第3話 承前
葵が最後にたどり着いた先は、島の西にある絶壁だった。潮の香りと共に強い風がビュウビュウと耳をこする。眼下を覗き見れば、黒い海が底なしの穴のように見えた。
このあたりは誰も近寄らない。島の裏切り者の死体を捨てる場所として有名な場所だからだ。幼い子どもは「あんまり我儘を言うと西の絶壁に置いていくよ」と言うと瞬時におとなしくなる。ここは幽霊が出る場所としても有名だ。
以前椋が言っていた。「幽霊は怖いけど、知り合いの幽霊だったら案外怖くないのかな」と。葵にはよくわからなかった。だから「どうなんだろうな」と返した。けど、今は違う。
もし、今もしここに椋の幽霊が現れたとしたら、葵は会いたいと思う。会って、怒りたい。どうして相談しなかったんだと、怒って殴って、ケンカして。最後には仲直りをしたい。いつもみたいに。椋と最後に、友人らしい会話をしたのは、いつだったろうか。
葵は絶壁すれすれのところでしゃがみこんだ。自分が女々しいことをしている自覚はあった。友だちの死に泣いていて、打ちひしがれて。立ち上がれないで。明日のことなんて考えられなかった。明日になったら椋はいない。明後日になっても椋はいない。1週間、1ヶ月、あるいは1年経っても、薬師椋は帰ってこない。
今まで自分は、椋がいなかったときどう生きていたのだろう。彼がいないあいだ、葵はただサクラ様の傍付きとしての日々を淡々と過ごしていた。変わり映えしない日々。サクラ様の我儘に付き合う日々。学校生活も家でも、何一つ楽しくなかった。だけど、椋といる時間だけは楽しかった。
暗い海がしぶきをあげながら、何度も何度も岩壁に体当たりを繰り返す。その様はまるで海自体が葵を引きこもうと手を伸ばしているかのようだった。葵はしばらくのあいだそれをぼんやり見つめていた。
そのとき、何かが波しぶきを反射したのを見た。
気のせいだろうかと思ってしばらく、反射したと思しき箇所を、目をこらして見つめた。しかしやはり光っている。きらっ、きらっ、と。いったい何の光だろう。腕を伸ばせば、ぎりぎり手の届く範囲だろうか。葵は地べたに這いつくばる姿勢になって、その光に向かって手をのばした。
手は空をつかむばかりである。葵はさらに身を乗りだした。重心で傾いて体が落ちないように、もう片方の手で絶壁の端をがっしりつかむ。精一杯腕を伸ばしてようやく手にとったそれは、冷たい金属の感触がした。体を引きずるように後ろへ引き返す。もう落ちる心配はないだろうというところまで引き返してから、手にとったそれを見るとそれは銀色の腕時計だった。
椋が白衣の下に隠していた腕時計に違いなかった。きっと死体を落とすときに引っかかってとれたのだろう。盤面には罅が入っていたが時計自体はカチコチとリズムよく秒針を刻んでいた。
たしかこの腕時計は本来、あの田村普とかいう青年が持っていたのではなかったか。それを椋に託したことで、のちにサクラ様の居場所を探し当てることに成功した。聡明な椋は田村普の真意に気付いていた。だからたとえ彼の趣味でなくとも、常に腕時計を肌身離さず持ち歩いていたのだろう。
もし自分が死ぬことになったとき、普との交流を周囲に探られては厄介だろうと考えた椋が、自分の死体と共に処分することを考えたのだろう。だが運悪く、時計だけは残されてしまった。
葵は思わず笑ってしまった。椋にしては珍しい失態だなと思った。だが偶然の事故だった。見つけたのが島の連中ではなく自分だったことに、椋には感謝してもらいたい。
腕時計を見たのは初めてだった。島にも時計は存在したが、持ち歩ける時計なんてものはなかった。時間を知るのは太陽の動きか、あるいは「この時間帯はこういうことをしている」という自分の習慣に頼ることがほとんどだからだ。
円盤の縁をなぞってから、右側にある突起(竜頭)を触ったとき、突然円盤が上にパカッと開かれた。
壊してしまったかと慌てたが、そうではなかった。時計の下は小物入れのような窪みがあって、そこには一枚の小さな紙片が入れてあった。
葵は迷わずそれを手に取った。細かく折りたたまれたそれを慎重に開くと、そこには田村普の名前とハイフンが2つほど引かれた数字が書き込まれていた。見たことある。祭りの日、普が懐から差し出してきた紙によく似ていた。葵はそれをすぐにつき返したけれど、椋も持っていたのか。
そのとき葵は、椋が電話の最後に残した言葉を思い出した。
「僕、やっぱりサクラ様は生きるべきだと思う。――だから僕は、キミと田村さんに託すよ」
葵は急いで立ち上がり、屋敷への道を全力疾走した。
裏庭から屋敷へ戻ったとき、突如屋敷の窓が開いてそこから寝間着姿のサクラ様が顔をだした。
「その様子を見る限りでは、元気そうね」
サクラ様の白い手がすっと伸びる。葵はその手と窓枠を掴むと勢いをつけて窓枠にあがった。履いていた草履を脱いでからサクラ様の部屋に足をつけた。
「薬師椋が死んだそうね」
「ああ」
「彼は良い人だったわ。臆病で常に周囲をうかがっているところがあったけれど、優しくて誰よりも気遣いのできる人だったわ」
「ああ」
「そんな彼がね言ったのよ、祭りの日に。逃げてくださいって。きっと外にでれば島の外の人間が助けてくれるからって。あとのことは考えなくていいから、逃げてくださいって。そんな簡単に逃げられるわけないって、私は笑いそうになったわ。でもあのとき彼があんまり真剣な顔をしていて、私自身は今の環境にうんざりしていたから、どうせならその策に乗ろうと思ったの。結局見つかったけれど、あのとき私たちの前に現れた男。あれが島の外の人間ね」
「ああ」
「もし私がここからいなくなっても、きっと島の連中は儀式を続けるでしょうね。次は咲かしら。8歳のうちに自分の死を悟るのは難しいと思うわ。私には難しかったから。自分がいつかお母さまと同じように死ぬんだってわかったとき、怖くてしょうがなかった。同時に、死ぬってどういう感じなんだろうって考えてやはり怖かった。薬師椋は怖かったのかしらね。自分が死ぬとわかったとき」
「わからない。けど椋は、俺に託した」
「なら少しは希望を持っていたのかしらね。――そしたらあなたは、私をどうするつもりなの? 葵」
彼女から名前を呼ばれるのは初めてのことだった。
「あなたを逃がします」
「どこへ?」
「どこへでも遠くまで」
サクラ様はじっと葵を見つめ、それから「叶うといいわね」とつぶやいた。葵はその応えを聞きながら、彼女の脇をすり抜け、障子戸に手を置いた。
「今日はもう遅いので、これで失礼します」
それからふと気になって、彼女のほうをもう一度見た。背筋をぴんと伸ばして立った、独りの少女。その桜色の瞳にはどんな感情も浮かばれない。自分と同い年なはずなのに、何故彼女は自分の死を受け入れられないのに、その気持ちをずっと誰にも悟られることなく押し殺すことができたのだろう。
「――最後にあなたの名前を教えてください。サクラ様なんて呼んでも仕方がないので」
少女はそれまで無機質だった表情に、わずかに変化をもたらした。口をちょっと開けて、驚いた顔をして。しかしすぐにまた無表情になって言った。
「……
死にたくないという彼女の言葉をもう一度反芻する。きっと彼女だけではない。歴代のサクラ様は皆同じことを思っていたのだろう。死にたくない。生き続けたいと。だから先代は今のサクラ様に名前で託したのかもしれないと、葵は決してわかるはずのない答えを考えた。
「それではおやすみなさい、葉様」
葵は彼女に頭をさげて、部屋をあとにした。
次の日から葵は島の査問会議に呼ばれることになった。会議の内容は主に薬師椋との仲について、お偉い方から色々と聴取を受けた。まだ本土から帰って間もなく、椋を亡くしたストレスも癒えないままだったが、葵は毎日欠かすことなく必ず出席した。時には理不尽な質問を投げかけられたり、「異端者」だの「共犯者」だのと疑いをかけられたりもしたが、葵は都合の悪いことは全て誤魔化した上で、椋とはただの友だちだったことを主張し続けた。やがて葵から得られるものは何もないと悟ったのか、2週間が経った頃にようやく「もう来なくて良い」と許しを得ることになった。
葉とはあれ以来も、主人と従者の関係を続けている。少しでも変な行動を起こせば間違いなく消されるだろうと思ったからだ。周囲の大人たちは自分に目を光らせている。そうまでして島の風習や文化を守りたいのか。たった1人の少女を贄とするためにそうまで躍起になる島の連中の頭のおかしさに今さら葵は気付かされた。椋はいつからこれに気付いていたのだろうか。
今年で葉は16歳になる。あと4年のうちに彼女は櫻神の贄となって殺されることだろう。まだ時間はあるが、行動は早いうちに起こした方が良い。だが自分の力だけでやれるか。頼れる仲間はいない。せめて椋が生きているうちに行動を起こしておくんだったと後悔した。島の人間には頼れないのだ。島から脱出してからも、いったいどうすれば良いか。そしてどこへ行くべきか。
だが希望はある。椋の遺した時計からでてきた、名前と連絡先の書かれた紙だった。せめてもう一度だけ田村普と接触できれば。そしたら向こうも手立てを何か考えてくれるだろう。何せ本土側は、もう何十年も前から巫女を島の因習から解放するための組織を作っていたのだから。
問題はどうやって連絡をとるかだ。島にも電話線は引いてあるけれど、限られた家にしかない。葵の実家にはないし、だったら屋敷の電話があるけれどそれを使うと嫌でも人目についてしまう。今は慎重に動くべきときだ。せめて向こうからもう一度接触があれば良いのだが。もし腕時計についた例の探知機能がまだ壊れていなければ、向こうではすでに時計がどこにあるのか連絡がついているかもしれない。その手掛かりを向こうの人間がまだ大事に持っていることを祈るしかなかった。
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