《4》血脈
如月に薬物を盛られて軟禁された件については、早々に田住へ伝わっていたようだ。
事務所を訪れた田住は、険しい顔を覗かせながらも、思った以上に私を気に懸けてくれた。聴取を受けている間も幾度か心身を慮られ、いっそ恐縮するほど親身に対応されてしまった。
『水羽は如月の指示を受けて動いている』
『ただ、奔放な面もある。だから脱出できた』
私が把握できている一部始終、そしてその間の如月姉弟の様子について話す間、田住は何度も眉間の皺を深めては溜息をついていた。
自殺幇助の観点から、彼は元々如月に目星をつけていたそうだ。今回の拉致と軟禁も例の件と深く関わっていると踏んだ彼は、今回の容疑で如月を捕らえ、余罪を追及したいと考えているという。
その旨を伝えられ、ぎくりとした。単なる自殺幇助なら、犯人が被害者に接触できない状態に陥れば被害は止まるだろう。だが。
『犠牲者は、多分彼らの気持ちひとつで増えます』
言葉を尽くすことはできなかったが、事実、増える。奴らのやっていることが単なる自殺幇助ではない上、しかも如月のみを拘束したところで意味がない。
目を逸らすことなく言いきった私を、息を呑みつつ一瞥した田住が、それ以上の追及を重ねることは結局なかった。
*
『僕よりも先輩が狙われているみたいですし、しばらくはここに滞在してください。田住さんからもそうするように勧められています』
有無を言わさぬ口ぶりだったから、反論はしなかった。
聴取の後、眩暈が止まらなかったためにベッドへ戻ったが、田住と川島は事務所側で話を続けていた。川島が対峙したときの水羽の様子も、その際に伝えたものと思われた。
ここへの滞在について田住から異論が出ていないということは、彼に、川島と私の関係がそういうものだと思われている可能性が高い。思えば最初の頃からそんな調子ではあったが……ときおり顔を合わせる相手だけに、少々憂鬱ではある。
眠りから覚めると、時刻はすでに夕刻に差しかかっていた。
如月姉弟から解放された安堵は相当大きかったようだ。半日以上眠り続けていた計算になる。眠りすぎたせいか、逆に頭痛がした。
起きた私に気づいた川島が、またも甲斐甲斐しく食事を用意したり、入浴を勧めたりしているうち、日はすっかり暮れたらしい。
『明日、話すよ』
昨日の言葉通り、川島は催促しないうちから「話がある」と切り出してきた。
久しぶりに自分のデスクに着く。私が訪れる前は物置だった席。如月が使っていた隣席には、極力視線を向けないよう努めた。
「いろいろお伝えする前に、まずは絵馬様寺にまつわる伝承についてお話ししますね」
話し始めた川島もまた、彼の自席――今ではそちらのほうこそ物置に見えるが――に腰を下ろした。
窓の外を眺めながら話す彼は私に背を向けていて、その理由が気に懸かる。ただ、この状況で口を挟むのは得策ではない気がしたから黙っていた。
道も碌に整っていない山奥に佇む寺院、絵馬様寺。
古くは、陸の孤島に等しい山奥で脈々と語り継がれてきた独自信仰、その教えとともに歩んできた寺院であるという。それが時代の変遷を経て、縁結びの寺として、隣接する町や村にも名を知られ始めたらしい。
変化はゆっくりと繰り返され、いつしか若くして死を遂げた者同士を結びつけるものとして、特に富裕層の間でその名が囁かれるようになった。子に先立たれた親らが、せめて死後の世にて我が子に幸せになってほしいと、一縷の望みをかけてその地を訪れる。そして儀を経た後、然るべき場所に絵馬を供えたという。
「……お伽話……だよな」
「そんなものです。大昔の話ですし、史料も現存していないようですね。本当にあったことかどうか、証明する手段はもうありません」
眉をひそめた私に、川島は平然と答える。呑気にお伽話を聞いている場合ではない気もしたが、川島は話を切ろうとしなかった。
絵馬様寺は明治の世に密教の流れが途絶え、その後火災によって廃寺になった。実際は、最後の住職が敷地に火を放ったことが原因らしい。その人物自身もまた炎に炙られ、骨も残らぬ壮絶な死を迎えたそうだ。
彼に至るまでの世継ぎは、死後婚の儀を執り行える者――
