第3話 タイムリミット
「ああ、葵くん。ちょうどよかった。入ってきてください」
「……はい」
どうしたのだろうと思って、葵は思わず太陽の位置を見た。ここ最近ぐずついた天気が続いていたから、太陽がでるのは珍しいことだった。まもなく夏になるとあってギラギラと輝いている。時間はだいたいお昼を過ぎた頃だ。サクラ様はこの時間、満に勉強を教えてもらっているはずだ。
「失礼します」と言って葵は障子戸を開けた。部屋のなかには満と葉しかいない。葉は、1枚だけ黄色に変色した畳の上に座りながら、ちゃぶ台にノートを広げながらペンで数字を書いていた。どうやら数学をしていたらしい。
「葵くん、戸を早く閉めて」
「はい」
言われたとおり、戸を閉じてその場に正座をした。すると満が「もっと近くに」と葵を手招きしてくる。ちょっとだけ寄った。すると満は「もっと」と言い、さらにちょっとだけ。
「サクラ様に数学を教えてあげてください」
「は」
思わず口をついてでた疑問に、葵は慌てて口を押さえた。咳ばらいをして「わかりました」と言う。満が葉の隣から離れ、その代わりに葵は彼女の隣に座った。いったいどういう状況だ。葵は頭を混乱させた。頭の後ろをかいてしまう。
葵が葉に勉強を教えているあいだ、満は部屋をでていった。葉は特別勉強ができるわけでも、できないわけでもなかった。とりあえず良かったのは、葵に教えられる範囲だったことだ。それからどのくらい時間を使っていたのか、障子戸からオレンジ色の夕日が差し込む頃になってようやく満が戻ってきた。「お疲れさまです」と言いながら、その手には3個の桜餅が載った皿を持っていた。
「葵くんも一口どうです?」
「……いえ、大丈夫です」
葵は耳を疑った。人から与えられたものは食べられないが、今はそういう場合ではない。桜と名の付くものはサクラ様しか食べてはいけない決まりがあるのだ。桜餅、さくらんぼ、桜海老。桜肉というものもあると聞いたことがあるが、あれがもし島に流通していたらきっとサクラ様にしか食べられないに違いない。
「桜のものを食べたって罰なんてあたりませんよ」
葵の真意を察してか、満は笑うと葉にまず餅を渡してから、自分の分を食べた。葵は冷や汗を浮かべた。だが満は先代がサクラ様に正式に決まるまでは、サクラ様として養育されていた身だった。別に桜餅を食べても問題はないのかなどと葵は考える。
「さて葵くん、あなたは僕に聞きたいことがあるのではないですか?」
「……あ、――」
何故悟られていたのか。葵は困惑した。思わず頭の後ろをかく。満は桜餅を食べ続けている。葉も桜餅を食べながら何も言わない。どうせ知られているのならと葵は諦めて、きちんと姿勢を正した。
「満様は、先代がご出産される際に屋敷の脱走を手助けしたと、噂で聞きました。本当ですか?」
「はい、本当です」
「……何故?」
「何故って、妹に頼まれたからです。子どもを内緒で産みたいから屋敷を抜けるのを手伝ってほしいと言われて。薬師の家までは相当距離がありましたから、さすがに身重の女性が一人だけであそこまで行くのは骨の折れることです。途中で倒れられたら誰も看病なんてできません」
「それはそうかもしれませんが。――では何故、先代は子どもを産もうと決意なされたか。それを聞いてはいませんか?」
「1人の女性として、人間として産まれたからには子どもを育ててみたいという、まあ我儘ってものでしょうか。そうおっしゃっていましたよ」
「仮にもサクラ様ですよ。反対はしなかったのですか?」
すると満は少し黙ったあと、小さな声で「できませんでした」と答えた。
「もともと先代である
満の桜色の瞳には憂いがにじんでいた。
「だから僕は、染井が身ごもったと聞いたときは驚きましたけれど、その子を産んで育てたいとおっしゃったときは喜んで力を貸しました。それくらい兄としては造作もなかったのです。監視の目をかいくぐり、薬師家に預け、出産を手伝い、事が済んだら何事もなく帰りました」
「でも、さすがに身重の女性1人を抱えて満様1人だけでの脱走は不可能でしょう」
「まあ……何人かには助けてもらいました」
「その中に葉様の父上もいらっしゃった。名前は四季さん」
「そうですね。四季様は本当に良いお方でした。と同時に僕は妹にも彼にも嫉妬をしていました。ついこのあいだまで自分の付き人だった彼が、妹にとられた。まあそれは僕の性質のせいでもありますが、僕は四季さんが好きでしたから」
「――ああ、そう、ですか」
頭が混乱しかける。満は男の性質を持ちながらも男性である四季のことが好きだった。それは人として? それとも男として? 葵にはよくわからなかったが、本人がそう言うということはそうなのだろう。
「――サクラ様が産まれてすぐ四季さんは反逆罪で殺され、それから五年後に染井も櫻神と契りを交わされました。僕はそのとき自分の不出来さに呪いをかけたくなりました。何も守れず、助けられない。それなのに自分だけは無能にも生き続けている。どうして良い人は早くに死んで、悪い心の持ち主はいつまでも生き続けるのだろうと毎日毎日、自分を呪いました」
葵は両膝の上に載せたままの拳を握りしめ、唇をかんだ。どうして良い人は早くに死ぬんだろう。本当だ。その通りだ。葵もそう思った。何故、椋は死ななくてはならなかったのだろう。椋はあんなに、良い人だったのに。
「ですが長く絶望する暇はありませんでした。2人を守れなかったのならせめて、僕は今のサクラ様だけは。葉様だけは守ろうと決めました。彼女の傍について、勉強を教え、必要な執務を教える。葉様はまるで、染井の生き写しのようでした」
葵は以前、ツバメが言っていた言葉を思い出していた。先代は今のサクラ様とは違って、子どもから見ても充分にその素晴らしさが伝わったと。だが葵はやはり先代と葉は似ていると感じた。主に我を通そうとするところが。
「葵くん、僕はキミに謝らなければなりません」
そう言ったかと思うと、満は深々と頭をさげた。葵は息を吞む。
「祭りの日、僕はサクラ様を逃がそうとする椋くんを見て見ぬふりをしました。もしあのとき僕が止めていたら、彼は反逆罪で殺されずに済んだのです。許してほしいとまでは言いません。憎んでくれてもかまいません。本当に、申し訳なかった……」
彼の語尾は震えていた。葵はうろたえながらも「顔をあげてください!」と怒鳴った。
「頭なんて下げないでください! 俺はっ、俺があのとき、持ち場を離れたのが悪いんです。いやいっそ椋に協力していればよかった。そしたらもっとうまく言っていたはずなんです。俺はあのとき、侵入者の存在を見なかったことにしたし、島の祭りを優先した。悪いのは俺でもあるんです」
満は葵の言葉を聞いて、肩を震わせていた。もしかしたら泣いているのかもしれない。あるいは涙をこらえているのかもしれない。葵は目をつぶった。ごめんなさい、と椋に謝った。もういない彼、どんなに謝っても彼に言葉が届くはずもない。
2人の様子を見ながら、葉だけは静かに桜餅を食べていた。
満はやがて顔をあげた。その頬に涙はなかったが、瞳は濡れているように見えた。
「もし僕に何かできることがあったら、遠慮なくおっしゃってください。力になります」
「――では、お願いできますか? 私はサクラ様をこの島から脱出する手助けをしたいのです。本土にも応援を頼む予定です。ですが私だけでこの島を、サクラ様とともに抜け出すのはおそらく不可能でしょう。最悪私は死にますし、サクラ様も死ぬことになります。そのために大人の力を貸してほしいのです」
「ええ、はい。わかりました。力になれるのでしたら、いかようにも。ただ1つ、あなたには教えておかなければならないことがあります」
「なんですか?」
満は葵を見て、それから葉に視線を移した。桜餅を食べ終えても顔色一つ変えなかった彼女が初めて失望の表情を見せる。葵は満と葉の顔を見比べた。
「奉納ノ儀の日取りがおそらく早くに決まるようです。期限は今年の夏の終わり。9月。もう3か月しか残されておりません」
予期せぬ情報に葵は血の気が引いた。
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