《2》異端

 苦々しい顔の看護師が川島に手渡したのは、よれた小さな紙片だった。

 中身を確認した川島が、微かに眉を寄せるさまを見て取った。だが、看護師の眼前で身を乗り出して内容を確認する度胸はない。看護師に頭を下げ、それきり踵を返した川島の後ろを、なんとかついていくだけで精一杯だ。


 エレベーターで戻った一階、閉じられた箱の中から足を踏み出した瞬間に、私は堪らず目を細めた。

 ガラス張りの窓から入り込んでくる外の景色が目を焼き、足が竦む。しかし、川島は浮かされたような足取りでどんどん進んでいってしまう。慌てて追いかける私の足音にさえ、彼は反応を示さない。


 自動ドアを抜け、駐車場を横切り、青い車に戻る。

 その途中、ようやく彼は口を開いた。


「先輩。田住さんに連絡してもらえますか」

「……いいけど、なにを」


 しどろもどろに返す私へ、川島が無言のまま左手を差し出してくる。彼の指には看護師から預かった例の紙片が挟まっていて、私は戸惑いながらもそれを受け取った。

 かさりと乾いた音を立てながら、半分に折られたそれを開く。

 そこに記されていたのは、住所らしき文字と数字の羅列だった。県名から始まるそれの、まさに県名にこそ覚えがあった。


「おい。これ、」

「如月たちの実家です。多分」


 はっとする。

 同時に、背筋がぞっと冷えた。


 その頃になってから、私は川島の異変に気づいた。見上げた先に覗いた川島の顔……特に額へ、びっしりと汗が覗いている。

 口を開きかけたそのとき、私の声を遮るかのようなタイミングで、川島は運転席のドアを開けて車に乗り込んでしまった。私は私で困惑しながらも助手席側へ回り込み、ドアを開く。痛みを伴うほどに胸騒ぎが強まっていて、次第に息苦しくなってくる。

 川島は、早々に運転席のシートへ身を投げて沈んでいた。間を置かず、その長い指は彼の額へ動いていく。尋常ではない様子を前に、私は助手席からとうとう声をかけた。


「川島。さっきからどうし……」

「うん……エレベーター、下りたときくらいから、直接話しかけられてるみたいで。今ちょっと頭の中、すごいです」

「っ、え?」


 直接話しかけられてるみたいで。

 その意味を、頭がゆっくりと拾い上げる。

 誰から。如月――いや、違う。まさか。


「……水羽か」

「うん。早く来て、だって。あなたも一緒に」


 視線だけを助手席側へ向けてきた川島と目が合い、今度こそ私は息を詰めた。



     *



 運転はしばらくしていないが、免許は持っている。

 運転を代わると伝えると、川島は露骨に眉尻を下げてみせた。


「保険的にまずいと思うんですけど……」

「その状態で運転する気なら私は行かない」


 男の額の汗を睨みつけて伝えると、川島は気まずげに目を逸らした。

 自分が運転できる状態にないことは、本人が一番よく理解しているに違いない。だいたい、私とて無保険状態で運転したくなどない。だが。


「事故らないように祈ってろ。早く代われ」

「そんなぁ……」


 運転席に沈む川島の腕を突いてやると、観念したのか、彼はすごすごと車を降りた。

 おどけた調子で喋っているつもりなのだろうが、顔色は真っ青だ。本当なら今すぐ病院へ引き返して医師に診てもらいたいほどだが、原因が病の類だと思えない現状、それが正しい選択だとはどうしても思えない。

 運転席に乗り込み、ハンドルを握る。手に汗が滲む。軽く首を横に振ってから、とにかく運転に集中しようと意識を切り替え、私はエンジンをかけた。


 向かう先は、県境をふたつ越えた先の山奥の地方都市。

 その最端の集落――以前、川島からも聞かされた如月姉弟の実家だ。


 病院の駐車場を出て最寄りのICへ向かい、高速道路をひた走る。川島の指示に従い、十数箇所のICを通過した後、やはり彼が指示するICで下りた。

 川島は見るからにつらそうだ。ときおり隣を気に懸けながら、知りもしない名前の街をいくつも抜け、下道を進み続けた。

 昼食を取っている場合ではない気もしたが、道中のコンビニで適当に買った。気休めにもならないかと思いつつ、手持ちの鎮痛剤を飲み物と一緒に手渡しもした。彼は薄く笑ってから錠剤を口に放り、けれどその表情は服薬から数十分が経過した今でも硬い。


