《2》泣けない異形

 いつか水羽が写し出したときの姿とは完全に違う。

 色こそ白と黒のみで構成されているが、驚くほど鮮明に表情が覗ける。


「……な……」


 困惑に染まった声をあげたのは、如月だ。

 ソファに深く沈んだまま、彼は血の気の引いた顔を真横へ向けている。如月にも、浮き上がったみゆきの姿が見えているのだろう。


「お前は喋らないで。邪魔だ」

「っ、川島」

「先輩は……少し待ってください。彼女には先輩の声、聞こえないかもしれない」


 如月と私をまとめて制止する川島の声もまた硬い。

 緊張しているらしい。意外だ、と場違いにもほどのあることを、モノクロのみゆきを見つめながら思う。


『……お母さん』


 じりじりと焦げつくような緊張の中、細い……本当にか細い声が聞こえてくる。

 みゆきの声だ。目を離せなくなる。口元を震わせるさままでもが鮮明に覗けてしまったせいで、今、みゆきが確かに眼前に在ることを認めざるを得なくなる。


『お母さん。お母さん、お母さん、……お母さん……』


 その言葉しか知らないかのように何度も呟き、みゆきは両手で顔を覆ってしまった。

 あ、と手を伸ばしかけ、だが続く川島の声が私の所作を封じ込める。


「ひとつ教えてもらえませんか。ひとつだけでいい」


 顔を覆うみゆきの両手が、静かにそこから外れる。その仕種は、川島の声が彼女に届いていることのなによりの証拠だった。

 川島を向くよりも前、みゆきは私に視線を向け、少し驚いた様子で目を見開いた。初めて私の存在に気づいたのか、あるいは私がかつての友人だということまで思い出せたのか、詳しい事情は分からない。

 困惑を滲ませながら、みゆきは私と川島を交互に見つめ、それでも黙っている。一方の如月はソファに沈んだきり、もはや顔を上げることすら困難そうに縮こまっていた。


 水を打ったような沈黙を、川島が裂く。


「あなたは、彼に会えましたか」


 実名を避けて続けられる応酬の中、彼、という言葉が誰を示しているのか理解した瞬間、強烈な耳鳴りが脳髄を貫いた。

 静寂が戻ったはずなのに耳の奥が痛い。じりじりと続く耳鳴りの中、せめて見えるものだけは記憶しておかねばと、私は必死に目を見開いてみゆきを見つめる。

 川島の質問に、みゆきはなかなか答えない。彼女の視線はいつしか川島に固定されていて、川島もまた、ときおりジジ、と姿を震わせるモノクロのみゆきをまっすぐ見つめている。


