終章

第1話 帰国

 あおいが島に帰ってきたとき、空はどんよりと曇っていた。雷雲かもしれないと誰かがつぶやく。葵は地面に降りたって、深く息をついた。体がわずかにぐらつく。船酔いがひどい。だが気分が悪いのはそれだけが理由ではなかった。これから行動を起こす。葵は袂をつかんだ。そこにあるのは銀色の腕時計だ。堅い感触が葵を落ち着かせる。心のなかで何度も椋の名前を呼んだ。

 今回は誰にも引きとめられることなく、真っすぐ屋敷へ帰ることができた。門番に会釈をして中に入る。人の視線が痛かった。相手はきっとただこちらを見ているだけだと自分に言い聞かせる。何もやましいことはない。堂々としていろ。あまり挙動不審でいると怪しまれる。

 門から屋敷に入って、すぐに気が付いた。いつもより人の配置が多い。いつもなら門のあたりに門番が2人立っているくらいで、屋敷まで続く道には人っ子1人いないのだ。警備がだいぶ厳重だ。葵は緊張しながら歩を進めた。


「葵」


 正面の屋敷から紅葉もみじが走ってくるのが見えた。着物の上に白い割烹着を着用していた。何故屋敷から現れたのだろう。彼女は水の入ったペットボトルを持っていた。そのペットボトルのラベルには見覚えがある。葵がいつも愛用しているメーカーだった。


「ただいま戻りました、母上。どうかなさいましたか?」

「おかえりなさい……。あの、これ。水飲みなさい」


 差し出されたペットボトルを見つめる。葵は困惑した。何故、水なのか。


「何故?」

「長旅で、喉が渇いたでしょう? それに今日は暑いし。熱中症になったら、大変だから」

「それもそうですね。ありがとうございます」


 葵はペットボトルを受けとった。蓋をねじって開けようとして違和感に気が付く。蓋がゆるい。母の様子を見ると、彼女の手は震えていてその目をギラギラさせながら葵の動きを見つめていた。一挙一動に注意を払っているともとれる様子だった。


「すみません、母上。謝ります」

「は……?」

「用を足したくなりまして。……船酔いもひどいので」

「あ……、な、なら家に」

「いえ、屋敷が近いのでそちらで失礼します」


 葵は紅葉の横を走り抜ける。直後、配置されていた人員が一斉に葵のもとへと走り出した。直後、屋敷の引き戸が開いてそこからみつるが姿を現した。彼は「止まりなさい!」と声を張る。葵は思わず立ち止まり、彼を追いかけようとした人たちも立ち止まった。


「サクラ様が葵くんとの面会を希望しています」


 そう言うなり、満は葵に手招きをして屋敷へ入れさせた。


「土足のままで結構です」


 満にそう言われ、葵は足に草履を履いたまま彼のあとについてようの部屋へと向かった。屋敷のなかはひどく静かだった。人の気配も感じない。まるで建物自体が死んでいるかのようだった。

 合図もせずに、満は葉の部屋へ堂々と入る。部屋のなかには彼女しかいなかった。


「葵!」


 葵の姿を視界に入れた途端、葉は葵に抱き着いてきた。突然のことに葵は困惑する。思わず満を見た。満も真っすぐ葵を見つめながら、「落ち着いて聞いてください」と前置きをして、


「葵くん、あなたには国への反逆の容疑がかけられています。椋くんと親しかったこともあり、疑いが少しでもあるのなら殺せと島全体に号令がかかりました」

「――そうですか」

「あまり時間がありません早く逃げましょう」


 言うなり満は葉がいつも座っている黄色に変色した一枚の畳を突如引き上げた。葵はあっけにとられる。埃が宙を舞い、その場にいた者は全員咳き込んだ。畳の下にあったのは地下へ続く穴があった。


「これは?」

「大昔の奉納ほうのうにおいて、サクラ様は決して人目に触れぬまま櫻神さくらがみのもとへたどり着かねばならないという掟がございました。現代で知っている者は一族くらいです。さあ、早く!」


 満にうながされ、葵は穴のなかへ入った。少女であるならば余裕で立って歩けるが、葵にとっては少し窮屈だった。頭をあげようとすると天井に頭をしこたま打ちつけた。


「大丈夫!?」

「はい……」


 葉が不安げに葵を見下ろす。葵は彼女に両手を伸ばした。葉はそのまま葵の胸に飛び込んだ。満もそのあとに続いて畳を閉じた。あたりはすっかり真っ暗になった。


「道は真っすぐ続いているので、足元にだけ注意して進んでください」


 とはいえ、足元に何があるのか葵にはわからなかった。慎重に、けれど早足で先へ進む。洞窟のなかの空気は薄かった。その上、時折頭の上や壁、足元でざわざわとざわめく音と感触がした。おそらくこの地下に潜んでいた虫や生物だろう。音と感触がするたび、葉が小さく悲鳴をあげた。

 体感では十分ほど歩いていくうちにやがて行き止まりとなった。暗闇に慣れてきた目で壁に触れるが、そこからは何もない。どうすれば良いかと満を見ると、彼は真上を指差した。頭をぶつけないように気を付けながら、天井を見上げる。両手をぐっと上へ押しだすと、土煙と明るい光が同時に視界に入った。あまりの眩しさに葵は目を細める。天井は簡単にはずれたので、それを横にスライドさせてから出口の縁をつかみ、よいせっと体を上へ持ち上げた。途端、葵の視界をかすめたのは桜の花びらだった。

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