 川島を苛んでいると思しき水羽の声は、なぜ彼の頭に届くのか。ハンドルを握りながら、私はその答えについて考え続ける。

 川島が生まれ持った、人の心を読む力。それを知った上での行為だとすれば、事務所で働いていた当時に如月がそれを察知し、水羽に伝えた……そう考えるのが自然か。

 川島は、聞こえることもあれば聞こえないこともあると言った。その結果に相手との信頼関係が影響しているのでは、とも。

 川島が水羽を信頼しているとは思えないが、水羽はどうか。川島に会わせるという条件で手駒の私を解放した水羽が、川島に対してどんな感情を抱いているのか――結局、私たちはその詳細を知らずじまいだ。だが。


『水羽はコミュニティを作りたがってるのさ』

『あんたに死なれると、水羽の計画は狂ってしまう』


 如月の話を踏まえるなら、水羽は川島へ一方的に信頼を寄せている可能性が高い。


 午後四時を回りかけたデジタル時計の表示をちらりと一瞥する。辿り着いたのは、山奥の集落を横目にさらに細道を抜けた先、外れの外れだ。

 古びた住居がぽつぽつと建ち並び、それが徐々に隣の家との距離を広げていき、無人と思しき家が目立ち始め……川島の青い車は、この景色の中では悪目立ちしていけない。

 とはいっても、集落の中にはただのひとりも人影が見当たらなかった。そのことが、逆に私の不安を掻き立てる。


 周囲はもう薄暗い。いつしか速度制限の標識すら見当たらなくなった細道を、細心の注意を払って進み続けていた、そのときだった。

 ぎん、と針で刺されたかのような鋭い耳鳴りと痛みが耳の奥を走った。

 同時に、これまで長く口を閉ざしていた川島が、額を押さえていた指を外して静かに呟いた。


「……着いた。その角の家です」






 古びた木造住宅の玄関には呼び鈴がついていた。実際に機能しているのか疑わしいそれへ、川島が指を伸ばす。

 ピンポォン、と音が鳴り響き、なんとなくほっとする。呼び鈴が呼び鈴として機能するさまを実際に確認できたからかもしれない。

 しんとした沈黙が続き、やがて「はぁい」という女の声がそれを裂いた。その声を聞いた途端、徐々に元へ戻りかけていた川島の顔色が、またも青く血の気を引かせたように見えた。


