第2話 異民
この紙をもらったのは、ほんの半年前のことだった。卒業した、同区にある大学の特別講師として招かれた普はそこで桜ノ島とその文化に関する講演を行った。その学校には様々な学部があり、講演は文学部や国際教養学部のために開かれたものであったが、興味があれば、他学部生も参加して良いものだった。
講演を終え、帰宅の準備をしていた普のもとにその生徒は現れた。大学生にしては妙に子どもすぎていて、ボサボサの黒い前髪に見え隠れする自信のなさそうな瞳が、普をとらえた。もしかして講演を聞くためにわざわざ大学に忍び込んだのだろうか。そう思って彼の目を見つめていると、その瞳が桜色であることに気が付いた。
桜ノ島出身の人間は、日本人にありがちな黒や茶と違って、瞳の色が桜色をしているのだ。思わず普は食い入るように彼の目を見つめた。
「はじめまして。僕は、薬師椋といいます……。櫻神之島。あなた方のいう、桜ノ島からの留学生です」
「はじめまして。私は田村普といいます」
普が手を差し出すと、椋は慌てて、ズボンで自分の手の平を乱暴に拭くと、普の握手に応じてくれた。
「今回の講義、大変興味深かったです」
「それは、ありがとうございます」
島民の人間に興味を持たれるとは思わず、普はだいぶ困惑していた。いや、もしかしたら彼はこれから抗議をするために自分のもとへ出向いたのかもしれないと思いなおした。自分たちの立派な文化を穢すなと。何を言われるだろうかと、普は内心警戒しながら「講義内容はどうでしたか?」と聞いた。
「すごかったと、思います。僕はまだ、中学生の身なので。分かりづらいところもありましたが、かなり面白かったです。島にいるだけでは視界が狭まるばかりで、本土に来てからは驚きの連続です」
「中学生? ではやはり、キミは内緒でこの学校に忍び込んだのか?」
すると椋は首を横に振った。
「いいえ。僕はここの学生です。ここで医学を学ばせてもらっているんです。将来、サクラ様――あ。あなた方のいうところの巫女の、医者となるため。勉強させてもらっています。といっても、主治医になるのは僕の姉なのですが」
巫女の医者!
まさか母校に講演に来ただけで、これは思わぬ収穫だった。自然と普は、彼と目を合わせるために近くの椅子に腰かけ、前のめりになって彼の言葉に耳を傾けた。
「その、よければなんですけど。このあと時間はおありですか?」
椋も体を前のめりにさせて、内緒話をするくらいの小さな声でボソボソと問いかけてくる。
「ええ」
普は興奮を抑えながらうなずいた。
「学校を正門から出て、坂を降りた先にカフェがあるのはご存知ですか?」
「はい、もちろんです」
そこのカフェならば、普も学生時代によく利用していた場所だった。特にあのカフェでだされるパンケーキは絶品で、普が学生の頃は評判だった。今もあるのだろうかと、坂の下にあるカフェに、ふとした思いを馳せた。
「ではそこで。僕、待っています。もう帰るので。よろしくお願いします」
椋は頭をさげてから体を起こすと、普から背を向けてその場をあとにした。
普はすぐさま講演中に切っておいたスマホの電源を入れなおした。本当はこのあと、職場に戻って会議が行われる予定だったが、桜ノ島の巫女の関係者との接触に成功した話をすれば、きっと上司の
「名を騙っているだけかもしれないぞ。本当にそいつが桜ノ島の人間だという証拠がない」
「私もたしかにそう思いましたが、信じてみる価値はあると思います。その少年の瞳の色は桜色をしていました。斎藤さんもご存知でしょう? 桜ノ島と本土の人間の見分け方を」
「たしかにそうかもしれんが、最近若者のあいだで流行っているだろう。えーっと、色のついたコンタクト。あれじゃないのか?」
「そういうおしゃれに敏感な少年には見えませんでしたよ。どちらかというと、流行に疎いタイプに見えました」
「だがなぁ」
「それに斎藤さん、前におっしゃっていたではないですか。桜ノ島の島民が時折、留学という体で本土に学びに来ることがあるって」
「たしかに言ったが……。そんな運良く見つかるものかね」
斎藤の返事は相変わらず消極的なものだった。
「これはチャンスだと私は思います。これからその少年と落ちあう約束をしているので、職場に戻るのだいぶ遅くなります」
「待て待て、田村。わかった。わかったから。とりあえず、その話の内容は録音しておくように頼む。終わったらすぐに連絡するんだぞ」
「わかりました」
普はすぐに電話を切って、周りを取り囲んでくる教授たちへ早々に挨拶を済ませると、大学を走って飛び出した。ちょうどよく授業が終わっている時間のせいもあって、校門から出入りし、行きかう生徒たちのあいだを縫うように普は彼らのあいだを走り抜けた。カフェまでの道のりにある緩やかな下り坂を軽快に走ってくだっていく。頭のなかはせっかくつかんだチャンスでいっぱいだった。
