第3章

第1話 祭りの前日

 サクラ様の1日は、まず体のお清めから始まる。屋敷の裏にある湧き水を桶に注ぎ、頭からかぶるのだ。夏だろうと冬だろうと関係ない。体を充分に清め終えたら、濡れたまま島の中心部にある桜の大樹まで歩く。

 あおいとサクラ様の伯父にあたるみつるは、そのあとについていった。道中、島の人たちがサクラ様の通る道を開けて、深々とお辞儀をする。中には額をこすらんばかりに地面に跪いている者までいた。サクラ様の姿が完全に見えなくなるまで、彼らはそうやってサクラ様を崇める。この島の人間たちの朝は早い。大樹への礼拝に向かうサクラ様を一目見ようと大勢の人たちが集まってくるのだ。

 見物人たちの列は大樹のあたりまで続けられていた。注連縄で繋がった2本の桜の木――この2本はごく普通の桜の木なので、5月にもなれば新緑が芽吹いていた――。その向こう側へとサクラ様は桟橋を渡って歩いていった。その先を歩くことは、葵や満は許されていない。その先は、神聖な場所。女性しか入ることを許されていない場所だった。この島に住む男たちは幼い頃から、大樹のもとへ足を踏み入れてはならないと固く言われている。男性は穢れを持ち込んでしまうからと昔から戒められていた。

 サクラ様の後を追うように、島の女性たちが何人か連れ立って境の向こうへと姿を消した。葵はただじっとサクラ様を待った。

 注連縄を境とした、大樹へ行くための道にある橋の下には、川がある。この川は大樹の周りをぐるりと囲うようにして流れている。大樹の存在するあたりは、1種の小さな島のようになっているのだ。

 10分くらいして、サクラ様が戻ってきた。その後ろには一緒に入っていった女性たちもいた。サクラ様は注連縄のこちら側へ降り立つと、最後に一礼をしてから屋敷への道を戻った。葵と満もそのあとに続いた。

 屋敷に戻ると、サクラ様は早々に部屋へと戻った。


「葵くん」


 葵も部屋へ戻ろうとした矢先、満に呼び止められた。


「今日の朝ごはんはいかがいたしますか?」

「……自分で済ませるので、問題ありません」

「わかりました。では」


 満は頭をさげて、葵の前から姿を消した。

 葵も自分の部屋に戻って、制服に着替えた。机の引き出しを開けて、そこから固形物の栄養食品を取り出し、包装ビニルを破って口にくわえた。最後の一口を食べ、口に残ったぱさぱさした感触を飲料水で流し込む。そのあいだに、隣の部屋では誰かが部屋に入って、出る音が聞こえた。そしてまた、誰かが部屋を出て、何か大きな音が聞こえた。

 葵はペットボトルをそのままにして廊下へ出た。白の小袖に桜色の袴を履いたサクラ様がまたも朝食をひっくり返し、中庭にぶちまけていた。葵はため息をついた。


「何をなさっているんですか?」


 しかしサクラ様は葵の問いかけに答えず、踵を返すと部屋へ戻って障子戸をぴしゃりと閉めてしまった。葵は中庭を覗き込む。白米、味噌汁、卵焼きや鮎、ワラビなどが混ざり合ってぐちゃぐちゃになっていた。

 足音がしてきたので顔をあげると、満が桜餅を供えた三方の台座を持って歩いてきた。


「サクラ様は?」

「今、自室にいらっしゃいます」

「わかりました。ありがとうございます」


 最後に満は葵が見ている中庭へと視線を向けて、そこにある朝食だったものを見た。その表情からは何も読み取れない。満はそのままサクラ様の部屋の障子戸を叩いて中へ入ってしまった。

 葵は女中を呼んで、またいつもみたいに中庭の掃除をお願いした。



 祭りは明日に迫っていた。学校で華族部に所属している子どもたちは、島の年中行事が間近になると、学校の勉強を午前中で切り上げて午後はほとんど大人たちに交じって祭りの準備に参加することが多くなる。

 葵も椋ももちろん働いた。

 椋とは、あの日以来まともな会話をしていない。椋は葵を避けたがっているようで、葵も椋とはなるべくかかわりたくなかった。幼い頃から喧嘩をするといつもこんな感じになっていた。だが、そもそもこれは喧嘩と呼べるのか葵にはわからなかった。

 本土から戻ってきて以来、椋はどこかおかしい。きっと本土で島の良からぬ噂を聞いてしまったのかもしれない。椋は何かと流されやすい質だ。

 葵の今日の仕事は、サクラ様の叔母家族と面会をすることだった。祭り当日の段取りなどを彼女たちに伝えなくてはいけなかった。

 叔母家族は屋敷にはおらず、そこより少し距離のある離れの方に住んでいる。離れは屋敷の母屋ほどの大きさではないが、それでも家族四人が住むには充分な広さだった。離れを訪れて、そこにいる警護の人たちに面会の予約をとっていたことを告げると、案内をしてくれた。

 玄関から入り、廊下を右に左に曲がって進んだ。奥にある部屋の障子戸の前にたどり着くと、案内人の女性はその戸を拳で軽く叩いた。


「14時から面会予定の、葵さんがいらっしゃいました。お通ししてもよろしいでしょうか?」

「入っていいわ」


 中から固い女性の声が聞こえた。案内人は葵に戸を開けるようにうながす。葵は彼女に頭をさげてお礼をしてから、戸をたたいた。


「葵です。失礼します」


 葵は戸を音をたてずに、スッと開いた。中は20畳ほどの和室になっていて、そこでは目つきの鋭い短髪の女性と彼女によく似た顔立ちの女の子が2人いて、3人ともそれぞれに扇子を持ちながら踊りの稽古をしていた。


吉野よしの様、さき様、花笠はながさ様。お久しぶりです」

「あ、葵くんだぁ」


 気さくに話しかけてきたのは、2つ結びの女の子――咲だった。続いて彼女の隣にいた妹の花笠が、母親と同じ短い髪を揺らして振り向いた。


「あおいくんだ」


 彼女も姉を真似するように、葵の名前を嬉しそうに呼んできた。


「一度休憩に致します」


 2人の母の吉野はそう言うと、立ち上がって「葵くん、こちらへ」と言いながら廊下へでてきた。葵は咲たちに向かって頭をさげると、戸を閉めて吉野のあとへついていった。

 吉野はサクラ様の叔母にあたる人物で、先代サクラ様の妹だ。つまり、満の実の妹ということでもある。彼女の役割は次代のサクラ様と、さらにそのあとの世継ぎを産むための子どもを作ることだった。彼女の子どもの咲は、次代のサクラ様候補。齢3歳の幼い花笠はさらにそのあとのサクラ様を産み育てるために存在している。

 吉野はまず厨房に顔をだして、「お茶を2つ用意して、応接間に運んでください」と中にいる人に頼んだ。それから葵を応接間まで案内した。そこは椅子がある部屋だった。

 葵と吉野はテーブルを挟んだ状態で、椅子に腰かけた。そのあとすぐに女中が顔をだして2人分のお茶をだしてくる。彼女はそのまま引き下がった。部屋にはまた2人だけが残された。葵は口を開いた。


「今日お訪ねした理由は、明日開かれる桜祭りの段取りについてです。まず、朝の9時に屋敷から使いの者が吉野様方一行を迎えにあがります。続いて、10時に大樹の下で行われる、サクラ様の奉納演舞の観賞。11時から吉野様、咲様、花笠様による演舞をご披露していただきます」

「昨年とほとんど変わらないようね」


「はい。それから14時に大樹への大礼拝。15時に島の学校へサクラ様とうかがい、そこの講堂で高校生たちによる、櫻巫女奉納ノ儀の演劇を観賞していただきます。17時には終わる予定ですので、そこから島の男性たちによる神輿担ぎをご覧になり、20時にはサクラ様の夜の奉納演舞の観賞。最後にまた大樹への礼拝を済ませて終わりになります」

「そう」


 吉野は湯呑を持ち上げ、流れる動作で湯気のたった熱いお茶を一口飲んだ。


「あなたもいただきになったら?」

「ありがとうございます」


 葵は礼を言いつつも、しかし湯呑には手をつけなかった。吉野は葵のことを見つめながら、「サクラ様は元気かしら?」と尋ねた。


「最後に会ったのは、たしか昨年冬の小葉桜こばざくら祭り以来ね」

「はい、元気でいらっしゃいます」

「そう。でも噂も耳にするわ。あの子、屋敷の人間を困らせて、やりたい放題しているそうね」

「いえ、それは所詮人の噂です。そのような事実はありません」


 本当は吉野の言うとおり事実だったが、サクラ様の名誉のためにも葵は噓をついた。吉野は葵から視線をそらさず真っすぐ見つめて、一言「そう」とだけつぶやいた。


「満姉さま――あ、兄さまだったわね。彼は? 元気かしら。サクラ様に常に付き従っているから、めったに会えないのだけれど」

「はい。満様も元気でいらっしゃいます」

「そう。祭りが終わったら会えたりしないかしら。久しぶりに兄妹水入らずで話したいわ」

「うかがってみます」

「なるべく早く、返事をちょうだい。何なら、遣いを寄こしてもかまわないから」

「承知しました」


 吉野はため息をついて、椅子に深く腰かけた。心なしか、少しやつれているように見える。祭りは明日だ。彼女は娘2人と演舞を披露することになっている。それもあって緊張しているのかもしれなかった。


「何かご不明な点などはございますか?」

「いえ、大丈夫よ」

「それでは失礼いたします」


 葵は立ち上がって、頭をさげた。そのまま応接間を出ようとすると「待って」と吉野に呼び止められた。


「なんでしょうか?」

「サクラ様は逃げないわよね」

「逃げる、とは?」

「なんでもないわ」


 葵は部屋を出た。来た道を戻るようにして、離れをあとにする。頭のなかは、吉野の言った「逃げないわよね」という言葉がこだましていた。

 それは巫女としての役目を放棄する、ということだろうか。サクラ様が? 何故。朝食に手をつけないまま中庭にぶちまけたり、常に不機嫌そうだったり、伯父の満にさえ心を開いているのかもわからない彼女だが、無責任すぎるということもない。幼い頃から葵は彼女をよく見てきた。年中行事は欠かさず出席している。

 だが、幼い頃と今とを比べると、サクラ様はだいぶ変わったような気がする。彼女は昔泣き虫だった記憶がある。怖がり、人見知り。常に先代サクラ様の傍を片時も離れない子だった。母が近くにいないとよく泣いていた。

 変わったのは、先代サクラ様が奉納されてからだった。無口、無表情、無感覚。葵が最後に彼女の声を聞いたのは、いつだったろうか。あまり記憶にない。父や祖母からは必要以上にサクラ様と言葉を交わすなときつく言われている。自分とサクラ様とでは身分が違いすぎるのだから、言葉を交わしすぎるのは罰が当たると。

 そんな彼女が逃げるだなんて、吉野様もどうしたのだろうかと葵は考える。これまで、巫女となった女性が役目を放棄して逃げた話は聞かない。先代サクラ様も、見事に役目を成し遂げて見せた。

 だが本来、先代サクラ様は子どもを産む立場ではなかった。桜の大樹に奉納される娘は穢れのない、処女が好まれるという。だから先代サクラ様の後の世代を産むのは本来、吉野の役割だった。しかし、先代サクラ様は子を成した。当時彼女の傍に付き従っていた、葵の一族とはまた別の、傍付きによって。その傍付きは結局、一族もろとも水死体になって発見された。暗部によって殺されたと聞いた。本当かどうかはわからない。真相は闇の中だ。

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