《6》笑う男

 川島のことがどんどん分からなくなる。

 絵馬。自殺幇助、あるいは殺人。絵馬様寺。彼の祖母。彼の母親の、寺院再建への力添え。そして――祖母を殺したという川島の発言。

 すべての事柄が線で繋がっている気がする。同時に、それらがすべて繋がっていたとして、私がその詳細を知る意味はあるのかとも思う。


 確かに、私は古い友人を喪った。それも、これまでの経緯を踏まえれば、おそらく彼女は残酷な方法によって死をもたらされている。

 自らに花を手向けながら死の淵へ足を踏み入れる、それを本人が望んでいたかどうかについてはもはや知る術もない。だが、私の目には残酷な死以外のなににも見えない。

 とはいえ、私はどこまで足を踏み込むつもりなのか……不意に自分が分からなくなる。仕事だからといって、流されるまま川島に関わり続けることが果たして正しいのか。


 川島は「また明日」と言った。単なる社交辞令だったのか、明日また本当に呼ばれてしまうのかは分からないが、呼ばれなければいいと思う。

 どんな顔をすればいいのか、考えるだけで頭が痛かった。かといって相手は普段通りに違いないだろうし、こうして悶々と悩んでは頭を抱えているのはどうせ私だけだ。余計に気が滅入る。


 川島が、私に絵馬の事件の写真を見せたのはなぜか。そのことも気に懸かっていた。

 みゆきの絵馬に記された男性の名を確認したいだけなら、口頭でもやり取りできたはずだ。けれど、彼は私に報酬を支払ってまで写真を見せ、意見を聞いた。それはなぜなのか。


 川島に会いたくないと思う。少なくとも、しばらくの間は。

 分からないことだらけの中に、去り際に交わした抱擁だけが中途半端に居場所を作ってしまって、うまく身動きが取れなくて、そんな自分に嫌気が差して……堂々巡りだ。



     *



 結局、次に呼ばれたのは一週間後だった。

 来客の対応を頼みたいと、前日に連絡が入った。断ろうか迷ったが引き受けた。


 午前九時三十分過ぎに家を出て、バスに揺られて事務所へ向かう。来客の予定は十時半だと聞いている。多分、遅れることはない。

 後部の座席に座り、流れる景色を窓越しに眺める。間もなく十月、だいぶ見慣れた並木には、ところどころ緑から黄に色を変えた葉が目立ち始めていた。


 事務所に到着すると、川島と如月がいた。


「あ、アメミヤさん。おはようございまーす」

「……おはよ」


 如月がいるのに、私まで呼ばれた理由が解せない。

 曖昧に手を上げ、挨拶とも呼びがたいようなやり取りを如月と交わした後、デスクにいる川島と目が合った。


「おはようございます。さっきまで田住さんが来てたんですよ」

「……へぇ」


 気のない返事をしながら、私は自席に腰を下ろした。

 応急措置の簡易的なデスクだ。元は物置同然だった、古めかしい机。


「そうなんですよ~。ねぇアメミヤさん、田住さんってちょっと怖いよね? 睨まれてる気がしちゃうから、ぼく、あの人が来てるときは給湯室に隠れてるんだぁ」

「……そう」

「あ、アメミヤさん、なんか飲む? あったかいコーヒーでいい?」

「いや、いい。気にしないで」


 私がデスクに着いた途端にお喋りを始めた如月とは対照的に、川島はもう喋らない。自席で、黙って資料に向かい続けている。結果として、事務所内には如月の楽しげな声だけが響き渡ることになった。

 駅前にオープンした雑貨屋の話、新発売の化粧品の話、お勧めのヘアサロンの話……可愛いものは決して嫌いではないが、流行に疎い私にはついていけない話題ばかりで、相槌を打つだけで精一杯だ。

 対する如月は私の薄い反応にも負けず、私物と思しきファッション雑誌を片手に熱弁をふるい続ける。


「ぼく、手が大きいのがコンプレックスなんだぁ。脚も腕も……顔もそうだけど、綺麗に見えるようにいろいろ頑張ってるんだ。でも、元々の骨格だけはどうにもならなくて」

「……へぇ」

「ていうかアメミヤさん、手、めっちゃ綺麗だよね。ネイルとかしないの?」

「いや、私は別に……」


 ネイルの話題に話が切り替わりかけたそのとき、インターホンが高らかに鳴り響いた。

 手元の資料を眺めていた川島が顔を上げたと同時に、如月が「はぁい」と返事の声をあげる。約束の客人だと分かっているからか、インターホン越しのやり取りを挟まず、如月はまっすぐ玄関へ足を伸ばしていく。


「……ごめんください。あの、約束をしてます者ですが……」

「はい。お待ちしておりました、どうぞ」


 ぼそぼそと話す女性の小声に、先ほどまでよりワントーン落ち着いた如月の声が続く。

 女性は少々落ち着かない様子で玄関に足を踏み入れ、私も席を立って頭を下げた。

 齢の頃は五十代半ばか、あるいはもう少し上か。痩せ細った体躯にひやりとしたものを感じ取る。今にも倒れてしまいそうな、そんな儚さを感じずにはいられない不安定な細さと面立ちだ。


「あの……先日ご連絡いただいた、関村です」

「はじめまして、関村さん。お電話いたしました川島です」


 いつの間にか玄関の前に足を進めていた川島が、客人へ深々と頭を下げて名刺を差し出す。いつもの胡散くささをどこへしまったのか、川島の対応は完全に仕事用のそれだ……いや、そんなことよりも。

 関村。聞き覚えのある名だと訝しく思った瞬間、鮮明に思い出す。みゆきの名が記された絵馬に名を連ねられた男性の姓と同じだ。


 つまり、この女性は関村幸宏の身内――外見から察するに母親か。


 そういう客人を招くなら、そうと事前に伝えてもらいたかった。

 舌打ちしそうになったところを堪え、茶の用意のためにキッキンへ向かう。しかし、そこにはすでに如月の姿があり、彼は急須に湯を注いでいた。

 自分がシフトに組み込まれた理由を本気で見失いかけた瞬間、前方から声がかかった。


あめみやさん。こちらへ」


 普段のふざけた調子とは完全に異なる声で私を呼んだ川島は、関村さんを応接スペースへ案内しながら、私へ手招きしている。

 ……同席しろというのか。固まりかけたが、黙って固まっているわけにもいかず、なんとか応接スペースへ足を向ける。


「こちらはアシスタントの雨宮です」

「……っ、はじめまして。雨宮と申します」


 勝手に人を紹介する川島を、有無を言わさず蹴り上げてやりたくなった。

 その衝動を堪え、内心で派手に慌てつつも頭を下げる。誰がお前のアシスタントだという叫びは、客人の手前、無理やり呑み込んだ。


「ご足労いただいて恐縮です。こちらからお近くまで伺っても良かったのですが」

「いいえ。少し……外に出たほうがいいんでしょうし、いい機会でした」


 川島の言葉に力なく笑い返す関村さんの、伏せがちな目元につい見入ってしまう。

 詳しい話を聞いたわけではないが、例えば県外から来たとか、そういった遠出を匂わせる口ぶりではなかった。この近辺に住んでいるのだろうか。ソファへ腰を下ろした川島に倣って隣に座りながら、私は想像を巡らせる。

 ほとんど外出せずに暮らしていることは、短いやり取りからでも十分窺えた。不健康にさえ見える肌の白さはそれが原因か。


 どうぞ、と如月が差し出した茶に、彼女は「ありがとうございます」と目尻の皺を深めて手をつけた。笑っている様子ではあるが、笑顔にはとても見えない。


「……捜査中という事情もありまして、詳細な資料をお見せすることはできないのですが」

 川島の単調な声が、しんと静まり返った一角の空気を震わせる。

 事前にそうした事情を伝えてあることは察せた。神妙な顔で頷く以上の反応を、関村さんもまた見せなかった。


 こうした聞き込みが行われるに至った理由は、亡き彼女の息子と、今回の事件の被害者であるみゆきとの間に、なんらかの関係があったかを確認するためなのだろう。滔々と続く川島の声が、一瞬別の世界で流れている音のように聞こえ、柄にもなくひやりとした。

 湯呑みから指を放した関村さんは、膝上に戻した手をきつく握り締めて拳を作っている。この女性がかつて息子を不慮の事故で喪った母親であることを、その拳を通じて垣間見た気にさせられる。


「お電話での話が本当なら、息子を……二度、喪ったような気分です」


 川島の声が途絶えてから、たっぷり十秒は経過していた。彼女の反応を待つために川島が作り出した沈黙を、私もまた破る気にはなれず、ただ彼に倣うしかできない。

 関村さんと目が合ったその瞬間に、私は相手の喉元へ焦点を定めた。目を合わせ続けていられる心境では到底なかった。如月が客人用と一緒に運んできた茶へ、取り繕うように手を伸ばし、私はそれを口へ運ぶ。


「宇良さん、でしたか。その方のお名前、私は聞いたことがありません」

「……そうですか」

「息子が高校生になった頃から、あの子の……交友関係というか、そういうのはもうよく分かってませんでしたので。すみませんが」


 親には見えないことばかりで、と独り言のようにつけ加えた関村さんの表情は苦々しい。


「どちらにしても……もし犯人がいるなら、許せません。人の子供の名前を……勝手に……」


 消え入りそうな声の最後、彼女は両手で顔を覆ってしまった。

 隣を見やったが、川島はなにも言わない。神妙そうにも無表情にも見える顔で、私には見向きもせず、彼は対面の関村さんを見つめたきりだ。

 如月もまた自席からときおりこちらを眺めていて、しかし彼はこちらで続くやり取りに口を挟んでくるような真似はしなかった。居心地の悪い沈黙の中を、関村さんの嗚咽とも啜り泣きともつかない声が泳いでは消える。


 ……苦しみの連鎖を垣間見た気にさせられていた。

 旧友を喪った自分もまた、末端に近くはあるだろうが、その連鎖に連なっている。身の竦む思いがした。

 くらりとした眩暈に襲われ、私は額を押さえて目を閉じた。






 関村さんを送ってきます、と言い残し、川島は彼女とともに事務所を出ていった。

 去り際の川島の顔を思い出す。普段は飄々とした表情ばかり浮かべているあの男が、すっかり無表情に見えなくもなかった。


 ……あの程度の話をするために、わざわざ関村さんを呼び出す必要はあったのか。正直、電話で十分済ませられる内容だったのでは。ふとそんなことを思う。

 もしかしたら川島は、関村さんの表情の奥に隠れた素顔や本心を、明確に読み取りたかったのかもしれない。迎えには行かなかったのに帰りだけ送るという少々不可解な行動も、面談を終えた後の彼女の心境を読みたいがためだとしたら、理解できる気がしてしまう。


 川島は、関村さんの心からなにか読んだのだろうか。

 だとしたら一体なにを……ぞわりと背筋が冷え、同時に息が詰まった。


 川島が分からない。「祖母を殺した」と告げたときの彼の顔を思い出そうとしたけれど、靄がかかったかのように思い出せない。のっぺらぼうの川島が、のっぺらぼうの癖に鋭い視線で私を射抜いている――そんな気がして、震える吐息を落としてしまう。

 そのとき、不意に背後から足音が聞こえてきた。その音がやむや否や、普段より少々落ち着いた調子の如月の声が続く。


「ねぇアメミヤさん。あの人、大丈夫かな」

「……あの人……関村さん?」

「うん。顔色、すごく悪かったでしょう?」


 スポンジを手に振り返ると、台拭きを握る如月が神妙な顔をしていた。

 そんな顔もできるのかと感心してしまいそうになる。珍しいものを見るような私の視線に気づいたのか、如月ははっと目を見開き、彼の神妙な態度はそれきりとなった。


「川島さん、そろそろ戻ってくるかなぁ……いや、まだ大丈夫だよね。あのね、ぼく、アメミヤさんに訊いておきたいことがあって」


 男性のそれに近くなっていた声のトーンを、如月は再び上げた。

 洗い物に向き直った私の傍へさらに歩み寄ってきた彼は、次いで私の顔をじっと覗き込み……苦い気分になる。

 こういう露骨な接触は苦手だ。目を細めてやんわりと拒絶を示してみるものの、如月は一向に引かない。それどころか、そのまま続きを切り出し始めた。


「川島さん、最近元気がなくて。もしかしてふたり、なんかありました?」

「いや、ないよ」


 如月から目を逸らし、私は手元を向いた。

 茶碗ひとつ洗うのに、それほど時間がかかるわけもない。ただ、とにかく居心地が悪い。手早くスポンジの泡を切り、私は自席へ戻った。

 狭い室内を足早に歩む私の背後を、懲りない如月は弾むような足取りでついてくる。


「あのね。アメミヤさんを『アマミヤさん』って呼ぶと、ぼく、怒られるんだよ」

「は?」

「謎の独占欲っていうか……けど、アメミヤさんだって満更でもないんだよね?」

「いや満更だよ」

「あっはは。なにその日本語、おかしくない?」


 相手の軽口にうんざりと返事をしつつ、いつの間にか自席に用意されていたマグカップに指を伸ばした。如月が気を利かせて淹れてくれたのか、ブラックのコーヒーだ。ふん、と鼻を鳴らしてからそれに口をつける。

