《5》違わない

 翌朝の川島は、驚くほどよそよそしかった。

 世話を焼きたがっては、いつもの飄々とした態度で私の断り文句をはぐらかす。特にここ数日はその繰り返しだったが、今日は朝から口を利こうとしない。


『荷物を取りにアパートに戻る』


 そう告げてひとりで出かける素振りを見せると、諦めを滲ませた顔で「僕も行きます」と返してきた。

 無論、ひとりで外に出る勇気も気力もまだ戻っていなかったが、想定していたよりも遥かに堪えてくれたらしい。

 私の単独での外出は、田住もまだ難色を示している。それでなくても、犯罪者に囚われるという深刻な事態の直後だ。この状況でひとりでの外出ができるような強靭な精神を、私が持っているはずもない……その程度、この男なら十分知っているだろうに。



     *



 車を出します、と向こうから切り出してきたから、厚意に甘えることにした。

 辿り着いたアパートの自室は見知らぬ場所のようだった。部屋の中に入ると幾分かその感覚は和らいだが、自分自身の居場所に本来感じるだろう愛着はとにかく薄い。

 実際には一週間も経っていないのに、何ヶ月も空けてしまった気分になるのは、この数日でいろいろなことが起こりすぎたからか。玄関も室内も最後に見た状態と変わらなかったが、少し埃っぽい。カーテンごと窓を開くと、中途半端な曇天の隙間から申し訳程度の日差しが差し込んできた。


「自分の家って感じがしないな」


 クローゼットの奥から旅行用のスーツケースを取り出し、衣服や日用品などを詰め込みつつ、思わずぼやいてしまう。

 気を遣っているつもりなのか、川島はワンルームの室内に踏み入ってこない。開いた引き戸の向こう側から、そうですか、と気持ちのこもっていない相槌を打ってくるだけだ。

 普段なら「じゃあいっそ引き払って一緒に暮らしませんか」くらいのことは言いそうなのに、川島は他になにも言わない。昨日の一件により川島との距離が開いてしまった気がして、けれど同時に狭まっている気もする。この男が、普段は誰にでも飄々とした態度を取る人間だからかもしれない。


「お前さ」

「……はい?」


 入れ忘れがないかスーツケースの中身を確認しながら、なんとなく声をかける。

 今の相手はなにも話したくないのではと思う。だが、だからこそかもしれない。ふと訊いてみたくなった。


「あの日、なんで私を空港まで迎えにきた?」


 視線をスーツケースの中身に留めたきりで尋ねると、数秒の沈黙を経て、廊下から控えめな溜息が聞こえてきた。反応がない限りは黙り続けると決めていた分、思ったよりも早く折れてくれたなと思う。


「……困らせてやろうと思って」


 不承不承といった態度の滲む返事を聞いた途端、はは、と声をあげて笑ってしまった。如月姉弟に攫われる前だったら、この男はきっと「会いたかったから」と返答したと思う。それなのに。

