第5章 雨の夜に死ねるなら

《1》狂信

『行方を追ってりゃコレだ』

『自殺なんかするようなタマじゃねえと思ってたんだがよ』


 溜息交じりの田住の声を思い出す。

 行方を追っていれば、というくだりは、私を攫った件で追っていたという意味だろう。田住を含めた数名の警察官が動いていることは、川島経由で私も知っていた。


『死んじゃいねえが、よっぽど運が良かったみてえだなァ……勝手に足場に上って、そこからためらわずにポーンと飛んだらしい。おかげで余計な場所にぶつからなかった。下の植え込みに堂々とダイブだとよ』


 まだ頭がぼうっとする中、通話で聞いた通り伝えなければと神経を割きながら、川島に詳細を伝えた。川島は一瞬目を見開いて、そうですか、と低く呟いたきりだった。


 三日後、如月が意識を取り戻した旨、田住から再び連絡が入った。

 その報告もまた、川島はごく平然と受け入れた。如月が命を落とすことなく目を覚ますことをあらかじめ知っていたかのような反応だと、ぼんやり思った。



     *



 病院の廊下はしんと静まり返っていて、薄ら寒さすら感じさせるほどに静謐な空気を湛えていた。

 郊外に佇む県立病院、その正面エントランスにて田住と合流した私たちは、今、如月の病室に向かっている。


 順調に回復しているそうだ。なにせ、飛び降り自殺を図った直後にもかかわらず、川島を名指しして「話がしたい」と切り出したのは如月本人だという。

 ある程度まで回復した後は、警察に身柄を拘束されると聞いた。全身の状態から鑑みて、逃亡はまず不可能と判断されているらしい。また本人も至って従順であり、あれほど苦手そうにしていた田住に対してもそれは変わらないそうだ。

 しかし今回、如月は田住の同席を拒んだ。男性看護師の立ち会いのもと、川島と私、如月の三人で話すことになっている。


 個室のベッドに横たわる如月は、別人じみていた。

 頭部を覆うように、そしておそらくは全身にも包帯が巻かれている。ぐるぐる巻きの如月は、当然ながらトレードマークのメイクを一切していない。咄嗟に視線を向けた手元、包帯からはみ出した指先にも、きらびやかなネイルの気配はなかった。

 大きな手、長い指。いつか本人がコンプレックスだと語ったそれらは、彼の手でカモフラージュを施されることもなくだらりとしていて、如月という人間のあるがままを示しているように見えた。


「……川島さん?」


 ベッドの方向から声が聞こえ、自分が呼ばれたわけでもないのに私は肩を震わせる。

 如月の声は掠れきっていた。声色を飾る気力も余裕もないのだろうが、とにかく低く、男性然とした声だった。


「聞いたよ。派手に飛んだらしいね」


 抑揚のない川島の返事を耳に入れるや否や、傍の看護師が分かりやすく眉を寄せた。

 同席している看護師は身体が大きく、また強面だ。挑発は避けてほしいと忠告されているのに……思わず、私も彼と一緒になって川島を咎めたくなる。

 だが、如月は平然と「そうだよ」と返したのみだった。そうせざるを得ない状態にあるだけかもしれないが、いいように挑発されては激昂する彼を目にしてさほど日が経っていない以上、その反応に驚いてしまう。


「水羽にそうしろって言われたから」

「お姉ちゃんに飛び降り自殺しろって命令されたって意味?」

「うん。水羽はぼくの神様だからね、逆らう気はない。けど、水羽の身勝手にもそろそろ困ってたんだ、実際。前にも言ったでしょ」


 如月の声はやはり平坦だ。

 感情のこもっていない彼の声は、なぜか私に新鮮さを呼び、同時に得体の知れない不安を抱かせる。


「アメミヤさんのこと、勝手に逃がしちゃったでしょ。ぼくの考えなんて水羽には関係なかったみたい。あの頃からどうしようもなくなってたのは確かだよ」


 看護師の指示通り、ベッドの傍までは歩み寄っていない。それでも、如月の顔は今、歯噛みでもしているように歪んでいるのだろうと察せる。

 如月は、この場に私も同席していることに気づいているだろうか。包帯の隙間から覗く、薄く開いた彼の目元を凝視しつつ、結局私は黙り込むしかない。


「川島さん」

「……なに?」

「ぼくに言えたことではないんだけど、……水羽を止めてあげて。ぼくにはもうできない……いや、最初から無理だったんだ」


 掠れに掠れた如月の声が、余計に濁って聞こえる。

 川島の肩がわずかに跳ねたさまを見て取った。


「例の件、失敗してるんじゃないかっていうあんたの言い分は水羽に伝えた。だけど、そのせいで水羽は完全にぼくを見限った。ぼくは水羽を怒らせてしまったんだ」


 ああ、と吐息とも嘆きともつかない声を落とし、如月は言葉を区切った。

 沈黙が落ちて間もなく、私たちの背後に控えていた看護師がゆっくりとベッドへ歩み寄っていくが、如月は「大丈夫ですよ」と細く呟いただけだ。躊躇する看護師へ、彼は「少し席を外してもらえますか」と続けた。

