第5話 暗殺
翌日葵のもとへは朝食が届けられた。昨夜屋敷に戻ってきた葵に、ワタが「明日から屋敷の朝食を摂ってもらいますよ」とそんなことを言ってきた。突然というわけでもない。前々から朝食をしっかりいただくようにと散々言われてきた。しかしその言葉を無視したのは葵だ。仕方なく葵はうなずいた。
目の前にある朝食を見ると、途端に食欲が失せそうになる。別に、朝が食べられない体質ではない。
人からだされたものは嫌いだ。母や祖母の作ってくれるご飯ならばともかく、まったくの赤の他人がくれるご飯。だがここで拒んでしまえば――それこそ中庭にぶちまけてしまえば、葵はサクラ様と同じになる。食べる物に特にこだわりを見せないとはいえ、そういった行いは作ってくれた人に対して失礼で、サクラ様の行為は我儘だった。葵はまず、ナスの味噌汁に口をつけた。
飲み込んだ直後、胸の奥からせりあがってくる熱を感じた。
葵は思わず口をおさえる。せりあがってきた熱は喉まででかかり、口のなかをすっぱくして、次の瞬間には吐き出していた。赤い色が視界にあふれ、鉄のにおいが部屋全体に充満する。視界がぼやけて、葵はよろめいた。体に力が入らないのがわかる。前のめりに倒れると、ちゃぶ台に並べられた皿ががしゃがしゃと音をたてて床へ落ちた。しかし痛みにうめくことも、体を動かすこともできなかった。
誰かが部屋に入ってくる気配がする。しかし顔をあげられない。体は動いているが、脳からの命令で動いているわけではなかった。これは痙攣だった。びくびくと動いたまま止まらない。「誰かぁっ!」という女の叫び声が聞こえた。そのあとにドタドタと廊下を駆ける足音。「薬師を呼べっ」という切羽詰まった声。葵はびくびくと体を震わせながら、その声たちを聞いていた。
再び意識を取り戻したとき、葵は天井の板の目を見つめていた。
「目覚めた?」
ささやくような声が聞こえた。体がうまく動かなかったので、目だけを声のしたほうへ向けると、枕元には正座をしたサクラ様の姿があった。冷たい桜色の瞳で寝ている葵を見下ろしている。
「あなたの今朝、食べたご飯にね。毒が入っていたそうなの。致死量はたいしたことないそうよ。ハトが言っていたわ」
そうですか、と紡ごうとした口もうまくまわらない。しばらくはまともに体を動かせないのだろうと悟った。
「運が良かったわね。私のために盛られたものだから、助かったのよ」
葵は眉間に皺を寄せた。
昔から自分は、人に与えられた食べ物をもらうことが嫌いだった。両親はともかく、全くの他人に手渡された料理はどうしても手をつけることに抵抗があった。サクラ様を護衛する立場というのは、盾になるだけではない。こうやって毒見役をまかされることだってある。その毒で万が一にでも死ぬことがないように幼い頃から慣らされていた。
だから葵は、人が与えた食べ物を食べることができなかった。
サクラ様は無表情だった顔を不意にゆがめ、フッと笑い出した。それは嘲るような笑い方だった。サクラ様は屈んで、葵の耳もとに口を寄せた。
「これが死ぬってことよ。あなたにわかる?」
サクラ様は体を起き上がらせた。
「私たち巫女は、選ばれただけでは終わらない。島の風習をなくそうと躍起になっている島の外の連中にも命を奪われることになるのよ。暗殺されようと生き埋めにされようと、結局死ぬことに変わりはないのに、外の人間にとって巫女を殺せばそれで風習がなくなるもんだと思っているみたいね。私の代わりなんてまだいるのにね」
サクラ様は口元を浄衣の袂でおさえながら、上品にくすくす笑った。
「どうやら今回の騒動は他国に金を握らされた、うちの料理番の1人がしたらしいの。今、その人は尋問だか、拷問だかを受けている。きっと今日か明日のうちに死ぬわね。かわいそうに」
その口ぶりとは裏腹に、サクラ様はくすくす笑っている。自分のせいで誰が死のうがどうでも良いと思っているらしい。
にらみつけていると、サクラ様はぴたりと笑うのを止めて葵の前髪をぐっとつかんだ。
