第2話 窮地
頭をあげると、そこにあったのは人が10人いてもその周りを囲めないほどに太い幹を持った、桜の大樹だった。そこからまるでシャワーのように桜の花びらが降り注がれる。その圧巻さに葵は思わず息を吞んだ。こんな間近で櫻神を見るのは産まれて初めてだった。いや普通に生きていれば、間違いなく男である自分にはお目通りがかなうはずもないものだった。
「葵くん」
満に名前を呼ばれて我に返る。すでに満と葉は穴からでて、櫻神に背を向けていた。満は正面を真っすぐ指差した。その先には桟橋があった。葉が朝の礼拝でよく使っている古ぼけた木の橋だった。
「本土へ連絡はとれたんですよね」
「はい。西の断崖で落ち合う約束をしています。あそこなら人なんて誰も通らないので」
「それが良いです。急ぎましょう」
走りだそうとしたとき、ゴロゴロと大地を揺るがすような雷鼓が聞こえた。顔をあげれば、重苦しいほどに分厚い雲がわずかに光った。またも雷鳴が続く。
「雷」
葉がぽつりとつぶやいた。
橋を渡ったとき、その中央に人が立っていた。先頭を走っていた満は思わず立ち止まり、葵は葉の前へ立った。橋の中央にいたのは、
「お兄さま、何故ですか」
彼女は泣きそうな声でつぶやいた。きっと葵たちがここを通ることを知って、待ち受けていたのだろう。彼女もサクラ様の一族の人だ。あの穴の存在を知らないわけがない。
「すみませんが、吉野。そこを通してください」
吉野は激しくかぶりを振る。形の良い髪が乱れるのもかまわずに。
「――いやっ、いやよっ! お兄さまは祭りの前日におっしゃいましたよね? もしサクラ様が脱走を企てた際は全力で止めると。儀式を止めさせるわけにはいかないって。あんなにおっしゃってたではないですかっ!」
「事情が変わりました」
「なら私を置いていくの? あなた、私にも申し訳ないっておっしゃって。なのにっ、捨てるって言うんですか!」
「いいえ、見捨てはしません。けど今立ちはだかるつもりなら、抵抗いたします。きっと日本政府側に島の悪行は完全に知れ渡る。そうすれば時間の問題です。日本が島を潰すために今度こそ乗り込んでくるでしょう」
「
「葵くん、逃げなさい」
言われるが早いが、葵は葉の体を腕に抱えて桟橋を走りだした。行かせまいと吉野が仁王立ちになり、両手を広げて通せんぼをしてきた。しかし満が走りだし、吉野へ飛びかかって押し倒す。吉野は泣きながら上にかぶさる兄に抵抗する。「早くっ!」と満に怒鳴られ、葵は後ろも見ないまま走った。
橋を渡り切った先にも人が大勢いた。彼らは葵たちの姿を目に留めると、一斉に走り寄ってくる。葵が葉を抱える腕に力を込めたとき、脇からものすごい勢いで学校バスが突っ込んで葵たちのあいだに割り込んできた。ドアが開かれ、そこから姿を見せたのはハトとツバメだった。
「乗って!」
ツバメが伸ばした手を迷わず掴み、葵は葉とともにバスへ乗り込んだ。運転しているのはハトだった。彼女はレバーをガタガタ動かすと後ろにバックして、怖気づく追手を無視してバスを走らせた。
葵はバスの床にへたりこんで座り、はぁと息をついた。心臓がばくばくと脈打っている。顔をあげて改めてツバメを見た。
「反逆罪ですよ」
「それはお互い様よ。椋が殺された時点でどうせとっくに目をつけられているわ」
「……スズメが、椋の情報を流したそうです」
ここで言うべきではないと思ったが、葵はつい口を滑らせた。ツバメはわずかに肩を震わせて「そう」とつぶやいた。ハトは何も言わない。運転に集中しているのだろう。それにしても島の人間の大半は車の免許なんて持っていないはずだ。なのに、何故彼女は運転できるのだろう。
「スズメは昔から、櫻神に対する信仰心が特別厚い子だったから。情報を流すならあの子くらいでしょうね」
「気付いていたんですか?」
「椋だって馬鹿ではないから、きっと慎重に動いていたはずよ。だからあの子の秘密を暴くなんて家族だからこそできることよ。私にだってきっとできるわ」
「椋は家族を警戒してなかったんですか?」
葵の問いかけに答えたのは、運転しているハトだった。
「家族だから、信じたかったのかもしれない。あの子は優しい子だったから」
「……ハトさん。運転できるんですね」
「昔本土に留学していた頃、気分転換がてらに取得したのよ。長いあいだ乗ってないし本来持っているのはマニュアルの一種免許だから、運転も滅茶苦茶だけど。島にはまともな道路なんてないからちょっと羽目をはずした運転をしても裁かれることはないのが救いね。それよりももっと大きな罪を犯しているのだから」
そうですね、と葵は相槌を打った。運転免許の種類についてはよく知らなかったが、逃げられるのなら今はどうでも良かった。満のことが頭をよぎる。彼はどうなるのだろうか。だが引き返している余裕はない。
「で、どこへ向かうの?」
「西の断崖へ。そこのあたりで日本の方と落ちあう予定なんです」
「わかったわ」
突如ハトはハンドルを大きく右にまわすと、バスの車体の方向を変換させた。あまりに粗雑な運転に葵はよろめき、慌てて柱をつかみ、葉の体を支えた。
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