《3》吐露

 初めて訪れた際の前後不覚状態、閉じ込められたショック、その間ずっと続いていた頭痛と空腹のせいで、体力と精神力は完全に削げ落ちていた。

 如月姉弟の住まいである古ぼけた一軒家を振り返りながら、私は小さく息をつく。


「そうだ。これ、お返ししておきますね」


 玄関を出て間もなく、端末を手渡された。奪われていたスマートフォンだ。

 このタイミングで返してくるとは……思わず眉が寄る。監視が続く状態にある私には助けなど呼べないと判断したのか、それとも。

 無言で受け取ると、水羽はにこやかに笑んだ。結局、それ以上の考えを巡らせるよりも先に水羽が歩き出したため、勘繰りはそこで半端に途絶えてしまう。


 下り坂を、水羽と並んで下りていく。想像していたよりも外はまだ明るく、それでいて周囲に人影はない。現実と非現実の区別がつかなくなりそうで薄ら寒くなる。

 ……ここは隣市だろうか。道中に覗く電柱、そこに貼られた広告に記された地名から推測する。とはいえ、似た地名などそこらに溢れているし、当たっているかは分からない。

 そもそも私は地元の地理にさえ疎い。たとえ隣町でも、通ったことのない路地に足を踏み入れれば、知らない場所だという認識以外なくなる。だが、わざわざ同行者に尋ねてまで知りたいとは思えなかった。


 ちらりと水羽を見やる。彼女の足取りは妙に軽い。楽しそうにも見える。

 バス停に辿り着いた。錆びたトタンに囲まれた停留所の佇まいが、絵馬様寺の最寄りの停留所を彷彿とさせ、急に息苦しくなる。水羽と初めて顔を合わせた場所のすぐ傍――それ以上のことを考えずに済むよう、私は思考を強引に掻き消した。

 水羽に返してもらった端末は充電が切れていて、電源を入れても間を置かずに落ちる。時刻を知りたかったが無理みたいだ。だが、別に分からなくてもいいかとも思う。今のこの時間に対し、とにかく現実味が湧かない。


 訪れたバスに乗り込み、揺られる間、水羽は私の隣にぴたりと張りついて座っていた。

 終始にこにこと笑みを絶やさない彼女に、何度「空席は他にもあるぞ」と声をかけようとしたか分からない。結局はなにも言えないまま、私はバスを降りるまでひたすら窓の外へ首を向けて黙りこくっていた。

 私に逃げられないよう隣に陣取っていたのかと気づいたのは、バスを降りてからだ。やはり頭が碌に回っていない。嫌気が差した。


「ねえ伊織さん。なにか食べていきませんか? お腹、すいてますよね?」


 終点の駅前でバスを降りた途端、水羽が浮かれた声で誘ってきた。さすがに苛立った。いくらなんでも呑気が過ぎる。

 撒けるものなら撒いてしまいたかった。川島の事務所へは、ここからバスで十数分……人混みとまでは呼びがたいが、駅前は会社帰りのサラリーマンやOLたちでそれなりに混雑している。おそらく不可能ではない。

 そう考え至った瞬間、右手を掴まれた。


「あの……逃げようとか撒こうとか、そういうことは考えないでくださいね。私だって、使うべきじゃない絵馬は使いたくないの」


 困ったような水羽の声が耳に届いたと同時、ぞわりと背筋が粟立った。

 振り返った先で、小首を傾げて笑う水羽と目が合う。私の右手を握る彼女の指には力が入っていない。振り払おうと思えば容易にできたはずで、けれどできそうになかった。


 まさか、そうまで分かりやすい言葉で脅してくるとは。


 死後婚とはどういうものなのか、なにが起きるのか、どうやって執り行うのか……具体的なことを私はなにも知らない。だが先刻、水羽が私にみゆきの姿を写し出して見せたとき、水羽は「死後婚を執り行うとき」と言った。関村という男とみゆき、ふたりの死後婚を、実際に絵馬を使って叶えたのだと。

