第2話 決意

 細かな段取りをその場で済ませると、葵はそれからすぐに従者を連れて帰っていった。彼には腕時計を持たせておいた。いざというときにすぐに彼の居場所がわかるようにということだった。普は最後にもう一度従者の顔を見たが、彼らは相変わらず冷たい目を普たち本土側へと注いでいた。彼らが助けてくれないことは明白だった。

 葵が小桜の家に泊まっていることはすでに普たちに伝えておいた。明日にはもう島へ帰るだろう。休んでいる暇もない。心の落ち着かせている暇もない。だが、このくらいなんてことなかった。椋だったらなんてことないと思うはずだ。葵にとってそれだけがこの危機を乗り越える唯一の道筋だった。

 小桜の家に着くと、葵は初めて本土へ来たときと同じように、またも泥のように眠った。車の排気音も走行音もこの国にはやたらと多い。もっと自然にめぐまれた空気の澄んだ土地はないのだろうか。人工的なにおいにやられそうだった。次に目が覚めたとき、枕元の時計は深夜を差していた。ふと喉の渇きを覚えて葵は起き上がり部屋をでた。そのとき、玄関側でひそひそとした話し声を聞いた。

 厨房へ行くには玄関前を通らなければならない。葵は板張りの廊下を抜き足差し足しながら歩く。どうすれば相手に気付かれないだろうか。いや、気付かれても良いか別に。こんな真夜中に来訪者が来るのは不自然だけれど、不審な動きをしていては逆に怪しまれる。葵は短く息を吸って吐くと、壁際からそっと玄関の様子をうかがった。

 そして、息を吞んだ――。

 すぐに目をそらし、体を引っ込ませた。深呼吸をゆっくり繰り返す。どうしてあの人が。ここにいる? いや、単に用事でやってきただけとか。何の用事で。ここは仮にも本土の人間にとっては敵地だ。そして小桜家も本土に身を置きながら本土を心底嫌っている。それなのにあんなに親し気に言葉を交わして――。


「ねえ」

「っ」


 後ろから呼びかけられ、葵は危うく悲鳴をあげそうになった。振り向くとそこにいたのはスズメだった。椋の弟。小学生にもかかわらず、医者の勉強をするために本土へ留学している少年だった。

 今思えば彼の留学が早まったのは、椋の裏切りが発覚したからだろう。そのときすでに島の連中は椋を殺す算段をつけていたのだ。何も知らないでここにいて、この少年はかわいそうだ。


「なんでしょうか?」


 葵が問いかけると、スズメは桜色の大きな瞳をくりくり動かしながら、「あのさ」と言った。


「今見ていることは、ひみつですよ?」

「今――って。玄関のですか?」

「はい。知られてはたいへんですから」

「たしかにそうですね」


 葵は玄関の様子に耳を傍立てた。引き戸がガラガラいう音が聞こえた。それから小桜撫子の声が聞こえた。「お気を付けてお帰りください」そんなことを言っていた。だいぶ親しいようだった。


「椋兄さまはかわいそうですね」

「っ」


 スズメの言葉に葵はまたも度肝を抜かれた。スズメはつまらなそうな顔をしながら、玄関の様子をうかがっている。


「サクラ様は高貴なおかたです。島のはんえいのために、神とえいえんを生き続ける存在となりうるのです。なのにそんなサクラ様を見て、兄上は『助けてあげたい。死んだらかわいそうだ』ですって。そんなのサクラ様が思うわけないではありませんか」


 葵はスズメを見つめた。まさかと思った。この少年は小学生のはずだ。こんな小さいのに親元を離れて本土に留学することになった、かわいそうな――。


「葵さんもそう思いませんか? サクラ様はきっと神とちぎられることをひじょうに喜んでおいでです。えいえんの命をえられるのですから」

「お前、それ本気で」


 葵は全身の血が沸騰するほどの怒りを覚えた。まさか、まさかとは思うが。信じたくはない。けれど、口にせずにはいられなかった。


「椋が反逆者だと、裏切り者だと島の連中に暴露したのは」

「はい、ぼくです。兄上の行動があまりにふかかいだったので、ひそかに調べました。そしたらたくさんでてきましたよ。兄上は日記をのこしておいででした。そこに書いてありましたよ。日本の人間と度重なるせっしょくをして、サクラ様らち計画をくわだてようとしたすじがきが」


 葵は思わず右手を振り上げた。スズメが目を見張って体を委縮させ頭を守る態勢をとる。寸前で思いとどまった。こんな子どもに手を挙げるだなんて馬鹿げている。葵はすぐに手をおろした。

 スズメは怯えた目を葵に向けながら、震える声で尋ねた。


「まさかとは、思いますが……。葵さんも反逆者の兄上と同じで、サクラ様をらちしようとお思いですか? そんなわけありませんよね? だってあなたはサクラ様のそば付きでおいでです。サクラ様をうらぎるなんてことしませんよね?」

「そんなこと、するわけがないでしょう――」


 葵は怒りを鎮めるために、震える声でそう言った。喉は相変わらず渇いていたが、このままではその前にこの子どもを殺しかねない。本気でそう思った。椋、椋、彼の名前を頭のなかで何度も唱えて心を落ち着かせた。


など、私はするつもりもありません」


 椋だって、きっと同じことを言うはずだ。葵はスズメの前を通り過ぎると、寝室に戻った。

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