《4》再訪

 再び例の寺院を訪ねようと考えた理由について、問われたとしてうまく答えられる気はしない。川島の態度に、なんとなく違和感を覚えたからとしか言いようがなかった。


 川島はなぜ私をあの寺院に誘ったのか。そもそも、なぜ私にみゆきの死の真相を知らせたのか。はっきりしていないことが山積みだろう段階のうちから、わざわざ。

 死後婚。絵馬。縁結びの寺院。自殺幇助、もしくは殺人の可能性。死んでしまった――否、殺されてしまったかもしれない友人。

 それぞれの点を線で結ぶことが正しいのかどうかもあやふやで、けれどなにがしかの答えがこの寺院にある。そんな気がしていた。


 一方で、川島の態度そのものも解せない。

 彼の肉親……祖母と深い縁があるという例の寺院に、掴みどころのないあの男が腹の底で考えていることが一体なんなのか、その答えがありそうな気もしていた。


 川島の車に揺られて訪れた前回とは異なり、今回は電車とバスを乗り継いだ上、歩くことにもなった。バス停からの距離は歩いて数分であるにもかかわらず、細い坂が続く知らない街の道は妙に長く、なかなか堪えた。


 九月中旬。平日ゆえか、参拝者の姿はまばらだった。

 川島とともに訪れた日から二週間あまりが経過していたが、週末だった前回に比べて人足はさらに少ない。特に、夏休みが終わったからか、前回よく見かけた親子連れの姿はほとんどなかった。

 さまざまな雑誌に掲載されていると聞いたわりに、そうした混雑を目の当たりにしたことがない私は、いまだにここが人気の観光スポットだとは信じきれずにいる。


 広い敷地を練り歩き、一度道を間違えた後、絵馬の奉納場所に辿り着く。

 案内板は要所に設置されているが、細い上に曲がりくねっている遊歩道のせいか、過去に一度きり訪れただけの私がひと足に目的地を目指すには少々難度が高かった。


「……絵馬、か」


 無数と言っていいほど吊るされた絵馬のうちいくつかに視線を向け、思わず呟く。

 高校受験に合格しますように、恋人ができますように、だれそれといつまでも一緒に過ごせますように、結婚できますように、長生きできますように、家族が健康に暮らせますように……記された願いは、縁結びに関係するものに限らず多彩だ。それでいて、人が思い描く願いとしておおよそ想像の及ぶものばかり。

 異なる筆跡の板がひしめき合うさまを凝視していたためか不意に目元が霞み、絵馬の並びから視線を外した、そのときだった。


「もし。先日もいらしていた方では?」


 自分に向けられた声だと察するまでに間が空いてしまう程度にはぼうっとしていた私は、え、と慌てて後方を振り返る。

 そこには、袈裟をまとった僧侶がひとり、手水舎を背に佇んでいた。


「あ……ええ、と」

「ああ、突然失礼しました。先日、探偵さんと一緒にいらしてた方かなと思いまして」


 恰幅の良い僧侶だ。齢は四十代半ばといったところか。同年代と思しき田住の顔が脳裏を過ぎったが、似た体型をしているのに、彼とこの僧侶では雰囲気がまるで違う。

 穏やかに話しながら、彼は人の好さそうな笑みを浮かべて後頭部を掻いている。その髪は剃られていなかった。


 戒名らしき名を名乗られた後、ここの住職を務めております、と告げられ、私も慌てて頭を下げる。

 住職という言葉に気を取られ、ただでさえ聞き慣れない戒名はあっさりと頭から抜け落ちた。元来、私は人の名を覚えることが苦手だ……いや、それよりも。


 今、彼は川島のことを「探偵さん」と呼んだ。もしかしたら、この人は私を川島の助手かなにかだと思っているのかもしれない。

 いい機会だ。闇雲に大量の絵馬を眺めているだけでは、事件に対して、あるいは川島に対して私が抱いている靄めいた感覚は拭いきれないだろう。なにより、住職は川島と顔見知りのようだし、川島の仕事についてもおおよそ理解があるらしい。