 死んだ男との恋を成就させるために、みゆきを自ら死の淵に立たせ、黄泉へと導いた――暗にそう言ったのだ。

 この女の話を鵜呑みにする気にはなれない。とはいえ、常識や通説では太刀打ちできない、人知を超えたなにかが今回の事件に関わっていることは理解できた。川島から事件について初めて聞かされた日、オカルト的だと感じたそれこそがやはり正解だったのだ。


「……伊織さん?」


 ……いけない。訝しげに私を見つめている水羽へ、ゆっくりと視線を向ける。

 如月同様、この女も狂っている。例えば今日のこの移動にしても、私の頭が働かなくなるタイミングを狙っていたのかもしれない。丸二日、黙って様子を眺めながら。

 飲食さえ拒み続ける私の態度は確かに頑なだっただろう。そんな私に、水羽や如月が手を焼いていたことも理解できる。だが、だからこそ埒が明かないと判断し、こういう方法に切り替えたのだとしたら。


 この女も信用できない。してはならない。


「……そんなに信用ならないかな。信じてほしいんだけど」

「ふふ。大丈夫ですよ」


 笑う水羽を直視してなどいられなかった。

 別路線の停留所へ移動し、バスの到着を待つ。空いたベンチに座らせてくれたり、体調を気遣う言葉をかけてくれたり……思いのほか、水羽は親身に見える態度で私に接した。


 目的の停留所でバスを降りた頃には、外はとうに真っ暗だった。秋夜の空気は肌が震えるほど冷えていたが、なんとか耐える。

 時刻を知る手段がない。水羽に尋ねる気にもなれない。川島に連絡を入れるにしても、端末は充電切れ。ならばもう、彼のマンションに向かうしか方法がない。


 水羽の脅しは、私のような人間相手には反吐が出るほど有効だった。その水羽が写し出した、当を得ない顔で佇む白黒映像状のみゆきを思い出す。

 死後婚。お伽話と現実、その境を泳いででもいるような現実味のない儀式を実際に執り行うことで、水羽はみゆきを死に至らしめたという。関村とみゆきの死後婚を成就させ、みゆきを彼のもとへ旅立たせたのだと。

 水羽が語るそれを鼻で笑い飛ばしてやるには、私は具体的な詳細に触れすぎてしまった。


「……あんた」

「はい?」

「あいつに……会ってどうしたいの」


 川島のマンションへ向かう間、堪らず尋ねた。

 もうなにを話すつもりもなかったのに、つい口をついて出た。


「どう、と訊かれると難しいですね……そう、できれば川島さんをお助けしたいと思って」

「……助ける?」


 眉を寄せた私へ、水羽は朗らかに笑ってみせる。


「はい。彼については瑞希からいろいろ聞いてます、……彼の大切な人、生前から黄泉に囚われていたのだと思うから。きっと、そのせいで彼まで囚われてる」


 大切な人。生前。

 思わず目を細める。


「囚われてしまっては駄目なの。私たちのような者は、特にね」


 どういう意味だ。「生前」ということは、すでに鬼籍に入っている人物の話をしているのだろうか。

 川島の大切な人の中で、この世を去った人。


『祖母を殺したんです』


 ぞわりと背筋が粟立った。

 同時に、水羽の両目が三日月の形に細められる。それを単なる微笑みとして受け取れなかった私はもう返事をせず、歩き続けることに専念する。


 やがて辿り着いた川島のマンションの、三階までの階段を上っている途中、派手にふらついた。伊織さん、と呼びかけてくる水羽の声さえ遠く聞こえてならなかった。歯を食いしばりながら、私は残りの階段を上ることだけに意識を集中させ、そして。

