《2》引きずる
縁結びの寺に誘われた際の勢いに呑まれてほとんど忘れかけていた「死後婚」なる言葉が、胸の奥で少しずつ膨れ始めている。
『若くして亡くなった男女を、黄泉で結ばせるための儀式ですよ』
先輩ももちろん知っていますよね、と言わんばかりの口ぶりだった。
困惑一色の私を見つめる彼の視線を思い出す。今思えば、直前の言葉とは裏腹に、私の困惑を当然のものとして受け止めているような視線だった。
実際、死後婚なる儀式についてあれから何度か調べた。だが、パソコンやスマートフォンを使った検索ではうまくいかなかった。
そこからさらに踏み込んででも知りたいという気持ちは、あっさりと削げた。川島の説明を振り返る限りでは、死後婚とは死んだ人間同士の結婚式だ。薄気味悪さを覚えてしまったからかもしれない。
川島の事務所を訪ねてから一週間が経ったが、仕事に関する連絡は川島からも如月からもない。手持ち無沙汰ながらも部屋の掃除をしたり、気紛れに買った本を読んだり、ネット配信中の映画を観たり……そうこうしているうちに日は過ぎていく。
あの男、本当に私を採用する気があるのだろうか。やはり、真面目に他の仕事を探したほうがいいのでは――気持ちを入れ替えて端末で転職サイトを眺め始めた矢先、ようやく川島本人から連絡が入った。
残念ながら、仕事の連絡ではなく、無理やり取りつけられた外出の約束の件だったが。
翌日、土曜。
なにがデートだと頭を抱えつつも断れなかった。アパートまで迎えにこられたからだ。
寒いくらいにエアコンの効いた車の助手席へ押し込まれ、鼻歌交じりに運転する川島の隣でほぼ無言を貫き、おおよそ一時間弱。高速道路を抜けた後、さらに山道を二十分ほどかけて到着した先は、ある寺院だった。
県境を跨いだ先の寺院の名称など、多少有名な程度ではまったく分からない。縁結びの寺としてそこそこ知られているらしいが、名を聞いてもピンとはこなかった。そもそも私はこういった観光地や名所に疎い。他県の、ともなればなおさらだ。
「ここ、僕の母方の祖母に縁深い土地なんですよ。古い伝承が今も色濃く残ってましてね」
「……へぇ」
車を降りつつ続く川島の説明に、控えめに返事をする。
ことさら、母方の祖母という言葉が新鮮だった。彼の家族や親族について、川島が自ら口を開くことは昔から稀だ。
駐車場は思った以上に広かった。舗装もしっかりしている。観光地としても知られているらしく、駐車場も、境内への道のりも、人の数はそれなりに多い。
境内までの道は、駐車場とは打って変わって砂利道だった。足元でしゃりしゃりと鳴る細かな砂利の音が、妙に耳に残る。
日傘を片手に足を進めていく。八月ももう末だが、自宅を出たときの気温は三十度を超えていた。だが、ここはある程度標高のある場所だからか、あるいは木々が茂っているからか、想像していたよりも涼しい。
人の手が入っていないわけでは決してない。現に、砂利道とはいえ手すりやポールライトなどもきちんと整備されている。
ただ、緑が深いから……そして坂道だからだろうか。木々に囲まれた細道を抜ける間、まるで異世界に通じる道を歩いてでもいるかのような錯覚が抜けなかった。周囲を歩く人がたまたま少なかったこともあってか、非日常の空間に囚われた気にさせられる。
寺院自体は、秘境で紡がれた密教の流れを汲んでいるという。そうした事情も、この錯覚を増殖させている要因なのかもしれない。
明治の世に密教の流れが途絶えて以降廃寺となり、しばらくそのままの状態になっていたそうだが、二十年近く前に再建されたらしい。現在は、本山から派遣されてきた僧侶が住職を務めているそうだ。
日傘を片手にしばらく歩いていると、石段が見えてきた。その頃には周囲に人の姿が目立ち始め、私は密かにほっとする。
隣を歩く川島に目を向けてみたが、珍しく、彼は私の視線に視線も言葉も返さなかった。歩調こそ私に合わせてくれているものの、自分から強引に誘ってきたわりに楽しそうな様子はまったく見られない。
「……川島」
「もうすぐです。ほら、あそこ。見えますか」
なんの気なしに呼んでみたものの、あっさりと遮られてしまった。聞こえなかったのかもしれないと思いながらも、私は川島の指差す先に視線を定める。
右手には