 如月らの手を逃れて以降、たびたび違和感を覚えていた。それがようやく確信に変わる。

 川島は私に嘘をつかない。その代わり、頻繁に話をはぐらかす。だが、今はそうできなくなっている――私の問いかけを、もう飄々とかわせなくなっている。


「四年前にお前に言われたこと、今も覚えてるよ」

「……四年前?」

「『だから、僕はあなたの手を放してしまえるんですよ』」


 一句違えず伝えてやると、再び沈黙が落ちた。

 あれから何度も頭を巡った言葉。私の本心を、私が知る以上に知っていると断言した男の声。去りゆく私に川島がかけた、呪い。

 それっぽっちの短い言葉だとも確かに思うのに、あれを呪いだと認識したら最後、四年もの歳月を使って引きずり続けてしまった。


「……言いましたっけ。そんなこと」

「言ったよ。あれのせいで、こっちはしばらく気が滅入って仕方なかったんだ」


 覚えていないとばかりに問われ、私はムッとしながらスーツケースを閉じる。

 思った以上に膨れ上がったケースに体重をかけてファスナーを閉め、取っ手部分を伸ばしてそこに指をかけてから、私は川島に向き直った。


「私が囚われてたのはあの男なんかじゃない。お前だ」


 案の定、川島は困惑を隠しもせずに私から目を逸らす。一方の私はまっすぐに相手を見上げる。

 もう目を逸らさないと、決めていた。


「あんな呪いみたいな言葉、よくもかけてくれたな」

「……呪い……なんて、そんなつもりは」


 派手に視線を泳がせる川島の目元を、眩暈がしてくるほどじっと見つめ続ける。

 歯切れの悪い話し方だ。私の話をかわせなくなる、それだけでここまで分かりやすくなるとは……意外だ。化けの皮が剥がれたというか、ガードが緩んだというか。

 今なら、私も余計なしがらみに縛られることなく伝えられる。


「いずれはまたお前に会わなきゃって思ってた。そっちから来るとは思わなかったけど」

「……でも先輩、別に僕に会うために帰ってきたわけじゃないでしょう」

「向こうに戻る気はない、今回は最初からそういう帰省だった。お前も知ってたんだろ」


 またも沈黙が落ちる。完全にペースを乱しているらしく、川島の反応はとにかく鈍い。特に、恨みがましそうな声でぼそぼそと話すさまは堪らなく新鮮だ。つい口元が緩む。


「帰るぞ」


 自分のそれより高い位置にある相手の肩に手を載せると、はい、と小さく返される。

 私との接し方をまるごと忘れてしまったような反応を前に、再び私は苦笑を零した。






 外出のついでに、ふたりで食料品や日用品の買い出しにも向かった。

 秋の風に心地好く頬を撫でられ、ともすれば簡単に気が緩む。日常的な行動を繰り返せば繰り返すほどに危機意識が薄れていきそうで、ふと不安を覚えて……そんな心境をもう何度重ねているか、数える気にもなれない。


 自宅から運んできた急場しのぎの荷物を整理しているうち、日はあっさりと暮れた。

 結局、寝室の一角を借りることになった。私がこの部屋に転がり込んできて以来、川島は事務所のソファで寝ている。長身を折り曲げて、器用に。私がそちらで寝ると言っても頑として聞かない。

 四年前、川島に助けてもらったときはどうしていたのだったか。碌に動けなくなった私を、川島が自分の部屋に連れていったことはなんとなく覚えている。ひとり暮らしをしていたアパートの場所をあの男の家族にも知られていて、危険だからと。


 その一ヶ月後、川島の傍を離れるときには、より遠くへと強く意識して逃げた。

 川島は私を追ってこない。彼の傍を去るときに告げられた言葉を考えれば、それは明白だった。それでも念には念を入れた。当時住んでいた街に暮らす人間の誰もが、容易には向かってこられない場所へ。そう考えた。


 私にとって危険な人間が、そして川島本人が私を追いにくくなるだろう場所……そう思ったとき、自然と父の顔が思い浮かんだ。かつて父は私を連れ、仕事を手放してまで母の手が及ばない場所へと逃げてくれた。だから浮かんだのかもしれない。

 父の面影はそのまま父によく似た叔父の顔を連想させ、あ、と思った。あの頃、すでに叔父は北海道に小さな店を持っていたから、彼のもとを訪ねようと決めた。

 計画性もなにもない、また相手の都合も完全に無視した向こう見ずな行動だったと思う。自分でも怖くなってくるほど。


 だがそのほうが皆、私を追いにくくなる――そういうことだけは常に考えていた。父に連絡を入れているときも、荷物をまとめているときも、飛行機の搭乗券を手配したときも、実際に搭乗している間も、ずっと。

 父は叔父に連絡を入れてくれた上に、アパートの解約や大学の退学手続きなどにも手を貸してくれた。卒業を前に旅立つことや学費のこと、その他にも私が内包していたさまざまな問題について、文句も意見も助言も、父はなにひとつ口に乗せなかった。


 半端に物の残るスーツケースをぼんやりと見つめる。

 つい零れそうになった溜息を、私は咄嗟に噛み殺した。隣室の川島に聞かれては堪らないと思ったからだ。


 もしかしたら、私は今でも逃げ続けているだけなのかもしれない。

 自分で選ぶこともあれば、今のように半強制的に指示されることもあるけれど、そんな生き方ばかりしてしまっている。






 夕食は、川島が作ってくれた。

 今夜はお粥ではなかった。少しほっとした。お粥ばかり食べているせいで、身体の中身がお粥に入れ替わってしまいそうな謎の感覚がつきまとっていたからだ。


 食事を済ませ、食器を片づけてから寝室に戻ろうと考える。

 川島はまだ自席で仕事をしていて、邪魔をしてはならない気がした。それなのに、「先輩も手伝ってくれませんか」と声をかけられてしまった。

 手伝えと言われても、私に役立てることがあるとは思えない。なにより、今日の川島は取っつきにくい喋り方ばかりする。このままなにごともなく一日が終わればいいと思っていたのに……自席に腰かけながら、心の中で小さく溜息をつく。


