第4章 異形の涙は何色か
《1》急転
電話は田住からだった。
内容は、関村幸宏の母――
遺体が見つかったのは、死亡推定時刻より丸二日が経過してからだったそうだ。独居である上、外出を伴う仕事などにも就いておらず、発見が遅れたらしい。
死因は睡眠中の心不全だというが、詳細は不明。自死と判断される形跡は特になし。ただ、一連の被害者たちと死因が一致している。無理に共通項を見出したいわけではないが、薄ら寒さを覚えずにはいられない。
今回は、遺体の傍から花も絵馬も見つかっておらず、件の連続不審死との関連性は薄いと判断されているという。
「……関村、さんが……」
言葉が続かない。
ごく短い時間とはいえ、顔を突き合わせて話したことのある人物の突然の訃報を前に、堪らず私は額を押さえた。
「不審死扱いになるようです。彼女の場合、夫とも一人息子とも死別していますので、遠縁の親戚を相手に諸々の確認を進めている最中みたいですね」
「……死別? 夫とも?」
「はい。息子の幸宏がまだ幼かった頃に死に別れたと聞いています」
語る川島の声は低い。聞いています、という言い方を踏まえれば、実際に話をして聞き出したことなのだろう。
彼女をこの事務所に招いた日、川島は彼女の帰りを送っている。そのときに聞いたのかもしれないし、それ以前に通話でやり取りしたのかもしれない。
ふ、と短い溜息を落とした川島に、ちらりと視線を向ける。
田住を含む警察側の人間は死後婚の存在を知らない。非現実的なその方法で、如月水羽が他人の息の根を止めてしまえることを知り得ない。つまり、法的な手段で如月姉弟を追い詰めることは現状不可能だ。だが。
「……水羽が手を下した可能性は?」
「あるでしょうね。死因が死因ですし」
小さく問うと、やはりまた低い声で返される。淀みのない口調だったから、川島もその線を疑っていると考えて間違いなさそうだ。
川島は以前、これまでの被害者たちの枕元に置かれていた絵馬はフェイクだと言っていた。フェイクの絵馬は、死後婚を執り行うために必要なものではない。それを関村勝美に渡すことなく、水羽が手を下した可能性は十分にある。
勝美はひとり暮らしをしていたそうだが、息子のみならず夫とも死別している。その夫の名と勝美の名をひとつの絵馬に刻んだということか。
『瑞希は人を選ぼうとしない節があるけど、あたしは誰かの願いを叶えることを優先したいの』
人殺しのそれを理解できる気もしないが、水羽はある種の信念を持っている様子だった。誰かの願いを叶える――その意志を持って死後婚を執り行っている。あのときの言葉はそういう意味なのだろう。
如月は被害者を選ばない。だが水羽は選ぶ。
離縁ではなく死別であるなら、水羽が動く理由には十分なり得る気がする。もしかしたら、水羽はなんらかのタイミングで勝美と接触したのかもしれない。
そもそも、みゆきを含めた四人の被害者たちに、水羽や如月とどの程度の接触があったのかも定かではない。
絵馬に記載するふたりの氏名と、フェイクの絵馬の届け先。それさえ連絡がつけば、如月姉弟は事件の引き金を引いてしまえる立場にある。そこに物理的な接触は必要ないのかもしれない。
実際に顔を突き合わせたか否かまでは、如月たちからも聞いていない。メールなり通話なり、あるいはメッセージなり、対面せずともやり取りできるツールはいくらでもある。
ただ、今回の勝美の死が如月姉弟の手によるものだったとして、なぜ彼らはこれまで通りのやり方を貫かなかったのか。
勝美の遺体の傍には花も絵馬もなかったという。無論、如月姉弟に関係ない、いわゆる孤独死だった可能性ももちろんある。しかし、もし如月らによってもたらされた死であるなら、今回のみ「花を一輪用意し、絵馬とともに枕元へ」という指示がなされなかったことになる。
