《3》異形の祈り
窓の外から聞こえてくるのは、細い雨の音だ。
深夜と呼べる時刻を過ぎてから降り出した雨は、朝に流れていた天気予報をなぞりながら、窓の外側をしとしとと濡らしている。
鍵はかけた。
玄関も、窓も、すべて。
手紙と一緒に投函されていた木の板――絵馬に触れる。そこには、私とあの人の名前が、それぞれ左右に並んで刻まれている。
ちょうど一週間前に投函されていた手紙に記されていた通り、花も用意した。仕事を辞めて久しい私は、そうしたものに高い金をかけるわけにもいかない。近くでというのは気が引け、七駅先の、過去に一度も立ち寄ったことのない小さな花屋で購入した。鮮やかに花開いた、季節外れの向日葵だ。
花瓶代わりにしていたグラスから、一輪だけのそれを抜き取る。絵馬とともに枕元へ置かなければ。茎の水気を拭き取り、私はそれを枕の隣にそっと横たえた。
その瞬間、ある女の子の顔が思い浮かんだ。
大学を辞めて遠くへ引っ越したと話に聞いた、もう何年も会っていない旧友だ。
中学生の頃、季節外れの時期に転校してきた子だった。私と同じく片親だったその子とは、中学校、高校時代とよく話しては遊んだものだ。
中性的で、けれど可愛い服や持ち物を好む節のあった彼女に、親近感と、遠く手の届かないものに対する憧憬とを、私は一緒くたに抱いていた。
中学三年生の二学期、私たちは一緒に園芸係を務めていた。
真夏の炎天下に、ぶつぶつと文句を零しながら向日葵畑へ水やりをした記憶が、不自然なほど鮮明に蘇ってくる。
『あっつい! よくここまで元気に咲けるよね、こんな季節にさぁ』
『はは。でも私、好きだよ。向日葵』
『そう?』
『うん。見てると元気出るし、可愛い』
そう。あの子は――伊織は、クールな印象とは裏腹に、存外可愛いものが好きだった。
季節外れ。向日葵。思わず、枕の横に添えた一輪へ目を向けた。なんの気なしに選んだ花だったが、懐かしい記憶のおかげで頬が薄く緩む。随分と久しぶりに笑った気がした。
ざあ、とひときわ強まった雨音のせいで、中学校時代の記憶は間を置かず霞んでいく。
……こんな天候の中、しかも深夜に、自分は本当にあの人の傍へ行けるのか。ふと不安を覚え、しかし私は強引にそれを掻き消す。
つまらない喧嘩を経て別れるに至った、大学時代の私の恋人。その後、彼は車の事故に巻き込まれて他界してしまった。しとしとと雨の降りしきる夜のできごとだった。
葬儀に出席したか、明確には記憶に残っていない。その頃には、私の精神はとうに破綻をきたし始めていたから……ただ。
彼を思い出すたびに私が感じるのは、安堵ではなく鮮烈な後悔であり、また渇望だ。
荒んだ心が落ち着いた拍子などに、私はその真実を察するに至っていて、けれど受け入れたくないから受け入れず生きてきた。
女手ひとつで私を育ててくれた母に迷惑をかけながら、砂を噛むような日々をただ坦々と重ね……だが、それも間もなく終わる。
私の恋は息絶えた。同時に、この人生も終わったはずだった。
それなのに、苦い結末を迎えたこの恋を、彼女は「実る」と言いきった。
『この絵馬を枕元に。反対側には自分自身への手向けとして、一輪の花を』
鈴の鳴るような彼女の声を、私が実際に耳にしたのはたった一度だけだ。
それでも私は彼女を信じることにした。そうでなければ、自力でなんてとても立っていられなかったから。
今日、私はそれを実行に移す。
彼女から二度目の手紙を受け取ったからだ。
郵便受けに直接差し入れられた手紙は、二度、どちらの分も処分した。念には念を入れ、ガスコンロの炎を使って灰にした。
私に救いの手を差し伸べてくれた彼女は、きっとこの街に、あるいはこの街の近くに住んでいる。病みに病み、世界に見放されたひとりぼっちの私の、唯一の救世主……でも。
考えることをやめ、私はベッドに潜り込んだ。枕元の絵馬と花を落としてしまわないよう、枕の中央へ慎重に頭を置く。
今日は寒い。雨が降っているからかもしれない。
深く被った掛布の端を握りながら、ぽたりとひと粒、涙が零れ落ちた。
どうしてだろう。あなたのことを思おうとしているのに、浮かぶのは母の姿。それから、先ほど向日葵畑の記憶とともに思い出した中学時代の親友の顔。それだけだ。
