第5話 父親

 いよいよ雨が降りだした。視界はだいぶ悪い。雷も鳴っていた。葵は葉を椅子に座らせ、前方を注視していた。島の連中は暴走バスになす術もないのか、前に立ちはだかるも次々と後ずさりを始める。彼らの持っている武器は、台所の包丁とか金属バット、良くて刀や薙刀、槍などだった。島にいるならその程度の武器で充分だが、もしこの場に本土の人間がいたら古典的だとあきれるだろう。もちろん葵は本土の人間がどう考えるかさえわからなかったが。


「西は断崖だけど、そこからどう逃げるのよ。飛び降りる気?」


 ツバメの質問に葵は首を横に振った。


「えっと……、ヘリで」

「ヘリ? 馬鹿言わないでよ! 雨降ってるだけじゃなくて、雷も鳴ってるのよ! そんなのでヘリなんて危険だわ!」

「ああ、そうかもですね。まあでも、そういう作戦立てちゃいましたし」


「相手と何とか連絡とれないの?」

「とれません。発信器に通信機っていうの取り付けようとしたんですけど、無理みたいで。まあなるようになります」

「肝心なところで穴の空いた作戦ねぇ。そういうのって第2案、第3案とか色々だすべきじゃないかしら」

「たしかに、そうですね」

「けど、西なら相手も警戒しないわ」


 運転を続けながらハトが言った。葵とツバメは同時に彼女を見た。


「こんな危険なところで、応援が来るはずない。そう思って油断している。実際、連中の数が西に行くにつれて少なくなってきた。急いでこちらに向かっている奴らもいるけど、もう時間の問題――」


 不意にハトの言葉が止まった。雨の音に紛れて走行音のようなものが聞こえてくるのに葵もツバメも、そして椅子に座っている葉までもが気が付いた。ハトの目は雨に打たれて見えづらいサイドミラーを見る。後ろから運転しているバスと同じ色のバスが走ってきている。

 パッパーとクラクションが後ろから聞こえた。まるで「止まりなさい」と言っているかのように。


「予備のバスだわ!」ツバメが叫んだ。


 もう1台の学校バスは、走行を続ける葵たちのバスと並走するかたちとなった。それから、体当たりがくらわされる。バスの車体がわずかにかたむいて、ハトはハンドルをとられそうになった。葵もツバメも慌てて椅子に座った。葉が悲鳴をあげる。

 バスの窓が開かれ、そこから桜沢家の当主の顔が見えた。おっかない鬼婆のような形相をしている。彼女は雨音と雷鳴とバスの走行音をものともせずに大きな声でがなりたてた。


「止まりなさい! バス、止まって! あなたたちは国家への反逆を犯しています! すぐにサクラ様の身をこちらへ引き渡しなさい! 今すぐに引き渡せば、一生地下牢だけで済みます! 早く止まりなさい!」


 彼女はそう言いながら、手に持っている刀の柄の部分でこちらの窓をガンガン強く叩いた。ひびが入る。葉が小さな悲鳴をあげて、椅子にうずくまった。


「いや、いやよ。死にたくない。私、死にたくないっ……」


 震える声でそう訴える葉の腕を、葵は無理やり引っ張って立たせ、そのまま運転席側にいるツバメに渡した。葵は彼女たちを庇うように前に立つ。


「ハトさん、止まらないでくださいね!」

「当たり前よ!」


 葵の怒鳴り声にハトも怒鳴り返す。まだ西の断崖は見えない。直後、窓が割られる音がして雨と風が一気に入った。そこへ危なっかし気に桜沢さくらざわが乗り込む。その後ろには木槿むくげの姿もあった。


「葵」


 名前を呼ばれて、葵は委縮した。父に武術でかなったことは一度だってない。けれど今はそれどころではない。自分は葉の護衛をする役割があるのだ。絶対に負けるわけにはいかない。