元々、水羽は如月の指示を受けて絵馬を使っている様子だった。少なくとも、以前囚われた際に見た彼らのやり取りを踏まえるなら。
とはいえ、水羽は如月がいなければ動けない人間ではない。私を連れ出したときにも、如月の目を盗んでそうした。川島紬に会いたいという彼女自身の希望を叶えるために。
つまり、水羽は如月の言いなり状態にはない。私を連れ出したときのように、如月が望んでいない行動に打って出ることも十分考えられる。結局、如月には絵馬を使った殺人は行えない。姉なくしては叶わぬ望みを叶えるため、姉の気紛れを黙認しているといったところか。
だが、どのみち彼らが殺人の罪に問われることはない。
非科学的な手段による殺人である以上、あのふたりがやったという証明は絶対にできないのだから。
「……如月の考えを読んだことは?」
沈黙を割いた自分の声はどこまでも低い。
また川島に心配されてしまいそうで、思わず苦笑が零れた。
「まぁ……あるにはあります」
「今、あいつがどこにいるかとか、そういうことは分からないのか」
「うーん。どっちかっていうと、読むってよりは一方的に聞こえてくるだけなんですよ。如月のって特に聞こえにくいんですよね、実は。あなたのが一番聞こえやすい」
思わぬ返答に、私は咄嗟に額を押さえた。
なぜ私ひとりがそんな目に遭ってしまっているのか……前にも同じことを思った。常に思考が漏れている状態など丸裸に等しい。
とはいえ以前、川島も実際に言っていた。片方は聞こえてきて、もう片方は聞こえてこない。それをよくあることだとも。
「……前に」
「はい?」
「なんでわざわざ関村さんを事務所に呼んだのかって思ったんだ。遠くにいても読めるなら、そのまま読めば良かったじゃないかって」
事実、北海道にいた当時、私は川島に思考を読まれている。空港での待ち伏せは、それができていなければ不可能だったはずだ。
堪らず視線を伏せた。一方の川島は、小首を傾げながら眉を寄せ、言葉を選ぶようにゆっくりと続ける。
「本当に、読もうと思って読めるものではないんですよ。目の前にいれば読みやすいとか、そんなことも別になくて」
「……そうか」
「拒まれてる、というのもあるのかもしれません。信用とか信頼とか、そういうものがない相手からは伝わってきにくいのかも」
自分でもよく分かっていなそうな話し方をする。実際、川島自身も本当に分からないのかもしれなかった。
信頼関係がない、あるいは相手が川島を信頼していない場合などには聞こえにくいのだろうか。ならば如月の心中が川島に読めないのは納得だ。しかしその解釈だと、私の川島に対する信頼が元来厚いという証明になってしまう。
気まずい。別に間違ってはいないが、言葉に置き換えられると居心地が悪い。気恥ずかしさも手伝い、私はつい派手に顔をしかめ……そのときだった。
「……ああ、けど今は」
川島の目が、すっと細められる。
「だいぶ取り乱してる。今からここに来るみたいだ」
言葉の意味を取りあぐねて知らず眉を寄せ、問い質そうと口を開きかけた瞬間、インターホンが高らかな音を立てて鳴った。
肩どころか、全身が引きつるように強張る。
「……な……」
「如月だと思う。先輩は出ないで」
呆然と玄関へ視線を向けた私とは対照的に、川島はさして動じた素振りを見せない。
ドアに向かって足を進めていく彼の背を見つめながら、まさかと思う。川島の言動から察するに、ドアの向こうに立っている人物は。
「……あ」
ガチャリと開いた扉の先、長い茶髪が覗く。