「あの。ええと、個人的にお尋ねしたいことが……ありまして」

「え? ああ、構いませんが……私に、ということでいいのかな?」

「は、はい」


 幾分か面食らった様子の住職から、私は深々と頭を下げて視線を逸らした。

 不躾な申し出をしている自覚はあったが、住職は思った以上に軽やかに承諾してくれ、ほっとする。


 立ち話もなんですから、と案内されたのは、本堂の脇の応接間だった。

 本堂の横を通り過ぎながら、視界の端に映り込んだ空間の広さと畳の匂いに圧倒されてしまう。廃寺の歴史を辿り、その後再建された建物だというが、本堂が醸し出す貫禄を見る限りは由緒ある寺院にしか見えない。


 建物の中には住職の他に人影がなく、差し出された茶も彼が手ずから淹れてくれたもののようだ。礼を告げ、相手が対面に腰かけたことを確認してから茶碗に手を伸ばす。

 苦味の薄い、すっきりとした味わいの緑茶だ。堂内は外の暑さとは無縁らしく、温かな茶がむしろありがたい。ひと口啜った後、それを茶托へ戻してから、私はおもむろに口を開いた。


「あの……ご住職は、川島とお知り合いなんですか?」

「え?」

「ええと、先日、一緒にお邪魔した……」


 しどろもどろに口を動かす私へ、住職はやがて「ああ」と得心した様子で笑った。


「そっちの川島さんの話ですか。いや、彼のご家族……お祖母さんがね、この寺院に縁があったと聞いていますよ」


 そっちの川島さん、という言い方が気に懸かったが、続く話に集中することにする。

 お祖母さん。そう、祖母に縁のある土地だと、先日この寺院を訪れたときに川島も私に語って聞かせた。身内について語る川島を珍しいと思った記憶も、ほぼ同時に蘇る。


「それで、何度かいらっしゃってるのでね。そのたび少し話すようになりましてねぇ」

「……そうですか」


 自分の生業について伝える程度には、この住職を相手に気を許しているらしい。

 川島らしい気もしたし、らしくない気もした。顔が広いあの男のことだから、別にあり得ない話ではないと思う。だが。


「そっちの川島さん……とは?」


 気に懸かってならず、私は再び茶を口に含んでから尋ねる。

 すると、いやあ、と住職は照れたように笑い、「早とちりしてしまっただけなんですがね」と前置きして続けた。


「この寺院の再建に尽力してくださった方があるのです。私は派遣されてきてまだ五年ほどで、詳細は分からないことのほうが多いんですがねぇ」

「再建……」

「ここは二十年近く前に再建された寺院なんですよ。大昔に火事があってね、それ以来長らく廃寺になってたんですが」


 一旦そこで言葉を区切った住職の顔を、思わずじっと見つめてしまう。


「大きな会社を興してる方で、川島さんとおっしゃる。探偵さんのお母様ですよ。彼とはそういったご縁もあるものでしてね」


 ――川島。


 心臓が軋むように痛んだ。

 川島の母親。大きな会社を……そうだ。川島の実家は事業をしていて、彼は御曹司。


「実はお祖母様自身も再建に力を貸してくださったらしくてね。特に内観については細かな記録が碌に残ってなかったんですが、本堂周りから台所から食料の貯蔵庫から、物置の中なんかまでね、随分と細かく証言してくださったみたいなんです。ここが廃寺になって以降のお生まれらしいんですが、わずかに残っていた記録との間にも齟齬が見られない。むしろ謎だった部分が穴埋めのように埋まっていったらしくてね、いやぁ不思議なこともあるもんです。それで彼女の証言を踏まえて……」