 そもそも、川島はどうして私にアルバイトを頼んだのだろう。前にも同じことを不思議に思ったが、謎はむしろ以前よりも深まっている気がしてならない。

 被害者のひとりと友人関係にあったとはいえ、私は、今回の事件において自分の出る幕はないと思っている。その考えはこの仕事を引き受けた当初から変わっていない。単に川島の気紛れに巻き込まれただけなのではという気さえしてくる。


「如月はまだ見つからないのか」

「ええ。元々、警察……特に田住さんのことは警戒してたみたいですしね。まぁ僕もそれなりにされてたとは思うけど」


 川島の声の調子は少しずつ上向いてきているようだ。

 ほっとした。だからこそかもしれないが、純粋に話の内容が気に懸かる。


「如月が田住さんを?」

「はい。田住さんは以前から……三件目の被害が出てすぐくらいからかな、自殺幇助の観点から如月に目星をつけてましてね」

「……へぇ」

「先輩がここで田住さんに会ったときも、如月、奥に引っ込んだきり出てこなかったでしょう。なにげなく探りを入れられてること、あの頃にはもう勘づいてたと思います」


 いわれてみれば、初めてこの事務所で田住と顔を合わせたとき、如月は田住が帰ってしばらくしてから私に冷茶を振る舞ってきた。それに関村さんが訪れた日にも、彼は田住のことが苦手だという話をしていた。


「泳がせてたってことか」

「いや、実際には如月と彼の姉……水羽さんでしたっけ? ふたりとも被害者たちの死亡推定時刻にアリバイがあったりなかったりで、工作の気配もない。田住さんとしては身動きが取れなかったみたいで……」

「違う。お前が如月を、だよ」


 言葉を遮って言い放つと、川島は黙った。

 川島が如月を雇い始めたのは、およそ一年前。最初の事件が発生する半年ほど前になる。となると、如月を監視するために採用したというわけではなさそうだ。川島の話を聞く限り、如月は私を攫った直後からこの事務所に戻っていない。戻ってくる可能性もゼロではないだろうが、まずないと考えていいだろう。

 どのみち、連続不審死の件で警察が如月姉弟を捕らえることはできない。確たる証拠がないからだ。結局、田住も監視を続ける程度しか手の取りようがなかったのだと察せる。それに、なによりも。


「捕まえたとしても裁けない。だいたい、警察だって信じるわけないだろ、あんな方法」


 あんな方法、と零した瞬間、水羽の顔が嫌というほどはっきり脳裏に蘇る。

 矩形の卓、燭台、蝋燭、揺れる炎、そしてモノクロのみゆき。息が詰まる。頭に思い描いてしまっている詳細までは悟られたくない、そう思ったと同時、川島は手元の資料をめくる指の動きをひたと止めた。


「そうか。先輩は実際に見てるんでしたね」

「……なに?」


 頭を巡る過去の記憶のせいで、川島の言葉を一瞬拾い遅れる。訊き返したが、川島はわざわざ伝え直そうとはしてくれなかった。

 資料を机の端へ放り、彼は私に向き直る。今日初めてまっすぐに視線を向けられた気がして、喉がこくりと音を立てた。


「確かに手口を考えるならふたりを裁くことは難しいでしょうが、裁くにはどんな方法があるか、先輩なら少し考えれば分かるんじゃないですか」


 ――例えば、如月や彼の姉自身に、絵馬以外の手段で人殺しをさせるとか。


 そわり、背中を薄い悪寒が駆け抜ける。元の軽快な調子に戻りつつあった川島の声音は、一転してひんやりとしていた。そのせいで、なにを言われたのか把握するまで無駄に時間がかかってしまう。

 そんな事態に至ったとして、みゆきの件、もしくはそれよりも前に起きた件で如月や水羽を裁くことはできない……いや、それ以前の問題だ。犠牲者を増やしてどうする。


「……正気に戻れよ。どうした」

「あはは。なんとなく、センチメンタルな気分というか」

「怖……雪が降る、やめろ」

「ひどくないですか、その言い方。元はといえば先輩のせいなのに」


 力なく笑った最後、川島は顔に残っていた表情のすべてを削ぎ落とした。

 最近、似た顔ばかり見ている気がする。嘘をつかない男の嘘っぽい笑みを、これまで私は何度も辟易とともに眺めてきた。だが。


「……誰のせいだって?」

「先輩のせいです」

「なんで」

「僕がいつでも簡単にあなたを殺せるって知ったわりに、普段通りすぎるから」


 苛立ちの滲んだ声だった。川島のそんな声を初めて聞いたかもしれない。嫌いです、と言われた四年前の声と似ている気もしたが、やはりなにかが違う。

 いつしか川島は立ち上がっていた。睨まれているように見え、足が竦んで動けなくなる。固まった私をつまらなそうに一瞥してから、川島は一歩、また一歩と歩を進めてくる。

 堪らず、私は椅子から腰を上げた。少しずつ後ずさるものの、途端に相手は歩幅を広げ……所詮は広さのない室内だ、あっさりと追い詰められてしまう。


 私を壁際に追い込んでから、川島は無遠慮に私の腕を掴み上げた。

 あからさまな接触と冷めた視線に、私は瞬く間に囚われてしまう。


「っ、川島……放せ」

「もう黙って」


 前日とは比較にならないほど強引に口づけられ、気が滅入った。固く目を瞑ると、抵抗の意思がないと判断したのか、唇に触れる熱はさらに勢いを増していく。

 ……様子がおかしいことには朝から気づいていた。その理由も察せていた。

 私が普段通りすぎると言いながら、川島は苛立っている。今、私が川島を拒めば、この男は拒まれているにもかかわらず私に無体を働いたと考えるはずだ。そうすれば、この男の罪の意識は余計に重くなるだろう。


 それが川島の目的だとしたら。

 自分が大切に思う相手を苦しめることで、罪を、そして罰を重ねたがっているのだとしたら。


 お前は馬鹿か、と心底思う。今こそ読めばいいのにそれをしない。

 相手の首へ腕を回す。拒もうと思えば拒める、けれど拒んでいない。そう示すために。

 唇を塞がれたまま薄く瞼を開くと、微かに寄せられた川島の眉が覗き、それを数秒確認してから私は再び目を閉じた。



     *



 目が覚めると、ベッドの上にいた。

 ……寝室だ。薄く開いた目に、ぼんやりとナイトテーブルが映り込んでくる。直後、その上へ雑に放られた避妊具のパッケージとティッシュの山が覗き、隣で眠る男の気配にやっと気が向いた。


 テーブルからも、わずかに視界へ映り込んでいる男の腕からも、早々に視線を逸らしたかった。だが、動けば男は確実に目を覚ます。それを避けるべく、私は再び瞼を下ろした。

 その頃になってようやく、全身を覆う倦怠感に思い当たる。昨晩から蓄積している肉体的な疲労感はもちろん、精神的にも気が沈んでならなかった。

 成り行きに近い感じで事に至ったわりに準備が良くて嫌気が差す。例えば、今私の隣で眠り続けている男が、日常的に他の女性をこの部屋に連れ込んでいるとしたら……想像するだけで傷つく。


 その感情をごまかし続けているのも、そろそろ限界だ。


 ふ、と細い息が零れたそのとき、前触れなく胴に腕を巻きつけられて息が詰まった。

 私が肩を震わせたことに、腕の主が気づかなかったとは思えない。半端に羽織っただけのシャツの内側に、男の手が無遠慮に伸びてくる。その生々しい感触のせいで、昨晩の記憶が嫌というほどはっきり蘇ってしまう。


「違うよ。先輩といつこうなってもいいように準備してたんです」

「……なんの話?」

「テーブルの上、見てたのかなって思って。違った?」


 耳元で囁く声は、普段のように飄々としている気がしたが、吐き気がしてくるほど甘い気もする。いきなり話し始めた背中側の川島にあえて返事をせず、また相手に向き直ることもせず、私は黙って続く言葉を待つ。


「笑っちゃうでしょう? あなたが隣にいるだけで浮かれて……自分でも怖くなる」


 勝手に喋り出した男の言葉は、しかし確実に私の内心とリンクしている。気が滅入った。読まれていることを察したからだ。

 昨晩は、今こそ読めばいいのにと思った。読んでほしいときと読んでほしくないとき、私のその希望をこの男はことごとく無視する。それどころか、わざと狙っているのかと訝しくなってくるほど逆の選択ばかりする。