特に親友については、ここ数年顔を思い出すことさえなかったのになぜか頭から離れない。
連絡くらいまめに取っておけば良かった。あんなに親しくしていたにもかかわらず、高校を出て以降ほとんど連絡を取り合わなかった。たまに男の子じみた言葉が口をついて出ることのある、不思議な雰囲気の女の子。私が密かに憧れていた、大切な友達。
首だけを動かし、スマートフォンで時刻を確認する。
午後十一時五十六分。間もなくだ。
間もなく私はいなくなる。会いたいと願いに願った、あの人の傍へ――……ああ、あれほど焦がれていた人なのに、どうしてだろう。
今、私の脳裏を埋めてやまないのは、彼の顔ではなく、……どうして。
「……ごめんね」
ごめんね、お母さん。
口に出した謝罪に続けて、心の中で母を呼ぶ。私がこの道を選ぶことで、今度こそひとりぼっちになってしまうかわいそうな母。
雨の夜に死ねるなら、それでいいと思っていた。
あなたが去った雨の夜をなぞりながら、私もまた、跡形もなく消えてしまえるなら……あなたのいない世界に生きている意味など、もうひとつもないのだから。
――確かに、そう思っていたのに。
顔も知らない私の救世主は、果たして本当に私を救ってくれるのだろうか。取るべき方法が他にもっとあったのではないか。残された時間はあと数分、私の頭をひたすらに巡るのは、碌に味のしない後悔ばかり。
いまさらそんなことを思ったとして、どうなるものでもないのに。
時計を見る気にはもうなれなかった。
向日葵の鮮やかな花びらを目に焼きつけた後、私は、涙に濡れた瞼を静かに下ろした。
*
「っ、ぐ……」
呻いたと同時に、黒い影が見えた。
ひとつ、ふたつ、三つ、四つ、五つ。それらが水羽を取り巻き、瞬く間に彼女を黒く染め上げる。
文字通り、水羽は黒く染まっていた。
頭、肩、腕、胴、足。すべてが黒一色に。
悲鳴をあげた気はするが、その声は私の耳まで届かなかったから、本当に叫んだのかどうかは分からない。ただ、黒い塊に囲まれて全身を黒く染めた水羽が、それらに囲まれているせいで碌に見えないはずなのに、がくりと膝から崩れ落ちるさまを見て取った。
白目と黒目の区別がつかなくなった……否、それどころか瞼と目元の境界線すら失った、顔のすべてが黒く塗り潰された状態で、あ、あ、とくぐもった声を落としながら、ごん、と水羽の膝が派手に畳を打つ。
「あんたの弟には伝えたけど、あんたらの手には最初から負えてない。……なにがコミュニティだ、笑わせるな」
自分の声さえうまく聞こえない中で、川島のそれは妙にはっきりと聞き取れる。
このとき、知らぬ間に後ずさっていた私と川島の目がおそらく合った。尻餅をついて背後へ背後へと下がっていく私を横目に、彼は逆に水羽の側へ足を進めていく。下がれ、と声をあげたつもりが、やはり私には自分のその声が聞こえなかった。
『あんたらの手には最初から負えてない』
川島が如月姉弟へ告げたその言葉は、私にも当てはまってしまうものなのだろう。
本来私が立ち入るべきではない門の先へ、私は川島とともにうっかり足を踏み入れてしまっていて、だからこそこうして背後に下がるしかできない。どうしたところで、私は川島とは違う。
水羽の傍へ歩み寄る川島に気づいたらしき五つの影が、ず、ず、と形を変え、水羽に絡まったまま川島へもまとわりつく。
すでに人とは呼びがたい形状へと姿を変えた、まともな輪郭を持たない、ごく不明瞭な存在。私の知る限りの常識で表すなら、影――そうとしか呼びようがない。
どうぞ、と川島の声が聞こえた気がした。
悲しくなってくるほど投げやりな声だった。
複数の影にわらわらと囲まれた川島は、水羽と同様に黒く染め上げられながら、しかし微動だにしない。私はといえば、目だけを大きく開いてその場に蹲っているしかできない。
水羽はそれらに囲まれて倒れた。川島も同じ目に遭ってしまうのか。底の知れない恐怖に身も心も囚われ、竦み、浅く呼吸を繰り返し続け……そのときだった。
川島を囲む影のうちのひとつと――目のないそれと、確かに目が合った。
それが、他の四つの影を川島から剥がしにかかっている。
「みゆ、き」
瞬きも忘れ、私は固まったきり目を瞠った。