つまり、以前ひとりで寺院を訪ねたときに現住職から聞いた「寺院の火災」は、最後の住職の乱心による惨事ということになる。
「今の話を踏まえて聞いてください。如月家は、絵馬様寺の一族の血を引く家です」
「……一族?」
「はい。絵馬様寺がまだ元の姿を保っていた頃……相当に昔の話にはなりますが、当時の寺院の血縁者の中に、外部の村へ売られた娘がいたようですね。そうやって外に出た血筋のうちのひとつなんでしょう」
川島いわく、かつての絵馬様寺はある集落の中心に存在していた。山奥の村、陸の孤島とも呼べる秘境の地で、寺院は民とともに密教の流れを継いできたという。
とはいえ、山奥のちっぽけな集落だ。貧困とは常に隣り合わせだったらしい。麓の町や、さらに遠く離れた町へ、子供――特に娘が売りに出されることは珍しくなかった。如月家の祖先にもそうした娘がいたのだろう。
「如月はお前とも血縁があると言っていた。本当なのか」
「うーん……ないとは言えないんでしょうね。どのみち、民法の親等表記なんかではもう表せないと思いますが」
民法の親等表記。
いつか如月から聞いた言葉と同じだったため、思わず固まってしまう。
「お前も絵馬様寺の血筋、ということか」
「端的に言えばそうなります。まぁ僕の実家と如月家の間には縁なんてありませんけど」
川島の声からはすっかり抑揚が欠け、なにを考えているのか察しにくい。最低限の質問を挟む以外、私は聞き役に徹する。
川島は以前、絵馬様寺が彼の祖母に縁深い寺院だと言った。また、彼の母親は寺院の再建に並々ならぬ力添えをしたとも聞いている。となると、彼の祖母が寺院の血縁だと考えるべきだろうか。
「最後の住職が寺に火を放ったのは、梅雨の季節……六月だといいます。それを受けて、如月家では六月になると法要を営むそうですね。回忌法要の類ではなく、毎年、行事みたいに執り行うらしいです。もっとも、家に残っているのはお婆さんがひとりとあの姉弟、三人だけのようですが」
「……普通の家がそんな行事を?」
「はい。不思議に感じるかもしれませんけど、地域によってはそうした風習の残るお宅が今でも見られます。まぁ昔の地主とか、本家とか……そういう大きな家のほうが多いといえば多いでしょうが」
川島の話は淀みなく続く。誰に聞いたのか、詳しすぎる気もする。
それに、お伽話だと言いながらも現実の話にリンクしていて、うまく理解に繋がらない。どこまでがお伽話でどこからが現実なのか、そんなことばかり考えては靄に包まれた気分になる。
特に、如月の実家に関する話には困惑を隠せなかった。如月がこの事務所で働いていた頃から、川島はそれを知っていたのだろうか。いつか如月の採用理由について「名字が格好いいから」などと口にしていたが、あれは単に私をはぐらかしただけだったとでも。
だとしたら、川島は、如月が自身と同じ先祖を持っていると知っていたことになる。
人の心を読めてしまう川島が、如月を傍に置くことの危険性を察知していなかった……そんなことがあり得るだろうか。あるいは、単に如月の心中が読みにくかっただけか。
「いまさらだけど、絵馬様寺って……あの寺のことでいいんだよな」
「はい。今の住職は本山から派遣された僧侶だという話、先輩もご本人から聞いてますよね、確か」
川島には告げずに例の寺院へ向かった日のことを思い出し、苦い気分になる。
目を逸らしたが、相手は早々に私の思考を察したらしい。つくづく、心を読まれるまでもないほど分かりやすい反応を示してしまうことが増えている。
「元々廃されていた寺です。如月家は、最後の住職の祟りを怖れているようですね。先祖の荒ぶる魂を鎮めるため、といった名目で法要を執り行うのでしょう。最後の住職が寺院に火を点けた六月に」
祟り、という言葉があまりにも生々しく聞こえ、ぎくりとしてしまう。
「如月家がそういうことをしてるって、今の住職は知ってるのか」
「うーん、ご存知ないんじゃないかな。ご本人に詳しく尋ねたことはありませんが、もしかしたら如月家のこと自体知らないかもしれません。相当古い上に小さな家ですし、寺院からは距離だってありますからね」
如月の実家がある県名を告げる川島の、その口元を堪らず凝視した。