 やがて、みゆきは静かに首を横に振った。


『……会えなかった』


 お母さん、と延々繰り返していたときより遥かに懐かしさを覚える声音だった。私が知るみゆきのそれと、さして変わらない声。

 顔立ちこそ大人びて見えるが、声は中高生の頃とほぼ同じだ。呆然とながらも川島へと焦点を合わせるみゆきの顔を、私は目に焼きつけるかのごとく凝視し続ける。


『あの人は……初めから私なんか見てなかった。どこを探しても、いなくて』

「なっ……」


 黙って縮こまっていた如月が、みゆきの話を遮るように声をあげた。

 抗議の意図を滲ませた如月の声は、しかしそれ以上続かなかった。川島が睨みを利かせると同時に如月は低く呻き、それきりまた黙り込んでしまう。


「続けてください。もう邪魔はしません」


 させません、ではなく、しません。私たち三人の個など、みゆきの――死者の前では関係ないとばかりに毅然と言い放つ川島の声を、私は彼の隣でぼんやりと受け止める。

 川島の喋り方はどこまでも平坦で、苦しげに呻く如月とはまるで真逆だ。先刻の不可思議な力がまだ働いているのか、如月の額にはうっすらと汗が滲んで見えた。


『……どこにもいない。でも、私だってもうどこにも行けない。お母さん、ひとりぼっちなのに、おうちには帰れない……』


 お母さん、と最後に重ねたみゆきの声は、初めて彼女と出会った当時の声に似ていた。否、さらに幼くさえ聞こえた。

 弱々しい、寂しげな、不安げな――私が知り得ない、中学時代よりももっと昔の幼児じみた声。


 かつて中学生だった私たちもまた、今よりはずっと幼かった。

 あれから私たちが歩む道は分かれ、次第に離れていき、やがてみゆきは自ら望んで死を選んだ。だが、その選択を今、彼女はこうして悔いている。


 ――悔いている。


「……みゆき」


 浮かされたような声が勝手に零れ出る。

 みゆきからの返事はなかった。彼女の視線は、すでに私には向いていない。


『お母さん』


 母親をひとり残して死を選んだ自分を恨めしく思っている、その思いだけでできあがっているかのようだ。自ら死の淵に立ってまで選んだはずの男への思いは、今のみゆきの中にはきっともう残っていない。

 あどけない子供と変わらない調子でそればかり繰り返すみゆきを、私はやはりただじっと見つめていた。

 みゆきは両手で顔を覆っては泣く。いや、よく見ると、彼女の目元からは涙など溢れていなかった。


 黄泉に辿り着いたら、人はもう思うように泣けなくなるのかもしれない。

 それどころか、なにかを見たり、喋ったり、考えたり……そういうことも、生きていた頃と同じにはできないのかもしれなかった。


『お母さぁん……』


 嘆きに似た声が少しずつ細くなっていく。

 みゆきは、みゆきではないなにかになろうとしつつある。そう直感する。

 白と黒、その間を漂うグレーの陰影。色を持たないみゆきの姿が、ゆっくりと薄くなっていく。陰影の濃い部分、黒に近かったそれが徐々に灰色へ移り変わっていき、なにを考える間もなく私は腕を伸ばした。


「みゆき」


 声の主を探して左右に振れるみゆきの視線の先に、私は収まることができなかった。伸ばした私の手を、川島が掴んだからだ。

 力ずくでそれを振り払おうとした途端、今度こそみゆきと目が合う。

 はっとした顔に見えた。薄く開いた唇から、あ、と声を零した彼女は、川島に視線を向けてなにか口を動かし、けれどその声はもう私には聞こえない。


 その口の形が、い、お、り、と動いた気がして、瞬間、私の腕を掴む川島が指にひときわ力を込めた。堪らず、顔をしかめて指の主へ視線を向ける。


「っ、川島」

「先輩。駄目です」

「ねぇ助けて、みゆきのこと、お願い、」


 なりふり構わず叫び、私はみゆきに向かって再び手を伸ばす。だが、その手を川島がより強く握り締めてくるから、腕どころか身体のどこをも動かせなくなってしまう。

 私の懇願に川島は応えない。煮えるような苛立ちが湧き起こる。激情のまま川島に向き直り、胸倉を掴み上げてやりたい衝動に駆られたが、結局は動けなくなった。次にみゆきから目を離したら最後、二度と彼女と目を合わせられない……否、合わせてもらえない気がしたせいだ。