手水舎には見向きもせず、川島は絵馬の奉納場所へまっすぐ足を進めていく。逸れては堪らない。私もまた、小走りに後に続く。
実際に眼前にすると、数えきれないほどの絵馬が並んでいると分かる。カップルと思しき男女の名が記された絵馬がふと目に留まり、それが事件の絵馬と重なって見え、得体の知れない不安と罪悪感を同時に覚えてしまう。
そんな私の内心を知ってか知らずか、川島は先刻までの冷めた顔が嘘だったかのように笑みを浮かべ、私に向き直った。
「縁結びの絵馬ですよ。僕たちも奉納しちゃいます?」
「寝言は寝て言えよ……」
「そこまで嫌そうな顔をしなくても良くないですか。傷つくんですけど」
辟易を滲ませて返すと、やれやれと言いたげに肩を竦めた川島と目が合った。
妙にじっと見つめてくるものだから、私は眉を寄せて無視を決め込み……だが。
「……まだ引きずってるの?」
視線を逸らそうとした瞬間に声をかけられ、そのまま固まってしまう。
慇懃な口調を崩した川島の声を久しぶりに聞いた。その既視感に埋め尽くされたせいで、返す言葉がなかなか思い浮かばない。
しばしの沈黙を経て、私は口元を緩ませた。
笑ってしまったのだ。問う川島の声が、思ったより緊張気味だったからかもしれない。
「お前には関係ないよ」
「
「お前には関係ない」
さすがに笑みを引っ込め、日傘で隠していた視線を真っ向から相手に向けた。参道の中央で話し込み始めた私たちを、手水舎へ向かう参拝客が怪訝そうに眺めていく。
語気を強めてしまったことを、心の中でひっそり悔いる。
だが、川島にその話を続けてほしくなかった。そちらのほうが、赤の他人に好奇の視線を向けられることよりも、私にとってはよほど重要だった。
「……すみません」
俯きがちに呟いた川島がそれ以上なにも言わなかったから、心底ほっとする。
川島はわきまえてくれる。察してくれる。だからこそ、私の過去を知る人間でありながら、こうして顔を突き合わせていられるのだ。
川島は、私からの信頼を維持し続けられている数少ないひとりだ。かつて私が負った傷の詳細を彼は知っている。私がそれを消化しきれていないことも、そのせいでいまだに自分を責めてしまう傾向にあることも、多分。
無数の絵馬を横目に、私は足を踏み出した。
今、川島は正しい音で私を呼んだ。真面目に呼ばれるとどうにも調子が狂ってしまう。
この男は優しい。昔も優しかった。甘えきりになったら二度とひとりで生きていけなくなりそうで、それが怖かったから、臆病な私は自分から別れを切り出した。
私が別れを切り出したとき、川島は拒まなかった。相手に依存すべきではない、縛るべきでもない……懸命に理由を見出しては言い訳を重ね、それで満足したがる私の内面を、あの日のこの男はすべて見抜いているかのような目をしていた。
他人の心の声が、ときおり頭に流れ込んでくる――川島のその性質と事情を私が知ったのは、別れを伝えた日。最後だからと口づけをせがまれたときだった。
川島の唇はひんやりと冷たかった。その冷たさに震えて泣き出してしまった私を宥めながら、彼はそれを教えてくれたのだ。
『だから、僕はあなたの手を放してしまえるんですよ』
――あなたの本心を、あなたが知る以上に知っているからね。
目を細めて囁いた当時の川島の声を、もう正確には思い出せない。
人は誰かの記憶を声から順に忘れていくという話を聞いたことがあるが、あながち間違いではないのだろう。
川島は私の本心を知っていた。月日の流れとともに私の気持ちが薄れゆくかもしれないと、彼が想像しなかったとは思えない。私の気持ちが離れるならそれまでという、相手の分かりやすい諦念が癪に障った。そんな自分がこの上なく身勝手だと理解できていても、腹が立って仕方なかった。
結局、あのときの苛立ちを碌に消化できずじまいで、私は四年前と同じようにこうして川島の隣に立ってしまっている。
道すがら喫茶店で軽食を取り、帰路に就く。
仕事のためにあの寺を訪ねたものと考えていたが、川島はのんびり敷地内を巡っただけだった。幾度かスマートフォンで写真を撮り、けれどそれもごくわずかな時間のみだ。
私を伴った理由も分からない。デートなどという馬鹿げた理由がすべてだとは思いがたいが、川島のことだからあり得ないとまでは言いきれない。判断がつかないまま、やがて車はアパートの前に到着してしまった。