確かに遠い。ここからも、寺院がある隣県からも。如月も水羽も、実家に老人をひとり残して県外へ引っ越し、ふたり暮らしをしているということか。
不意に、拉致された先でのできごとが頭を過ぎった。首に食い込んでくる、如月の鮮やかなネイル。きらびやかな姿からは想像しがたい長い指と大きな手のひら……嘔吐感に襲われ、私は如月の本性に関わる記憶を急いで頭の端へ追いやる。
川島は昨晩、あれから如月は事務所を訪れていないと言った。しかし如月姉弟に囚われていた間、水羽の部屋へ案内された日――みゆきと引き合わされた日、水羽は如月の留守を匂わせていた。あの子が留守の間に、という話をしていたとき、実際に水羽は周囲を警戒するような緊張を覗かせていた。
あの日如月がこの事務所を訪れていなかったなら、奴はどこへ出かけていたのか。そして、今はどこでなにをしている。
喉まで出かかったその疑問を、結局、私は川島に向けることなく無理やり呑み込んだ。
*
頭を押さえて黙り込んだ私を見て、疲れたものと思ったらしい。
今日はここまでにしましょう、と川島は一方的に話を打ち切ってしまった。私の意見は求められていない。前にも似たようなことがあった気がして、思わず苦笑が零れる。
寝室に戻った頃には午後九時を過ぎていた。視線を動かした先、壁には時計がかかっていて、一体いつ取りつけたのかと思う。寝室には時計がない、そう思ったのはつい先日だ。その考えを読まれたのかもしれない。
川島の、他人の心の声が読める能力もまた、絵馬様寺の血筋に関連しているものなのだろうか……いや、そもそも。
『絵馬を使って人を殺せるんだよ』
如月の声が脳裏に蘇り、胸が鈍く痛んだ。当時の私は深い酩酊に沈んでいたはずなのに、あの日の如月の声がこれほど鮮明に記憶に残ってしまっているのはなぜなのか。
ベッドに横たわると、すかさず前髪を梳かれた。寝転がっているとき、このところはずっとこうされている気がする。
今、川島はなにを考えているだろう。川島には私の内心が読めるのに、当然ながら私にそんなことはできない。不公平な気がして、そう思ったらつい口が動いた。
「川島は……絵馬を使って人を殺せるのか」
責めるでもなく怖れるでもない、ただ事実を確認したいだけの、自分でさえ意外なほどに平坦な声が零れた。
前髪に触れていた男の指が、ふと動きを止める。互いにもう目は逸らさなかった。今まで、川島が私を射抜いているときには私が、私が彼を射抜こうとしているときには川島が、必ず相手の視線を避けていたのに。
相手の顔を、というよりは目を見ていた。黒い瞳の奥が微かに揺れて見える。
再会以来、初めて真っ向から川島と向き合っている気がした。私が、私の意志で、この男と向き合おうとしている。
「ふふ。如月にでも聞きましたか」
口元を緩めた川島は、質問に質問を返してくる。答えられず、私は黙り込んでしまう。
それでも目だけは逸らしたくなかった。今視線を逸らせば、相手もまた私から視線を逸らし、話をも逸らしてしまうに違いない。そんな確信があった。
見つめ続けていると、案の定、川島は困惑したらしい。答えるまで無言を貫かれると勘づいたのか、彼は困ったように小首を傾げた。
「できますよ。なにせ、そうやって祖母を殺しましたから」
その言葉を前もって予測できていたはずが、背筋が派手に強張った。
物騒な言葉の余韻に身も心も囚われる。直接的な言葉を使って尋ねたのは自分なのに、直接的な言葉を使って返事をした川島を恨めしく思ってしまいそうになり、私は知らず息を詰めた。
殺しましたから。
私が嘘だと信じたいだけの言葉。川島は、私に嘘などつかないのに。
「っ、どうして、そんな……」
「祖母が望んだからです。叶えてやらなくても良かったけど、寂しそうだったから」
思わぬ方向へ向かう話に、堪らず私は目を見開いた。
「……え?」
「祖母にはそういう力がなかった。だから僕に託したんです。そうできる血を僕が祖父から受け継いでるって、祖母は知ってたから」
「……川島」
「そのせいで僕が苦しむかも、なんてふうには思えなかったんでしょうね。もう齢でしたし、祖父に会いたくて仕方なかったのかも」
祖父から受け継いで……祖母ではなく?