 そのときこそ、みゆきは私たちの前から完全に姿を消してしまうのでは。そんな気がしてならなかった。


 抵抗しきれない身体の内側を、どくどくと血液が流れては巡る。きいん、きいん、耳鳴りがひどい。眩暈もまた激しかった。

 はい、と川島が返事をしてくれたように聞こえたが、それは私にではなくみゆきに返したものだったらしい。現に川島の目は私を向いていなかった。

 もう一度、みゆき、と声をあげる。確かにあげたはずが、その声が本当に自分の声かどうか、そんな判断さえつかないほどに遠い。


 最後の最後、私に目線を向けたみゆきは、少し困ったように笑って……それきりふつりと掻き消えてしまった。


「……あ……」


 がくりと崩れ落ちる。

 したたかに床を打った膝は、なぜかわずかにも痛みを感じなかった。川島はいまだに私の手首をきつく握り締めていて、そちらのほうこそ痛くて堪らない。


「最後、なにか……話したのか」

「……先輩に会えて嬉しかったのかな、とは思う。これ以上は答えられない」


 ごめんね、と独り言のように呟いた後、川島は黙り込んでしまった。

 なにに対しての謝罪だろう。質問に答えられないことか。私の手首を加減もせず握り締めたことか。あるいは、みゆきを助けてほしいと叫んだ私に応えなかったことだろうか。

 やっと手首を放され、私は呆然とそこを見つめた。赤くなっているそこに、食い込んでいたらしき川島の爪の痕がはっきりと見え、ああ、痛かったな、とまた思う。


「ごめんね。痛かったでしょう」


 やはり独り言じみた声で呟く川島に、今なお痛みは続いているにもかかわらず、私はううん、とだけ返した。あんなに遠かった自分の声は嘘かと思うほど元通りで、また耳鳴りも眩暈もとうに残っていない。

 深々と息を吐き出したそのとき、如月と目が合った。膝を抱えて身体を丸くした彼は、川島に怯えた視線を向けている。その肩も腕も、ソファの上で小刻みに震えていた。


「ねぇ……あんた、やっぱり危ないよ……」


 声を飾る余裕は、すでに毛ほども残っていないらしい。ぼそぼそと呟く如月の声は、これまでに聞いた彼の声の中で最も低かった。

 対する川島はなにも言わない。まだいたのかとばかり、ソファに蹲る如月を小馬鹿にしたように見下ろしている。つられて、私もまた如月に視線を向けた。


「さっきのあれ、作り物なんでしょ」


 青白い顔で浅い呼吸を繰り返す如月は、それでも震える腕をまっすぐに伸ばし、糾弾する勢いで川島を指差している。


「水羽の死後婚が失敗してたなんて嘘。あり得ない。騙されないよ、あんたには」


 腕も肩もいまだ派手に震わせている如月は、もう川島に掴みかかろうとしない。敵わないことを悟ったからなのだろうが、その癖、口ばかりはよく動く。

 極度の緊張が解け、瞬間、私の中でぷつりとなにかが切れた。


「ならさっさと帰れ」


 掠れた声が喉を滑る。発した自分の声が低いか高いか、あるいはどの程度の大きさなのかさえ判別がつかない。ただ、身体の内側にわだかまる気怠さが億劫で、さっさと振り払ってしまいたいと思う。

 そんな私に、如月は部外者でも眺めるような目を向け、そして。


「っ、あなたには関係ないよ、ぼくは今そいつと話し……」

「うるさい!!」


 ひと声発しただけで喉がひりつくなど、そんな事態は自分とは無縁だと思っていた。

 一度決壊した堤防は元に戻らない。割れた花瓶は二度と花を生けられない。そうと分かっていながら、私の声も感情も、窮屈な身体を突き破って外側へと出ていきたがる。


 身体はなおも勝手に動き続ける。つかつかと足音を立てて如月の座るソファへ歩み寄った私は、そのまま如月の胸倉を掴み上げた。

 目を見開いた如月は、勢いに押されてだろう、自ら立ち上がった。射殺さんばかりに近距離から睨みつけていたからか、男は私を凝視したきりすっかり固まっている。


 気が立って仕方ない。

 みゆきは悔いていた。苦しんでいた。

 あの苦悩を眼前にして、よくものうのうと。


「さっさと帰れって言ってんだよ、この人殺しがッ!!」


 叫んだと同時に、瞼に涙が滲む。

 もっと早く涙を落とせていれば良かった。それができていたなら、この熱はもっとずっと早く下がったのかもしれなかった。

 胸倉を掴み直し、相手の首を絞める勢いで腕を前に突き出す。途中で川島が止めに入ったが、もしそうしてもらえていなかったら本当に絞めていたかもしれない。力では敵わない男が相手だと頭では分かっているはずなのに、後悔は少しも覚えなかった。