『いおり』
懐かしい声が聞こえた気がして、それが誰の声だったか理解が及んだその瞬間、前触れもなにもなく黒いそれらはふつりと掻き消えた。私と目が合っていた「それ」も一緒に。
同時に川島が膝を崩した。
彼の膝が畳の端を打ち、その崩れ落ち方が水羽のそれとほぼ同じだったことに戦慄し、私は声を絞り出す。
「……っ、川島!」
なりふり構わず上体を起こし、足をもつれさせながら川島の傍へ駆け寄る。
倒れ込んだ男の全身に、黒い気配はとうにない。塗り潰す勢いで彼を染め上げていた黒は、その身のどこにも残っていなかった。
肩を抱き起こし、広い背を膝に乗せて抱える。意識のない人間特有の重さを感じつつ、私は咄嗟に水羽の倒れた辺りへ目を向けた。
うつ伏せに倒れた水羽もまた、もうその身に黒い気配を残していない。先刻の一部始終こそが夢だったのではと思えてしまうほど、ふたりとも普段通りの姿で、けれどふたりとも完全に意識を失っている。
水羽の呼吸をつぶさに確認している余裕はなかった。川島、と幾度か呼びかけ、私は彼の肩や頬を軽く叩き、だが川島は応じない。
「川島、……川島!」
呼びかけても返事はない。固く閉ざされた男の両瞼が目に焼きついて離れなくなる。
頭を抱えそうになったそのとき、握り締めていた鞄の取っ手に気が向いた。肩から提げた鞄に入っている道具類――その中のある物に意識が及び、あ、と思わず声をあげる。
川島を抱えながら鞄を漁る。
奥の奥、ともすれば入れっぱなしにしておいたこと自体をいずれ忘れたのではと訝しくなるほど深い場所から取り出したのは、一枚の絵馬だ。
絵馬様寺の絵馬ではない。いつか川島が気紛れで作ったという、右側に私の氏名が記された、彼に無理やり押しつけられた絵馬だ。
それを畳へ置き、さらに鞄を漁る。内ポケットの中に忍ばせておいたボールペンを、震える手でなんとか引っ張り出した。
眼下の川島が微かに身をよじる。このまま意識を取り戻してはくれないかと切に願いながら、絵馬の左側へ、私は彫るようにボールペンを突き立てて川島の氏名を刻み込む。
「川島。見ろ」
返事はない。
小さく揺れた肩も、再びだんまりを決め込んでしまっている。それでも。
「いいか。お前からもらった絵馬の左側に、今、お前の名前を書いた」
よりによってこんなタイミングで涙が溢れ出てきて、邪魔以外の何物でもないその水滴を、私は絵馬を片手に強引に拭う。
「このままお前が死ねば、私も死ぬ。私に死なれたくないなら、」
目を開けろ、と続けるつもりが息が乱れて言葉にならない。渇いた喉から零れるのは嗚咽じみた低い声だけだ。もどかしくて悔しくて、私は絵馬を握り締めていた手を力なく落とし――そのときだった。
川島の瞼がぴくりと蠢き、あ、と勝手に声が落ちた。
ゆっくりと、しかし確実に開きつつあるそこへ目が釘づけになる。相手の眼差しを追う限り、焦点は合っていない。だが。
「……僕に渡して。その絵馬」
聞き逃しそうになるくらい細い声で、川島は私の顔へ手を伸ばしてくる。その手を、私は潰れるほどきつく握り締めてやった。
無性に苛立ったのだ。人をここまで心配させておいて、開口一番に絵馬なんかの話題かよ、と。
絵馬はいまだ私の手の中にあった。苛立ちを掻き消せずじまいで、私は震えに震える喉から無理やり声を絞り出す。
「ッ、なんで……」
「僕が触れないと成立しない」
――この儀を執り行える祭祀者は、僕だけだ。
ギ、という言葉の意味を察するまでにどうにも間が空いてしまう。
呆然と目を見開く私の手元へ、川島の長い指が伸びる。起き上がれずじまいの、見るからに狭そうな彼の視界では、物の輪郭など碌に捉えられていないだろう。それなのにすべて見えているとばかり、川島の手はまっすぐに私の手元へ……いや、絵馬へと伸びてくる。
彼の手に絵馬が渡った瞬間、遠くからパトカーのサイレンと思しき音が聞こえてきた。
あ、と零した自分の声が、今度は無駄にはっきりと聞き取れる。夜の雨音が強く耳に戻ったと同時、男の肩を抱く腕へ力を込め直し、私は震える吐息を落とした。
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