《5》嘘と暗転

 再びあの寺院を訪ねたことは、川島には伝えなかった。

 事務所からの呼び出しは不規則で、しかも頼まれる内容が毎度まちまちだ。例の事件に関する意見を求められることもあれば、書類の取りまとめを指示されたり、来客用の菓子と茶を買ってこいと頼まれたり、ひどいときは食事の用意を任されたり……助手の如月には頼みにくい雑用を頼む係といったところか。


 その一方で、川島は報酬を渋らない。

 元々、私は仕事にやりがいや達成感などを求める性質ではない。この仕事内容でこれほどの収入が得られるなら、とつい妥協してしまう。

 これでは川島の思う壺だが、結局、私は特に他の仕事を探すことなく、不規則なアルバイトに応じるだけの生活を送り続けている。


 ただ、単身であの寺院を訪ねて以降、一度は薄気味悪さを理由に手を引いた「死後婚」について、私は本腰を入れて調べ始めていた。


 死んだ男女の名を記した絵馬を奉納すると、その男女は彼岸で幸せな婚姻を結べる――どの情報を眺めても、結論は大抵同じところに辿り着く。風習や迷信の域を出ない、伝承の延長、お伽話、いわゆるそういう類のもの。

 その絵馬を扱っている場所があの寺院だ。絵馬えまさまでらなる呼称で呼ばれることもあったらしい。よほど地縁の強い人間でない限り、今ではその呼び方をする者はいないようだが。


 過去の火災により廃れた、元々縁結びにおいて名を知られていたという、閉ざされた秘境の地に脈々と受け継がれてきた寺院。独自の文化と宗教観が育ち、地に深く根を張ったそれを少数の民で守り続けてきた……いかにもその筋の研究者が好みそうな話だ。

 調べれば調べるほど、自分が現実から引き剥がされていく錯覚を受ける。伝説や伝承、迷信などといった分野はどれも、踏み入れば似た気分を覚えるものなのかもしれない。


 川島に伏せたまま調べている事実が、ことのほか私の気を滅入らせた。実際、私が尋ねたいと思っていることを尋ねれば、川島はきちんと答えてくれるのだろう。だが。

 川島は、私に語った説を――今回の件が絵馬による殺人事件であるという説を、警察にも伝えているのだろうか。だいたい、現実に起こり得るとは思えないその説を、彼が部外者の私に語って聞かせた理由はなんだ。


 ……そこまで考えが至ったそのとき、携帯の着信音が甲高く鳴り始めた。



     *



『如月が急に抜けることになりまして……今からお留守番係、お願いできませんか』


 電話で連絡してきた辺り、かなり困っているものと思われた。

 とはいえ今からか。時計を見て溜息が零れた。間もなく午後三時だ。


「そうだな。一時間後なら着けると思うが」

『本当ですか!? ありがとうございます、助かります!』


 断られる前提で嫌味を込めたところ、盛大に感謝されて眩暈がした。

 腑に落ちないし癪にも障ったが、言ってしまった以上は行くしかない。つくづく、川島の手のひらで転がされている気分だ。そもそも私は詰めが甘い。


 簡単に身支度をして、バスで事務所へ向かう。今日初めて外に出たが、空模様も辺りの空気もじっとりと湿り気を帯びていて、妙に重苦しかった。

 交通費は全額支給されている。帰りは、時間次第では送ってもらうことになるかもしれない。あのカブトムシみたいな青い車で。

 そうまでして川島が私を雇う理由がいまだに解せない。なんなんだ、あいつ。本当に。


 事務所に到着すると、川島が入れ違いで出かけていった。電話番をお願いします、と玄関を飛び出していく彼を見送り、自席に着く。

 電話は特に鳴らず、三十分が過ぎた。……なんなんだ、本当に。脱力してしまう。

 だいたい、この事務所に電話番が必要かどうかも実際には怪しい。川島自身、よく出かける人間なのだから、携帯に転送でもすればいい。わざわざ高時給のアルバイトを呼び出してまで留守番を置く必要がどこにある。