 インターホンのボタンを押した途端、中から慌てたような足音が聞こえてきた。通話越しの確認すら入らず、珍しく思う。こんな時間の来客なのに、用心深い川島らしくない。

 もしかしたら私の思考を読んでくれているのかも……そう思ったと同時に、勢い良くドアが開いた。


「っ、先輩……」

「……どうも」


 それ以上、なにを言えそうにもなかった。

 蹴破る勢いでドアを開け放った川島は、思ったよりもまともな格好をしていた。外出を伴う用事でもあったのか、それとも。


「怪我は」

「いや、そういうのは……してない」

「……そう」


 言いながら、川島は玄関にしゃがみ込んでしまった。この男がここまで挙動を乱すさまを初めて見る気がして、新鮮な気分になる。

 気が緩みかけ、だが、不意に視線を上向けた川島が私の背後へ目を向けた。


「……あなたは」

「はじめまして。如月水羽と申します。弟がいつもお世話になっております」


 私の背に隠れつつ、それでいてふらふらと危なっかしくしか歩けない私を支えられる位置からは離れずに。そんな場所から一歩踏み出し、彼女は私に並んで丁寧に頭を下げた。

 水羽の素性を説明しなければと思う。しかし次の瞬間には、私は玄関に座り込む川島の腕へ雪崩れ込むようにして、がくりと膝をついてしまった。

 さまざまな種類の感情、そのどれがどれなのか、判別などまともにつくはずもない。中身が綯い交ぜになった頭を片手で押さえ、私は呻きに等しい声を絞り出す。


「先輩?」

「……飯」

「はい?」

「なんでもいいから食わせてくれ。頼む」


 バスに揺られていたときより、階段を上っていたときより、感じる眩暈は強い。

 それが、ようやく訪れた安堵によって気が緩んだせいだと思い至るよりも先、立ち膝の姿勢すら保てなくなった私はへなへなと玄関に崩れ落ちてしまった。






 飯を寄越せと自分から切り出しておいて、そのまま力尽きたらしい。

 川島の腕に支えられながら、私の意識は真っ黒に淀んで掻き消えた。次に気づいたときには、私はベッドに転がっていた。

 寝慣れないベッドの、私物の布団より遥かに弾力に富んだマットレスが、疲弊した私の背を優しく包み込んでいる。誰のベッドに寝転がっているのかという点に意識が向くよりも前、ふ、と細い息が口端から零れ落ちた。


 多分、相当に気を張っていた。

 身近な人間に薬を盛られ、殺人犯であることをほのめかされ、誘拐され、閉じ込められ、連れ出されたものの今度は脅され……自分の精神がさほど強くないことを自覚している分、よくここまで耐えられたなと思う。


 頭痛がする。ここ数日続いている痛みだ。

 う、と思わず唸ると、事務所側から足音が聞こえてきた。少し焦ったようなそれは、水羽に監視されながらインターホンを押したときとよく似た反応だ。


 扉の開く音がして、わざと背を向けた。相手は私の声を聞きつけて来たのだろうが、どんな顔をすればいいか分からない。

 心配をかけてしまったことを申し訳なく思う。同時に、警察に特殊な仕事を依頼されるほどの男が、殺人犯――いまだ自称の域を出ないことに変わりはないが――をそうと気づかずこんなに身近に置いていたのかと、腑に落ちない気分にもなる。


 如月が犯人である可能性を、川島は一度も考えたことがないのだろうか。

 それに、如月が語った話はどこまでが真実なのか。川島と血縁がある……そう告げるあの日の如月の声が、頭の端をするりと掠めていく。

 死後婚による殺人など、あまりに非現実的だ。だが、水羽が喚び出したみゆきの顔が目の奥に焼きついたきり離れない。非現実的なはずの現象を目の当たりにしてしまったからか、犯人であるという彼らの自白を、今の私には否定しきれなかった。


「……入っても?」


 遠慮がちに問われ、背を向けたまま小さく笑ってしまった。お前の部屋だろ、と喉まで声が出かかったが、開いた口からは震える吐息が漏れただけだ。息に混ぜ込ませるように「うん」と呟くと、わずかにためらった後、川島は室内に足を踏み入れてきた。