「分かっただろ。最初からお前らの手になんか負えてない」

「あ……」

「帰れ。もう来んな」


 私の上半身を抱き込んで押さえつけながら、苦々しく如月に声をかける川島は、どこまでも億劫そうな顔をしていた。

 拘束から解放された如月は、顔を強張らせて玄関と私を見比べている。ほどなくして、川島の腕から逃れるべく藻掻く私を一瞥し、震える手で自身の荷物を握り締めた。


 如月はもうなにも喋らなかった。逃げるように玄関を目指す彼の背を睨みつけているうち、やがて扉は開き、閉じ、後には息を上げて拘束から抜け出そうとする自分と、そんな私を拘束し続ける川島だけが残る。

 抜け殻になった気分だった。如月が座っていたソファの横、ちょうどみゆきの姿が浮かび上がっていた場所にがくりと膝をつく。


「っ、みゆき、……みゆき……ッ」

「先輩」

「あいつ、殺した、みゆき、あいつのせいで、……ねぇ川島、なんで」


 ああ、と声をあげて泣くのは、子供の頃――母が私の涙を許さなくなるよりも前、本当に幼かった頃以来かもしれなかった。


「なんで助けてくれなかったの……ッ!!」


 己の声こそが鼓膜を震わせ、痛めつけている。そうと分かっているのに止まらない。

 泣き叫ぶ私を、川島は如月が去る前と変わらず腕を使って拘束していて、私はその腕を拳で二度打ちつけて、けれど彼は動かない。私の暴挙に声を荒らげるでもそれを止めるでもなく、ただされるがまま打たれている。


「……ごめんね」


 慟哭の合間、川島の低い声が遠く聞こえた。



     *



 死んだ人間は、どうしたところでこの世には戻らない。十分すぎるほど分かっていても、責めずにはいられなかった。

 助けたかった。助けてほしかった。自分にできなかったことを一方的に川島に押しつけ、責め、泣き喚いて……川島は終始困った顔をしていたと思う。ただ、荒れる私を、彼はそれでも抱き締め続けてくれていた。


 どんな力を持っていたとして、おそらく川島にどうにかできた問題ではない。

 私が苛立っていたのは、あそこまで声を荒らげて泣き叫んでいたのは、あのままみゆきを去らせた己の無力さにこそ。川島を、さらには如月を責めることさえも完全に見当違いでしかない。


 川島は怒らない。小さく零した私の謝罪を、結局彼は笑って受け入れてしまった。川島が優しくしてくれればくれるほど、私は自分の醜さを思い知る羽目になる。

 死んだことを死んだ後に悔いているみゆきに対し、私にできることはなにもない。大声をあげて叫んだために、喉の痛みはとうに一時的なものではなくなっていて、後は鼻を啜りながら子供のように縮こまって泣いた。


 どこかで受け入れきれずにいた旧友の死を、私はこのとき初めて受け入れた。



     *



 夜。目を腫らした私は早々にベッドへ転がり、川島もまた隣に横たわっている。

 背を撫でられ、ときおり髪を梳かれ、瞼に触れられ、いまだに赤みの引いていない手首を労られ……まるで川島の子供にでもなってしまったみたいだ。

 馬鹿げたことばかりが頭を過ぎる。ここ数年分の涙を使いきってしまったかのように、頭がぼうっとしていた。


「川島のお祖父さんとお祖母さんの絵馬って、今も絵馬様寺にあるの?」


 ぼんやりしたきり、深く考えずに尋ねる。

 不躾な質問だという自覚はあった。場合によっては川島を傷つけかねない話題だとも分かっていた。それでも訊かずにはいられなかったし、なにより今を逃したら二度と訊けない気がしてならなかった。