 天邪鬼じみた言動を繰り返す川島が今どんな顔で喋っているのか、ふと気に懸かる。だが、振り返って目を合わせる度胸はない。

 ……昨夜、私は何度この男を好きだと明確に思ってしまっただろう。そのすべてを相手に知られているのかもしれないと思えば、辟易は募っていく一方だ。

 同時に、今聞いた川島の言葉が胸を刺す。


『自分でも怖くなる』


 川島が自身の感情を吐露すること、それ自体が珍しい。昨日から、あるいは一昨日から、今まで見えていなかった彼の内面を覗き見ている気にさせられてばかりだ。

 やわらかな感触が背の側から首筋を伝う。声こそ堪えたものの、唐突な接触のせいで派手に肩が強張った自覚はあった……だが。


「このまま、遠くに攫ってもいいですか。先輩のこと」


 首にかかる息に交ぜて吐き出された声は、私の知る川島のそれとは違った。弱々しい、心細そうな、知らない街で親とはぐれた迷子のような……堪らず、指で額を押さえる。

 私に弱みを見せる川島が今どんな顔をしているか、今度こそまじまじと眺めてやりたい。そんな気も確かにしたが、結局、私はそうすることなく口を開いた。


「……好きにすれば」


 昨晩、この男はなんと言っていただろう――センチメンタル、だったか。今となっては噴き出してしまいそうになる。

 返事を零した直後に強く肩を引かれ、振り返らざるを得なくなる。強引な仕種を非難してやろうと眉を寄せるや否や、唇を塞がれた。

 昨晩の喰らい尽くす勢いのそれとは違う、甘ったるい、直に砂糖を舐めてでもいるような口づけだ。まるで恋人同士が交わすキスみたいだと思ったら、少し悲しくなった。


「川島」

「はい?」

「好きだよ」


 悲しい気持ちを悲しい気持ちのまま放っておきたくなかったから、声に乗せて伝える。

 ごまかさずに伝えるのも、ごまかされずに受け取ってもらうのも、今しかない気がした。


「へぇ。嬉しいですね」

「好き」

「はい。ちゃんと聞いてま……」

「だったら死にたがらないで」


 笑いながら話す男の声を、わざと遮った。

 私が黙るまで、のらりくらりとかわし続けるつもりだったのだと思う。それでこそ私の知る川島だとも思う。だが。


 できる限り毅然と伝えたかったから、互いに横たわっているとはいえ目を見て言いきった。苦笑気味の表情から一変し、川島は目を見開いたきり固まっていた。その様子を眺め、ああ、これは当たりだなと思う。

 私の予想は、おそらく当たってしまっている。

 川島は、如月が川島に敵意を向けていると知った上で奴を雇った。奴に自分を狙わせるために、わざと近くに置いたのだ。


 如月が私を連れ去った後、この男はひどく動揺していたはずだ。事実、ここに戻ってきた私をひと目見た途端、私に同行していた人間の姿すら認識が遅れるほど取り乱していた。自身が狙われていたなら、多分この男はあそこまで取り乱さなかった。

 確信する。川島には、私を殺せない。

 先日の絵馬の件ははったりだ。あるいは本気で殺意を示していたのだとして、私を殺めることで自らを追い詰め苦しめるという手段は、名入りの絵馬を眼前に突きつけられてなお私が川島に怯えなかったことで潰えた。


 挙句の果てに、こうして私を抱いてしまった。

 私が思っている以上に、川島は私に縋っている。


「……参ったなあ」


 ぽつりと呟きが聞こえてきた。

 向き直った私に合わせて緩んでいた相手の腕に、再び力がこもる。ちょうど男の首元に顔を埋め込む形になり、私は瞼をすぼめて続く言葉を待った。


「祖母を殺した話、先輩にもしたでしょう」


 抑揚のない声だ。

 肯定して良いものか躊躇したが、否定するよりはましだと思い直す。


「まぁ……聞いたな。確かに」

「いつでも人を殺せてしまうんだよ。怖くないの?」

「誰だってそうだろ」


 返事をしたと同時に、男の喉が小さく震えたさまを見て取った。

 腫れ物に触るような扱いを、この男が好んで受け取るとは思えない。また、私自身は川島の言う祖母殺しが殺人だったとは今も思えていないが、それを伝えたとしてこの男にとってはなんの意味も成さないだろう。