事務所で話を聞いたときに立てた予測は、どうやら外れてしまっているらしい。川島に流れる絵馬様寺の血筋は、彼の祖母ではなく祖父から受け継いだ――頭がくらりと揺れる。
川島は「苦しむ」と言った。苦しんでいるのだ。経緯も理由もどうあれ、彼の祖母は結果的に孫を人殺しにしてしまった。
祖母を憎むこともできず、かといって己の血筋を呪ってもなにも解決しない、終わりのない苦しみ――初めて、川島の内面に触れている気にさせられる。
「死なせるつもりなんてなかったし、祖母が僕を恨んでるとも思えないけど、結局は一緒です。僕が殺したことになってしまう。少なくとも、僕の中ではね」
最後の言葉とともに、とうとう川島は私から目を逸らした。伏せた彼の視線の先には膝の上で組まれた長い指が覗き、私もまた呆然とそこへ視線を落とす。
殺したことになってしまう、という言葉を否定したい気持ちで胸が満たされ、同時にそれだけはしてはならないと強く思う。否定してしまえば、川島はそれきり口を閉ざし、二度と開かなくなる気がしてならなかった。
だいたい、否定してどうなる。打ち明け話を聞いた私の気こそが幾分か楽になる、その程度の結果しか生まないだろう。川島には届かない。そして、川島はその話を打ち明ける相手としての私を見限るに違いなかった。
川島の苦悩がどれほどのものか、どう足掻いたところで私には分からない。知りようがない。もう何年この男がその苦悩を抱え続けているのか、私はそれすら知らない。
髪を梳く指の感触が再び地肌を滑り、はっと我に返る。気づくと、川島はやはり口元だけを緩めて笑っていた。目の奥は果たして笑っているかどうか、その判別がつくよりも先に、相手の穏やかな声が耳を掠める。
「いっそ悪者になれたらと思っていた時期もあります。例えば、誰かの大切な誰かを殺してしまうとか」
言いながら、川島はおもむろに立ち上がり、ベッド横のナイトテーブルの引き出しから板のようななにかを取り出した。
「っ、あ……」
……絵馬だ。しかも、向かって右側に私の名前が記されている。
絵馬様寺で見かけた絵馬とよく似ているが、微妙に違う。板、吊し紐……なにが違うのか咄嗟には察せない。ただ、そこに川島の筆跡で記された『雨宮伊織』の四文字を、眩暈がしてくるほどじっと凝視する。
「例えば、この隣に死んだ人間の名前を書き込んだら、先輩はどうなると思いますか」
「……どうにもならない。笑わせるな」
声を絞り出した形のまま、唇が
「うーん。本当にそうかな」
小首を傾げ、川島は薄く笑っている。苦笑いのように見えなくもなかった。
川島がなにをしたいのか分からない……またこの感覚だ。「祖母を殺した」と初めて伝えられたときにも、如月姉弟に囚えられた先で頭から布団を被っていたときにも覚えた、もう何度も抱いている感覚。
如月姉弟に攫われた私が帰還したとき、川島は心底安堵したような顔を覗かせていた。それは確かだったのに、また怖くなる。
「これ、本物なんです。先輩がいなくなってから作ってみたんだ。気紛れに」
本物。人を殺せてしまう道具を、気紛れに。
喋る川島の顔も声も、どこまでも穏やかだ。いつもなら軽口を返したり溜息をついてみせたり、そんな反応を示しているはずが、今、私は相手の視線を前に微動だにできずにいる。
なんのために作った?