 はぁ、と溜息を落としたそのとき、電話の横に積まれた書類が吐息に揺らされ、カサ、と音を立てた。なんの気なしに目を向けた先、私は思わず息を詰める。

 今、最も見たくないもののイラストが記載された書類から、私は露骨に目を逸らした。四角形の木板、吊し紐……具体的な造形が脳内で克明に再現され、憂鬱に拍車がかかる。

 絵馬のイラストが描かれた横にはあの寺院の名が記されていて、余計に息が浅くなる。先日、例の寺院からの帰り道にぶつかった女性の顔が思い浮かび、ほぼ同時に彼女の持ち物であった複数の絵馬が脳裏を掠めた。


 息が震えてしまうよりも先にと、書類を裏返して視界から締め出そうとした、そのとき。


「戻りましたよ。お留守番、ありがとうございました」


 間延びした男の声が沈黙を割き、書類に伸ばしかけていた指の動きごと、私は固まった。


「あ……おかえり」

「えっ、なんかいいですねそれ。もう一回言ってください」

「……うるさい……」


 額を押さえながら、この応酬を途切れさせてはならない気がして無理に声を絞り出す。

 この事務所に絵馬の資料があることは、別におかしくない。あの寺院の情報があることもまた、不自然とまでは言いきれないだろう。それなのに、唐突に地面が消えてなくなったような絶望的な不安が一向に抜けない。


「……先輩?」


 訝しげに声をかけられ、私は咄嗟に立ち上がって川島と向き合う。川島は、私の態度の内側を覗き込むように……考えていることを読み取ろうとでもしているかのように、視線で私を射抜いていた。

 頭の中身をすべて見透かされている気にさせられる。その感覚をまるごと否定したくて堪らなくなった私は、渇いてからからになった喉から声を絞り出す。


「あの寺にはよく行くのか」


 ぴり、と喉の奥に痛みが走る。

 電話の横の書類を一瞥した私を、川島は小首を傾げて見つめていた。足の真下から床が消えるような不安定な錯覚に、ますます深く囚われる。


「どうしてそんなことを訊くんですか」

「……住職が……お前のことを話してたから」


 低い声で問いながらも、不思議に思っている様子はない。口元を緩めて笑う川島の、しかしその目は少しも笑っていなかった。

 見透かすような視線だ。読まれているのかもしれないし、いないのかもしれない。


 分からない。

 ただ、川島が、怖い。


「へぇ。ひとりで行ったんですか」

「……気になることがあった」

「なにが気になってたの?」


 慇懃な口調を崩した川島の顔を、とても直視していられない。

 広くもない室内に沈黙が落ちる。時計の針が気に懸かってちらりと視線を向けた先で、壁時計がすっかり動きを止めているように見え、ぞくりとした。


 長い――私がそう感じただけかもしれないが――沈黙を割いたのは、川島だった。

 深呼吸とも溜息ともつかない息を吐き出した彼が、やがて薄く唇を開く。その目はやはり笑っていなかった。


あめみや先輩に伝えたほうがいいのかどうか、迷ってたんですけど」

「……なに」


 堪らず、私は視線を上向けた。

 真面目な話をするとき、川島は私を正しい呼び方で呼ぶ。玄関を背に立ち尽くす相手が、急に遥か遠くで暮らしている人のように思えてきて、途端に身動きが取れなくなる。

 笑っているけれど笑っていない、その顔を前にも見た気がした。同時に、この男はいつもこんな顔ばかりしている気もして、川島の本当の顔がどんどん分からなくなっていく。


 川島が怖いというよりは、多分この感覚が怖いのだ。私は。

 私の内心など、相手はとうに見透かしている。そう思えば、彼の本心の一切を知らない自分になおさら強く不安を抱いてしまう――そして、次の瞬間。


「僕、人殺しなんです。祖母を殺したんですよ」


 止まって見えていた壁時計が、カチ、と高らかに秒針を打ち鳴らす。

 自分だけが時間の外側に放り出されてしまったような謎の感覚に全身を包まれ、くらりと眩暈がした。


「なん、……え?」

「だから、僕には注意してくださいね。あまみや先輩も」


 元に戻った呼称を反芻しながら、私は呆然と川島を見つめ返す。

 穏やかな表情にしか見えない。恐ろしい言葉を吐いた口は今なお緩く弧を描き、ただ、口元が緩められているからといってこの男が心から笑っているわけではないことを私は知っている。