 やや興奮気味に続く住職の声が次第に遠のいていき、しまいにはほとんど聞こえなくなる。


『ふたりでその絵馬の寺院に出かけましょう』

『母方の祖母に縁深い土地なんですよ』


 代わりに、前回ここを訪れる前後に聞いた川島の声が、脳裏を過ぎっては消えていく。

 語る彼の声音から、あのとき親しみに似たものを感じた気がする。よく知っている場所だと言わんばかりの喋り方……今思えば。


「あの……」

「はい?」

「……絵馬……を、使った……」

「え?」


 川島の母親がこの寺院の再建に力を貸した理由は、なんだ。

 およそ二十年前、川島は当時五歳かそこらの子供だ。川島の祖母に縁のある土地に残る寺院と、死後婚の伝承……縦横無尽に頭を駆け巡る思考に翻弄され、そんな中で無理に発した言葉はまともな意味を成せない。


「いえ、なんでもありません……すみません」


 早々に話を切り上げると、住職が困惑したような声でおろおろと尋ねてくる。


「大丈夫ですか、雨宮さん? 顔色が……」

「っ、大丈夫です。ありがとうございます、突然お邪魔したのに親切にしてくださって」


 心配そうに眉を寄せる住職の顔は、すでに直視していられなかった。

 振る舞われた茶の礼を告げ、私は足早にその場を辞した。






 バスの停留所までの道は、来たとき以上に長く感じられた。坂道……今度は下りであるにもかかわらずだ。歩いても歩いてもボロボロの停留所は見えてこず、別の世界に迷い込んでしまったのではと不安を抱くほどだった。


 暑い。それでいて肌は冷えている。這うような気持ち悪さを持て余しながら、とにかく歩き続ける。

 廃されていた寺院。縁結びの絵馬。死後婚。その地に縁があったという川島の祖母。そして、川島が幼い頃、寺院の再建に尽力した川島の母親。点と点でしかないそれらの事柄が、すべて線で結ばれてしまう気がしてならない。


 堪らず額を押さえた、そのときだった。

 肩に衝撃を受けた直後、あ、と女性の声が聞こえた。続いてガラガラガラ、となにかが地面を打つ音が辺りに響き、はっと現実に引き戻された私は慌てて音の方向へ向き直る。


「あっ……す、すみません」

「ああ、いいえ。あたしもぼうっとしてて」


 視線の先では齢若い女性がひとり腰を屈め、落ちたものを拾い集めていた。

 手にしていた紙袋ごと取り落とし、中身が飛び散ってしまったらしい。私もそれらを拾うべく手を伸ばし、そのときになって初めて、彼女が落とした荷物の正体に思い至った。


 絵馬……それも一枚や二枚ではない。

 ぞくりとした。あの寺院で扱っている絵馬だろうか。形は似ている。吊し紐の色も。


 とはいえ、寺院から歩いてきたわけではなさそうだ。なにせ彼女は、寺院からバス停に向かって歩く私に真正面からぶつかったのだ。

 固まりかけた指を強制的に動かし、息が震えてしまわないよう、なにより平静を保ちにくくなる思考を巡らせないようにと、私はそればかりに神経を割いて応じた。


「ご丁寧にありがとうございます。人を待たせてるので、これで失礼しますね」


 手渡した数枚の絵馬を紙袋へ戻しながら、女性は艶やかに笑んで会釈をした。微笑むその口元に、薄く……本当に薄く既視感を覚えたものの、その正体に辿り着くよりも先、彼女は早々に歩みを再開してしまった。

 背まで伸びた髪を左右に揺らし、彼女は紙袋を持ち上げ、ゆっくりとした足取りで私との距離を広げていく。その姿が見えなくなる直前、やっとのことで我に返った。


 あんなに長いと思っていたバス停までの道程は、そこからは嘘のように早かった。一時間、下手をすると二時間に一本しか走っていないバスも、たまたまだろうが停留所に辿り着いたとほぼ同時にやってきた。

 最後列の席に腰を下ろし、窓の外へ視線を向ける。

 先ほど遭遇した絵馬の女性を思い出し、笑んだその顔に見覚えを感じたことも思い出す。そして、鬱蒼とした木々を窓越しに眺めながら、唐突に気づいた。


 ああ、如月だ。

 笑んだ口元が、如月のそれに似ていたのだ。

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