「何よ、その目。あなたにはわからないでしょうね。死ぬってことが、殺されるってことがどういうことか。私のお母さまはね、あなたたちに殺されたのよ。櫻神とかいう居もしない神の犠牲になって。私がどれだけあなたたちのことを憎いと思ってるか、あなたにわかる?」
前髪を握る手がぶるぶると震えている。悲しみによるものか、あるいは怒りによるものか。葵にはわからなかった。だが前髪をつかまれている感覚が葵にはなかった。どうやら触覚まで麻痺しているらしい。葵はどうすることもできずに、サクラ様を見つめた。
「私のお母さまはあなたたちに殺された。お父さまもあなたたちに殺されたの。あなたたちがくだらない神を崇拝しているせいで、私の家族はもうこの世にいないわ。あなたにわかる? この気持ち。人の理不尽のせいで大切な人を失った痛み。わかるわけないわよね。だってあなたは、神以外から私を守るためだけに存在しているにすぎないんだもの」
サクラ様は葵の上にかけられている毛布をひっぺがし、そこにある両足をばしばし叩いてきた。音は聞こえるが、触られているという感覚がなかった。
「地につく足があるくせに、あなたたちはくだらない風習に縛られて動かされている。そんなの操り人形にすぎないわ! 私は自分の足で立って歩きたいの! くだらない! 本当にくだらない! そんなくだらない島の決まりごとで、私の命を散らせてたまるもんですかっ!」
次第に音は強くなる。葵はそれをただぼんやりと聞いていた。頭が朦朧としている。毒の副作用だろうかと、思った。
バシッ、と最後に音が響いたとき、足元にある障子戸がわずかに開いた。サクラ様は葵の足を叩く手を止め、毛布を葵の足にかけ直す。それから、自分の手を膝の上に丸めて途端におとなしくなった。憤怒にゆがんでいた顔も一気に無表情になる。
部屋にやってきたのは、薬師ハト。椋の母だった。
「お加減はいかがかしら、葵くん」
口をぱくぱく動かす。話すことができないアピールのつもりだった。それで通じたのか、ハトはうなずいてくれた。彼女は葵から、サクラ様へと視線を移す。
「サクラ様、ありがとうございます。見張りを任せてしまい、申し訳ございません。お手を煩わせてしまいました」
サクラ様はハトを見て、黙って首を横に振った。先ほどの態度とはえらい違いだ。もしかしたら、今の豹変ぶりこそがサクラ様の本性なのではないかと葵は今さら気が付いた。
サクラ様は立ち上がって、ハトの横を通り過ぎた。廊下へ出て、直後に隣の障子戸が閉まる音が聞こえた。どうやら自分の部屋へと帰ったらしい。
「しばらくは毒の後遺症で動けない可能性がありますから、護衛の任は葵くんの御父上の木槿さんにお願いするそうです。それまで自宅で療養なさってください」
うなずくこともできず、葵は瞬きを一度した。それが肯定の印だった。
その日のうちに実家に戻された葵は、母にひどく心配された一方でワタからは満足げな表情を浮かべられた。
「サクラ様を無事にお守りすることができたと聞き及びました。よく頑張りましたね」
それは初めて見るワタの優しい笑顔で、この人からは孫よりもサクラ様の方が大事なんだと気付かされた。
学校も何日か休んだ。そのあいだに、お見舞いに来たのは椋と満くらいだった。椋はお見舞いの傍らハトの代わりに葵の面倒を見て、満はサクラ様を守ってくれたことに感謝を示すと同時に悲し気な表情を浮かべていた。
昼間は家の古い洗濯機が唸りをあげているのがやかましかった。
1週間も経つ頃には体はだいぶ楽になってきた。
「葵、平気……?」
椋は用事がないときでも、学校が終わると定期的に葵のもとを訪れた。
「ああ。迷惑かけたな」
「迷惑だなんて、思わないよ……。葵が倒れたって聞いたとき、……びっくりしたんだ」
「俺もびっくりしたよ。死ぬかと思った」
死、と口にしてから、サクラ様の言葉を思い出した。サクラ様は死ぬのは嫌だとわめき、癇癪を起こしたみたいに葵の感覚の薄れた足を何度も叩いた。何かに抗っているようだと感じた。もし、朝食に手をつけないのも、祭り当日に行方をくらましたのも、それから葵と口を利かないのも全て、反抗心だとしたら?