 嘘だと笑い飛ばせばそれで済む気も確かにするのに、私の口は一向に開かない。


『この寺院の再建に尽力してくださった方があるのです』


 先日聞いたばかりの住職の声が、言葉が、どうしてか不意に蘇る。

 川島の母親は、なんのために寺院の再建に力を貸したのか。川島の祖母と縁のある寺院に、おそらくは相当な寄付をしたのだろう。大昔に焼け落ちた廃寺を一から建て直したとして、多少の寄付程度であれほど感謝されるとも思えない。

 それに、川島は、どうしてわけの分からない嘘を選んでつくのか。


『祖母を殺したんですよ』


 ……嘘に決まっている。

 けれど、その嘘の中にこそ川島の本心が見え隠れしている気がしてならなくて、それが一番癪に障る。


「……嘘」

「嘘じゃないよ」

「っ、嘘だ!!」


 叫ぶような声になった。

 珍しく、川島は驚いた様子で目を見開いている。


「……ごめんね。やっぱり先輩には言うべきじゃなかったかも」


 敬語の抜け落ちた川島の声は、独り言でも零しているみたいなぽつりとしたものだった。

 耳の奥に焼きついたそれが幾度も繰り返され、幾重にも折り重なり、私の胸に重く堆積されて……雑音に取って代わってしまいそうなそれを、私は無理やり引き留める。


「嘘つきのお前なんか嫌いだ」

「うん。ごめんね、けど嘘じゃな……」

「中途半端にしないで」


 私は私で、この状態で武装を続けていられるはずもない。ひとたび普段の口調が崩れてしまえば、後はなし崩し的。

 川島は本音を言わない。だから私は分からないことだらけ。他人の本音を読める、なんでも知っている相手に追いつけなくて、いつだって私だけが置いてきぼりだ。


「いつか教えてほしい。今じゃなくていい」

「……先輩」


 途方に暮れたような声が零れる。

 相手の返事もまた、途方に暮れたような調子だった。


「……僕は、あなたのそういうところが」


 いつしか傍まで歩み寄っていた川島に、腕を掴まれる。

 痛みを覚えるほどきつく握り締められ、そうと理解が及んだ途端に視界が黒一色に塗り潰され……抱き締められているのだと、さらに一拍置いてから気づいた。


 痛い。優しい。冷たい。温かい。苦しい。安心する。綯い交ぜになった感情が渦を巻いては噴き上げ、その勢いに酔いそうになる。自分からも相手の背に腕を回しかけたそのとき、唐突にぬくもりが消え失せた。

 突き放すような仕種だった。離れていく川島の腕を呆然と見つめていると、背を向けたきりの彼が低く呟く。


「また明日」


 ……帰れ、という意味だろう。

 現に川島は私へ向き直らない。


「……ばいばい」


 絞り出した声を残し、鞄を手に取った。

 それ以降は無言のまま、男の横を通り抜けて玄関のドアを開ける。川島はもうなにも言わなかったし、私も振り返らなかった。






 外はすでに薄暗かった。

 事務所の壁時計をあれほど凝視していたのに、短針も長針も、どの位置を指していたのか一切記憶に残っていない。階段を下りながら端末で時刻を確認すると、午後六時だった。随分と日が短くなったな、とぼんやり思う。


 まだバスが出ている時間だ。今から川島の傍には戻れない以上、私はひとりで帰らなければならない。

 重い足を無理に動かし、バス停までの通りを進んでいく。


『僕、人殺しなんです』

『祖母を殺したんですよ』


 川島の声が頭から離れない。嘘ではない、と薄く笑う顔も。

 どうやって。なんのために。疑問符が頭を埋め尽くし、堪らず私は吐息を落とした。

 川島は嘘をつかない。その上で本人が嘘であることを否定していて、だが今度ばかりは嘘をついているとしか思えない。それなのに。


 分からない。

 川島が、なにを考えているのか。

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