きらびやかなメイクに彩られた大きな両目、さらさらのストレートヘア、ふわりとしたラインを描くチュニック、チェック柄のミニスカートに高ヒールのロングブーツ――それらとはあまりに不釣り合いに思えてしまう大きな手のひらは、今、彼の華奢な脚の横できつく握り締められている。甘い菓子を彷彿とさせるカラフルなネイルは、拳の内側に入り込んでいるせいか少しも覗けない。
如月だった。
ごく最近まで、曲がりなりにも同僚としてともに働いていた男が、疲弊した様子で真っ向から川島を睨みつけている。
「久しぶり。待ってた」
対する川島の声は、少々挑発的だ。
彼のそういう声を聞くことこそ随分久しぶりな気がして、傍観しているだけのはずがぞくりと背を震わせてしまう。
「っ、よくそんなことが言えるね。正気?」
「僕はいまさらノコノコこの場にやってきたお前の正気を疑ってる」
川島の声色にも口調にも、歓迎の気配は毛ほどもない。
如月も早々にそれを察したのか、玄関に足を踏み入れることなくただ俯いている。その愛らしい顔を、握り締められた大きな拳を、知らぬ間に私はきつく睨みつけていた。
ふと顔を上げた如月と目が合う。睨みを利かせたままの私から、彼はすぐ気まずそうに目を逸らし、そして吐き出すように零した。
「……単刀直入に言うね。助けてほしいの」
*
川島は、如月をデスクに座らせなかった。
如月は如月で、かつての自席に座る気などさらさらないという顔をしていた。川島の中ですでに如月は従業員ではなく、また如月の中でも川島はもう雇用主ではない……そういう意味なのだろう。
いつか関村さんを案内した応接スペースのソファに腰を下ろした如月は、そわそわと手を組み直したり、周囲に視線を動かしたりと、妙に落ち着きがない。
『助けてほしいの』
そう切り出した如月は、私の知る明るい喋り方をしなかった。
心なしか声も低く、よほど困窮した事態に置かれていると察せる。
「飲み物、なんか要る?」
「……いい。要らない」
「そう? 喉、渇いてる癖に」
「っ、うるさいな……」
川島のひと言は、如月の内心を読んだがゆえのものなのか、あるいは今の如月が単に肩で息をしているからというだけのものなのか。
どちらにせよ図星だったらしく、如月は分かりやすく顔をしかめている。
「いいから話、さっさと聞いてよ」
「アポなしで来といて何様だよ、お前」
「悠長に話してる時間なんかないんだよ!」
傍目にも分かる。声を荒らげる如月は、見るからに余裕がなさそうだ。
おそらく川島は煽っている。先刻、彼は「取り乱してるみたいだ」と言いながら如月の行動を読んだ。取り乱している、すなわち感情が揺れ動いている相手からは読みやすくなるのだろうか。だとしたら、さらに乱せばもっと引き出しやすくなるのかもしれない。
手狭な応接スペースのソファのうち、如月は上座に、川島は下座に腰を下ろしている。私は川島の隣に座っていて、これはいつか関村さんが訪問してきたときと同じ配置だ。一応、如月を客として扱う気はあるらしい。が、その如月の表情はどこまでも苦かった。
人の心を読むという川島の力について、如月はなにか知っているだろうか。川島本人にそう尋ねたこともあったが、結局答えは聞けていない。
とはいえ今の苦い顔を見る限りでは、如月もある程度知っているのかもしれなかった。川島に伝えられたのか、なんとなく察しているだけなのかは知らないが。
「……水羽が、出ていっちゃったの」
沈黙を緩く割いたのは如月の小さな声で、私は思わず目を見開いた。
顔を伏せる如月の表情は読めない。隣の川島も、目立った反応を見せない。私だけが動揺している気にさせられてしまう。
「ぶっちゃけ、ぼく川島さんが嫌いなのね」
「知ってる。いまさら」
「……あっそ」
