《2》交渉
「アメミヤさーん。ご飯食べよーよー」
「要らない」
「ええー? 朝も食べてないじゃん」
「要らない」
最低限の返事で強引に会話を終わらせる。返事をしなければ、延々と声をかけられ続ける地獄が待っているからだ。
如月の態度は以前と変わらない。のらりくらりとした応酬が川島を彷彿とさせる辺りも変わらないから、つい普通に返答してしまいそうになる。そうやって私の気を緩ませることが相手側の目的なのかもしれないから、この狂いそうになる感覚と対峙したきり、私は如月の声を遮っては目を閉じる。
腹は減っている。喉の渇きもある。丸一日胃になにも入れていないからか、きりきりと刺すような腹痛にも襲われて……気が滅入る。
無論、携帯は取り上げられている。鞄に入っていなかったから、あらかじめ如月が抜き取っておいたのだろうと想像がつく。
ここがどこなのか分からない。如月か如月の姉、どちらかの視線が常にあるから外出ができない。充てがわれている部屋には窓がなく、景色から場所を察することもできない。
「……伊織さん」
微かに開いた襖の隙間からおずおずと声をかけてきたのは、如月の姉、水羽だ。
視線を向けることすら億劫だった。弟ともども、彼女は人殺しを自称している。水羽が自ら殺害をほのめかしたわけではないが、彼女は弟の発言をなにひとつ否定していない。
「水分だけでもと思って……お部屋、入ってもいいでしょうか」
控えめな申し出を、私は鼻で笑い飛ばした。
どれほど
「また薬入り? それとも毒入り?」
「……どちらでもありません」
「要らないよ」
見向きもせず言い放つと、水羽はついに言葉を途切れさせた。
人殺しの片棒を担いでいるとは思いがたい、とにかくおっとりとした女だ。如月の本性を見抜けなかった私に言えたことではないのだろうが。
応酬が途絶え、つい襖へ視線を向けてしまう。窺うように室内へ視線を向けてくる水羽と目が合い、私は面倒そうな顔を作ってから手をしっしっと振ってみせた。事実、面倒であることに変わりはない。なにより目障りだ。早く姿を消してほしかった。
しかし水羽は一向に去らない。それどころか思い悩むように顔を伏せた後、毅然と目線を上向け、私に焦点を定めながら手元のペットボトルを自身の口につけた。
ひと口ごくりと中身を飲み干した彼女を、私はまたも面倒とばかりに眺める。
「……なんのつもり」
「薬も毒も入ってません。その証明です」
「あっそ。要らない」
今度こそ関心がなくなった。伊織さん、と今度は珍しく怒ったような声をあげた水羽に対し、以降は徹底して無視を決め込む。
いっそ倒れてしまえば病院に逃げ込めるかも……今朝、過ぎった考えだ。
だがそうなったとき、果たして如月は私を病院に連れていったり救急車を呼んだりするだろうか。そのまま見殺しにされる可能性もある。昨日、首筋に食い込んできたきらびやかな爪が瞼の裏に蘇った。あの男ならやりかねない。
自らを潔癖症と語った男の目に浮かぶ、寂しげな狂気を思い出す。川島を憎んでいなければならない――事務所で朦朧としつつ聞いた言葉も、ほぼ同時に脳裏に蘇った。
だんまりを決め込んで一分が経ったか経たないかという頃、ようやく水羽が折れた。
襖の閉まる音が聞こえ、私はほっと息をつく。監視は常にされているのだろうが、すぐ傍で見つめられ続けては気分が悪い。
「……くそ……」
掠れた声が零れた。
空腹のせいか、碌に頭が回らない。如月姉弟への苛立ちが嵩を増していくばかりだ。ここからどうやって抜け出すか、あるいはどうやって助けを呼ぶか、まともな考えなど露ほども浮かびやしない。
