第6話 西の断崖
「西の断崖よ」
運転していたハトが言った。
葵は立ち上がる。頬に濡れた感触があったので、それを拭うと赤い血がこびりついていた。先ほどの桜沢の刀で切ったのだろう。ツバメに「大丈夫?」と聞かれて、「はい」と答えた。バスは断崖に入るとすぐに止まった。開かれたドアから葵が先にバスを降りたとき、目の前にワタの姿が見えた。
「――っ」
葵は立ち止まった。ワタの後ろには百地の姿もある。次に降りようとした葉を、ツバメが引きとめた。
ワタは葵と、それから葉を見て「何もしませんよ」と穏やかな声で言った。
「下に船があります。きっと日本政府の船ですね。早くどこへなりともお行きなさい」
「祖母上」
「いいからっ、行くのです!」
ワタは怒鳴った。それを聞いて葵はすぐに葉を引っ張る。最後に紅葉を見ると、彼女は涙を流しながら「ごめんね」と言っていた。
「待って、葵。まだ満伯父様が」葉が後ろからぐいっと腕を引っ張ってきた。
「満様なら、そこにおられます」
ワタが向いている方向へとすぐさま振り向くと、今まさにこちらへやってこようとしている満の姿があった。彼は全身を藻屑や泥で汚し、体じゅうはびっしょりと濡れていた。だいぶやつれた顔でふらふらとよろめきながら、彼は近づいていく。
「伯父様!」
葉が泣きながら彼に飛びついた。満も葉の体を優しく抱きしめる。葵は幽霊でも見たような気になって、満を頭のてっぺんから足の爪先までじろじろ眺めた。足はある。どう見ても満だ。
「まさか、泳いできたのですか? 櫻神のところから」
葵の問いかけに満はうなずいた。
「ええ。ですが、たいした川ではありませんよ。あれくらい。雨が激しかったので、ちょっと水流に飲まれそうになりましたが」
「それは、なんというか。……お疲れ様です」
バスからはツバメが降りて、続いて桜沢を腕に抱えた木槿が降りた。最後にハトが降りたとき、不意に桜沢は目を開け、帯下から取り出した短剣を木槿に向かって伸ばした。
「あなたっ!」
紅葉の悲鳴が響く。その声に気付いて葵は振り返った。するとそこには血を流しながら地面に倒れた木槿がいて、桜沢が今まさに葉をめがけて突進してくるところだった。満は葉を腕に抱える。葵が走ってくる桜沢の前に立ちはだかった直後、その腹に激痛を覚えた。
「いやあああっ!」
紅葉の叫び声が響き、ワタさえも目を見開いて立ち尽くした。葵はそれらを見ながら、腹がじんわりと熱くなるのを覚えた。腹から短剣が抜き取られる。葵は、喉から何かが逆流する感触と、直後に口のなかで鉄の味を覚え、それを吐いた。赤黒い血が地面に落ちた。
葵の血をいっぱいに含んだ短剣を構えながら、桜沢はぎらついた目を葵に向けた。
「ここで本土の連中にサクラ様を渡されるくらいなら、ここで、サクラ様を殺すしかありません」
葵は息を整える。じくじくとした痛みが腹に残る。息をするたびにそこが悲鳴をあげた。しかしかまっている余裕はない。ここで守らなければ、葉が死ぬ。
「死になさいっ!」
桜沢が短剣を振り下ろそうとしたとき、乾いた音が響いた。桜沢がギャッと悲鳴をあげる。手にあったはずの短剣はいつのまにか地面に落ち、桜沢は手を抑えてうずくまっていた。葵は音のしたほうを見る。そこにいたのは田村普だった。
「田村さんっ!」
彼の手には拳銃が構えられていた。そこから煙がふいている。何かにおった。臭い。葵は鼻を覆いながら、普に近寄った。しかしそれ以上動けなかった。急に力が抜けて、地面に倒れた。
「葵!」
すぐに駆け寄ってきたのは、葉だった。彼女は今まで見せたことのないほどの狼狽を見せていた。葵は「大丈夫です」とつぶやいた。
「大丈夫なわけないでしょうっ!」
怒鳴りながら近寄ってきたツバメは葵の着物を無理やり剥ぎ取り、傷を見た。刃渡り数センチほどの傷が白い腹にあり、そこからどくどくと血が流れている。ツバメはすぐさま着ていた白衣を脱いでそれを引き裂くと、葵の腹にぐるぐると巻いた。
「葵くん、お怪我されたんですか?」
顔を覗きこんだ普にそう言われた。そういう彼も、頭に包帯をぐるぐる巻いていた。葵はそれを見ながらうなずいた。
「刺されました……。でも、たぶん平気」
「だから平気なわけないじゃない! ったく!」
ツバメは怒鳴りざま、その手を振り上げて葵の傷口をたたこうとした。しかし寸前でその手を自分でおさえた。怪我人にとどめを差すような真似は医者としての心が許さないのか。葵はそんなことを思った。
「船に適切な医療器具があります。おそらくこれだと縫うことになりそうですが」
「縫合なら私ができます!」ツバメは奥歯をぎりぎり噛みしめながら言った。
「……そんなことより、よく上陸できましたね。てっきり空から、来るものだと……」
「途中上りやすそうな岩陰があったので、仲間に無理言って1人であがってきました。命綱もなくてちょっと生きた心地がしませんでしたが、こう見えて中学から大学まで登山部だったんですよ」
「そう、ですか……。怪我――あなたも平気ですか?」
「はい。平気です。あなたが残してくれた名刺のおかげで命拾いしましたよ」
そうして普は笑った。
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