「どうかな。もう十年近く前の話だし、さすがに奉納場所からは外されてると思うけど」

「本物なんでしょ?」

「そうだね。祖母が祖父からもらった品みたいだから」


 他人事じみた言い方をする。

 十年近く前。祖母が祖父からもらった品。私が知らない川島と、彼の家族の話。どうしてか胸が灼けつくように痛んだ。


「お祖父さんには会ったこと、あるの?」

「ないよ。僕どころか、母が生まれるよりも前に亡くなったらしいから。母は私生児として育ったと聞いてます」

「……そう」


 返す言葉が見つからず、私は黙り込む。

 それがそのまま私たちの間に沈黙を生み、けれどその静けさを気まずく思うよりも先。


「僕、たまに同じ夢を見るんです」

「……夢?」


 唐突に話題が切り替わり、訝しく思う。しかもその内心が声に出てしまった。

 だが、川島は私の反応に気を揉んだ様子を見せるでもなく、ぽつぽつと続ける。


「ひどい火事の中で、誰かに助けてもらうんだ。僕は小さな子供で、女物の着物を着てて、助けてくれた人は多分男の人で、腕も顔も火傷してて、……でも、よく見ると顔が僕にすごく似てる」

「火事?」

「うん。火事に遭ったことなんか今まで一度もないのに、火の上がり方とか、物が焼ける臭いとか、無駄にリアルで怖くなる。まぁ全部白黒にしか見えないんですけど」


 白黒、という言葉には聞き覚えがあった。


『僕の夢って白黒なので』


 自分の夢には色がついていないのだと、前にも川島は言っていた。いつか他愛もない話の中に飛び出してきた情報だ。


「絵馬がずらっと並んでるところも見えて、それも全部焼けてる。僕はとても悲しい気分でそれを眺めてて、……燃える火がだんだん赤くなってきて、そうなったらそろそろ夢から覚めるっていう合図なんだ」


 どくり、心臓が軋むような音を立てた。

 なんだろう。妙に引っかかる。白黒の夢。火災。腕にも顔にも火傷を負った、川島によく似た男性。そして――焼け落ちる絵馬。


『ここは二十年近く前に再建された寺院なんですよ』

『大昔に火事があってね、それ以来長らく廃寺になってたんですが』


 単身で絵馬様寺を訪ねた際に聞いた話が頭を掠め、悪寒が背筋を駆け抜けた。

 まさかその夢は……とはいえ、絵馬様寺について私よりも詳しい川島がその可能性に思い至らないわけはない。

 川島は、その夢が示しているものをすでに知っているのかもしれない。だが。


「祖母も知ってるんです。その夢の……絵馬様寺が焼けた日の情景を、あの人も見たことがある」


 思わず眉が寄る。

 やはり、その夢の舞台は絵馬様寺の火災なのか。


「……絵馬様寺が焼けたのって、大昔の話じゃなかった?」

「はい。祖母も夢に見たと聞いてます。そういう力は、あの人の血筋だから」

「待って。お祖父さん……ではなく?」

「はい。祖父と祖母も、それほど近しくはないはずだけど、家系図を辿ればいずれ同じ先祖に行き当たる」


 もっとも、家系図なんて残っていませんけどね。

 そこで一度話を区切った川島の顔を、穴が空くほど見つめる。


「お祖母さんも絵馬様寺の血筋ってこと?」

「多分。僕の見立てでは、夢で女物の着物を着た子供……いつも僕が置き換わっているその子が、祖母の祖先なのではないかと。そして彼女を助けた火傷の男が、絵馬様寺最後の住職だと踏んでいます」

「……寺に火を放ったっていう?」

「はい。祖母の考えは元々よく聞こえてたから、それも交えての推測です。本人にはもう確認できないし、結局は想像の域を出ないけど」


 呟いたきり、川島は口を噤んだ。

 沈黙が落ちる。大昔に起きた火災に、川島の祖母の祖先に当たる女性が巻き込まれ、火を放った張本人である最後の住職が身を挺して彼女を救った、ということか。


 私は、川島についてまだまだなにも知らない。以前ならそのことをつらく思っただろうに、今は不思議とそう感じなかった。

 自分の祖父が誰なのかも、川島はもう知っているのだろう。死後婚の絵馬には結ばれるべきふたりの名が記されるわけで、彼は祖父と祖母の名が刻まれたそれを過去に手にしているのだから。