坂を終えたところにあるカフェにたどり着く。扉に嵌められたガラス窓から中の様子を見てから、ドアノブに手をかけて開けた。扉上にかけられた鈴がカランカランと音をたてたと同時に、目の前にある会計カウンターにいた女性店員が「いらっしゃいませ」と明るい声と笑顔で出迎えてくれた。
普は「人を待たせているんですが」と言いつつ、店内を見渡す。時刻は午後三時。お茶の時間にはちょうど良いのだろう。客は大学生の姿ばかりが目立った。唯一、普と同じようにスーツを着た社会人男性が一人だけ、コーヒーを飲みながら難しい顔をしてパソコンのキーを叩いていた。
店の奥の窓際の席から、手を振られた。見ると、先ほどの少年が立ちあがってこちらに合図を送っていた。
「あ、あの子です」
普は女性店員にそう言って、椋のもとへと急いだ。
「待たせましたか?」
「いえ、それほどでも。たった今飲み物を頼んだので。田村さんも何かどうぞ。僕がおごりますよ」
「いいえ、大丈夫です」
中学生のわりにしっかりしているなと、普は感心した。それとも、巫女に仕えている人間だからこそ、育ちが良いのだろうか。自分の中学時代を普は思い返してみた。塾に行って勉強をしたり、友だちとゲームの話で盛り上がったり、休日には電車を使って遊びに行ったりと、どこにでもいるような中学生だったと思う。
「むしろ、私がおごりますよ。薬師くんは何か食べたい物ありますか?」
「えっ。いいですよ、僕は。僕が田村さんを誘ったのに、おごってもらうなんて」
「いいですから。大人のプライドってやつです。子どもにおごってもらったなんて周りに知られたら、お笑い草ですし。ほら、何がいいですか?」
普はテーブルの端にあるラックからメニュー表を取り出して、それを広げた。今の時間ならばパスタやハンバーグなどよりも、スイーツの方が良いだろう。目の前にいる椋にスイーツのページを見せると、彼は頭の後ろを撫でながら困ったように笑った。それから、ページに目を落としてしばらく吟味していた。
「で、では……、これで」
椋の指は、中学生男子にしては白くて細い、女性的なものだった。彼の指はアイスクリームが載ったパンケーキを差していた。パンケーキの全体にはメイプルシロップがかけられている。普も学生時代、よく食べたパンケーキだった。
まだあったのかと、懐かしさに駆られた。
「わかりました」
普は近くを通りかかった女性店員に「すみません」と声をかけて、パンケーキとコーヒーを注文した。入れ違いで、椋が頼んだ飲み物が到着する。クリームソーダだった。
椋はまず、スプーンでアイスクリームをすくって食べた。それで満足するとストローを差してメロンソーダを飲んだ。
クリームソーダを頼んだのに、パンケーキにもアイスがついているのはいいのだろうかと、普は不思議に思った。もしかしたらアイスが好きなのかもしれない。その点、彼と気が合うなという気がしてきた。普も甘い物は好きだ。今は仕事中ということもあって、あえてコーヒーしか頼まなかったけれど、メニュー表に載っていたスイーツはどれも美味しそうで、つい二時間くらいも前に昼は済ませたはずなのに、お腹が鳴りそうになった。
目の前で、こうも美味しそうにスイーツを食べられては正直たまらない。普はしばらくのあいだ、椋の様子をただ黙って眺めることに専念した。それはまるで、未知の生物を観察している研究者のようだった。
やがて普の分のコーヒーと椋のパンケーキが運ばれた。それらを運んできた女性店員は伝票をまるめて入れ物にいれると、「ごゆっくりどうぞ」と頭をさげて去っていった。普はまず、コーヒーにシュガーとミルクを全て入れてから、スプーンで軽く混ぜた。ブラックだったはずのコーヒーは瞬く間に、明るい茶へと姿を変えた。
目線を上げると、椋がじっと普の手元を見つめていることに気が付いた。
「どうかしましたか?」
「……あ、いえ」
椋は罰が悪そうに視線をそらして、頭の後ろを撫でながら困ったように笑った。それから、彼はメイプルシロップの入った器を手にすると、アイスクリームの載ったパンケーキの上から、回すようにしてかけた。綺麗な円を描きながら、シロップが満遍なくパンケーキにかけられていく。シロップの甘い香りとパンケーキの香りが合わさって、とても食欲をそそられた。
「田村さんも学生時代に、このカフェを利用したことがあるんですか?」
椋の問いかけに、普は「ええまあ」とうなずいた。コーヒーを口にすると、甘苦い味が口いっぱいに広がった。思わず顔をしかめかけてしまう。やはりコーヒーは苦手だ。大人になればコーヒーの一杯、二杯。ましてやブラックくらい飲めるものだと思っていたけれど、何度飲んでもこの味には慣れなかった。シュガーかミルク、どちらかでも追加でもらおうかと考える。
「今、薬師くんが食べているパンケーキ。私も食べたことがありますよ。とても美味しくて、そのパンケーキを食べるために暇を見つけては、よくここへ通っていました」
「そうだったんですか。あ、よろしければ一口どうですか?」
「いいえ、大丈夫です。それに今は仕事中なので」
口にしてから、そういえば上司の斎藤に会話を録音しておくように頼まれたことを思い出した。学生時代の思い出を振り返る懐かしさにかまけて、大事なことを失念していた。普は「ちょっと失礼します」と言って鞄からスマホを取り出した。それから、仕事のやり取りをする振りをしながら、アプリの録音機能を開くとスマホを鞄に戻した。
椋が物珍しそうな目をしながら、普のスマホを見ていた。
「やはり本土はすごいですね」
「何がですか?」
「それ。えっと、……ケータイです」
「島にはないのですか?」
「いえ。電話ならあります。電話線もちゃんと引かれていますし。ただ、利用する人はそれほど多くありません。ましてケータイ電話を持っている人なんて、島には一人もいません」
「そうなんですか」
椋くらいの年代の子どもならば、スマホを持っているなんて今ではすっかり当たり前だ。むしろ持っていない人は珍しいとさえ言われる時代。桜ノ島はある意味、真の意味での孤島と言えるのかもしれない。
「欲しいですか? スマホ」
「すまほ?」
「ああ、今では携帯電話はスマートフォンって呼ばれているんです。画面をタッチするだけで電話をかけられたり、インターネットに接続できたりと、なかなかに便利なんですよ」
「そうなんですね」
椋はスマホに関心を寄せているようだったが、普としては、ますます桜ノ島の人間は日本にあるどの島の人間とも似つかない気がして、異様な気持ちだった。未知の生物というよりは、現代にタイムスリップをした漂流者でも見ている気分にさせられた。
「……でも、欲しいかそうでないかと言われると、どうでしょう。そうでもないかもしれません。結局そういうのは、同じ物を持っている人同士でないと使いこなせませんから。僕だけ持っていても意味ないですし」
「言われてみると、たしかにそうですね」
会話を続けながら、普は改めて椋という少年の早熟さを思い知った。この年代の子どもにしてはいやに落ち着いている上に、大人に対しての礼儀をよく知っている。まるで同い年くらいの大人と話しているようだ。それが果たして、椋自身が本来持つ性格ゆえなのか、あるいは島の子どもは皆このような者たちばかりなのか。桜ノ島に年に一度しか赴かない普には測りかねた。
「ですがそうなると、島の方たちとはどのように連絡を取り合っているのか知りたいものです」
「ああ、普段は手紙でやりとりしています。一ヶ月に一度くらいの頻度で、近況報告も含めて手紙を書いているんです。もちろん緊急時には電話をしますが」
なんともアナログな方法を使うのだなと、普は感心した。椋はパンケーキを食べる手を一度休めて、クリームソーダを飲んだ。普もそれにならうようにして、コーヒーを飲む。椋のソーダがたちまちに減っていく一方で、普のコーヒーは全く減っていなかった。
近くを通りかかった女性店員に声をかけて、追加でシュガーとミルクを頼んだ。すぐに持ってきてくれた店員にお礼を口にして、普はシュガーとミルクをそれぞれ入れた。しかし今回は全て入れずにちょっとずつ調整しながら入れた。
普の手元をじっと見つめながら、椋が口を開いた。
「田村さんって、コーヒー苦手なんですか?」
「――ええ、まあ。お恥ずかしい限りですが」
普は苦笑した。子どもに見透かされたことは恥ずかしかったが、シュガーとミルクを全て入れてしまっているから、隠したところで意味はない気がした。大人らしくありたいと思うのにそれとは対照的な方向へ進んでいる自分の子どもっぽさは、きっと目の前の少年を呆れさせているだろうと感じた。しかし椋は、テーブルから身を乗りだした。
「僕もなんです。コーヒーは苦くて正直飲めたものじゃありません。一度、このカフェでコーヒーを飲んでみたんですが、どんなに砂糖やミルクを入れても、苦みが消えなくて半分も飲めませんでした」
さっきまでオドオドした調子で話していた椋が、突然饒舌になった。よほどコーヒーが苦手なのだろう。その気持ちは普にもよくわかった。やはりここは見栄を張らずに、紅茶でも頼んでおくのだったと今さら後悔した。紅茶ならば仕事中でも気兼ねなく飲めた気がした。
「紅茶もいいですよ。ここは紅茶も美味しいですから」
「今度来たとき、頼んでみます」
そして椋は、パンケーキを切って口に入れた。それからふと思い立ったような顔をして、ナイフとフォークをまた皿の上に置いた。
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