なにも口に入れず、ほとんど眠れもせず、この状態で私はあと何日過ごせばいいのか。
食事を受けつけなくなった学生時代最後の記憶が胸を焼く。あれ以来、食事を抜いたことはなかった。一食でも抜けば、その瞬間あの頃に戻ってしまいそうで怖かったからだ。
当時の自分が具体的に何日間そんな状態にあったのか、記憶はすでに曖昧だ。食事も睡眠も取れず、命の灯火を失いかけて這いつくばる虫のごとく、ただ呼吸だけを繰り返していた日々。せいぜい十日かそこらだったはずだが、何年も似たような状態だった気もする。きっと、終わりのないトンネルの中をひたすら歩いている気分だったからそう思ってしまうのだろう。
やつれた私の口にお粥を運んでいた四年前の川島の顔は、もう思い出せない。
今と変わらない気がするのに、記憶の中の川島はいつだってのっぺらぼうだ。たまに見る夢の中でも、頼りない記憶の中でも、ずっと。
……川島は私の失踪に気づいただろうか。
私と連絡がつかなくなったことを訝しむ、そのくらいはしてくれているだろうか。あるいは、私の考えを読もうとしてくれているだろうか。
人の心を読むという、悪質とさえ思っていた川島の性質に頼っている自分が滑稽だ。もっとも、本人とて得たくて得た性質ではないだろうから、川島本人を糾弾したところで彼には手の打ちようもなにもないとは思うが。
そこまで考え、ふと違和感を覚えた。
私が北海道に滞在していた間、川島は私の考えを何度か読んでいたはずだ。そうでなければ、彼が私を空港へ迎えにくることはできなかった。つまり、あの男は読めるのだ。遠く離れている相手の心が。
だとしたら、なにもあの日、事務所に関村さんを呼び出す必要はなかったのではないか。わざわざ帰りに彼女を送り届ける必要も。
「……なんなんだ、あいつ……」
川島がなにをしたいのかが分からない。
いや、川島だけではない。私の周囲にある人物たちが取る言動の意味が、少しも理解できない。川島も、如月も、水羽も。
不意に、田住の顔が頭を過ぎった。
出先で一度、川島の事務所で一度、顔を合わせたきりの刑事――この状況で誰かを頼るなら、いっそ川島より警察のほうがいい気もする。
だが果たして、彼らは如月姉弟の発言を理解できるだろうか。私だって理解しがたい彼らの自白を、自白として受け入れるだろうか。
「……く」
頻度も強さも増してくる頭痛と腹痛に、堪らず顔を歪める。一度は畳んだ布団を敷き直し、私は再びそこに転がった。
如月は、今回の件について、水羽が被害者たちを死に至らしめたと言った。如月の指示に従って水羽が実行したという意味で合っているのか、それとも――そもそも、水羽は被害者たちをどうやって殺したのか。
川島は、殺人という直接的な言葉で今回の事件を表している。とはいえ状況から鑑みるに、せいぜい自殺の誘導や幇助……それ以上の犯罪が起きたとは考えにくい。
被害者たちは、絵馬を用意し、自ら枕元にそれと花を置き、そして死へ足を踏み入れた。
絵馬の印字について考えると、如月、もしくは水羽が用意したものを送付した可能性もある。誰かの直筆ではないと判断されているようだし、なにより私は水羽が絵馬を所持する現場に遭遇している。あの絵馬を被害者たちへ送っていたのだとしたら……だが。
考えれば考えるほど、被害者たちの死の原因が解せない。
望むだけでは人は死ねない。以前も同じことを思った。亡くなった女性たちが死にたがっていたとして、願えば死ねるなんてことは絶対に起こり得ないのだ。
それなら、如月と水羽はどうやって彼女たちに手を下した?