誰かを……私を殺すため? それとも、なんらかの脅迫に使うためだろうか。
「死んだ男女……まぁ実際には男同士でも女同士でも構わないんですけど、愛し合うふたりの名前を並べて書くと、そのふたりは黄泉で婚姻を結んで幸せになれるんですよ」
「……あ……」
「死んだ人間の名前の隣に生きた人間の名前を書き込むと、死んだ人間が相手を迎えにきて、生きているほうを連れていく。そうやって僕らは人を黄泉へ送ってしまえるんです。その方法は、本来禁忌ではあるんですが」
川島の声がところどころ抜け落ちて聞こえてくるのは、耳の奥を刺す耳鳴りのせいか。
死者と死者の婚姻を結ぶべく執り行われるものが死後婚。では、死者と生者の場合はどうか……簡単だ。生者を死者にしてから結ぶのだ。水羽は関村とみゆきを、そして川島は彼の祖父と祖母を、そうやって結びつけた。
つまり川島の祖父母は、子こそ授かったが、生きて結ばれはしなかったということか。
「現場に残っていた絵馬はフェイクです。今の絵馬様寺の絵馬にはそんな効力はないからね。実際に使われた絵馬は、まぁ……如月たちが持ってるんじゃないかな、処分した後かもしれないけど。ただの木製の札だし、燃やせば証拠は残りません」
続く川島の声は、やはり穏やかだった。どことなく笑いを含んでさえ聞こえる。
耳鳴りが強まる。きいん、きいん、頭の奥、鼓膜、それらの内側から針でも飛び出したがっているような痛みが巡る。
「……書くなら書けばいい。私は信じない」
久しぶりに口を開いた気にさせられる。
絞り出した声は掠れに掠れ、自分のものとは思いがたいほどだ。対する川島は驚いた様子で目を見開いた後、すぐにそれを細めた。
「僕が書かないことを? それともこれの効果を?」
「さあ」
「……あなたのそういうところ、嫌いです。ならそうだな、誰の名前を並べてやろうか」
頭を貫く耳鳴りが、ひときわ音量を増す。
目を細めた川島の顔には見覚えがあった。どくり、不穏なほど派手に心臓が高鳴る。
『先輩のそういうところ、僕、嫌いです』
川島は、四年前のあのときと同じ顔をしている。ひどいことを言われているからそう見えるだけなのかもしれない。先刻まであんなに穏やかに話していたのに、今や川島は怒っているように見えなくもなかった。
多分、私は今、相当に傷ついた顔をしている。
あの日、自分はどうやって傷ついた感情を示したのだったか。ひどい言葉を私に叩きつけてきた、そう、あの日も相手はこの男だった。私はこの男に牙を――文字通り牙を剥き、歯を立てて、どくどくどく、どくどくどく、ああ、うるさい、とにかく心臓がうるさくて堪らない。
気の立った猫によく似た呼吸音が聞こえてくる。それが自分の発している音だと気づくまで無駄に時間がかかった。川島は、笑いながら薄開きにしていた唇をはっとしたように閉じ……おそらく困惑したのだと思う。
きっと今、私はあの日と同じ顔で川島を睨みつけている。相手の手に歯を立てていないだけで。
「すみません。言いすぎた」
伸びてくる長い腕がぐにゃりとひしゃげて見え、咄嗟に振り払う。
見上げた先で、笑みを削ぎ落とした川島の顔が青白く揺れていた。無表情なのに寂しそうに見えた。
「何度でも言うけど、僕はあなたのことが好きだからね。いつまでもあんな男に縛られてるあなたに、気がふれそうになるくらい苛々してしまうんだよ」
慇懃な口調を完全に削ぎ落とした川島の声が、少しずつ私の耳鳴りを打ち消していく。
髪に触れられ、今度は手を払えなかった。おそるおそる私の髪を梳く指の、その感触を追いかけながら、川島が口にした「あんな男」という言葉が示す人物にようやく思い至る。
大学時代に私を追い詰めた、あの男だ。
「……もうどうでもいいよ。あんな奴」
「本当にそうかな。今だって自分を責めること、あるでしょう。先輩」