 桜沢が髪を振り乱しながら、「渡しなさい!」と強い声で言った。それから葵の後ろでツバメに庇われている葉に、優しい声で訴えた。


「サクラ様、帰りましょう。あなたはこの島にいなくてはいけない存在なんです。何も怖いことなんてありません。さあ」

「いやっ、私は嫌です! 私は死にたくないっ! 母上も、先々代も、その前だって、みんな生きていたかったんです! でも諦めるしかなかった。でも私は違う! 私は生きる! 絶対に生きるの! もう島には戻らないわよっ!」


 桜沢の目が燃えるようにぎらつきだす。刀に手をかけた。


我儘わがままをお言いになるなっ! まだわからないのですか? あなたは選ばれたお方なのです。死ぬわけではございません。神と契りを交わし、永遠の命を手に入れられるのです。そこには先代であるあなたのお母さまも、その前の世代の方もいらっしゃいます。何も苦しいことなんてありません。さあ」

「母上は言っていたわ! 名前、名前だって。みんな、名前に託すんだって! 自分の子どもだけは最後まで生きていてほしい。そう願って、みんなに名前を付けるんだって! 私は葉! サクラ様なんてそんな役職だけの、意味のない名前なんかではない! 満伯父様も、咲だって! みんな名前があるの! 母上の名前は染井そめい! 染井よ!」

「黙りなさい!」


 桜沢は葉の言葉を遮って怒鳴り散らすと、鞘から刀を抜き取り、そのまま飛びかかってきた。葵は瞬時にあいだに割って入る。頬をわずかに切っ先がかすめた。その腕をつかむ。老婆の腕にしては、しっかりと肉のある腕だった。それをそのまま背負い投げる。狭い場所で桜沢の体は宙に浮き、激しく床にたたきつけられた。桜沢は失神した。


「父上も止めますか?」


 葵は木槿をにらんだ。桜沢は年寄りだから簡単にいなせたのだ。しかし彼はそうはいかない。葵は身構える。もしここで倒されたら、葉はまたあの生活に逆戻りだ。椋が思い描いていた未来が実現できない。そしたら天国にいる彼に顔向けなんてできない。

 しかし木槿は構えることも、葵に近づくこともしなかった。ただ一言「いや」とつぶやいた。


「私は何もしないよ。バスはそのまま進めてくれて大丈夫だ」

「……本当ですか?」

「嘘は言わない。それに私は今まで、他にも反逆の罪を犯してきた。今さらここで島に加担して、何になる」


 言うなり、木槿は床に座った。桜沢の刀をつかみ、割れた窓の外へと放り投げた。それからあたりは静かになった。葵は腰を抜かしながら、息をついた。何故、木槿が戦わないのか。葵はそのとき理解した。


「あなただったんですね。――満様がおっしゃっていました。葉様を産むために屋敷を抜け出す先代を、手助けした人がいると」

「ああ。そして四季しきは親友だった。お前の椋くんみたいな存在だ」


 椋の名前を聞いて、葵はぐっと拳を握りしめた。


「四季と先代の仲を見て見ぬふりしたのも、私だ。幼い頃から傍で見ていた先代が、彼と話すときだけあまりに楽しそうにしていたから、私はホッとしていた。先代の笑った顔が好きだったから。だから四季が先代を妊娠させてしまったと告白してきたときは、それは驚いた。何故そこまでしたと彼を罵倒した。下手をしたら反逆罪になる。しかし彼は言った、『染井様は1人の女として、子どもを産んで育ててみたいと言ったから手を貸した』と。だがきっとそれだけではない。四季は染井様が好きだったし、染井様も四季が好きだったさ」

「父は、どのような方でしたか?」


 不意にそれまで黙っていた葉が口を開いた。その声はかすれていた。大声をあげすぎたのだろう。木槿は葉を見て、優し気にほほ笑んだ。


「とても立派な方でしたよ。島の風習に異を唱えだすようになって、それまでこの生活が当たり前だと思っていた私たちの信仰心を、わずかに揺らがせた。真面目で、けれどおしゃべり好き。染井様をいつも笑わせては楽しんでおられました」

「そう……」


 葉はぐすっ、と鼻をすすった。それから床にうつむいて静かに嗚咽をもらした。車内は静かになる。いつの間にか雷鳴は止み、雨音も静まった。雲間から太陽が覗こうとしていた。

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