『これは、小道具を使ってオカルトっぽく見せかけようとしてる、性質の悪い殺人です』
『殺されたんですよ、先輩のご友人は』
いつかの川島の言葉が脳裏に蘇る。
『若くして亡くなった男女を、黄泉で結ばせるための儀式ですよ』
死後婚。絵馬。若くして亡くなった男女の婚姻。繋がるようで繋がらない。現実に起こり得ることだとは、どうしても思えない。
答えは出ない。それよりも腹が減った。喉も渇く。そのせいで頭が回らない。
如月と水羽への嫌悪感ばかりが募る。水を差し出してきた水羽の心配そうな顔と、叱責を滲ませた呼び声を思い出す。
あの女さえいなければ――いや、如月さえいなければ。
鈍る頭の中、最終的に行き着く答えは結局それだ。そこへ辿り着くまでの時間も次第に短くなってきている。
彼らが憎い。ことさら、私を心から心配している顔を覗かせる水羽が憎かった。だが、この憎しみが果たして正しいものなのか、ともすれば簡単に分からなくなる。
みゆきが本当に死にたがっていたなら、今の私が持て余している灼けつくような感情のすべては無意味だ。それどころかみゆき本人から疎まれてしまいかねない。無論、みゆきはもうどこにもいないけれど。
成人して以降は顔を合わせる機会もなかった古い友人だ。彼女が自殺を望むほど苦しんでいたとして、私はそれすら知り得なかった。
私はそのときなにをしていただろう。
みゆきの死の瞬間、なにを。
「……は」
乾いた笑いが零れた。
遠方でのうのうと暮らしていただけだ。あの子のことなど、これっぽっちも思い出さずに。
*
丸一日食事を抜いた程度でここまで憔悴するとは、さすがに思っていなかった。
肉体的にというより、精神的に追い詰められている感覚がある。これを避けるために、この四年あまり、物を食べることについては神経質なほど気を割いて暮らしてきたのに。
窓も時計もない部屋、布団の中でじっと息をひそめる。
トイレに行くときくらいしか部屋を出ない上、食事も水分も摂っていないからそれさえほとんど必要がない。天候も時刻も、さらには隣室に如月や水羽がいるのかどうかすら判断がつかない状態で、頭痛と腹痛だけがじりじりと強まっていく。
息が詰まる気がしてならず、布団を深く被り直した、そのときだった。
「……伊織さん」
襖越しに声がかかった。遠慮がちな水羽の声……昨日と今日、幾度か聞いたそれと同じものだ。震える吐息が零れ落ちる。
返事をする気にはなれなかった。もう何時間同じ姿勢で転がっているだろう、布団に包まったきり、襖の隙間から入り込んでくる明かりを遮るように寝返りを打つ。ところがその所作こそ、私が眠りに就いていないことを相手に知らせてしまう結果になった。
「起きてますね。お見せしたいものがあるんです、あの子が留守のうちに」
水羽の声は妙に細い。掠れているように聞こえなくもなかった。
布団の中、私は微かに眉を寄せて相手の言葉を反芻する。
あの子……如月のことか。奴が留守なら、今、この住居には水羽と自分しかいないということになる。
仕事に行ったのだろうか。川島の事務所でのうのうと働き続けられているなら大した度胸だ。それならそれで、奴が私のことを川島にどう説明しているのか気にはなる。
鬱々と巡る私の思考を遮るかのごとく、水羽の声が再び耳に届く。
「この部屋でもできなくはないですけど、私の部屋に来てもらったほうがお会いになりやすいと思いますから」
お会いになりやすい、という言い回しが異様に気に懸かる。
ますます深く眉が寄り、同時に頭の奥がずきりと軋んだ。この状況で水羽の言いなりになるのは癪だ……しかし。
のそりと起き上がる。頭を揺らさずに済むようゆっくりと振り返った先、小さく開いた襖の向こう側に佇む水羽と目が合った。
「良かった。こちらへ……ご案内します」
言いながら、水羽は襖から離れていく。上体だけ半端に起こした私の目には、彼女が唐突に掻き消えたように見え、背筋がぞわりとした。
慌てて起き上がり、襖に指をかける。怠い身体が立ちくらみを起こし、それを強引に堪え、私は水羽の後を追った。
促されるままに居間を抜ける。
窓のカーテンは閉まっていた。すでに日のある時間でないことは理解できたが、夕刻なのか深夜なのかは分からない。延びる廊下に足を踏み入れた頃、ああ、居間には時計があるのに見なかったな、とぼんやり思い、けれどわざわざ引き返す気にもなれなかった。