挑発的に言い放ったところをあっさり流され、如月は苛立ちを隠そうともしない。ぎりりと歯軋りした後、彼は浅く息を落とした。
「川島さんを追い詰めたくて、それで水羽に絵馬を使わせて事件を起こした」
言葉の最後とともに、如月は俯けていた顔を上げ、ちらりと私へ目を向けてきた。
ぎくりとする。あなたには教えたよね、と言わんばかりに目を細めた如月は、途中から視線を正面の川島に定めてなおも続ける。
「ぼくらが初めてあんたのことを知ったのは、絵馬様寺に奉納されたあんたのお祖母ちゃんの絵馬を見つけたとき。これ本物だよって、水羽が気づいたの」
「ふーん。そりゃ初耳だね」
「真面目に聞けよ」
とうとう如月は口調を崩した。
声も低い。私が知る如月の声は、いかにも作ったような明るい声だ。だが、今は。
「あんたのことはすぐに調べがついたよ。水羽がなんとなく絵馬から感じ取ったものがあったっていうのもあるし、絵馬様寺の支援をしてる川島家って話、わりと有名だからね」
「ふーん」
「罪をなすりつけようとかじゃなくて、そういう方法で死人が出れば、あんたを追い詰めてやれるかなって思ったの。あわよくば勝手に消えてくれるかもって」
「いや、そこまで繊細じゃないよ。ちょっと杜撰すぎない?」
顎を上げて口元を歪める如月に対し、川島は一向に態度を崩さない……だが。
「そう? あんた、いっつも死にたそうな顔してたじゃん。お祖母ちゃんを殺しちゃったこと、ずっと気にしてたんでしょ?」
鼻で笑う如月の声を聞きながら、私の肩こそが派手に震えた。態度を崩しはしないまでも、黙ったきり目を細めた川島は、明らかに如月の発言を不快に思っている様子だ。
……仲が良さそうとまでは言わないが、元々このふたりは不仲には見えなかった。実際、いつか如月も「川島さんが嫌いなわけではない」と言っていた。それが、内心ではそれぞれ思うところがあったということか。
喉を鳴らしそうになり、私はそれを無理に堪える。今、如月の眼前で目立った態度を取りたくはなかった。
「……まぁいいよ。それで?」
「井上さん……だったかな。最初の人。あの人を水羽に送ってもらってから、ここに面接に来た。普通に採用するからさ、これは脈アリだなって思った。こいつ、下手したら殺されたがってるなって。当たってるでしょ?」
「うーん。微妙だけど……せっかくだし続けてみて」
「あんたってホンット性格歪んでるよね」
は、と呆れ笑いを落とした如月の喉元に視線を合わせる。目を合わせる気にはなれなかったが、露骨に逸らすのもためらわれた。
井上――井上静子。最初の被害者だ。絵馬に記載されたその人物の名を、私は実際に見たことがある。
背筋がぞわりと粟立つ。今、如月は「水羽に送ってもらった」と言った。つまるところそれは、絵馬を使って殺したという意味なのだろう。
「ぼくね、別に司法に裁かれたいわけじゃないの。ぼくが思う方法で裁かれたい。死後婚を執り行える川島さんに殺されることで罪を
得意げに話す如月は、自分の言葉に酔い痴れているような顔をしていた。
……どういう思考回路をしているんだ、この男。前にも同じことを思った。
如月は狂気を宿している。川島の性格をどうこう言える立場にはない、お前こそ歪んでいる……あまりにも身勝手が過ぎる。握った拳が図らずもふるりと震える。
「けど、なかなかしぶといんだもん。あんた」
「そうかなあ」
飄々と返す川島を、如月はふんと鼻で笑い飛ばした。
私と如月の視線はもう合わない。如月の照準は、すでに川島ひとりに限定して合わせられている。
「警察から仕事の依頼が来てるって知ったときは、さすがにちょっと焦ったよ。中でも……田住だっけ? あいつ、すごく厄介。どう足掻いても警察にはぼくらを捕まえられないだろうけど、疑ってる目でじーっと見られるの、やっぱり気分悪いしさ」