「けど、ほとんどの人がしてない。しなければお前もそれと一緒だ」


『誰だって人殺しになれるのに、ほとんどの人はそれをしないで生きてる』


 言いながら、いつか如月が口にしていた言葉が脳裏を過ぎった。

 今、私はあの男と同じ言葉を口にしている。人殺しと同じ言葉を。それでも、訂正しようという気は少しも起きなかった。


「うーん……そりゃそうですけど。それとこれとは話が……」

「違わない」

「……そうかな」


 沈黙の中にありつつも、男の腕にこもった力は緩まない。

 私の目に映っているものはせいぜい相手の首筋や喉仏程度で、微かに上下するそれらを睨みつけながら、私は川島が沈黙を破る瞬間を待ち、そして数秒の後。


「僕には……あなたを幸せにはできないよ。きっと」


 堪らず目を見開いた。幸せ、などという言葉がこのタイミングで登場するとは思っていなかったからだ。

 は、と吐息とも笑いともつかない声が口端から零れた。ここ数日、川島の声も態度も大概弱気ではあったが、今の声はこれまでとは比較にならないほど弱々しかった。そのことが、私の仮説をより強固なものにする。


「『幸せにして』なんてひと言も頼んでない」

「……ひどくないですか、その言い方……」

「わけの分からない理由で死にたがられたり苦しまれたりするよりずっとましだっていう話をしてる」


 胸元を押し返すと、頑なだと思っていた男の腕は拍子抜けするほどあっさり外れた。

 やっと広がった視界の先で、川島が傷ついたような顔をしている。おおかた、突き放されたとでも考えているに違いない。声を張り上げて笑い飛ばしてやりたくなった。

 矛盾だらけだ。いつでもあなたを殺せる、と言いながら追い縋る。幸せにできない、と言いながらこんなにも刹那的に触れる。


 私を自分の領域に引きずり込んで溺れさせたがっている癖に、底へ底へと沈んでいっているのは、他ならぬこの男自身。


「……伊織……さん」


 掠れた声で名を呼ばれ、ふふ、とついに声に出して笑ってしまった。

 初めてだ。この男に、名字ではなく名前を呼ばれるのは。


「なに」

「伊織」

「なに?」

「……伊織……」


 川島はそれ以外なにも言わない。背が軋むほど抱き締められ、私もうん、と返して抱き締め返し――ちょうどそのときだった。

 事務所の固定電話が、けたたましい音を立てて鳴り出した。

 今にも舌打ちしそうに苦々しく顔を歪めた川島と目が合い、あはは、と今度こそ大きな声をあげて笑ってしまう。


「出たほうがいいんじゃないか」

「……そうですけど……」

「早く行けよ」


 事務所側を指差すと、とうとう川島が観念した様子で起き上がる。

 いかにも渋々といった顔だ。この二日間でここまで分かりやすくなるとは思っていなかっただけに、また笑ってしまいそうになる。


 上体を起こそうとしたものの、倦怠感はまだ抜けきっておらず微かに目が眩む。結局は横たわったまま、上半身裸の男の背から視線を外した頃、もしもし、と通話に応じる川島の声が聞こえてきた。

 寝室と事務所を繋ぐ引き戸は開きっぱなしで、耳を欹てれば十分に聞き取れるものと思われた。通話相手に短く相槌を挟む川島の声を聞きながら、相手は警察関連――おそらくは田住だろうと目測を立てる。


「はい……はい。それはいいんですけど、今取り込み中なんですよ」


 気怠げに告げる川島の声に、ぼんやり枕へ頭を沈めていた私はぎょっとした。

 通話の相手が田住だとしたら、彼は事務所内に私がいることを知っている。川島が、私たちの今の関係についてごく自然に相手へ伝えてしまいそうで、不安に駆られた私はがばりと勢い良く起き上がった。

 途端に先ほどよりも派手な眩暈に襲われ、う、と呻きに等しい声が喉を通り……だが、次いで聞こえてきた声に知らず眉を寄せてしまう。


「……え?」


 放心したとしか言い表しようのない川島の声が、離れた場所から薄く届く。

 なにか良くないことが起きている――直感の域を出ることのない、根拠もなにもない、そんな予感が唐突に降りかかってくる。

 裸の身体にタオルケットを巻きつけ、引き戸の傍へ歩み寄っていく。開いたそこから受話器を手に呆然と佇む川島の背が見え、ぞくりと悪寒が背筋を走った。


「……関村さんが、ですか? 待ってください、状況は……」


 関村さん。聞き覚えのある名……関村幸宏。あるいは彼の母親。

 一度だけ顔を突き合わせたことがある女性の、白く痩せ細った面立ちと弱々しい声が脳裏を掠め、私は目を見開いた。


 思わず寄りかかってしまった引き戸が軋むような音を立てる。

 直後、呆然としたまま私を振り返った川島と目が合った。心なしか、その顔からは血の気が引いて見える。

 背を伝う寒気が、一層増した気がした。

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