 歩み寄ってくる足音に耳をそばだてる。五感のすべてが鈍っている自覚は確かにあって、けれど彼が床を踏む微かな音は、今の私の耳に不思議なほどよく馴染んだ。

 遠慮がちな足音も遠慮がちな声も、とにかく川島らしくないと思うのに、これ以上ないくらいに川島らしいとも思う。


「……ん」


 膝立ちになり、覆い被さるように私の顔を覗き込んできた川島と目が合う。つい声が零れたそのとき、長い指が伸びてきた。

 水仕事でもしていたのか、額に触れた男の指はひんやりと冷たく心地好い。前髪を梳いては額をなぞる指にされるがまま、とうとう身体を転がし、私は彼へ向き直った。


「あいつは?」

「帰ってもらいました。多少、話はしたけど」


 誰とは言わなかったのに、川島は難なく返事をしてくる。

 髪を梳く相手の指は止まらない。心中を読まれている気もするし、この状況ではそれ以前の問題だという気もした。

 それに、訝しくも思う。川島に会わせてほしいと切り出してきた水羽の顔と声が、不意に蘇る。


『あたしを、川島紬さんに会わせてもらえないかしら』


 詳細は知らないが、そんなにもあっさり帰ったのか。薬を盛ってまで確保した人質を、自分たちの縄張りから連れ出してまで川島に会いたがっていたあの女が。

 目的はすでに済んだのかもしれない。あるいは、単に川島が強引に帰しただけか。あれほど分かりやすく私を脅しておきながら、川島のことは脅さなかったのだろうか。


『彼の大切な人、生前から黄泉に囚われていたのだと思うから』

『囚われてしまっては駄目なの。私たちのような者は、特にね』


 水羽の声が脳裏を過ぎった。意味を理解しきれなかった、話題そのものも。

 水羽のあの話が川島の祖母を指していたなら、祖母を殺したという川島の言葉の意味にも手が届きそうな気がした。ただ、それを川島に尋ねていいのだろうか。分からない。


「食べられそうですか」

「……え?」

「なんでもいいから食わせろって言ったでしょう、さっき」


 ……さっき、か。頭を抱えてしまう。

 ここに辿り着いてどれくらい経ったのか。感覚が鈍りきっている上、自分で確認しようにも寝室内には時計がない。


「……何時?」

「八時です。夜の」

「どのくらい寝てた?」

「三十分も経ってないですよ」


 言いながら、川島は寝室を去っていく。

 ゆっくりとした彼の足取りを目で追い、それが見えなくなってからは、雑に投げ出した自分の手首を見つめ……ひとりが怖い。その癖、ひとりでいたい気もしてしまう。


 再び寝室へ戻った川島は、どんぶりの載ったお盆を手にしていた。

 ベッドの端に腰かけ、膝の上にそのお盆を載せた川島の手元から、芳しい湯気が漂っているさまが覗き見える。

 お粥のようだ。前にも、お粥を食べるためにここを訪れたことがあった。あの日、私が口にしたお粥を作った人間は……いけない。それ以上のことを呑気に考えていられる心の余裕など、今の私には一切ない。


 お盆を受け取り、伸ばした膝上に置く。

 上体を起こしただけの姿勢で、零さないよう気をつけつつスプーンを手に取った。前に借りたものと同じ、木製のスプーンだ。


「手作り?」

「いいえ。レトルトです」

「お前がこの間食べてたやつ?」

「あれの味違いですね。玉子。弱ってるときはむしろレトルトのほうがいいですよ」


 立ち上る湯気を見つめながらぼそぼそと問う私へ、普段のふざけた態度はどこへやったと訝しくなるほど、川島は真面目に返事をしてくる。弱っているとき……至極真面目な声で言うから、そうなのかもなと思う。

 落ち着かない食事を黙々と進める。川島の視線は、途中で私から逸れた。きっと川島なりに気を遣ったのだろう。

 からっぽの胃に温かい食べ物が届く瞬間の絶対的な安堵を感じるのは久々だ。初めてではなかった。かつても、私はこの男から同じ安堵を与えられている。


 食事中、以前同じこの部屋で食べた梅味のお粥のことは極力思い出さないよう努めた。

 思い出さないようにすることは、思い出すこととほぼ同義だ。けれど今鮮明にあのお粥について思い出したら、せっかく得られた安堵がぼろぼろに崩れ落ちてしまう気がした。


 食事が終わると、川島が食器を片づけてくれた。召使いかよ、と心の中だけで思う。

 新品の歯ブラシを一本譲ってもらい、洗面所で歯を磨く。食事中こそ忘れていたものの、二日間なにを入れることもなかった口内にヘドロが詰まってでもいるような感覚を思い出したから、丹念に磨いた。時間をかけすぎたせいか、一度川島が様子を見にきてくれた。