やれやれとばかり、如月は溜息を落としてみせる。
少々演技がかって見えた。むしろ、それこそ私の知る如月の言動に近い。相手の油断を誘う、この男の上辺の顔だ。
「もしかしたら、監視するためにぼくを雇ってるのかなって思ったこともあるよ。どうしようかなーって思ってた。その頃から水羽、わりと口を出してくるようになってたし」
「ふーん」
「その相槌要らないよ、めちゃくちゃ不愉快」
ぎろりと川島を睨みつけた後、如月は小さく溜息を落とした。
「水羽はね。死に別れた恋人たちを助けてあげたいって、心から思ってるの。だから何人か送って、ああ、うまく送れてるなって自信がついたんだと思う。……で、宇良さん。ぼくが知ってる範囲の、最後の依頼主」
言いながら、如月はちらりと私を見た。
目が据わっている自覚はあった。相手もなかなかに気まずそうだ。人殺しの分際で私には気を遣えるのかと、真っ向から見下してやりたい衝動に駆られる。
依頼主――ということは、やはりみゆきはこいつらに死後婚を依頼したのか。詰まりかけた息を、私は半ば強引に吐き出す。
「アメミヤさん、彼女のお友達だって聞いて……びっくりしたのは本当だよ。しかも川島さんの元カノだっていうし」
言い返したいことはあったが、口は挟まなかった。
隣の川島もなにも言わず、沈黙をもって話の続きを促しているように見える。
「初めてアメミヤさんがこの事務所に来たときから、川島さん、微妙に顔つきが変わったんだよね。アメミヤさんに、とにかくぼくを近づけたくないって思ってた。当たりでしょ」
「……まぁだいたい合ってるね」
「それなのに、あんたはアメミヤさんを採用した。この事務所で雇い始めた。ぼくの席の隣で働かせて……正気を疑ったよ。マジでなに考えてんだろこいつ、って」
語る如月の口元が、さも楽しげに歪む。
「だから方針を変えたの。リスクを冒してまで自分の傍に置いておかなきゃならないくらい大事な大事なアメミヤさんに手を出されたら、こいつ、本気でぼくのこと殺しにかかってくるんじゃないかなって思ってさ。そうやって殺してもらって、その罪を水羽に裁いてもらおうと思ったわけ」
「うーん。なんというか、失敗に終わって残念だったね」
攻撃的な笑みを浮かべていた如月の口元が、一瞬で憤怒に歪んだ。
種明かしをぞんざいに扱われたことへの苛立ちか、あるいはなにを言っても動揺しない川島に対する焦りなのか、顔を真っ赤に染めた如月はぎろりと川島を睨みつける。
「っ、なんなのあんた、本気でムカつくんだけど……ッ」
「僕がなにを考えてたかって話は別にいいよ、お前には全部は理解できないと思う。それより、お前のお姉ちゃんはいつからお前の言うことを聞かなくなったの?」
華奢な膝の上で握られた如月の拳が小刻みに震えている。
徹底していた。川島は、如月の挑発に一切乗らない。一方の如月は真逆だ。川島の手口にどんどん追い込まれている。隣で見ているだけの私にさえ簡単に分かるほど。
如月がある種の死にたがりであることを、川島は悟っている。
相手の焦燥に乗じて内心を読んだのかもしれないし、それでなくともこのふたりは元来似たような思考を持った者同士だ。己の罪を贖いたいと願い、そのために裁かれたがって――殺されたがっている。だからこそ、直感が働いて察せているという可能性もあるだろう。
「……宇良みゆきより前からだな」
考えに沈んでいた頭が、不意に現実へ引き戻される。耳に入り込んできた友人の名に気を取られ、私は思わず隣に視線を向けた。
今の今まで飄々とした態度と口調を崩さなかったのに、川島の声は打って変わって冷え冷えとしている。怒りに震えていた対面の如月もまた、大きく目を見開いていた。
「……なに?」
「自分が選んだ人間の死後婚を成就させる、それを実行に移せると知って自信を持った。そんな如月水羽にとって、お前はとっくにお払い箱……違うか」
「ッ、うるさい!!」
淡々と告げる川島とは対照的に、如月は怒声でもって話を強引に遮った。
片手で頭を押さえた如月は、射殺さんばかりの勢いで正面の川島を睨みつけている。川島の隣に座る私の存在など、彼の眼中にはとうにないらしい。だが川島は動じない。
「宇良みゆきは水羽が選んだ犠牲者だな」
「犠牲者じゃない! 宇良みゆきは死後婚を望んでた、喜んで死んでいったんだッ!!」
びりびりと鼓膜を震わせる、叩きつけるような声が響き渡り、私は動けなくなる。
みゆきが死後婚を望んでいた……そうと想像したことは確かにあった。それも一度や二度ではない。けれど今、犯人の口からその言葉が飛び出した。みゆきが本当にそれを望んでいたと確定してしまった。
もしかしたら私はこのとき、ひどく傷ついた顔を晒してしまっていたのかもしれない。ちらりと私を一瞥した如月が、一瞬たじろいだように見えた。川島に掴みかかる勢いでソファから腰を浮かせていた彼は気まずそうに座り直し、深々と溜息を落とす。
「水羽は……黄泉に近い生き物なんだと思う。死者と生者の死後婚を執り行うときに、生きてる人間を死に引きずり込むっていう発想がまるでないの」
冷水でも被ったかのように落ち着いた声で語り出した如月は、どことなく物憂げだ。
川島の言葉に、如月があそこまで逆上したことからも察せるが、死後婚の実行にあたって水羽はもう本当に如月を必要としていないのかもしれなかった。
「さっきも言ったけど、水羽は本心から依頼者たちの幸せを願ってる。そのために人を死なせるのが悪いことだなんて、これっぽっちも思ってない。苦しみながら生き続けるより、早く黄泉で幸せになったほうがいいでしょうって……当然みたいに思ってる」
如月の声は徐々に小さくなっていく。先刻の怒声が嘘のように、吐息交じりに細い声を落とし、それきり彼は黙り込んでしまった。
自分はそうではないとでも言いたげだ――いや、最初からそうだ。この男は、川島を苦しめるべく双子の姉を利用して事件を起こした。如月には元々罪の意識がある。
それでいて、正当な手段では誰も自分たちを裁けまいという絶対的な自信を持つ如月は、川島にこそ裁かれたがっているのだ。同時に、自身が川島に殺されることで、川島を人殺しにしたいとも願っている。
「フェイクの絵馬は、水羽には必要ない。あれは僕があんたを挑発するために用意していたものだから……水羽はもう自由に死後婚を執り行えてしまうんだ。死んだ人間と結ばれたがっている人を、それぞれの顔と名前を知るだけで、すぐにでも」
息の詰まる沈黙をどうにもできず、浅くなっていた呼吸を整えるように深く息を吸い込んだそのとき、黙って話を聞いていた川島が、ふふ、と不意に声をあげた。
それが笑い声だと気づくまで、無駄に時間がかかった。
ふたりが交わす話の内容に気を取られて眩暈に襲われかけていた私は、反射的に隣の川島を見上げ、そしてそのまま固まった。
「……黄泉に近い生き物、ねぇ」
口を歪めて笑う川島を、堪らず凝視する。
見るからに小馬鹿にした感じの笑い方だ。先ほどまでの挑発とはわずかに毛色が異なる。今のそれは、相手を心底蔑んでいるかのような、そういう。
「なんだよ」
ここを訪れてからずっとそうではあるが、川島を睨みつける如月の敵意は露骨だ。
如月は、川島を殺したいと、あるいは川島に殺されたいと、今も思っているだろうか。ふとそんな疑問が脳裏を過ぎる。
悪寒は引かない。
それどころか少しずつ強まってきている気さえする。それなのに。
「はっきり言わせてもらうが、如月水羽による死後婚の儀はすべて失敗している」
しんとした空気がふるりと揺れ、
失敗。水羽による死後婚の儀が、すべて。
抑揚を欠いた川島の声がゆっくりと耳に届き、しかし理解が追いつかない。正面で如月が派手に目を見開いたそのさまに気を取られ、余計に混乱してしまう。
「……は……?」
「死に損ってことだよ、四人とも……いや、五人か。お前はお姉ちゃんを崇めすぎ」
――死に損。
如月へ向けて放たれているはずのその言葉が、私ごと巻き込んで、底の見えない暗闇へ真っ逆さまに落ちていく感覚に囚われる。
「っ、テメエ……ッ!!」
怒号とともに再び腰を浮かせた如月は、すでに私の知る彼とは別人だった。
艶やかに色づいた如月の爪が、ぼやけた視界に映り込む。正面の川島に掴みかかろうとする彼の顔色はもはや赤黒く、ああ、赤鬼みたいだと、ただそれだけを思う。
頭は朦朧としているのに、身体には緊張が走っていた。背筋が強張り、私は無意識のうちに両腕を顔の前へ掲げ……だが。
立ち上がった姿勢のまま、如月は急に動きを止めた。
「あ……?」
「だいぶ血が薄まってるんだなぁ、お前。お姉ちゃんだけが半端に先祖返りってことか」
「っ、ぐ……」
如月の呻きとは対照的に、川島の声は軽やかだ。
今日の天気について話しているような、没頭まではできなかった映画の感想を淡々と述べるような、抑揚のない、いっそ穏やかにすら聞こえる、そんな声。
「おとなしくしてて。ヨミに叩き落とされたくないなら」
ヨミ、という言葉が黄泉を示していると、いつかと同じく咄嗟には思い至れない。
頭を無理に働かせているうち、息を詰めた如月がどさりとソファへ身を落とした。立っていられなくなったらしい。本当に、どさり、といった感じだった。頭を押さえた彼は微かに肩を震わせている。
「……あんたさ……なんなの、マジで……」
目の前にいるにもかかわらず、如月は、耳を澄ませなければ聞き取れないほど細い声をあげる。その顔色は先刻よりも青白い。
気づいたときには、川島はソファから立ち上がっていた。座る私は、高い位置にある川島の顔を――口元を歪めて笑うその顔を呆然と眺めているしかできない。
「なにも要らないんだ」
「……え?」
零れ出た声が、他人事のように耳を揺らす。
川島の言葉から、彼が意図している意味をうまく拾えない。そんな私の疑問符は、がたがたと震える如月が漏らす呻きにあっけなく掻き消されてしまう。
「事前にあれこれ準備しておいたほうが多少は喚びやすくなるだろうけど、本来はそういうものじゃない」
きん、と劈くような耳鳴りが響き、私は目を見開いた。
事務所内にいるはずが、前触れもなにもなく唐突に別の場所に変わってしまった、そんな錯覚だけが残る。
「先輩には申し訳ないけど、彼女しか……多分もう無理だ」
多分もう無理。どういう意味だと思った途端、くらりと眩暈がして堪らず額を押さえた。対面の如月は、肩を震わせる以外に動く気配を見せない。
もう一度川島に向き直る。
川島も私を見下ろし、目が合い、相手のそれがゆっくりと別の方向へ動いていき……私もまたそちらに視線を動かす。動かさざるを得なくなる。
「っ、……あ」
座り込む如月のちょうど隣。空いたソファ席の、一歩下がった程度の場所。
ジリ、とときおり輪郭が崩れるその情景を、過去、私は確かに見たことがあった。如月水羽が彼女を喚び出したときに。
だが違う。
今、目の前に現れた、それは。
「……みゆき……」
瞬きさえ忘れ、私は眼前に現れた旧友をじっと見つめていた。
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