 さっさと話を切り上げてしまいたかった。それなのに、如月の話は途切れない。


「だってさ、仕事だってこうやって付き合ってあげてて、プライベートでも結構一緒に過ごしてるでしょ?」

「……如月くん、あのさ」

「ふふ。ふたり、付き合っちゃえばいいのに」

「……やめろ……」


 浮かれ気味の如月の声が、徐々に耳鳴りに似た音へ変換されて聞こえてくる。

 ……眩暈とは違う。だが、酩酊感は確かにあった。喉が詰まり、そうと認識したら最後、息を吐くことさえ覚束なくなってくる。


「……あ……?」


 デスクに置き直した自分のマグカップがぐにゃりと歪んで見え、急に寒気がした。


「……ふふ。アメミヤさん、耐性あるのかな。さっきのお茶にもわりと多めに入れたんだけど、全然効かないんだもん」


 声の主へ視線を向ける。向けたつもりだった。

 しかし、そこにいるはずの如月の顔がよく見えない。手元のマグカップ同様、ぐにゃりと歪んで輪郭を失ってしまっている。


「如月くん……これ……」

「ねぇ、アメミヤさん。ぼくはあなたに恨みなんてないよ。でも、川島さんのことは憎んでなきゃならないんだよね」


 相手の声がどんどん低くなっていく。まるで男性のような声……いや、そもそも如月は男性だ。おかしなことはひとつもない。

 私の頭がくらくらと揺れているからそういうふうに聞こえるだけなのか、それとも。


「川島さん、人殺しなんですよ。知ってた?」


『祖母を殺したんですよ』


 鈍りに鈍った頭を、とどめとばかり鈍器で殴られたかのような衝撃が走った。

 どろどろに歪みきった脳裏に、なぜか鮮明に川島の声が蘇る。ひときわ強い眩暈に襲われ、私は咄嗟に口を押さえた。

 嘔吐感などないのに吐いてしまいそうで、そこまで不安定な状態に陥っている自分が怖くて仕方なくなる。


「絵馬を使って人を殺せるんだよ。そんな力は、もう誰も持ってないと思ってたのに」

「如月、くん、……待って」

「もう民法の親等表記では表せないくらいには離れてるけど、ぼくと川島さんには血縁があるんだよね。ぼくには力なんて全然なくて、でも姉にはある。ぼくの双子の姉……あなたも一度会ってるはずだよ」


 如月の声にエコーがかかって聞こえ始める。話の内容に頭が追いつかず、姉、双子、そういった単語が単なる羅列として届くのみ。追いかければ追いかけるほどに霞む。使い物になっていない頭をきつく押さえ込み、私はデスクに片肘をついた。

 ほとんど突っ伏した状態だ。その自覚はある。単なる体調不良とは思えない。如月も、体調を気遣うようなことを尋ねてこない。

 ……いや、如月は今、なんと言った?


『さっきのお茶にもわりと多めに入れたんだけど、全然効かないんだもん』


 いけない。

 如月の声が、異様に遠い。


「……、く……ぅ」


 祖母を殺した。死後婚の絵馬。双子の姉。

 ぐるぐるぐる、回る、回る。人殺し、死後婚、死んだ人間同士の婚姻。本来なら聞き慣れない、けれどここ最近だけで頻繁に耳にするようになった、そんな言葉が折り重なって生まれた渦へと瞬く間に呑み込まれていく。


「こんな呪われた力、姉で最後だと思ってたのに、川島さんは姉よりずっと危険なんだ」

「あ……」

「だから事件を起こしたんだよ、ぼくら。川島さんに近づいて、引きずり込んで、最後には死なせてやるためにね」


 笑む如月の顔を視界の端に捉えながら、ついに私はデスクに頭を埋めて瞼を閉じた。

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