 それに、本物の絵馬を愛する人へ渡したというなら、彼の祖父は死後婚を執り行える者、もしくはそうした者に近しい立場にある人物だったとも考えられる。


 沈黙がどれほど続いた後か、黙る私を抱き寄せ、川島が再び口を開いた。


「祖母は、黄泉に迷い込んだ先で母を宿したんです」

「……え?」

「本人は幸せだったんだと思う。僕にはちっともそう見えなかったけど、……一瞬で終わる花火みたいな恋をして、それを死ぬまで大切に抱きかかえて」


 話の流れに構わず、ぽつり、独り言のように呟いた川島の声が妙に耳に残る。

 黄泉に迷い込んだ先……どういう意味だ。彼の祖父はそこの住人だったとでも。私のあからさまな視線を察したのか、川島は分かりやすく苦笑いを浮かべる。


「うーん、喋りすぎちゃったな。忘れてください、大して面白い話でもないし」

「……川島」


 続く言葉を見つけられずにいる私を、川島はそっと抱き寄せる。

 その顔が肩越しに隠れてしまってから、彼は小さく息を落とした。


「祖母は、頼まれた絵馬を僕が奉納しに行っている間に息を引き取ったそうです。正確には僕が絵馬を受け取ったときに、なのかな」

「……うん」

「祖母がいなくなって、絵馬のことを思い返したときに、すぐ外しに向かえば良かったんだ。そうすれば如月たちにも見つからずに済んだし、あいつらだって人を殺そうとなんて思いつかなかったのかもしれない」


 川島、とまた呼びかけながら、なにをどう続ければいいのか分からない。

 そんなことない、川島のせいじゃない――どんな言葉をかけても安っぽくしかならないだろう。私が伝えたい意味のまま川島に届いてくれるとは、どうしても思えなかった。


『彼の大切な人、生前から黄泉に囚われていたのだと思うから』


 いつか聞いた水羽の声が脳裏を過ぎる。

 やはり、あれは川島の祖母を指しての言葉だったのだ。


 如月の話を信じるなら、彼と水羽は、絵馬様寺で川島の祖父母の名が刻まれた絵馬を目にしている。絵馬が本物だと気づいた水羽が、そこに刻まれた名――特に男性の名に思い当たる節があったとしてなんら不自然ではない。

 川島の祖母が、黄泉に迷い込んだ先で出会った人と恋に落ち、子を宿し、そして此岸へ戻ってその子を産んだのだとしたら。

 すべてが現実離れしてこそいるものの、辻褄は合ってしまう気がした。


 川島の夢について、また尋ねてもいいものか迷う。

 だが、彼自身が「忘れて」と締め括った話をおいそれと蒸し返すのは気が引けた。


「みゆきは……もう泣けないのかな」


 ぽつりと呟いた私の言葉には、前触れもなにもなくなってしまった。けれど、抱き締めてくる相手の腕にふと力がこもる。

 ぎりりと胸の奥が痛む。薄っぺらの毛布に揃って包まりながら、迷子の子供がふたり、凍えてしまわないよう必死に身を寄せ合っているみたいだ。


「だとしても、あなたを連れていかせるわけにはいかなかった」


 手首に触れる彼の指は、微かに震えていた。

 その声を聞いてようやく腑に落ちる。あのとき、みゆきへ伸ばした私の手を川島があれほどきつく握り締めた理由は、そういうことだったのだ。きっと。


「……行かないよ。ごめん」


 小さく呟いた声に、返事はなかった。

 川島の本心を知ってから、うまく喋ることができなくなっている。いや、そもそも私は生粋の口下手だ。

 これ以上寂しくなりたくなかったから、以降はもう口を開かず、ただ黙って広い背中に腕を伸ばした。



     *



 それから数日は、田住からの連絡に応じたり、あるいはこちらから彼へ報告をしたり、その繰り返しで過ぎた。

 頑なにソファで眠り続けていた川島は、同じベッドで一緒に休みたがるようになった。夜の間に私がどこかへ連れ去られる気がして怖いという。子供かよとつい笑いそうになったが、事実、彼は本当に私がどこかへ連れ去られそうな気がしているのだろう。


 キスを交わして眠りに就く夜を繰り返していると、次第に、今私たちが在るこの現実こそが紛い物なのではと思えてくる。

 本当は殺人事件なんて起きていなくて、みゆきもみゆきのお母さんも元気にしていて、明日には如月がまた元気に出社してきて……ぬるい夢ばかり追いかけたくなっている自分を、もはや笑う気にもなれない。


 この数日は、暇さえあれば、先日聞いた川島の夢の話を思い返していた。


『実はお祖母様自身も再建に力を貸してくださったらしくてね』


 ひとりで絵馬様寺へ赴いたときに聞いた住職の話を思い出す。

 あのとき私は、川島の母親が絵馬様寺へ多大な寄付をしたという話に気を取られ、続く話に碌に集中できていなかった。だが今思えば、彼は随分と奇妙な話をしていた。絵馬様寺が焼失してから誕生したはずの川島の祖母が、寺院の内部の情報を事細かに証言したというくだりだ。


 黄泉に迷い込んだ際、川島の祖母は誰と出会い、なにを見て暮らしていたのか。

 川島の祖母と祖父、ふたりとも鬼籍に入っている以上、真実が明るみになることはおそらくもうないのだろう。すべてが想像の域を出ない上、興味本位で足を突っ込んでいい問題でもきっとない。けれど、いつか本当のことを知れたらと、心の底からそんなことを願ってしまう。

 私は私で、もう引き返せないところまで深々と足を踏み入れてしまっている。



     *



 如月が事務所を訪れてから四日が経過したその夜、固定電話が鳴る音で目が覚めた。

 時刻はまだ深夜……いや、カーテン越しの日差しこそまだ淡いがすでに早朝らしい。こんな時間から、と訝しく思いつつもそっと起き上がる。

 川島はまだ寝ている。昨晩はなかなか寝つけない様子だったから、このためにわざわざ叩き起こすのも気が引けた。


 電話口へ向かいながら、既視感を覚えた。


 ……関村勝美の訃報が入ったときと、状況が似ていやしないか。

 ぞくりと背が震える。だが、このまま放置するわけにもいかない。半ば無理やり足を動かし、私は事務所の電話に指を伸ばした。


「……はい」

『おっ、雨宮さんかい? 田住だ。ご無沙汰だねェ』


 短く応じるや否や、聞き覚えのある嗄れ声が耳に届き、つい気まずさを覚えてしまう。

 私が早朝からこの電話に出ることができるという状況を、相手に深読みされている気がしてならない……いや、田住は私がこの事務所に滞在していることを知っている。むしろ、それを推奨したのは他ならぬ彼自身だ。


「どうも。ご用件を伺っても?」


 平静を装って尋ねると、受話器越し、田住は『うーん』と躊躇を見せた。

 私に伝えていいものか迷っているような声だ……だが。


『いや、あんたも当事者だしなァ。この電話の内容、川島にも伝わるな?』

「は、はい。必ず伝えます」

『じゃあ大丈夫だな。いやなァ、あんたを連れ出した例の如月なんだが』


 ――昨晩、市内の工事現場の足場から飛び降りやがって、病院に運ばれてな。


「……は……?」


 電話の向こうから聞こえてくる田住の声が、瞬間、強烈な耳鳴りに掻き消された。

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