を好いていた。四年前、放っておいたらそのまま死んでしまいそうなほど心身を疲弊させていたのに、僕の言う通りに生き続ける道を選び、その癖、一方的に僕を切り捨てた残酷な人。
友人の死を弔うために帰省した彼女を、仕事という名目で繋ぎ留めて隣に置こうと思ったのは、単なる気紛れだ。彼女の友人を殺めた如月の傍に彼女を置く危険を、自ら招き入れる羽目になったが、それも気紛れの範疇でしかなかった。
僕が思う「気紛れ」は、他人が思うそれよりも遥かに曖昧で、危なっかしくて、無防備なものだ。その件について如月に尋ねられたときも、お前にはすべては理解できないと伝えた。如月は赤鬼のように顔を染めて怒っていたが、事実なのだから仕方がない。
しかし、雨宮伊織は違った。
あなたは僕を見破りたがった。それは過去――僕らが交際していた一ヶ月の間には見られなかった兆候だ。
望む望まぬにかかわらず、他人を見破るのは僕の常套手段だ。あなたは僕に自身の内側を晒し、そのことを嫌だ嫌だと喚き叫んで、それでも僕から離れようとしなかった。嫌そうに顔を歪めては僕にまとわりついてくる。
だから、僕もあなたにまとわりつくことにした。離れていくならそれまでだと思っていたけれど、僕はなんだかんだと理由をつけてはあなたを傍に置き、あなたもああだこうだと文句を言いながらも僕から離れない。
あなたと如月家を訪ねたあの日、僕は執拗に如月水羽を挑発し続けた。いつか事務所を訪ねてきた如月瑞希へそうしたように。
わざとあれらを喚び出させることで、無知なあの女を潰してしまおうと思ったからだ。
僕自身にも、あの場に同行したあなたにも相応の危険が及ぶと分かっていて、僕は水羽への挑発をやめなかった。それどころかますます彼女を激昂させるべく仕向けた。
子供を、などというふざけた提案を恋人の前で堂々と告げられたことへの怒りもあったが、なによりも、叶うことなら黄泉に呑まれて消えてしまいたかったからだ。
あなたが身を呈してまで――文字通り、僕をその身に受け入れてまで払拭してくれたはずなのに、期待という名のその蠢きは僕の中にまだ根深く残り続けていた。
あなたにあそこまでさせておいて、結局は消えない。消せない。そのこと自体が許されがたい罪に思えて、だからあなたに対する贖罪の意味もあって……僕が死んだらあなたが苦しむ、そうと分かっていても抗いきれなかった。
すべてを理解してもらえるとは思っていない。例えば相手が如月だったら、奴の姉だったら、彼らには理解できなかったに違いないと今でも思う。
だが、あなたはどうだろう。
しぶといあなたは見抜いていたのかもしれない。殉じて死んだように見せかければ誰も気づくまいという、僕の浅はかな算段を。
僕の言動は矛盾だらけだ。
あなたに気づいてほしくないのに、あなたを傍に置いてしまう。あなたを騙し続けていたいのに、あなたに理解してほしいとも思ってしまう。
ただ、ひとつだけ誤算が生じた。
いつかあなたに押しつけた絵馬、あれに僕の名を刻まれるとは。
そもそも、あなたがあれを持ち歩いていると思っていなかった。
しかもボールペンで、あんな雑に……いくらなんでもひどくないですか、と零しかけたものの、声は出なかった。出せなかっただけではあるが、出なくて良かった。本当にひどいことをしているのは僕だから。
躊躇なく僕の名を記したあなたに、あのとき、僕は場違いにも驚きを覚えていた。僕と同様、あるいはそれ以上に気紛れなあなたの「好き」という言葉を、やはり気紛れなのではと心のどこかで信じきれずにいたからだ。
『このままお前が死ねば、私も死ぬ』
……やってくれる。
死の淵に立ちながら、強くそう思った。
ぴくりとも動かせない身体を引きずって、つい舌打ちしそうになって、けれどもしかしたら僕はこの人にこうしてほしかったのかもしれないと思って、その期待をこの上なく格好悪いなと辟易して、そして。
初めて、足掻いた。
絵馬を渡せと伝えたときのあなたの顔を忘れまいと、そればかりを考え、僕を引きずり込もうとする黄泉の甘い手を振りきった。
自ら用意した蟻地獄にほとんどすべてを奪われながらも、そこから抜け出さなければと、死に物狂いで「あれら」の誘いを弾き飛ばした。
あなたの友人が手を貸してくれたことも、理由のひとつではあったと思う。あれら――あなたの友人を含めた黒い塊の連なりは、少しずつ少しずつ僕から手を引いていき、逆にあなたの声が近くなる。
初めて生きていたいと思った。もし許されるならあなたと、とも。
そんな欲まで前面に出て、図々しいことを考えていると分かっていて、それでも足掻いて、足掻いて……最後の最後に祖母の笑う顔が見えた気がして、潮時だなと思った。
あなたに渡された絵馬を握る指に、動けないながらも力を込める。僕が死ねばあなたも死ぬ、それを実現させないためにはどうしたって僕が生き残らなければならない。