 一心不乱に歯ブラシを動かす私へ、先輩、と扉越しに声をかけてきた川島の声は妙に不安げで、泡まみれの口でつい笑ってしまう。


「昔も歯磨き中に倒れたこと、あったでしょう」


 うがいを終えた私に、川島は微かに眉を寄せてそう言った。

 私は私で眉を寄せてしまう。あっただろうか、そんなこと……あったのかもしれない。川島がそう言うのなら。


 川島は私に嘘をつかない。昔も、今も。

 とはいえ、先日ひどい嘘をつかれたばかりだ。裏切られたと思うほどに傷ついた。だが、あれは私が一方的に嘘だと決めつけただけだ。私が嘘だと思いたかったからそう思った。性質の悪い冗談だと一蹴した。でも。


 ――川島は、本当に、お祖母さんを殺してしまったの?


 律儀にも寝室まで付き添ってくれた川島の横顔を覗き見て、口元が自嘲に歪んだ。訊けるわけがない。そんなこと。

 ベッドの縁に腰かけて震える吐息を零してから、私は再び横たわる。私の枕元に腰を下ろした川島は、またも当然とばかりに勝手に髪を梳いてきた。


 四年前と似ている。漠然とそう思い、急に怖くなった。当時に戻った気がしたせいだ。

 あの頃とはもう違う。あの危機はとうに脱した。そう思い込むために、私は如月兄弟の顔を無理やり脳裏に思い起こす。

 途端に、ひゅ、と乾いた音が喉を通り、息が浅くなっていく。今の自分の思考は、苦しみを苦しみで上書きする行為によく似ている……いや、それそのものだ。


「……如月は」

「はい?」

「あれからもここに来てたのか」


 沈む気分をごまかすように声を絞り出す。

 一度喉を通りさえすれば、息苦しさは案外簡単に解消され、私は密かに安堵する。


「ううん。来てないよ」


 川島の言葉遣いからは、いつもの慇懃な調子が抜けていた。

 そう、と小さく返したところでまたも息苦しさが舞い戻る。束の間の休息を取り逃がしてしまった私は、薄く開いていた瞼をそっと閉じた。

 その所作を待っていたかのように、川島は指の動きを再開させる。前髪を梳かれ、額を撫でられ……子供の寝かしつけに似ている。目を閉じたきり、私は顔をしかめた。


「水羽……さっきの、あの女が、みゆきを」

「うん」

「関村と……絵馬に、名前……みゆきが」

「……うん」


 閉じた目を腕で覆うと一切の光が届かなくなり、深い海の底にでも沈んでしまったかのような錯覚を抱く。

 口がうまく動かない。川島は「うん」しか言わない。相槌がなければそれはそれで苦痛だろうと思うのに、結局、私は身に降りかかる息苦しさを拭いきれないままだ。

 危機は脱した。自力でとは言いがたいが、今回も逃げきれた。そう思い込もうとしたと同時、川島が小さく呟いた。


「中途半端にしないでって、前に言ったでしょう。先輩」

「……え?」

「明日、話すよ」


 思わず腕を外し、目を見開いた。

 ……なんだ、急に。相手の弱々しい声が耳に届き、つい眉を寄せてしまう。


「……なに?」


 困惑がそのまま声になって零れ落ちる。

 口元を緩めて笑う川島からは、普段のふざけた調子も飄々とした態度もなにも感じない。私の感覚が鈍っているだけか、それとも。


 遠くなっていく。川島の声も、髪を梳く指の感触も、なにもかも。

 開いた瞼が勝手に狭まる。とにかく眠くて堪らなかった。如月の家では、横たわりこそすれ眠れてはいなかった。あんな状況でまともな睡眠など取れるわけもない。


「あなたも知ってるだろうけど、僕は臆病者だからね」


 ――あなたがまた僕の傍から離れていったらって思うと、怖くて。


 半分眠りに落ちかけた私の耳へ、ぽつりとした川島の呟きが届く。

 あまりに寂しそうな声だったから、なにか気の利いた返事ができればと確かに思い、けれど口はもう私の思うようには動かない。


「……おやすみ」


 瞼が閉じた瞬間の記憶は残らなかった。

 それきり、靄まみれだった意識はふつりと途絶えた。

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