《3》噛み痕
『青と黒、どっちがいいかしら。六年も使う物なんだし、伊織が好きな色を選んでね』
はい、と返事をして、幼稚園の年長児だった私は黒のランドセルに手を伸ばした。
赤がいいとは最後まで伝えず、店頭に並ぶ色とりどりのランドセルの中から、母が一番喜ぶだろう黒を選んだ。彼女は、青ではなく黒を選ぶ私をより好むと知っていたから。
母は男児をほしがっていたという。
病的なまでにその願望を募らせた母は、私が女の性を持って誕生した瞬間から、男として育てることに決めたそうだ。
女であることを捨てろとことあるごとに告げられ、幼少の頃には自分を「僕」と呼び、男の子が好む玩具や漫画を与えられ……それが異常なことだと気づいてからも、私は母に逆らわなかった。
小学生になった私は、友人たちの可愛らしいバッグや服、靴などに憧れるようになった。綺麗なものや可愛いものが好きだ。しかし、ことさら可愛いものに関しては、それを好んでいると母に知られるわけにはいかなかった。
怒られてしまうからだ。それどころか、手や背、頬を打たれることもあった。
私が生きる世界に、母を止める人間は誰もいなかった。あの頃、父は単身赴任のために年中家を空けていて、私にとって母は絶対的な存在だった。学校の教師たちにも、母はそれこそが私の個性だと説明していたようだ。
母自身、男でないことを詰られながら育ったと聞いている。
無論、後になってから知った事実だ。自分の両親や周囲に対する母のコンプレックスは、彼女の中になみなみと注がれ、溜まり、溢れ……やがて自身よりも弱い存在である私に矛先が向いたというわけだ。
母の願望が際限なく肥え太り、娘の私を喰いちぎらんばかりに牙を剥いている。長く家を空けていた父がそのことに気づいたのは、ちょうど私の二次性徴が始まった頃だ。
自分の身体と心にうまく順応できず困惑を重ねる私に、母は強く当たった。中学校の女子の制服であるセーラー服を購入することさえ許しがたかったようだ。
初潮を迎えた私へ向いた、嫌悪に満ちた彼女の視線を、私は今なお忘れられずにいる。母に嫌われれば死ぬ、その恐怖は常に私の深い場所に巣食っていて、それを否定してくれる人がいないまま、ただ母の機嫌を損ねないように暮らし続けていた。
おかしいと思っても訴えるわけにはいかない。歪んだ感覚の中、自分らしさを極限まで殺すしか術がない、そんな生活の連続だった。
男であることを強制される家での生活と、女であることを当然とする学校生活。自分ではない自分をふたり分演じ続ける中、私は限界に辿り着いてしまった。
年の瀬、冬期休暇が始まって間もない、雪の降りしきる暗い朝だったと思う。
声もなく泣き出した私に、「男が軽々しく涙を見せるんじゃない!」とヒステリックに叫んだ母の顔は、今でも鮮明に思い出せてしまう。その直後に、私の頬目がけて高く振りかざされた手も。
逆に、したたかに打たれた頬の痛みは不思議とさほど覚えていない。
父が奮起したのは、その件があったからだ。
母の言動に常々疑問を抱いてきたが、口までは挟めずにいた父は、年末年始休暇のために偶然その場に居合わせた。それから間を置かず、父は私を連れて彼の地元へ戻った。
婿入りした父との離婚を、母は相当渋ったらしい。だが父は譲らなかった。家を出た父と私は、片や再就職に向けた活動を始め、片や名字を変えて季節外れの転校生となった。
女を捨てることを強制されなくなった私は、今度はその解放感にこそ困惑した。硬い表情で言葉少なに日々を送る私へ、最初に声をかけてくれた女子生徒がみゆきだった。
父の仕事は間もなく決まり、私も、少しずつ自分の好みを口にできるようになった。色ならピンク、花なら向日葵、デザートなら苺のショートケーキ……性自認も好みも否定されることのない環境は、私にとって初めて感じる開かれた世界だった。
中学、高校、大学と進学を重ねるにつれ、ときには必要以上に女らしく振る舞ってみることもあった。それでも、幼少の頃から心身に叩き込まれた元々の仕種が、無意識のうちに表に出てしまうことも多々あった。
中性的。周囲の人間の多くが私をそう判定し、私はそれを特に肯定も否定もせず受け止め……そして。