廊下が長い。丸一日布団に包まって息をしていただけだったからか、自分の足取りは思った以上に重かった。
「こちらです。足元に気をつけてね、少し段差がありますから」
水羽の声を追いかけるように歩く。足を動かすたび、古めかしい廊下がギシギシ軋む。
わずかとはいえ、居間の明かりは届いている。にもかかわらず、薄暗いからか初めて歩く場所だからか、気分は重かった。
部屋と部屋が扉や襖で繋がり合う間取りばかり見ていたから、廊下があるというだけでも新鮮だ。
鈍る足で辿り着いた部屋……水羽の私室は、私に割り当てられている部屋にもまして質素な一室だった。やはり畳の匂いがする。
水羽が電気を点け、そのとき初めて、私はこの部屋にも窓がないと気づいた。物も少ない。殺風景な室内の中央に、ぽつんと矩形の卓が置かれている。さらにその中央には、飾り気のない燭台と蝋燭があった。
「……なんの用?」
「お見せしたいものがあるんです」
襖の外から声をかけた私に、水羽は先刻と同じ言葉を返してきただけだ。
どうぞ、と促され、ここまで来てしまった以上断ることもできず、警戒を緩めてはならないと意識しながら中へ踏み入った。
水羽は、矩形の卓の奥側に腰を下ろした。長方形の卓の狭い面だ。私には広い面を指差し、「座ってください」と囁き……言われるまま示された座布団に座る。
座布団に座るという行為が、まだ新しい記憶を鮮明に呼び起こさせた。みゆきの家へ向かった日、座布団を差し出してくれたみゆきの母親。二枚の座布団。疲弊した顔を隠すことさえできていなかった彼女の、目元に刻まれた深い皺――軋むように胸が痛む。
「電気、失礼しますね」
蝋燭に火を点けた後、水羽は部屋の照明を消した。古めかしい輪型の蛍光灯は薄く余韻を残して光を途絶えさせ、室内には蝋燭の炎が生む淡い灯りが満ちるのみとなる。
限られた灯りに照らされる六畳一間の室内、オレンジと赤、白が混じり合う蝋燭の火が目に焼きついて離れなくなる。狭い部屋だからか妙に明るく見え、正座した足が竦む。座っているのに足が竦むなど、滅多にない感覚だ。薄気味悪かった。
「雨宮伊織さん。これから、あなたに馴染み深い方をお写しします」
普段よりも低い声で話す水羽の、薄く開いた口元を、揺れる炎がぼんやりと照らし出す。堪らず私は目を見開いた。
馴染み深い方。お写しする。それらの言い方に背筋が強張る。この女はなにをしようとしている。私に、なにを見せたがっている。
どれほどの沈黙が続いた頃か……数秒か、あるいは数分か。具体的な感覚は碌に持てていなかった。軋む頭で水羽の言葉を反芻しては、背筋を伝う寒気をどうにかしなければと躍起になって、そして。
「……ああ、お見えです。分かりますか」
お見えです。その言葉が、ぐるぐると巡る思考のすべてを掻き消す。
顔を上げる。上げずにはいられなかった。馴染み深い方、お写しします、お見えです。水羽の声が、言葉が、絞め殺さんばかりに私の全身に絡みついて離れない。
視線を上向けた瞬間、息が止まった。
「っ、……あ……」
喉から自然と零れ出た吐息交じりの声が、正面の蝋燭の炎を微かに揺らす。
みゆきだった。真向かい、少し引いた位置にみゆきが佇んでいた。
見える、という表現で合っているかどうかは分からない。ただ、そこに在る。みゆきと同じ輪郭を象った、ひとりの女性が。
「な……」
人ならざるものと対峙している恐怖よりも、見えないはずのものが見えているという奇妙な感覚が勝っていた。
眼前のみゆきは私と視線を合わせない。水羽の側を向いているわけでもない。ぼんやりと私の後ろを見つめている。私などいないものとして、後方の壁を……そんな顔に見えた。
私が知る彼女より、そして遺影で見た顔よりも大人びている。頭の天辺から爪先まで、その姿は白と黒、グレーのみで構成されていた。まるでモノクロ動画じみていて、古い時代の映画を観てでもいるような錯覚を私に引き起こさせる。
ときおり首を傾げたり眉を寄せたりしているが、それだけだ。私に気づいている様子もやはり見られない。
「厳密には、本人ではないんです。姿形の写しをお見せしているだけで」
「……っ、え?」
「宇良みゆきさんという方の、最期の頃の姿を写し出している……とでも言いましょうか。いわば本人のコピーみたいな。彼女に伊織さんが見えている感じ、しないでしょう?」
抱いていた違和感を言い当てられ、黙らざるを得なくなる。
このみゆきには私が見えていない……というより、なにも見ていない。そういうことなのか。
「……みゆき」
思わず、正面のそれへ手を伸ばした。理屈ではなくみゆきを確認したかった。視覚以外の方法で、なにかしらの確証を得たかった。
しかし元々不明瞭に霞んでいたみゆきの姿は、私の指先が彼女の輪郭に触れるか触れないかというところで、ジジ、と派手に歪んで消えてしまった。荒い映像が乱れて途切れる瞬間に似ていた。それでいて、輪郭ごと空気に溶けゆくかのようでもあった。
幽霊ではない。妖怪でもない。もちろん、怨霊や怨念そのものでもない。
水羽の言う通り、生前の姿を写し出しただけの鏡、あるいは象っただけのコピー。そういう類のものだった。
「……あ……」
掠れた声が喉を滑り落ちていく。
私の声はみゆきに届いただろうか……いや、違う。あれはみゆきではない。私がみゆきだと思いたかった、その気持ちのせいでみゆきの顔に見えただけかもしれない、そういった存在でしかない可能性さえある。
震える吐息が漏れ落ちたそのとき、斜めの位置に座る水羽が静かに腰を上げた。
「信じてもらえたかしら」
「……え?」
「絵馬を使ったわけではないから、あれくらいが限界だったんだけど……死後婚を執り行うときには正式な手順を踏むの。実際にお喚びするのよ。例えば、彼女と関村幸宏さんのご縁を結んだときみたいにね」
立ち上がり、部屋の電気を点けてから、彼女は蝋燭の火をふっと吹き消した。途端に、今起きたすべてが夢だったかのような感覚に囚われる。
みゆきの姿を模したなにかの夢でも見ていて、急に目が覚めた……そんな不安定な感覚。それに、なによりも。
死後婚。お喚びする。縁を結ぶ。そして、関村幸宏という男の名。
点でしかなかった事柄が線で繋がれていく――否、最初から繋がれていたそれらがようやく線の輪郭を覗かせる。如月と水羽が仕組んだ事件のからくりが、じわり、じわり、私を絡め取るかのごとく包囲を始めている気にさせられる。
「……あんた……」
「彼女が望んだことよ。瑞希は人を選ぼうとしない節があるけど、あたしは誰かの願いを叶えることを優先したいの」
言いながら笑みを浮かべた水羽の顔には、諦念が滲んでいるようにも見えた。
もう、なにも言えそうになかった。
「……さて。信用してくれたなら」
座ったきり黙り込んでいた私は、相手の言葉に呆然と視線を上向ける。
「お願いがあるの。あたしを、川島紬さんに会わせてもらえないかしら」
「……は?」
思わず声を零した私を、水羽は穏やかな笑みを浮かべて見つめ返してくるだけだ。
頭が回らない。水羽の口から川島の名が出ることを露ほども想定していなかった分、余計に思考が乱れてしまう。
忘れていた頭痛と空腹、喉の渇きを一気に思い出し、そのせいで頭にかかった靄がますます深くなる。
「……ここから出られるのか、あんた」
「当然よ。普段の買い出しなんかはあたしが行ってるし、前だって、ひとりで出かけてるときにあなたに会ってるじゃない」
冗談めいた口調で言い放った後、水羽は軽やかに微笑んだ。
……ああ、と思う。笑った顔が如月に似ている。怖くなってくるほど。
「多分あの子にはバレるだろうけど、あの子はあたしに手を出せないの。大丈夫よ」
「……いざとなったら私には出すだろう」
「だから一緒に行動するのよ。行きましょう」
いつの間にか鞄を手にしていた水羽は、私の背を押さんばかりの勢いで部屋を出ていこうとする。慌てて立ち上がったものの、すぐ彼女の隣へ歩み寄る気にはなれなかった。
罠かもしれない。もし、如月も水羽のこの行動を承知の上で、彼女と川島との接触を促しているのだとしたら。
『川島さんは姉よりずっと危険なんだ』
『川島さんを悪者にしたくて仕方ないんだ、ぼく』
如月の言葉が、じりじりと脳裏に蘇る。
こいつらは危険だ。如月は川島を殺したがっている。あるいは川島に殺されたがっている。このふたりを振りきれない以上、私が再び川島に接触することは、きっと川島の身の安全を脅かすことに繋がる。
――でも。
「……分かった」
逡巡の後に小さく頷き返すと、水羽は満足そうに笑みを深めた。
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