第3話 脱走

 葵は木槿と共に屋敷へ戻った。サクラ様の部屋の前には満と椋もいて、満はすぐに他の仲間を呼びに部屋の前からいなくなった。椋は「ごめんなさい」と涙を流す寸前みたいな顔でおろおろしていたが、今は構っている余裕などなかった。

 サクラ様の部屋を調べると中はもぬけの殻。人1人の部屋にしては、5人以上もそこに雑魚寝ができるほどの部屋には、先ほどまでサクラ様がそこにいた証拠に、祭りで舞いをするために必要な扇子が落ちていて、窓は開いていた。おそらくそこから抜け出したのだろうと思い、葵は開け放たれたままの窓から身を乗りだす。窓から見える景色は木で囲まれた森の中だが、地面を見ると足跡がついていた。その足跡が森へ向かっている。葵は窓から降りた。


「葵」


 木槿の呼びかけに葵は顔をあげた。


「足跡があるようですので、ここからたどってみます。父上は満様と協力して、他に仲間を呼んできてください」


 それから葵は足跡を注視しながら森のなかを走った。

 今、何時くらいなのだろうと葵は走りながら考える。祭りの開始は9時からでその1時間後にはサクラ様が大樹の下で舞を披露することとなっている。せめて10時前までには間に合わないといけない。だがそのためには時間がわかるものが必要だった。

 葵が実家に一度向かったのは、ほんの10分程度。そこから戻ってくるのなんて5分もかからないから、サクラ様もきっと遠くまでは行っていないはずだ。しかし、途中で足跡が途切れた。地面が土から雑草に変わっていて微妙に分かりづらい。その上、裏庭はそれほど手入れされていないこともあって、足跡なのかどうかも判別がつきにくかった。

 そのとき、森の奥でわずかにガサガサと、草を分け入るような音が葵の耳に届いた。思わず顔をあげると、木々のあいだで判別しづらいが、人の姿があるように見える。葵は慎重にそこへ近づいた。

 やがて視界に、白い足を傷だらけにした少女の姿が見えた。舞を舞うための袿袴は泥や草で汚れている。サクラ様だった。


「探しましたよ」


 葵がそう言って、サクラ様の手をとろうとしたとき、サクラ様は葵の手を振り払った。


「無礼者!」


 久方ぶりに聞いたサクラ様の第一声は、それだった。


「それは失礼いたしました。しかしサクラ様、まもなく祭りが開催されてしまいます。主役が不在となればどうにもなりません」

「……なら、中止にすれば良いのです」

「そういうわけには参りません。島の皆もこの日を待ちわびて準備をしてきました。もちろん、私もです。サクラ様はそれさえも無下に扱うと言うのですか」

「サクラ様、サクラ様って! その言い方もやめてちょうだいよ! 私はサクラじゃないわよ!」

「何を言っているんですか」


 わけのわからないことばかり言いだして、葵は耳を疑った。急にどうしたというのだろうか。葵はサクラ様をまじまじと見つめる。桜色の瞳、背中まで届く長い髪を今日も上等な簪でまとめている。間違いなく、毎日のように見ているサクラ様そのものだった。


「戻りますよ。サクラ様。皆、待っておられますから」

「いやっ、いやよっ! 私はもう戻らない。離してよっ! 私は死にたくなんてないんだからっ!」


 サクラ様が叫んだと同時に、ガサガサという物音が聞こえた。誰か援軍でも来たのだろうかと葵が顔をあげると、そこにはスーツ姿の男性が立っていた。目は黒いため、この島の人間でないことを葵は瞬時に見抜いた。櫻神之国の人間は瞳の色が桜色なのだ。

 葵は顔をしかめた。もしかしたら彼は、祖母や父が噂していた、本土から派遣された視察団の人間なのかもしれない。

 サクラ様も突如現れたスーツの男を見て、困惑しているようだった。葵はサクラ様の盾になって、「どなたですか?」と問いかけた。

 男は葵とサクラ様を見つめてしばし呆然としていたが、葵の問いかけに我に返って「申し遅れました」と口にした。男は自らの懐に手を伸ばし、そこから1枚の紙を抜き取った。

 葵は思わず身構える。男は葵に無警戒な様子で近づくと、手にしていた紙を葵に向かって差し出した。


「私、日本から来ました。桜ノ島対策の会のメンバーの1人である、田村たむらあまねといいます。そちらにいらっしゃる女性が、サクラ様と間違えはございませんか?」

「そうよ」


 サクラ様は間髪入れずにうなずいた。

 葵はもう一度、男にもらった紙を眺めた。「桜ノ島対策の会 会員 田村普」。本土には桜ノ島の文化を否定するための組織があると聞く。その組織の主な目的はサクラ様の拉致だと幼い頃から葵も教えられてきた。だから島の人間以外の人に、サクラ様は極力会わせないようにしている。


「屋敷の警備は厳重のはずです。あなたはどう見ても部外者ですが、どうしてここに侵入できたのですか?」

「監視カメラを使っていればきっと違ったのでしょうが、数人の人間や番犬を配置した程度では、侵入者を追い返すなんてできませんよ」

「そうですか」


 監視カメラというものがどんなものなのか、葵にはよくわからなかった。カメラはあるから、監視するためのカメラということだろうと納得する。


「いったいどのような用でいらっしゃったのか、聞いてもよろしいですか?」


 普に手渡された紙を彼につき返しながら、葵は問う。普はその紙を仕方なさそうに受け取った。


「そちらにいる巫女の、身の引き渡しを要求しに参りました」

「だとしたら、ちゃんと礼儀を通して。正規の方法でこちらに参ってほしいものです。あまり突飛な行動をされると、あとで何をされても文句を言えませんよ」

「たしかにそうですね」


 森のなかがわずかにざわめく音が聞こえた。葵も普もそちらに目を向ける。何十人という人間が束になって、こちらに近づいてくるような音だった。島の人間たちが応援に駆け付けに来たのだろう。

 葵は彼らとは反対の方向を指差した。


「あちらに行けば、人目に触れることなく街中へ戻ることができます」

「逃がしてくださるのですか?」

「今はそれよりも、祭りの実行の方が大事ですので」

「ありがとうございます」


 普は頭をさげると、急ぎ足で葵が指示した方角――森の奥へと消えていった。物音一つ立たないような足取りだったのが、奇妙だった。

 やがて束になって大勢の人がやってくる。その先頭に木槿がいた。葵はサクラ様の手をとる。


「大丈夫ですか?」


 サクラ様はもう何も言わなかった。葵の手をとり黙って立ち上がると、すぐにその手を離して、木槿のもとへと歩いていった。

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