第3章 お伽話の延長線上

《1》笑う首謀者

 鳥の鳴き声が聞こえ、目が覚めた。

 薄く開いた瞼が捉えた日の光はしみるほどに明るく、時間の感覚が一瞬覚束なくなる。

 今、自分はどこにいるのか。眩しさのせいで寄せた眉を緩めることも忘れて考える。自室、川島の事務所……どちらでもないと気づいたと同時、私は文字通り飛び起きた。


「っ、……ぐ……」


 途端に殴られたような頭痛に襲われ、知らぬ間に声が出た。潰れた虫が最期の最期に絞り出すみたいな、濁りきった声だった。

 関村さんと対面している間も、確かに眩暈を感じてはいた。緊張によるものだと思っていただけに、まさか薬を盛られていたとは……その上でコーヒーにも仕込まれていたなら、相当な量を服用させられたことになる。

 くらくらと揺れる頭をどうにもできず、私は無理やり周囲を見渡した。見慣れない天井に、見慣れない布団。ベッドではなく床に敷かれた布団だ。床……いや、畳か。枕も、もちろん自分のものとは違う。


 とそのとき、閉まりきった襖が薄く開いた。

 空いた隙間に指が添えられ、如月だろうかと身構える。咄嗟に上体を起こしたものの、派手な痛みが頭の端をぎりりと過ぎり、堪らず呻きに似た声が喉を通った。


「お目覚めですね。ああ、どうぞそのままで」


 女の声が聞こえてきて、え、と思う。

 女性だ。おそるおそるといった様子で私を見つめる彼女の顔には見覚えがあった。どこで見たのだったか、そこまでは思い出せない。

 淡く微笑んでから背を向けた彼女を、頭を押さえながら見送る。立ち去った彼女と入れ替わりで、今度は襖越しに手のひらだけが覗いた。やや遠目にも分かる、女性のものとは思いがたい長い指――ぎくりと背筋が強張る。


「女性の寝床だしね。見ないから安心して」

「っ、……お前……」


 ふふ、と悪びれもせず笑われ、思わず苦々しい声が零れる。普段よりも調子の抑えられたその声の主は、今度こそ如月だった。

 反射的に顔をしかめたが、どうせ相手には見えていない。如月の顔があるだろう辺りに視線を定めてきつく睨みつける。せめてそうしていないと、自分の立ち位置がすぐにも崩れてしまいそうで、薄ら寒くてならなかった。


「準備ができたら呼んでね。あなたの荷物は一緒に持ってきてあるし、着替えは姉のものをお貸しするよ。そこにあるでしょ?」


 普段より低くはあるが、如月の声はやはり軽快だ。

 相手の言葉を追って視線を戻すと、枕元に綺麗に折り畳まれた服が用意されていた。その横には私の鞄も添えられている。

 それらを確認した瞬間、臓腑の底から絞り出すような溜息が零れ落ちた。






「ご挨拶が遅れました。みずの姉の、みずと申します」


 茶を振る舞った後、如月水羽は和卓を挟んで私の対面に腰を下ろした。彼女の隣には、如月――彼女の弟の姿がある。

 瑞希……如月はそんな名だったのか。同僚だというのに、彼の下の名を特に知ろうともしなかった自分を少々薄情に思う。

 出された茶に手をつける気にはなれない。茶碗の中で少しずつ波紋を失っていく液体を見つめていると、如月が心外そうに「もうなにも入ってないよ?」と首を傾げてみせた。今にも顔を覗き込んできそうな仕種だったから、私は彼から露骨に視線を外し、拒絶を示す。


 正面に佇む如月水羽の顔を、できるだけ無表情を決め込んで見つめる。


『ぼくの双子の姉……あなたも一度会ってるはずだよ』


 不調を極める中で如月から告げられた言葉が脳裏を過ぎった。

 寺院の帰り道、歩いても歩いても辿り着かないバスの停留所――いつかの光景を鮮明に思い出す。


 紙袋に入った絵馬を持ち歩いていた女性だ。

 口元が如月に似ていると、あの日も思った。


「帰して」

「落ち着いて、アメミヤさん」


 開口一番、声を低めて呟いた私に、如月がにこやかに微笑み返してくる。

 ……反吐が出る。この状況で落ち着けるわけがない。昨日、深すぎる眩暈に沈んだ私の耳はそれでもきちんと働いていて、むしろ常より鮮明なのではと思えるほどはっきり記憶に残っている。川島を死なせるために事件を起こしたと語る、この男の声を。


「ちゃあんとぼくの言うことを聞いてくださいね。アメミヤさんなら、絶対に川島さんをおびき寄せてくれるもん」

「用が済んだら殺す気か」

「うーん。そこまではしないと思うよ、あなたにはなんの罪もないでしょう?」


 小首を傾げて宥めるような声を吐く如月に、私は鼻で笑ってみせる。


「なんの罪もない私の友達を殺しておいてよく言う。あんたらなんでしょ、犯人」

「……うん」


 如月の表情が微かに曇る。

 隣に座る彼の姉は、ときおり弟に視線を向けながらも黙り込んだままだ。まるで自分が彼女の代弁者であるとばかり、如月は溜息交じりに続ける。


「ぼくね、潔癖症なんだと思う。絵馬で人を殺せてしまう川島さんが嫌いなの。姉もね」


 絵馬で人を殺せてしまう、という言い方が癇に障る。川島にそれができて、奴が人を殺そうとしている前提で話を進める如月の、その思考が少しも理解できない。

 川島が人を殺すわけがない、お前らとあいつは違う――声を荒らげかけた瞬間、ふと脳裏に川島の声が蘇り、背筋が派手に強張った。


『祖母を殺したんですよ』


 余計な思考が巡ったせいで一瞬空いた間を、如月は見逃さなかったらしい。視線を泳がせながら、私は苦虫を噛み潰したような気分になる。

 正面の如月水羽を一瞥すると、彼女もまた私を見つめていた。微笑む女の顔を、目を細めて睨みつけ、私は彼女から視線を逸らした。

 私たちの無言の応酬を横目に「うーん」と思案げな声をあげた如月は、言葉を選ぶように話し続ける。


「ええと、今の言い方だと語弊があるかな。水羽のことはね、大好き。世界でたったひとりのぼくのお姉ちゃんだからね。その水羽が人殺しの力を持ってることが嫌なんだよ」


 途中から手振りを交えて語る如月は、自分自身にそれを言い聞かせているようにも見えた。


「川島さんのこともね、嫌いなわけじゃないんだ。本当に嫌いだったらあんな気紛れな人のところでなんか働けないもん」

「……近くでこういうタイミングを狙ってたんだろうが」

「うーん、まぁそういうのもあるけど。それにしたって、風邪っぴきの上司にお粥を作ってあげるとか、普通はしないじゃない?」


 またも小首を傾げ、如月は寂しそうに笑う。

 お粥……まだ記憶に新しい。如月が電話をかけてきた日のことを思い出す。電話越しに私に泣きついて、そういえば言っていた。自分が作ったお粥を、川島は食べてくれないと。だから私に食べてほしいのだと。


 あの日、目の前のこの男に感じた気持ちはどんなだっただろう。

 川島に似ている――そんなことを思った気がする。同じ事務所で働いているせいで川島に似てきているのだとも思った。


「どうしたらいいんだろ。ぼく、皆が好きなんだよ。嫌いなのは人殺しの力だけで」


 形の良い両目を細めた如月は、遠くを見るような瞳でぽつりと呟く。


「不思議だね。誰だって人殺しになれるのに、ほとんどの人はそれをしないで生きてる。川島さんだって水羽だって、特別な力があったとして誰かを殺そうとなんてしてない。水羽を人殺しにしたのはぼくだ」

「……如月」

「だから、ぼくが死ねばいいだけなんだよね」


 言葉の最後とともに、如月は「あはは」と声をあげて笑った。

 初めて如月と対面した日、私が川島との話の中で「お嬢さん」と呼んだとき、如月は満面の笑みを浮かべて喜んでいた。彼が今浮かべている笑みはあのときと同じ無邪気な笑みで、ふと怖くなる。


 自分が死ねばいいと言いながら、これほどまで晴れやかに笑っている。

 笑う如月の目の奥に、寂しげな狂気がゆらゆらと揺れて見えた。寂しげ、狂気――矛盾を孕んでいる言葉同士だとしか思えないのに、そうとしか表現できない。そんな瞳に瞬く間に囚われそうになり、息が詰まった。

 手振りを交えて話していたその手を、如月はおもむろに斜め向かいの私へ伸ばし始める。


「川島さんを悪者にしたくて仕方ないんだ、ぼく。あの能力を使って人を殺してほしい。あの力が悪だと証明してほしい。水羽も人を殺した。あなたの大切なお友達のことも」

「っ、やめて!!」


 堪らず叫んだ。塞ぐように左右の耳を両手で覆い、話を遮ろうと、もうこれ以上聞きたくないと、私は如月の話を全身で拒絶する。

 その仕種が癇に障ったらしい。膝立ちになった如月は、静かに指を伸ばし続け、卓越しにとうとう私の首に触れた。

 ひゅ、と空気の漏れる音が喉を通り、それでも私は動けない。耳を塞いだきり、正面に揺れる男の狂気を覗き見ながら、ぴくりとも動けないほど固まってしまっていた。


 前のめりになって私に触れる如月の指はひんやりと冷たかった。女性のそれとは思いがたい長い指……人間の視覚は本当にあてにならない。そういえば本人も言っていた。手が大きいことがコンプレックスなのだと。

 手入れの行き届いたカラフルなネイルの先端が肌に食い込み、微かな痛みを生む。痛む箇所が、咄嗟に飲み込んだ唾液のせいでこくりと動き、私は息を詰めて恐怖に耐える。

 この男は、ためらわない気がした。


「あなたを傷つけたら、川島さんはきっとぼくを許さないだろうね。憎んで憎んで、殺してしまうかもしれない。ぼくを」

「お前……」

「そうしたら、川島さんは人殺しだ。罪深いぼくのことも消してくれるし、それって一石二鳥だと思いません?」

「……瑞希」


 小さな囁きが正面から聞こえ、私ははっと我に返った。如月も同様だったらしい。

 たしなめるように如月を呼んだのは、それまで沈黙を貫いていた水羽だ。瞬間、首から指の感触が消えた。私の首に手をかけていたこと、それ自体が嘘だとばかりに口角を上げ、如月はにっこり微笑んで卓に肘をつく。


「ふふ、あなたを殺す気はないよ。まぁ川島さんはなかなかキレなそうだし、それなりに痛い目は見てもらうことになりそうだけど」


 笑う如月の瞳に、不安定な狂気はすでに宿っていない。

 首筋――男のきらびやかな爪が食い込んでいた辺りを無意識にさすりながら、私は掠れきった声を零した。


「……帰せよ」

「川島さんのところに?」

「私の家に、だよ」


 語気を強めると、如月は目を見開いた。

 きょとんとして、それから先ほどよりもさらに楽しげに、彼はケタケタと笑った。


「あっはは。本当、あなた、面白い」

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