「ない」
「嘘だね」
――どうしたって、あなたは僕を見てなんてくれない。
独り言じみた声を、独り言として聞き流してしまっていいのか迷った。そのうちに顔を寄せられ、川島の唇が私のそれに触れる。
拒もうと思えば拒めたのかもしれないが、全身がまるごと麻痺したかのように少しも動けなかった。微かに触れた後、唇は拍子抜けするほどあっさり離れていく。
「そろそろ休みましょうか」
「……川島」
「その絵馬、あげる。要らなかったら捨てて」
「川島、私は」
「あなたが誰かの名前を隣に書いて、それがもうこの世にいない人だったとしても、あなたが持ってるままならあなたは死なないから」
独り言の延長のような声で告げた後、川島は、手にしていた絵馬を私の手元に押しつけて背を向けてしまった。
「川島」
広い背中を見つめながら再び呼びかける。けれど返事はない。いくら呼んでも、少なくとも今夜はもう川島は私を振り返らない。そう悟らざるを得なかった。
寝室を去っていく男の背を見つめ続けているうち、やがてドアは静かに閉まり、後には私だけが残った。
手元の絵馬に視線を向ける気にもなれず、ぼうっと座ったきりどうしたらいいか分からなくなる。
『例えば、誰かの大切な誰かを殺してしまうとか』
聞いたばかりの川島の声が、脳裏にふと蘇った。私の名を刻んだ絵馬を私に見せつけたときの彼の顔もまた、ほぼ同時に蘇る。
彼が言った通り、死んだ人間の名を隣に書いたなら、私は死んだのかもしれない。
水羽がモノクロのみゆきと私を引き合わせて以来、私はお伽話のようなそれを信じざるを得なくなっている。得体の知れない
きいん、きいん、止まらない耳鳴りの途中、不意に違和感が過ぎった。
川島が私を殺そうとしていたとして、その理由はなんなのか。
『誰かの大切な誰かを殺してしまうとか』
誰かの大切な誰か。誰かにとって大切な私を、殺す――胸が派手に軋む。
ぎりぎりと音が聞こえてくるほどに震え上がるそこを、私は無意識に拳で押さえ込んだ。
思い上がりかもしれない。だが、私が川島にとっての「大切な誰か」に当てはまるのなら、そうすることで苦しむのは川島だ。
震える吐息が零れた。川島は、自分自身を傷つけたがっているのでは……そんな仮説が浮かぶ。己が苦しむことで、結果的に祖母を殺めてしまった罪に対する罰を受けたがっている、ということになりはしないか。
だとしたら、如月を採用した理由も。
『あなたを傷つけたら、川島さんはきっとぼくを許さないだろうね』
『そうしたら、川島さんは人殺しだ』
『罪深いぼくのことも消してくれるし、』
――一石二鳥だと思いません?
囚われた先で聞いた如月の話が、声が、脳内でけたたましく再生を繰り返す。
ぞわりとした。もしかして、川島は如月と似たようなことを考えてはいないか。誰かを手にかけることで与えられる罰、苦痛、そういう類をほしがっているのでは。
「……ふ……」
声が零れたと同時に耳鳴りが途切れた。
閉ざされていたわけでもないのに、視界までクリアになった気さえしてくる。
……なんなんだ、あいつ。
自分自身を嫌いすぎている。その上、そういう自分を隠すことに長けている。そして、それを身近な人間にすら明かそうとしない。
分かりにくすぎる。とはいえ、これほど身近にありながら、自分は川島という人間のなにを見ていたのかと辟易してしまう。
座り込んだベッドの上で身体の右側に重心を預け、真横に倒れ込む。やわらかなマットレスに沈み込んでから落とした溜息は、多分、今日ついた中で一番大きな溜息だった。
私にも、最初から川島の心が読めてしまえていたら良かったのに――心底そう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます