第2話 唯一無二
もちろん葵は、島に帰ってくるまでその事実は知らなかったし、聞かされていなかった。島の船着き場に着くと、
葵がワタの前に立ち、「ただいま戻りました」と報告すると、彼女は頭をさげた。
「お帰りなさい、葵さん。長旅によるお疲れのところ申し訳ないけれど、
どうして、と問う暇も与えず、ワタは踵を返すとさっさと歩きだした。彼女が進む道にいた人たちが左右に素早く分かれる。葵はもう一度母を見た。彼女は今にも泣きだしそうな顔をしていた。
桜沢の家は島の中央に位置する櫻神のすぐ近くにある屋敷だ。サクラ様の住む屋敷と比べれば小さいが、それでも島のなかでは2番目くらいに大きな家だ。
正直そのときの葵は、早くベッドに入って休みたかった。ほぼ丸1日船に揺られていた葵は、疲労と船酔いの影響でだいぶグロッキーだった。しかしワタはそんな葵の体調など気にもかけずにどんどん先を歩いていく。だから葵は彼女のあとを追いかけるので精一杯だった。
桜沢家の門の前へ着くと、ワタはそこにいた2人の門番に何事か話しかけた。葵は後ろでなんとなく耳にしていたが、近い距離のはずなのに言葉が右耳から左耳を通り抜けていくだけで、まったく耳に入ってこなかった。
「葵さん、葵さん。行きますよ」
「――はい」
名前を呼ばれたことにすら数秒ほど遅れてしまう。葵は手の甲を軽くつねって無理やり自身を奮い立たせた。何があったかはわからないけれど、船着き場で見た母たちの表情を見るに何かとんでもないことが起きたのはたしかだった。
門番の許しを得て、敷地へ入る。すると門から屋敷への道のりの真ん中に、桜沢の当主が立っていた。
「お疲れ様。お帰りなさい、葵さん。日本での会談の報告を聞く前に確かめたいことがあってお呼びだてしたのよ。よろしいかしら」
「はい、大丈夫です」
不意に背筋にゾクッとした寒気が走った。まもなく夏になるというのに、どうして寒気なんかと、葵は腕をさすった。何故だかはわからないが、この先を聞いてはいけない。そんな気がした。
桜沢がゆっくりと口を開いた。
「
「は――」
頭のなかが一気に真っ白になった。
「葵!」ワタから名前を呼ばれて我に返ると、いつの間にか自分は膝を地面についていた。倒れた記憶すらない。
椋が裏切り者として、謀殺された。葵の頭はぐわんぐわんと揺れ動く。途端に吐き気がこみあげてきて、葵はその場で吐いた。すっぱいにおいがあたりに充満する。
「申し訳、ございません……」
「いいえ、気になさらないで。あなたは薬師椋とは1番の友であったと聞きますから、裏切り者と聞いてショックを受けるのはわかるわ」
葵は奥歯をかみしめた。
裏切り者と聞いてショックを受けたのではない。彼がとうの昔に島を裏切っていたのは知っていた。問題は彼が殺されたことだ。
ワタが跪き、葵の肩に手を置いた。
「だから葵、あなたが知っていることは何もかも話してほしいのよ。彼と仲の良かったあなたは親族と同じくらい共犯者として疑われている。疑いを晴らすためにも、捜査に協力してくれるわね」
「…………」
頭痛が鳴りやまない。視界がせばまっていくのがわかった。ドサッと大きな音がしたとき、葵は自分が倒れたことを知った。
目を覚ますと葵の目には見慣れた天井が映し出された。屋敷にある自分の部屋だと気付き、体を起こす。障子戸の外は真っ暗になっていて、すでに時刻が夜であることがわかった。
布団から出た葵は、よろめきながらも障子戸へ近づいていってそれを開けた。目の前に広がるのは見慣れた中庭の景色だった。
見張りが誰もいないことを確認してから、葵は部屋を出た。屋敷のなかはとても静かだった。隣の部屋のサクラ様の部屋は電気が消えていた。もしかしたらもう就寝の時間なのかもしれない。だとしたら自分は果たして、何時間ほど寝ていたのだろうか。島に着いたのは朝だったから、そこから10時間以上は寝ていたことになるかもしれない。
屋敷から出るあいだ、結局誰一人としてすれ違うものはなかった。だが、おそらく門前には門番が立っていることだろう。見つかったら何かと面倒だと感じ、屋敷の裏にまわって裏の森から出ることにした。
木をつたって塀を乗り越え、葵は道を進む。目指す場所は定まっていなかった。葵はただ歩き続けた。
屋敷の裏から遠回りで門の表側へと向かう。途中の道に誰もいないことを確認しながら、慎重に進んだ。どこかにある木から鳥が飛び立つ音が聞こえたときは肝を冷やした。バサバサバサッと大きな音がした。それからまた辺りは静寂に包まれた。葵はゆっくりと歩を進めた。
最初に通りかかったのは、駄菓子屋だった。平民の家で小柄な婆さんが1人で切り盛りしている店だった。平民の子どもたちはもちろん、華族の子どもたちにとってもここは憩いの場だった。葵もよく椋とここを訪れては、水風船で遊んだりアイスキャンディを食べたりしたものだ。
その途中に、ブランコと滑り台しかない公園がある。戦後まもない頃、島を占領地にしようとしたアメリカが設置したといわれていた。ここもやはり子どもたちには人気の場所で、滑り台に何回も挑戦したし、ブランコにいたっては葵にとって子ども時代を象徴する良い思い出だった。葵はブランコの立ち漕ぎが好きだった。けれど椋はそれが怖くて、葵に「やめようよ」なんてベソをかきだす。椋は自分が怖いことをするのは嫌だけれど、近くで怖いことをする人を見るのも嫌がる子だった。
公園を通り過ぎた先に看板が見える。「この先、学校」の字と共に矢印が右を向いていた。その通りに葵は進む。そして見慣れた学校にたどり着いた。いつも入っている東門から入った。
夜であるせいか、当たり前だが学校はとても暗かった。いつもはどこかしらで笑い声やはしゃぎ声が聞こえているのに、死んだように校舎は眠っている。小学生の頃に桜祭りで葵は椋と共に裏方の仕事を夕飯時まで続けた。いつまで経っても終わらない準備。けれどそれが楽しかった。いつもはオドオドしている椋も、このときばかりはとても楽しそうだった。
西にある正門からでて、一度葵は息をついてその場にしゃがみこんだ。尻につく土の感触が冷たい。けれどその冷たさは体に心地よかった。今さら自分が汗をかいていることを知る。屋敷から学校まで寄り道をしながら歩いてきたのだ。体が火照るのも当然だった。
空を見上げると、星が輝いていた。
椋は空を見上げるのが好きな少年だった。変わり映えしない空を見上げながら、昼間は「あそこの雲が面白い形してる」だの、夜は「あの星たちを結ぶと星座になるんだよ」と教えてくれた。どれもただの雲で星だろうってあきれた葵に、椋は笑って「そうかな」と言った。どうしてそんなに空が好きなんだよと聞いたら、「やっぱり椋って名前だからかな。ムクドリって空を飛ぶだろう? 空に憧れがあるんだよ、きっと」と楽しそうに言っていた。
立ち上がり、再び歩き出す。
島の西側には滅多に足を運んだことがなかった。別段用事もないのはもちろんのこと、そこにあるのはほとんどが平民の家ばかりだったからだ。だが、そのなかでも華族の家はいくつか存在する。そのうちの1つが薬師家だった。薬師家はサクラ様の主治医を務めながら、島唯一の診療所も兼ねていた。だがあくまで優先するのはサクラ様。もしすぐ近くで危篤の患者がいてその時間がサクラ様の内診と重なるようであれば、必ず薬師はサクラ様を優先する。そんな大事な一族が何故屋敷と離れているのか。昔椋に聞いたら、「当時のご先祖はサクラ様より民間の方たちを優先していたからだ」と教えてくれた。もしもそれを村のお偉いさんに聞かせたら、烈火のごとく怒り狂うだろうなと葵はぼんやり思った。
「薬師診療所」と書かれた古ぼけた看板が立てかけられた、家の前を通る。葵の実家と変わらない大きさだが、それでも一般の家よりはまだ大きい方だ。その家には明かりがともっていなかった。スズメは本土だから今家にいるのは、ハトとツバメだけのはずだ。みんな寝ているのだろうか。あるいは椋のことで査問会議にかけられているのだろうか。まだ椋の遺された家族がどうなったか葵にはわからなかった。
椋は、どうして殺されなければならなかったのだろう。
島へ帰る前日の夜、突然椋は葵に電話をかけてきた。受話器越しから聞こえる声は、いつもと変わらない様子だった。けれど話の内容はおかしかった。「声を聞きたくなったから電話をした」と言ったときは、気持ちの悪い奴だなと本気で思った。中学にあがってからは葵はサクラ様の傍付きの役割を父から正式に譲り受け、椋も医者の勉強をするために毎日必死になって勉強していた。だからって交友関係がなくなったわけではなかった。学校にいるあいだはよく2人で話していたし、互いに3年生になったら椋は本土に行ってしまったけれど、彼が帰ると屋敷の部屋で2人だけで話すこともあった。同年代の男友だちがいるのは、葵にとっても椋にとっても貴重だった。周囲にいる子どもたちのほとんどは年が違うか、あるいは同じでも身分の違いがあったり、一族の生業ゆえに交流がなくなるかのどちらかだった。
あの夜電話してきた椋はきっと、気付いていたのだ。自分が近いうちに消されることを。彼は医者の卵で学校成績は常にトップだった。勘が鋭いところもあった。あんなに周囲の顔色ばかりうかがう情けない奴なのに、サクラ様を救いたいと言って本土の人間と内密に交流を続けていた。
どうしてあんな馬鹿なことを、彼はしたのだろう。どうして自分はそれを馬鹿なことだと片付けてしまったのだろう。
薬師椋は、もういない。葵にとって唯一無二の友だちはすでに失われてしまった。
葵は家の前で静かに涙を流した。
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