椋が手にしていた鞄をごそごそ漁りだし、中から厚めの封筒を取り出した。
「これ。葵が休んでいるあいだの、学校の課題。持ってきた……」
「ありがとう」
葵はそれを受け取り、サイドテーブルに置いた。
「椋はいつ、本土へ行くんだ?」
「本当は祭り終わったらすぐの予定だったんだけど、昨日お母さまから。しばらく残っていなさいって言われたんだ」
「学校の方は大丈夫なのか? 休んでても」
「平気。このあいだまで、本土は長期休みだったんだ。1週間くらい、欠席することになるけど……。まあ、なんとかなるよ」
そして椋は、頭の後ろをかきながら笑った。
夜になると、椋の姉であるツバメがやってきた。
「久しぶりね、葵くん。元気かしら」
「はい、おかげさまで」
ツバメはつん、と鼻をそらしながらずかずかと葵の枕元へ歩み寄ってきた。
「サクラ様はどんなご様子か、聞いてもいいですか?」
「どうもこうもないわよ! 聞かれたことは無視するか、あるいはうなずくだけ。表情一つ変えやしない。まるで人形ね!」
ツバメは大袈裟に身振り手振りで、自分の感情を表現する。肩をすくめて、辟易とした表情をして。
「先代サクラ様と血がつながっているのに、どうしてああかわいげがないのかしら。先代サクラ様はすごかったわ。幼いながらに素晴らしい人だって実感できたもの。でもあの子、あの子はなーんにもしゃべらない。はいもいいえも言わない。せめて表情くらい変えなさいよ。葵くんもよく、あんな子どもと終始一緒にいられるわね」
「ツバメさん、声おさえてください。祖母上に聞かれたら面倒なので」
葵は声を小さくしてツバメに忠告した。ツバメはやはり大袈裟に、両手で口をおさえる。それからドアへ目線をやって、誰の気配もないことをたしかめてから、大きくため息をついた。
「でもあなたは元気そうでよかったわ。後遺症でも残ったらどうしようかって思ったもの。そしたら椋に顔向けできない」
「毒には慣らされているので、大丈夫です」
それから葵は口を撫でた。毒には慣らされているとはいっても、それは身体的な問題だ。精神的にはいまだに慣れない。今後いつ、食事に毒を盛られるかわかったものではない。正直、赤の他人がだす料理なんて、もう食べたくなかった。
「そういえば、毒盛ったとかいう人はどうなったんですか?」
「あー、あれね。大人たちの話では知りたいことを洗いざらい聞きだしたあと、その日のうちに処分したそうよ。今頃、海の藻屑じゃないかしら」
島の西方面の海には、昔から幽霊が出ると噂されるスポットがある。島の幼い子どもたちは何か悪さをするたびに、「西の海に置いてくよ!」と大人に脅されて育つのだ。本当に幽霊がでるかどうかは知らないが、島の裏切り者の死体は度々そこに投げ込まれている。彼らに専用の墓は用意されない。
翌々日には学校に復帰できるだろうと、椋から言われたその日。それまで同じ屋根の下にいながら、一度として葵の見舞いにやってこなかったワタが初めて顔をだした。
「歩けますか? 大事な話があるので、浄衣に着替えた後。下まで降りてきてください」
大事な話があるなら、ここですれば良いのにという言葉は呑み込んだ。ちょうど良いリハビリにもなるだろうと判断したからだ。ここ1週間のうちに床に足をつけて歩いたのは、トイレや風呂へ行くかくらいかだった。
ワタに言われたとおり、いつも着ている浄衣に袖を通した。これも1週間ぶりの行いだ。姿見で自分の格好を確認し、乱れた髪を簡単に直す。べッドにいることが慣れてしまったせいで、髪にはすっかり癖がついてしまった。部屋をでて階段を降りると、その先に女性の姿を見た。
ワタと同い年くらいの――70は超えていそうな女性だった。その女性は、完璧な白髪の持ち主で、それをカールに巻いている。召し物は、藍色の着物を着て、練色の帯を巻いていた。化粧の仕方がうまいのか、肌の色も唇の色もうるさすぎず、実年齢より若そうに見えたが、葵はこの女性がワタと同い年くらいだということを知っていた。
櫻神之島において、櫻神の守護を任されている長。
「お久しぶりです、桜沢さん」
「久しぶりね。お加減はもういいのかしら」
「はい。ご心配いただき、ありがとうございます」
「いいえ。いいのよ。あなたは立派なお役目を果たされたわ。おかげで、島の裏切り者をあぶりだすことができたのだから」
桜沢はそう言って、袖で口をおさえながら「ホホ」と小さく笑って見せた。ワタも機嫌が良く笑っていたが、葵は表情一つ変えなかった。
「今回はどのような用件で?」
「――そうだったわ。この度、サクラ様の存在が日本側に知れ渡ってしまったの。誰の仕業かは現在調査中ということで、葵くんも何かご存知のことがあれば教えてくれると助かるわ」
「ご期待に添えず申し訳ございませんが、俺は何も知りません」
「そう。まあ、これはついでなのよ。あなたは女中の誰かから言伝を受けてサクラ様の傍を留守にしていただけだものね。本題は別にあるわ。葵くん、突然だけどあなたには明日から日本に行ってもらいます。日本側がサクラ様を拉致せんと強硬手段をとる前に、どうか彼らとの仲を取り持っていただきたいのです」
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