『伊織ちゃん』
思い出してはならない男の声が脳裏に蘇り、ぞわりと背筋が粟立った。
……その男は、端的に言うなら私の元ストーカーだ。尾行、待ち伏せ、盗撮、盗聴――その他にも、アパートの自室に強引に押し入られることだってあった。無理やり身体を触られたことも。
警察に相談したその日、男は自殺を図ってこの世を去った。
残ったのは、追い詰められて物を碌に食べられなくなった不眠気味の私と、私を人殺しと罵るあの男の母親だけ。殻に閉じこもるように自室で息をひそめていた私が自分を責め始めるまで、さして時間はかからなかった。
ひとりは危険だと分かっていても、誰にも会いたくない。ストーカー相談の対応をしてくれた警察官さえ恐ろしく感じられ、なにを信じればいいのか分からない状態にあった。
痩せ細った私を部屋から引きずり出したのは川島だ。私を「あまみや」と誤った呼び方で呼び、私もそれを否定しなかった、その後も特に縁があるとは思っていなかった、社交辞令にだけは長けたひねくれ者の後輩。
川島は、ストーカーの母親を糾弾した。
ひとりの女性の心を踏み荒らし、潰し、歩み寄ってくる警察の気配に怯えて死を選んだ、お前の息子こそが身勝手な加害者だと。
そう突きつけた川島に、男の母親は射殺さんばかりの視線を向け、標的を私から川島に変更した。
殺す、死ね、そうした暴力的な言葉や脅しをさまざまな手段で放ち……その言動から、男自身もまた、この母親が君臨する家庭内で抑圧されながら日々を繋いでいたのだろうと容易に想像がつくほどだった。
結局、怖くなった私は川島こそを止めた。
責任を取って自ら死を選ぶべきなのではと思うまでに心身を病んでいた私は、当初は川島の言動を理解できなかった。そんな私を、川島は見たこともない形相で睨みつけて……ああ、この子はこんな顔もするのか、と場違いな感動を覚えたことを記憶している。
『
そう問われて「うん」と返した日が、遠い昔のことのように思えていた。
案外、私は誰にでもそうだった。わざわざ訂正なんてしない。面倒な奴だと思われたくない、だから自分に関する本当のことも大切なことも簡単に曲げてしまう。長年、母の機嫌を窺いながら生き続けてきた弊害だ。
男の母親は、川島への誹謗中傷と脅迫の罪に問われ、最終的に処分を受けるに至った。
『先輩のそういうところ、僕、嫌いです』
判決が出た日、面と向かって川島にそう言われ、きっと私は泣いたのだと思う。
嫌いです。嫌いです。嫌いです。ハンマーで殴られたような衝撃が全身を貫いた。
川島の低い声は、やがて脳内で母のそれに置き換わる。生殺与奪の権利をちらつかせながら私を追い詰め続けた母――彼女と川島が重なって見え、私は川島に噛みついた。文字通り、歯を立てたのだ。
冷めた目で嫌いと言い放ち、その癖、救いと思しき手を差し伸べてくる。矛盾に満ちた言動を重ねる川島の右手に、気づいたら派手な歯型と鬱血痕が浮いていて、私はまた静かに泣いた。
『
いつ知ったのか、あめみや、と正しい音で私を呼ぶ川島を、私はどんな顔で眺めたらいいか分からなくて、自分の歯型と若干の血が覗く川島の手を撫でて……そのとき、川島は多分笑っていた。
病んだ私を、川島は拒まなかった。然るべき治療を促しながら、ただ私の傍にいた。
周囲は、川島と私が交際を始めたと受け取ったらしい。川島は川島で、折を見て私の髪や肌に触れ、唇を重ねてくることもあった。
なにも拒まず無為に日々を過ごし続ける私に、川島はなにを見ていただろう。あの頃、すでに彼は私の内心を読めていたと知った今なら、なおさら答えに興味が湧く。
そしてひと月、私は川島の親切心――単なる親切心とは異なると今も思うが、それ以外に適切な表現が見つからない――を利用し、甘え、最終的に彼の傍を離れた。
『だから、僕はあなたの手を放してしまえるんですよ』
――あなたの本心を、あなたが知る以上に知っているからね。
あの言葉は、去りゆく私に川島がかけた呪いだと、ずっとそう思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます