第7章
第1話 姉
島にも梅雨はやってくる。連日連夜じっとりと粘り着くような湿気はストレスを感じさせるものだった。
その日学校で習ったことの復習を終え、明日の予習も済ませた葵は、時間が12時を過ぎようとしていることに気付いて早く布団へ入ることに決めた。腕時計は今も正確な時を刻んでいるが、本土からの連絡はいっさい来ない。もしかしたら気付いていないのかもしれない。どうすれば良いか。自分1人でサクラ様を守り切れるだろうかと、葵は早くも疲れ切っていた。
寝る前の鍛錬をしようと、布団の上で腹筋を始めようとしたときだった。
「葵くん、入ってもいいかしらぁ」
「うわっ、え?」
女性の声が窓からした。見ると、そこにはツバメがいた。髪はおろしていて、寝間着姿だった。挙句、その頬には赤みがある。酒を飲んで酔っているのかもしれなかった。
「どうしたんですか、こんなところで」
「入ってもいい?」
「いいですけど」
葵は障子戸を振り返った。誰の気配もしないことを確認してから彼女の伸ばした手を引っ張り上げた。思わず「重っ」と言うと手をぶったたかれた。
「女性に対して失礼よ!」
「申し訳ありません」
頭の後ろをかきつつ、葵は机の下に常備してある未開封のペットボトルを、ツバメへ差し出した。彼女は「ありがと」とお礼を言い、早速それを開けて半分まで飲み干した。彼女の額と首筋からは玉の汗が浮かんでいた。
飲み終えると、彼女はペットボトルの蓋をしめた。
「自宅から来たんですか?」
「そうよー。ここまで遠いもの」
それなら相当の距離のはずだ。しかも窓から来たということは、裏の塀から入ってきたということだ。屋敷のセキュリティはそう万全とはいえない。裏からなら誰だって入れるところがその証明だった。あまり頻繁に使いすぎると今度は裏の塀にも門番が立つ可能性がありそうだった。
「……椋が死んだのよ」
ツバメがペットボトルを両手で握りしめながら、ぽつりと漏らした。
「あの子、サクラ様の脱走の手助けをしたそうじゃない。まったく馬鹿な子。そんなことしたって意味なんてないのに」
「ツバメさんは、椋が異端者だと思わないんですか?」
「そりゃ、島の人間的立場からしたら、そうかもね。そう思うわ。でも私は――それからお母さまにとっても、彼は家族だからそこまで憎しみの念を抱けない。ただ、悲しいだけ。でもあまり悲しすぎていると島の連中から白い目で見られるから、黙っているしかないのよ」
握りすぎたペットボトルがベコッとへこんだ。ツバメは慌ててペットボトルを握る力をゆるめ、形を整えだした。
「でも黙るしかないのは、前例があったから。もしここで泣いたり悲しんだり、あるいは島の連中を口汚くののしったら、それこそ本当に消されちゃう。椋のようにね」
「……前例って?」
「サクラ様の御父上とその家族よ。四季さん」
「ああ」
四季の名前は島では言ってはいけない名前だった。同じ読みを持つ子どももいてはならないと、その当時「しき」を名乗る子どもたちはあらかた改名させられた。
「そういえば聞いてみたかったんですけど、あの噂って本当なんですか? 今のサクラ様が産まれたとき。傍で
昔の話だ。葵が産まれる前後の話であるから、噂でしか聞いたことがなかった。
ツバメは葵にちらと視線を向ける。そして言った。
「本当よ」
「――そうですか」
あっさりと白状されたので、葵は一瞬拍子抜けした。てっきり適当に誤魔化されると思ったのだ。
「母は、当時のサクラ様ととても親しかったから。子どもを産みたいと願った先代の言葉に反対することなく、引き受けたそうよ。ただ出産の現場を周囲に知られたら、まちがいなく子どもは殺されるに決まっている。そこで母は薬師の家で先代に子どもを産ませたわ」
「屋敷からでたんですか? どうやって」
「屋敷への脱走の手助けをしてくれたのは、
「――っ」
満は先代の姉(兄)にあたる人物だ。サクラ様の家系は絶対に男は産まれない。もしも産まれたらその場で絞め殺すことに決まっているのだ。だが満は、女として産まれながらも精神的には男性の自覚がある人物だった。真の女性でないとサクラ様の役割はふさわしくないと島の人間たちが協議を繰り返した結果、5つ下の先代が跡取りとなった。そこでさらにのちの世代に続く後継について考えた結果、先代より8つ下に妹の
「けど結局先代の脱走は屋敷の人たちに知られてしまってね。でも屋敷の人たちが先代の前に現れる頃には、すでに子どもは産まれていて先代は出産で疲労した体を引きずりながら、屋敷へ戻ってきたそうよ。子どもの父は明かさず、子どものことは適当に濁したそうだけど、先代が子どもを産んだことは明白だったわ。いくら妊娠について誤魔化してもそうなっているかどうかなんて外見だけで充分わかっちゃうし、まして大きくなったお腹が一晩でへっこんじゃえば、ねえ」
しかしサクラ様は巫女であると同時に島の権力者の1人でもあったから、誰も何も言わなかった。島の長である
「先代と四季さんはただの主人と従者というよりは、友だち同士――って感じにも見えてとても仲が良かったらしいわ。だからこそ周囲の大人たちは、父親のあたりを彼につけた。実際、そうだったわけだし」
そしてツバメはペットボトルの蓋を開けて、また水を飲んだ。
「四季さんは結局そのあと、殺されたわ。で、そのあとしばらくして彼の死に疑問を持った一族も、一緒に。まあ大人連中からしたら、反逆罪みたいなものだもの。連帯責任ってやつかしらねぇ」
「今日はよくしゃべりますね」
「お酒が入ってるせいかしら」
ツバメは水を飲みほすと、カラとなったペットボトルを床に置いて窓へ向かった。彼女は窓枠に手と足を置くと一息に外へと飛び降りた。
「じゃ、帰るわね。またね」
「はい。また」
別れの挨拶をして窓を閉めようとしたとき、「ねえ」とツバメに呼びかけられた。手をとめた葵は顔をあげる。ツバメは背中を向けたまま、
「椋のこと、忘れないであげてね」
「――椋は俺の親友ですよ」
びく、とツバメは肩をわずかに震わせた。それから「そっか」とつぶやいた。その声は涙ぐんでいるように聞こえたが、背中を向けたままだから葵にはわからなかった。
葵はツバメが森のなかへ完全に姿を消してから、部屋の窓を閉め――ようとして、じめじめした梅雨の空気を思いだしてやはり開けたままにしておこうと思った。葵はそのまま布団へ行き、電気を消した。鍛錬は明日の朝にやろうと思った。
先ほどツバメが酒に酔った勢いで話してくれたことを思い返す。
幼い頃からひそかに噂で耳にしていた、島の裏切り者の四季。彼はどうして先代に子どもを作らせたのだろう。そんなことが周囲に発覚すれば殺されることは間違いない。きっと四季にだってわかっていたはずだ。
もしも四季がまだ生きていたら。きっと葉を助けるために尽力してくれたはずだ。何より大人がいれば心強い。葉の傍付きになっても高校生である自分は、まだまだ子どもだった。
だが希望を捨ててはいけない。ツバメの話には満の名前が出てきた。彼は先代が出産をした日、先代が屋敷を抜け出す手助けをしてくれた。どういう真意がそこに隠れているのか葵にはもちろんわからない。だけど葵にとって満は、実の家族以上に近しいところにいる大人だった。きっと葉を助けるために彼は力になってくれる。
それを願って、葵は目を閉じた。
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