 パタパタと音を立てて小走りに玄関へ現れ、磨りガラスの引き戸をガラガラと引いたのは、想像していた通り如月水羽だった。

 川島、そして私の顔を順に眺めた水羽は、安堵した様子で破顔した。


「ああ、川島さん。それに伊織さんも。ちゃんと通じて良かった」


 それを聞いた川島が、震える吐息を零した。

 額を押さえていた長い指は、すでにそこから外れている。脳内に直接話しかけていたらしき水羽の声が、今はもう止まっているものと思われた。


「もう遅い時間だし、どうぞ上がって。お茶でもどう……」

「結構です。あんたに出されるものを口に入れる気にはならないよ、僕も伊織さんも」


 浮かれたような水羽の声は、蔑みのこもった川島の低い声に遮られる。あんた、というぞんざいな呼び方をする川島の声に、私は無意識のうちに息を詰めてしまう。

 一方の水羽は目を見開いて固まっていた。川島に焦点を合わせながら、なんの話をされているのか分からないとばかり、彼女は顔いっぱいに困惑を浮かべている。


「ここで答えてくれればそれでいい。如月瑞希に飛び降り自殺を指示した理由を言え」


 川島の命令口調もまた新鮮だ。

 動きを止めた水羽の顔をぼんやりと眺め、場違いにもそんなことを思う。


『水羽にそうしろって言われたから』

『そうだよ。もう要らない、って』

『水羽はぼくの神様なんだ、逆らう理由がない……でも』


 病院で聞いた如月の声が、騒々しく脳内を駆け巡る。

 もう要らない、と言ったのだ。この女は、実の弟に――如月に。

 きつく拳を握り締めた、そのときだった。


「……その前に」


 いつしか思案げに首を傾げていた水羽が、私たちの態度を窺うように口を開く。


「ふたりに見てもらいたいものがあるの。ついてきて」


 言うや否や、彼女は私たちに背を向けて廊下を引き返していく。

 上がってくれという浮かれた誘いを、川島が手厳しく否定した直後でありながら、水羽は勝手に家の中へ戻っていく。その背が廊下沿いの障子戸の奥の部屋に消えて見えなくなるまで、私はただ呆然としていた。

 水羽の言動には他人への配慮がない。いや、如月姉弟に囚われていたときには私を気遣う言葉も口にしていた。水を飲むよう勧めてきたり、あるいは腹が減っていないかと気に懸けたり――あの頃の彼女と今の彼女は果たして本当に同一人物なのか。冷えた疑問が、混乱に喘ぐ脳裏を巡る。


「……どうする」

「うーん。行きたくないなあ」


 水羽に聞こえてしまうのではと不安になってくるほど無遠慮に呟いた川島は、呑気にもへらへらと頭を掻いている。

 眉を寄せて睨みつけると、彼は分かりやすく苦笑を浮かべて靴を脱ぎ始め、土間から一歩踏み出した。


「っ、おい……」

「行きたくないけど、戻ってきそうにないしね。先輩はここで待ってる?」

「……いや。私も行く」


 軽率な笑みを浮かべているように見えるが、よく見ると川島の目は据わりきっていた。音を立てて鳴った喉を押さえながら溜息交じりに返事をし、私もまた靴を脱ぎ始める。


 ……胸騒ぎがした。

 似ている気がしてならなかった。如月が事務所を訪れた際、彼の内心を探るためにひたすら挑発を繰り返し続けたときの顔と、今の川島の顔が。

 不意に足の動きを止めた私を振り返った川島へ、私はまっすぐに焦点を定めて尋ねた。


「……お前さ」

「はい?」

「まだ死にたい感じ、ある?」


 唐突すぎる自覚はあった。歯に衣着せぬ言い方である自覚も、もちろん。

 虫の知らせ。直感。そういう類のものとしか言いようがないが、妙に胸が騒いでならない。だから零した。

 対する川島はといえば、なにを言われたのか分からなかったとばかりに瞬きを二度繰り返し、それから派手に目を泳がせる。


「そんな……ことはないと思いますけど」

「……ならいい」


 困惑を孕んだ相手の視線を受け止めることを途中でやめ、私は足元に目を戻した。

 痛むほどの胸騒ぎを無理やり抑え、深く息を吸い込む。脱ぎかけの靴をとうとう脱ぎ捨て、私もまた家の中へ足を踏み出した。


 歩を進めるたび、ギィと床が軋む。

 川島が立てるそれと自分が立てるそれ、交互に、それでいて不規則に鳴るその音は、どうしてかみゆきの姿を連想させた。モノクロのみゆきを見たとき、二度とも私を苛んでいた耳鳴りにどことなく似ていたからかもしれない。


 警戒を滲ませつつも、私は川島の後ろをゆっくりと進んでいく。水羽の背が見えなくなった辺りの障子戸は開きっぱなしだ。どうやらその部屋は仏間らしかった。

 向かって左側、室内へ視線を向けた瞬間、私は息を呑んだ。おそらくは川島も。

 真っ先に認識したのは、豪奢な造りの仏壇でも一面の畳でもその匂いでもなく、横たえられた白いなにか――人だ。顔と思しき場所にかかる白い布が鮮烈に目を焼き、私は額を押さえた。


 死体だ。

 その頃になってから微かな異臭が薄く鼻を刺激し、私は低く呻く。


「……な……」

「瑞希だけじゃなくて、ばあさままで……あたしを止めようとするんだもの」


 廊下で固まる川島と私を室内から見つめ返してくる水羽は、眉尻を下げながらも穏やかな笑みを浮かべている。

 その手元になにかが覗き、それがなんなのかを理解した後、私は呆然と彼女の顔を見上げた。


「ふふ。見て、これ」


 私の視線がどこを向いているか察したのだろう、少し浮かれた調子で声をあげた水羽は、指に持つそれを小さく掲げてみせた。

 絵馬だった。如月姓で始まる男女一対の名が記されたそれを、瞬きも忘れ、私はただ凝視するしかできない。


「揉み合いになって、押しのけたら……たんの角に頭をぶつけてしまったの。ばあさま」


 言いながら膝を折った水羽は、遺体の傍へ静かに腰を下ろす。

 他人事のように告げる彼女の喉元を見つめ、私は「箪笥の角」なる言葉を反芻していた。つまり、この遺体の――水羽の祖母の死因は不明にはならない。

 川島も同じことを考えていたらしい。水羽が手にしたままの絵馬と遺体を交互に眺め、川島は沈黙を貫いている。


「最期に痛い思いをさせてしまったから、お詫びにじいさまの名前を一緒に書いたのよ。ほら」


 ――これで、ばあさまもちゃあんと幸せ。


 顔に当てた布を動かすことなく、水羽は遺体の頭部をそっと撫でた。

 彼女の指が掠めたそこからは、白髪と微かな血液が覗き見えている。堪らず私は視線を逸らした。


「そうそう。瑞希はちゃんと死んでくれた?」


 思い出したかのように顔を上げた水羽は、川島に焦点を合わせて問いかける。

 彼女の話には脈絡がない。今もそうだ。明日の天気でも確認するような、あるいは頼んでおいた家事を済ませてくれたかと尋ねるような、とにかく軽い口ぶり――その癖、そこに「死ぬ」という言葉が含まれている不整合が、私には空恐ろしく聞こえてならない。


「病院にいる。助かるかどうかは分からない」

「……死ねなかったのね。本当に駄目な子」


 端的に答えた川島から視線を外し、彼女は深々と溜息を落としてみせた。

 死ねと命じた姉。それを果たそうと高所から飛び降りた弟。駄目な子。ぐるぐると頭を回る思考に、身も心も囚われる。

 如月水羽という人間のなにもかもが分からない。否、分かってしまってはならない気がして、身の竦む思いがしていた。


「あの子、あなたを死なせたがってたでしょう? それはあたしの本意にはそぐわない。あなたに死なれてしまっては困るのよ」


 眉を寄せる水羽は少々不機嫌そうだ。

 老婆の遺体に寄り添いながら、彼女は深々と溜息を落とした。


「あたしね。この家に、ほとんど閉じ込められたきりで育ったの」


 唐突に身の上話を始めた女の顔を、私はじっと凝視する。


「四歳のとき、お母さんが病気で死んでしまったの。お葬式が終わっても四十九日が済んでも、お父さんったらなかなか泣きやまないから、あたしが送ってあげたのよ」

「……なに?」


 低い川島の声が耳に届く。

 尋ねるような声ではあったが、私も、おそらくは川島も、水羽の言わんとしていることにとうに思い当たっていた。


「お父さん、笑ってた。納骨の日にお母さんの骨箱を抱いて、笑ってお母さんの傍へ行ったのよ。あたし、ばあさまに絵馬を見せてあげたの。絵馬っていうか、普通の木の板よ。形もいびつで……けど、ちゃあんとあたしが力を込めた物」


 それなのに、ばあさま、すごい顔であたしを打ったの。


 低く呟いた途端に表情を曇らせた水羽を、私は睨むように見つめ続ける。

 死んだ母親と生きた父親を死後婚で結び、そのせいで彼女の父親は命を落としたということなのだろう。そして、それが水羽の手によるものだと、彼女の祖母は早々に気づいた。


「……それで?」

「ばあさまに閉じ込められて、学校にも行けなかった。勝手に不登校扱いにされて……ひどいと思わない? でもあたし、ばあさまを恨んだりしなかった。瑞希が傍にいてくれたから」


 語る水羽の声が、ひときわ浮かれた調子になる。

 

「高校を卒業したあの子が、あたしをここから連れ出してくれたの。すごいでしょう? あの子はあたしの自慢の弟なのよ、今も昔も」


 数日前に「死ね」と命じた相手の話をしているとは思いがたいほど、水羽の表情は穏やかだ。彼女の言動は矛盾ばかりで、しかしそのことに本人は少しも矛盾を感じていなそうで、不可解な感覚に囚われてしまう。

 ぞわりと背筋が震えたと同時に、隣の川島が低く呟いた。


「……それで、あんたはどうしたいの。そんな大事な弟を殺そうとしてまで」


 明らかに棘を孕んだ問いかけだ。私こそが怖くなってくるような、そういう。

 一方、遺体の傍から立ち上がった水羽は、まるで動じた素振りを見せず毅然と言い放った。


「本当の絵馬様寺を、あたし、もう一度蘇らせたい。そのためのコミュニティがほしいの。だからね、川島紬さん」


 艶やかな笑みを浮かべる水羽の口元から、私はわずかにも目を離せない。


「あなたに、あたしと一緒にここで暮らしてもらいたい。できれば家族みたいにしてね……ああ、瑞希はもう要らないわ」


 川島にまっすぐ視線を向けて告げる水羽の顔を、それ以上は見ていられなかった。

 家族みたいに――実の家族を追い詰め、うちひとりを殺しておいて、よくも。


「絵馬様寺でね、あなたのお祖母様の絵馬を初めて見たときから、ずっとあなたに会いたかったの。最後の住職の……祭祀者の孫なんでしょう、あなた? お祖母様の絵馬に記されていた男性の名前、同じだったもの」


 女の腕が川島へ伸びる。

 川島は動かない。近づいてくる水羽の腕を払おうともしない。黙って水羽の話を聞いている。

 一方の私は、いつか川島が語った火災の夢について思い返していた。それから、その話の最後に彼が独り言のように呟いた言葉も。


『祖母は、黄泉に迷い込んだ先で母を宿したんです』

『腕も顔も火傷してて、でも、よく見ると顔が僕にすごく似てる』


 夢の中で川島の祖母を――正確には彼女の祖先を救った、川島によく似た男。おそらく絵馬様寺最後の住職。

 おかしい。時代が合わない。川島の祖母は、絵馬様寺が焼失して久しい時代に生を受けたはずで、……だが。


『実はお祖母様自身も再建に力を貸してくださったらしくてね』


 絵馬様寺の住職の声が、鮮明に脳裏へ蘇る。

 ぎくりと背筋が強張った。単身で絵馬様寺を訪ねたときに聞いた話が次々と頭を掠め、流れていく。


『本堂周りから台所から食料の貯蔵庫から、物置の中なんかまでね、随分と細かく証言してくださったみたいなんです』

『ここが廃寺になって以降のお生まれらしいんですが、わずかに残っていた記録との間にも齟齬が見られない』


 川島の祖母は、どうして焼ける前の絵馬様寺の内部を詳細に知っていたのか。

 彼の祖母の絵馬に記されていた男の名が、焼失前の最後の住職のそれと一致している――そして、川島の「黄泉に迷い込んだ先で母を宿した」という発言。


 つまり、川島の祖父は。


「……な……」


 思わず声が零れる。

 彼女が遠い過去へタイムスリップしたのか、あるいは本当に黄泉に迷い込んだのか、真実は分からない。ただ、人知を超えたなにかが起き、それによって川島の母親が生まれ……そういうことなのか。

 強烈な眩暈に襲われ、知らず後ずさってしまう。そんな私には目もくれず、水羽は恋い焦がれる乙女のような目で川島を見つめている。


「あなたの力が必要なの。あたしたちの血を引いた子供が生まれたら、昔みたいな祭祀者がまた誕生するはずよ。あなたにとっても悪い話じゃないわ、もう黄泉に囚われなくてもいいの。あたしたちは、囚われる側にいてはいけないんだから」


 あたしたちの血を引いた子供……堪らず、私は口元を押さえた。


『彼の大切な人、生前から黄泉に囚われていたのだと思うから』

『きっと、そのせいで彼まで囚われてる』


 そう、いつか水羽は言った。川島を助けたいのだと。

 私と川島の関係について、義務教育すら受けていないという水羽がどこまで察しているのかは知らない。だが。


 水羽の指が、今度こそ川島の頬を目指して伸びていく。その女の手を、しかし川島はぱしりと振り払った。

 実際に音がしたから強く打ったのだと思う。水羽はといえば、純粋に驚いた様子で、払われたばかりの自身の腕と川島を交互に見つめている。


「断る。ほとんど初対面の相手に、よく子供を作るなんて話ができるね……どういう神経してるの、あんた?」

「……どういうって、あたしはただ」

「だいたい、伊織さんは僕の恋人だよ。なにが『あたしたちの子供』だ、気持ち悪い」


 力がどうこうという話以前に、川島は水羽が私を蔑ろにしたことにこそ怒っているらしい。見開いた目を、私はぼんやりと隣の男へ向ける。川島は汚らわしい物を見る目で水羽を眺めていて、新鮮だな、とやはり場違いなことを思う。

 一方の水羽は、腕を擦りながら眉を寄せていた。困惑に満ちた顔を隠しもしない彼女は、おそらくまだ川島の拒絶を……その意味を理解できていない。


 水羽のおぞましい提案を、川島が拒絶しないはずはないと分かっていたにもかかわらず、降って湧いた息苦しさはなかなか消えなかった。

 相手が私と川島の関係を知っているのかいないのか、そこはすでに問題ではない。己が思い描くコミュニティを、彼女は川島を使って作りたがっている。それだけだ。コミュニティ――如月も、水羽自身もそう言った。私が常識だと思っている常識など、きっとそこには欠片も存在していない。

 水羽はなおも困惑のまま川島を見つめていたが、不意に私へ視線を向けて寄越した。たった今、私の存在を思い出したかのように。


「ああ、伊織さんのことももちろん大好きよ。あたしの初めての友達だもの。だから、あなたにも川島さんと一緒にここへ来てもらいたかった。伊織さんにも、ぜひあたしの新しい家族になってほしい」


 ……無垢とさえ呼べるほど晴れやかに笑う水羽へ、結局、私の常識は通用しない。

 肩が震える。私の常識はこの女の常識の外側にある。この女の常識が、私の常識の外側にあるように。


「うるさい……みゆきを、……みゆきを返せ」


 くぐもった声をあげる私を、川島は止めなかった。黙って隣に佇んでいるだけだ。

 如月の胸倉を掴み上げたときと同様に、私が手荒な行動に出ない限り、川島はなにもしないしなにも言わない。そんな気がしてなおさら目が据わってしまう。

 なんの話か分からないとばかりに水羽は小さく首を傾げ、ところがすぐに合点がいった様子で「ああ」と声をあげた。


「宇良みゆきさんのことね? 残念だけど、彼女はもう黄泉で関村さんと……」

「黙れ」


 如月に掴みかかったときとは違い、自分の芯が揺らぐほどの怒声は出なかった。代わりに零れたのは低い声と涙だ。

 ぼろぼろと涙を溢れさせる私を、水羽は心底困惑げに眺めていた。そのさまこそが私たちと彼女の世界の違いを明確に示しているように思えて、やる瀬なさに拍車がかかっていく。私に何度も同じことを言わせるこの姉弟が、今、心の底から憎かった。

 肩が震えたそのとき、私の言葉通りに黙っていた水羽へ、それまで沈黙を守っていた川島が声をかけた。


「失敗してる自覚は?」

「……死後婚についてという意味なら、ないわ。弟もそんなことを言っていたけれど」


 挑発の気配が色濃く滲む川島の問いに、額に指を這わせた水羽が溜息交じりに返す。

 死後婚の失敗に関する話は姉に伝えたと、如月も言っていた。そのせいで姉を怒らせてしまったのだと、狂信者じみた顔で。


「あたしが送った人たちは皆、愛する人と黄泉で幸せにしてる。あなたにも分かるでしょう?」

「弟以上にめでたい頭だ」


 不機嫌そうに返事をする水羽へ、川島はなおも挑発をやめない。

 とうとう水羽は不快感をはっきりと顔に表した。またも深々と溜息をついてみせた後、川島を見据えた彼女は怒ったような声をあげる。


「失礼よ。そこまで言うなら証拠を見せて」

「断る。あんたが殺した四人……いや、五人が今どうしてるか、彼女たちを荒ぶらせてまで喚び出せと? 冗談じゃない」

「荒ぶらせてって……どういう意味?」

「あんたが連れていかれるだけなら別に構わないけど、巻き添えは勘弁してって話。あんたが殺した人たちはもう人じゃない」


 不愉快そうに、かつ億劫そうに話す川島を、水羽は思いもよらないことを言われているとばかりに目を瞠って見つめている。


「宇良さんでぎりぎりだった。その前の被害者たちは生前の意識なんて碌に保ててない」


 苦々しい川島の声が、耳と胸を深く刺す。

 ぎりぎり……その言葉の意味するところを考える。如月が事務所を訪れたときに川島が喚んだみゆきの姿、「お母さん」と繰り返す細い声。あの日、川島はみゆきを完全に彼岸のものとして扱っていた。


『続けてください。もう邪魔はしません』


 あの言葉もそうだ。邪魔をしたのは如月であって私たちではないのに、その線引きなどみゆきには一切関係ないとばかり、川島は如月の粗相を謝罪していた。

 そして、泣いているようで涙を落としていないみゆきを見て確かに感じた、みゆきがみゆきではないなにかになろうとしているのではという感覚――脳裏を巡る思考がぐるぐると回り出して眩暈を誘発し始めた頃、露骨に眉をひそめた水羽が、私たちへ見せつけるように深々と溜息を落とした。


「あなたたち……どうして分かってくれないの? あたしは強い力を受け継いだ仲間と理解者がほしいの、それだけよ」

「あの寺はそのせいで一度滅んだ。力を残すために血縁同士で婚姻を繰り返して……あんたはそれと同じことをしようとしてる」

「ばあさまと同じことを言うのね」


 ぎり、と歯を軋ませる音がして、私は水羽へ焦点を合わせざるを得なくなる。

 水羽の常識は私たちのそれと懸け離れている。川島の言葉は私たちにとって正論以外の何物でもないが、彼女にとってはきっと違う。


「っ、もういいわ、皆を喚ぶ。今どんなに幸せか、ひとりひとりに証明してもらうから」

「……へぇ。あんたにできるの、そんなこと?」

「当たり前でしょう! まさか本当にあたしが失敗してると思ってるの、あなた? 笑わせないで!」


 川島を睨みつける水羽は、心底苛立っているように見えた。

 一方の川島はごく冷静だ。その冷静さに、妙な既視感を覚える。


 ……如月を挑発したときと、似てはいないか。


 チリ、と目の奥に痛みが走る。挑発じみた言葉で水羽を追い詰める川島の声に、焦りは感じられない。だが諦めに似た調子はある。

 諦め――嫌な予感がした。

 今、川島が水羽を挑発する理由。わざと煽った結果、水羽は彼女たちを喚び出すと息巻いている。まるでそれを誘発するかのような、一貫した態度。


『そんな……ことはないと思いますけど』


 派手に揺れる川島の双眸を思い出す。

 返事まで半端に空いた間に、もし私の質問が唐突だったからという以外の理由があるとしたら。


 ――もしかして、川島は。


 たとえ止めたとして、水羽が素直に制止を受け入れるとは思えなかった。

 いつか彼女がモノクロのみゆきを喚び出したときとは違い、今、彼女の傍には矩形の卓も蝋燭の灯りもない。ただ苛々と顔を歪める水羽だけがあり、私は薄ら寒さとともに息をひそめる。

 きいん、きいん、耳鳴りがする。近頃は頻繁にこの音に晒されている。そう、川島がみゆきを喚び出したときもこれに苛まれた。


 川島の口元が歪んで……否、笑って見える。


『巻き添えは勘弁してって話』

『あんたが殺した人たちはもう人じゃない』


 いけない、と思う。

 まさか。やはり。ふたつの思考が頭を埋め、堪らず川島の腕に触れた、ちょうどそのときだった。


「っ、あ……?」


 水羽の細い声が聞こえ、それごと遮るように、川島が彼女の側へ足を進めていく。

 腕に触れた手を控えめに払われたことにさえ思い至れぬまま、彼の背中を目で追うなか、立っていられなくなるほどに強烈な眩暈が走る。

 堪えきれず、私はその場へ蹲った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る