 扉の外にいます、と手短に告げ、看護師は苦い顔で退室していく。その背を、私と川島は静かに見送った。


 如月が看護師を退席させた理由は、水羽と川島の能力や死後婚に関する話題に触れようとしているからだろう。喉がこくりと鳴る。川島もまた、より険しく表情を強張らせて続く話を待っていた。

 薄く笑った後、如月は再び語り始める。


「だいたい、ぼくと水羽の意図は初めから一致してない。水羽はコミュニティを作りたがってるのさ」

「……コミュニティ?」


 怪訝そうに訊き返す川島の声が、手狭な病室内の壁に緩く反響する。


「うん。死後婚を執り行える能力者たちのコミュニティ。死後の世界で愛する人と結ばれる世界を、水羽は……水羽が思う正しい形で再構築したがってる」


 疲れを覚えたのか、如月はふう、とそれまでより深い吐息を落とした。


「ぼくは川島さんに殺されたかったし、その苦悩を引き金にしてあんたに死んでほしくもあった。でも水羽は違う。あんたに死なれると、水羽の計画は狂ってしまう」


 水羽の計画。川島が死ぬと狂う、それ。

 背筋が震える。恐ろしい話を聞かされている、それだけは理解が及ぶ。なるほど、無関係の看護師にはとても聞かせられない。


「水羽は、自分よりも優れた能力を持つあんたと一緒にコミュニティを作りたがってるんだよ。水羽はあんたの顔を知ってる……会ってるんでしょう、一度。水羽がアメミヤさんを連れ出したときに」

「……会ってるね」

「そのときから……ううん、それよりもずっと前から、水羽はぼくを切り捨てるつもりだったのさ。水羽がどんどん死後婚を成就させるためには、ぼくの存在なんて初めから障害でしかなかった」


『あたしを、川島紬さんに会わせてもらえないかしら』


 如月の掠れ声に、いつかの水羽の声が重なる。如月姉弟に囚われていた間、モノクロのみゆきと対峙させられた直後に聞いた言葉だ。

 バスでの移動。浮かれた調子の水羽。その後、当然のように続いた脅し。息を詰めたまま川島のもとへ辿り着いた日の記憶が、苦々しくも鮮明に蘇ってくる。


 あのとき水羽は、私が意識を飛ばしている間に姿を消した。川島からはおとなしく引き下がったと聞いている。

 おかしいと思った。すぐ引き下がる理由が解せなかった。だがつまるところ、如月にとっての切り札であった私は、水羽にとっては別の切り札として機能していたという意味なのだろう。


 如月にとっては、川島に自分を殺させるための切り札として。

 水羽にとっては、川島と自分が遭遇するための切り札として。


「……あの女は」


 堪らず声が零れる。黙りこくっていた私が唐突に口を開いたことで、川島がはっとした様子で振り返ってくる。

 続く言葉を待っているのか、あるいは喋り疲れたのか、如月からの反応は薄い。だが。


「飛び降りろ、とお前に言ったのか」

「……そうだよ。もう要らない、って」

「拒まなかった理由は?」


 如月の返事には抑揚がなく、また尋ね返す私の声からも抑揚が削げ落ちていて、交わす言葉そのものから現実味が欠けている。

 意見の相違は初めからあったものの、水羽は黙って如月の言う通りに絵馬を使っていた。しかし如月が「助けてほしい」と事務所を訪ねてきたときにも言っていたように、死後婚を執り行える自信がついた以上、水羽はその相違を受け入れられなくなった。そしてついに弟を切り捨てることにした……そういう意味なのか。


 実の弟に、高所から飛び降りて死ね、と――それを命じた水羽の気が知れない。また、受け入れた如月の気も知れなかった。

 そもそもふたりとも、他人に理解してもらいたいという希望を持っているとは思いがたい。彼らは、私とは異なる世界で、異なるルールを守りながら生きている。

 ぐるぐると巡る思考につられて眩暈がしたそのとき、薄く笑う如月の声がした。


「言ったでしょう。水羽はぼくの神様なんだ、逆らう理由がない……でも」


 軽やかでいて儚げな、そよ風にも似た声の最後、なにか続けようとしたらしき如月の声が、彼の落とした乾いた咳に掻き消される。

 途端に、ガラリと引き戸を開く音が響いた。

 振り返った先には、眉間に深い皺を刻んだ看護師の姿があった。「そろそろ時間です」と有無を言わさぬ口ぶりで告げられてしまっては、退室しないわけにいかなくなる。


「看護師さん。さっきのメモ、この人たちに渡してね。少し……休みますんで」


 細い声で呟いたきり、如月は口を閉ざした。

 包帯まみれの男の顔を、去り際にそっと振り返る。目を閉じた如月の顔は、被害者のそれにも、また狂信者のそれにも見えた。


『水羽はぼくの神様なんだ、逆らう理由がない……でも』


 あの後、如月はなんと続ける気だったのか。

 看護師に追い出されるようにして病室を出ながら、ふとそう思った。

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