『まだ引きずってるの?』
川島の声が蘇る。四年前の、記憶に残るそれよりも遥かに鮮明で、穏やかな声。
まだ帰りたくない。今住んでいる部屋に、過去の記憶を持ち込みたくなかった。
堪らず額を押さえた瞬間、隣から強く腕を引かれた。頭を鈍らせる鬱屈とした記憶が、その衝撃によって削げ落ちる。息を詰めた私の背に回る男の腕が生む拘束は、きついようで緩く、それでいて緩いようできつい。
「……放せよ」
「聞こえちゃった。まだ帰りたくないって思ったでしょう?」
抱き竦められながら囁かれ、息が詰まった。
視線も合っていないのになにもかも見透されている気にさせられ、私はきつく目を瞑る。
……こいつのこの力が嫌いだ。伝わることもあれば伝わらないこともあるというが、今の私は丸裸に等しい状態に違いなかった。
実際に肌を晒すより恥ずかしい。なにも考えないようにと考えたところで、思考が途切れることなどない。隠せば隠れる肌とは違う。
「こういうのはもうやめてくれ。私は誰とも親しくできない」
男の胸元を押しのけ、吐き捨てる。
今度こそ見つめられている気がしてならなかったが、直視はとてもできなかった。
「どうして?」
「……嫌なんだ」
「僕が? それともあいつの家族に見張られてる気がするから?」
目を伏せたきり、私は震える息を吐き出した。察してくれているものと思っていたが、先刻は単に、人通りの多い中でこの話題を避けたというだけのことらしい。
恨めしくなる。勝手に信頼しておいて、勝手に裏切られた気分になって、そんな身勝手な自分にこそ辟易してしまう。
『見張られてる気がするから?』
ああ、これ以上は、思い出したくない。
「やめろ」
「僕は許してないよ。あいつのことも、あいつの家族のことも」
「川島。やめよう、この話」
「嫌だ」
私の声が震えていることに、川島が気づいていないとは思えなかった。
連絡を絶ったことを責めたいなら責めてくれて構わない。罵りたいなら罵ればいい。それなのに、私が過去に負った傷の程度を知っていながら、川島はそれをいまさら狙って抉ろうとする。
これは、相当に恨まれているのかもしれない。
「もう会いたくない。連絡しないで」
「先輩」
「嫌なの。お願い」
再会して以来貫いてきた男性的な口調がとうとう崩れた。私にとって武装でもあったそれは無様に剥がれ落ち、あっけないものだなと思う。口調ごと身ぐるみ剥がされてしまったようで、とにかく気が滅入る。
私の辟易など、心を読むまでもなく伝わったのだろう。だが、川島は私の望む言動を返してはくれなかった。
一度は突き放した腕が再び背に回る。吐息が耳にかかる。目を閉じれば視界を遮れるのに、耳を塞いでもすべての音を防げるわけではなく、そのことを理不尽に感じてしまう。
「また連絡するよ。仕事以外でも」
「川島」
「僕はあなたのことが好きだからね」
好き、という言葉が忙しなく頭を駆け巡る。
「……嫌だ」
「うん。ここまで強引にあなたに詰め寄って、僕もあいつと同類なのかもしれないね。けど先輩はそうは思ってない……違いますか」
「……やめて……読まないで」
私が本気で嫌がっていないことを、川島は知っている。
私こそが私の本心を理解できていない。私が自覚していない本心まで、川島はすべて見抜いてしまう。
「私は、あの頃とは、もう」
堪らず零れた。言葉も、涙も。
あの頃の私は、すでにこの世のどこにもいない。他人の心を読めてしまう川島は、そんなことまで知っているのだろうか。
目元を押さえていた指に、川島のそれが不意に重なる。咄嗟に引っ込めたものの、しぶとく追いかけてきた川島の手に捕らえられ、今度こそ私は諦めて相手に捕まった。
「それでも、僕はあなたが好きだよ」
『だから、僕はあなたの手を放してしまえるんですよ』
重なる。
いつかの川島の声と、今の声が。
これ以上は耐えられなかった。無言で鞄を抱きかかえ、ドアノブに触れる。
川島は止めない。止められたとしても、同じことをしたとは思う……だが。
ほっとした気持ちと止めてもらえない寂しさ、両方に翻弄された私は、そのまま逃げるように車を降りて駆け出した。
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