恐ろしいことをされているのに、嬉しいとも確かに思う。
だから受け取った。あなたと僕、ふたり分の名が刻まれた絵馬を、受け取らない選択も取れたのに、あえて。
僕という生き物はもう、あなたにまるごと作り変えられてしまった後。
*
元は十二枚あったうちの十一枚目を破り取り、とうとう最後の一枚だけが残ったカレンダーを眺め、私はそっと息をついた。
気忙しい季節ではあるが、この事務所に限っては、いっそ退屈なほどのんびりと時間が流れている。最後の電話応対が五日前という閑古鳥の鳴きっぷりだ。
自宅アパートとこの事務所を行き来する生活を続け、早二ヶ月。その間に、仕事の依頼は一切入らなかった。どこまで零細なんだと当初こそ鼻白みそうになったものの、次第に、川島が事前に手を回して準備をしていたのではと考えるようになった。
――あいつ、絶対に死ぬ気だった。
腹が立って仕方ない。あれほど説得し、それに成功した気でいたのに、私はあいつのなににもなれていなかったとでも……
私がボールペンで刻みつけた殴り書きの自分の名を見て、あのとき川島はなにを思っただろう。絵馬を持ち歩いていて良かった。実際には、鞄に入れておいたことをすっかり忘れていただけだが。
あの直後、田住と数人の警察官が如月家に到着した。
家の中にはひとりの遺体とふたりの意識不明者と、そしてそのうちのひとりを抱きかかえて泣く私――彼らの困惑は深かったはずだ。しかしそれを表情にも態度にも滲ませることなく、夜分であるにもかかわらず、彼らは早急に救急車を手配し、また遺体を検分する手筈を整えた。
川島と水羽は同じ病院に搬送されたが、その後川島だけ別の病院へ移った。私は田住に同行し、聴取を受けるに至った。
……とんだ災難だった。
遺体は水羽の祖母で、水羽に突き飛ばされた際に頭を打ち、死んだ。
田住には水羽から聞いたまま伝えたが、当の水羽は昏睡状態だ。彼女の発言を私とともに聞いた川島もまた、水羽同様、意識のない状態にあった。
水羽と水羽の祖母、ふたりの間にどんな
拘束には至らなかったが、聴取は連日に及んだ。
居心地はすこぶる悪かった。なにせ、水羽の祖母を殺したのが私であるという可能性が、警察の中ではゼロではない。刺すような視線を方々から浴びながらの聴取は、とにかく喉が渇いてならなかった。
ただ、水羽の祖母の遺体は死亡から数日が経過していた。合わせて当日、私と田住が如月の入院先で顔を合わせていたことや、如月家へ向かう直前に私自身が田住へ行き先を伝えていたことなども効いたらしく、露骨な疑惑の視線は次第に引いていった。
田住は、意識を失った川島が握り締めていた絵馬を現場で目にしている。
私が書いた『川島紬』という雑な字を見て、彼はぞっと顔を歪め、それから射るような目で私を見た。
伝わるかどうか分からなかった。伝えきる自信もなかった。だが、本当のことを言わなければならない気がしたから告げた。
『私が書きました。川島を死なせたくなかったから』
あの日如月家で起きたできごとが、人知を超えたなにかであったということ。それをある程度正しく理解できる警察側の人物は、考え得る限り田住以外にいなかった。
水羽による死後婚が引き起こした一連の事件、それ自体が人知を超えたなにかによるものだと、彼とてすでに理解しているはずだった。予想通り、川島が握る絵馬について、田住はそれきりなにも尋ねてこなかった。
水羽の手に握られていた絵馬も、もちろん回収された。
四人の被害者たちの枕元へ添えられていた絵馬と型が同じだったそうだ。絵馬様寺の絵馬と酷似しているが、手を加えられているようで、板や吊し紐の色、大きさ、柄……そういったものが微妙に異なるという。
無論、水羽が力を込めているか否かの差はあるだろう。彼女と如月のふたりだけが本物だと信じていた、被害者を死に追い込みこそすれ、婚姻や成就といった縁は紡げなかった、半端な力が生んだ成れの果て。
水羽は今も目を覚ましていない。祖母殺しの疑惑がかかっている以上、如月同様、彼女も警察の監視下に置かれると聞いた。
如月には拉致・監禁の罪状がかかり、水羽には殺人と死体遺棄がかかる。詳細を知った如月は、私の拉致のみならず、被害者たちの死にも関わっていると自首したそうだ。正確には自殺幇助についての自白だという。彼が挙げた中には、現場に絵馬と花を残さなかった関村勝美も含まれているらしい。
ただ、語る田住の声は終始溜息交じりだった。証拠が不十分な面や、解明しきれない部分が多すぎる……彼は苦い顔でそうぼやいた。
如月姉弟が取った手段は通常では考えられないものであり、辻褄が合わなくなるのは当然だ。事実、アリバイが成立していたからこそ、如月は田住の視線を受けながらも堂々と川島の事務所で働き続けていた。
自殺である証明は、四人もしくは五人の被害者のうちひとりとしてできていない。とはいえ、如月の証言には加害者しか知り得ない――被害者へ送付された絵馬であったり、枕元の花であったり、そうした情報もあるそうだ。
みゆきを殺した犯人が罪を認めた今、それでも私の気は一向に晴れない。水羽に至っては今も意識が戻っていないわけで、今後ふたりがどんなふうに裁かれるのか、そもそも裁くに至れるのか、想像がつかなかった。
望むだけでは人は死ねない。それが覆しようのない事実である以上、如月と水羽が負うべき本当の罪を、この世で正しく裁くことは不可能なのかもしれない……だが。
換気のために開けていた窓から冷えきった風が入り込んできて、私ははっと我に返る。
あれから二ヶ月、私はこの事務所の留守を預かり続けている。
それには理由があった。水羽はいまだ目覚めを迎えていない。けれど、もうひとりの意識不明者は。
ピンポーン、と甲高い音が室内に響き渡り、私は分かりやすく息を詰めてしまう。
事前の連絡は、昨日のうちに彼の家族から受けている。そろそろだとは思っていたが、インターホンの受話器を握る指が震えてならない。相手の第一声が耳に届いたときには、危うくそれを取り落とすところだった。
簡単にもつれそうになる足を無理に動かし、玄関の鍵を開け、そして。
「……ええと。お久しぶりです」
扉越し、寝癖頭の川島と目が合った。
少し痩せて見える。それは予想通りだった。しかし、光の関係なのか日が差している側の目が淡い灰色に見え、私は一瞬相手が別人なのではと錯覚してしまう。
立ち尽くす私に倣うように、相手もまた玄関のドアを閉めて以降は立ち尽くしたきりだ。ふたり揃って黙り込み、どれほど時間が経過したのか――ほんの数秒だったとは思うが、観念した様子で先に相手が口を開いた。
「なんというか……仕方なく起きました。あなたを道連れにはできないので」
気まずそうに視線を落としてぼそぼそと呟く男の声が、ゆっくりと耳に馴染む。
意識を取り戻したと聞いたのはおよそひと月前だ。衰弱が激しく、しばらくは自身の意思で身体を動かすことができずにいたと彼の家族から聞き及んでいる。声すらもうまく発せなかったのだと。だが。
「……知ってる」
掠れ声で応じると、川島は薄く笑ってみせた。口元だけが弧を描いて、けれど目は困惑している曖昧な笑みだ。
元の生活に戻れるまで半年はかかると聞いていたのに、随分元気そうだ。とりあえず直そうとはしたらしい痕跡こそあるが、派手に頭に浮いたままの寝癖もまた、私の知る彼そのものだ。噴き出してしまいそうになる。
そんな私をちらりと一瞥した後、探るような気配を滲ませつつ、川島は再び口を開く。
「目が覚めた日、夢を見たんです。久しぶりに色がついた夢」
夢、と鸚鵡返しした私から、川島は露骨に視線を外した。
また火事の夢でも見たのかと眉を寄せてしまったが、相手は目を逸らしたきりだ。玄関の床を見つめ、言葉を探すように小首を傾げ、ええと、と零している。
「先輩が出てくるときだけ色つきなんだ。だから、現実か夢か、目が覚めたときに一瞬分からなくなる」
へぇ、と相槌を入れた。
自分の見る夢は白黒なのだと、以前、確かに本人から聞かされはしている……とはいっても。
「……それ、今しなきゃいけない話か」
思った以上に訝しげな声が出た。
相手もまた眉を寄せ、困惑げに額へ指を載せている。
「いや、多分違うんですけど、……話したいことがありすぎて、逆に碌なことが言えない……というか」
「はは。なんだそれ」
自分でもよく分かっていなそうな顔で言うから、私は今度こそ声をあげて笑った。
私が本当に眼前に立っているか確認したがってでもいるように、川島はまっすぐ私へ指を伸ばしてくる。頬に触れる指は遠慮がちで、また儚ささえ感じさせる仕種で、堪らず私はその指を掴んだ。
病み上がりの男の指は、少し力を込めればそれだけで簡単に折れてしまいそうで不安になる……それでも。
「おかえり」
声が零れると同時、ぱたりと涙が溢れた。
掴んだ私の手をおそるおそる自身の側へ引き寄せた男の顔は、その胸元に抱き寄せられたことで、間もなく完全に見えなくなった。
背にぬくもりを感じながら、私は、震える男の吐息を耳元で確かに受け止める。
「……ただいま」
相手の声もまた派手に震えていた。
夢見ていた死を諦め、それどころか生きるために必死に足掻いて私の元へ戻ってきた男の声が、ひたすら心地好く耳に溶け込んでは、頭に、そして胸の奥に居場所を作り始める。
その心地好さに酔い痴れながら、私はそっと瞼を下ろした。
〈了〉
雨の夜に死ねるなら、それでいいと思っていた 夏越リイユ|鞠坂小鞠 @komarisaka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます