第2話 相談

 家をあとにし、屋敷へ戻る途中の道で、葵は自分と同じように屋敷へ向かおうとしている人たちを見かけた。全部で三人。全員が踵に届きそうなほどに長い白衣を着物の上に羽織っていた。先頭を歩いているのは男と見間違うばかりに髪を短く刈り上げた女性。背筋をぴんと伸ばしている様子はとても真面目そうな印象を受ける。その後ろに二人の子どもがついてきている。一人はこちらも女性で、先頭を歩く女性と顔が良く似ている。親子だろう。髪を団子に結わえていた。そして、彼女の隣で肩を縮こませながらおどおどした様子で歩いているのは、椋だった。

 どうやら薬師やくし家の人間が、サクラ様の定期健診のために到着したらしい。葵はすぐさま彼女たちに駆け寄った。


「ハトさん」


 先頭を歩く女性に向かって呼びかけると、まず椋が振り向いた。続いてその隣の若い女性――椋の姉であるツバメが振り向く。そして最後にようやくハトが振り向いた。


「こんばんは。定期健診ですか?」

「こんばんは、葵くん。あなたは今帰りかしら」


 聞く者を落ち着かせるような声だ。ハトの声は夜の静寂によく似合っていると葵は常々思っていた。


「はい。実家に呼ばれたもので」

「そう」

「よろしければ、屋敷までご案内いたします」

「ありがとう」


 ハトは薄紅色の唇をほころばせて、お礼を言ってきた。葵は彼女たちの先頭に立って屋敷へ戻ると、「薬師さんが定期健診にいらっしゃいました」と近くを通った女中に声をかけた。

 すぐさま女中が「こちらへどうぞ」と言って、三人をサクラ様のもとまで案内する。その際、椋がちらりと葵に目を向けてきた。何か言いたそうに口を開きかけたけれど、ツバメが「椋」と催促してきたので彼は口をつぐんで、彼女たちのあとを追った。

 葵は椋たちが向かった方へ急ぐこともなく、普段通りの足取りでついていった。サクラ様の診察の様子なんて葵の知るところではない。葵の目的はその隣の自分の部屋だ。その途中でサクラ様の部屋の前を通る。すると、木槿が見張り番のようにして立っていた。

 葵は頭をさげて彼の前を通る。木槿は何も言わないどころか視線を葵に向けることもなかった。護衛という任務を遂行しているあいだの彼は、いつもこんな風だ。その姿を幼い頃よりずっと見てきた。

 自室へ戻ると、葵は引き出しから新しい浄衣に着替えた。さっきまで着ていたものは紅葉が洗濯したいと言うので、実家に置いてきた。本当なら屋敷の人に頼めば洗濯くらいしてもらえるのだが、実家に帰るたびに母はそうやって息子の世話ばかり焼きたがる。何故だろうかと葵は常々疑問に思っていた。

 新しい浄衣に着替えたあと、その場で出来る軽い運動をしてから勉強机に向かって今日の授業の復習を始めた。それが終わったら明日の授業の予習である。サクラ様の護衛役とはいっても、世間では学生の身だ。それにあまり成績が悪いとまたワタに小言を言われる。「サクラ様に仕えている身として、できの悪い成績では世間に顔向けなんてできませんよ」ワタは必ず二言目には、「サクラ様」「サクラ様」だ。

 予習も半分へいったとき、不意に障子戸が叩かれた。控えめに、小さく。その周囲を気遣うような、あるいは臆病そうな叩き方は椋だ。葵は「開いてる」と短く応えた。

 障子戸が開いて、椋が顔をだした。


「あ、ごめん。勉強中?」

「別に良いよ。ヒマつぶしみたいなもんだし。お前だってよくやるだろ」

「……うん」


 椋は眉を下げながらうなずいて、部屋に入ると障子戸を閉めた。葵は勉強道具を閉じると、勉強机の脇に立てかけられている折り畳み式のちゃぶ台を引き出して、部屋の真ん中に置いた。続いて机の下に潜り込んで、ミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出した。


「水しかないけど」

「いいよ」


 椋はちゃぶ台の前に腰かけ、葵も彼と向かい合う位置に座って一本のペットボトルを椋の前に置いた。

 葵は早速キャップを力いっぱいひねって開け、中身を二口ほど飲んだ。


「サクラ様の様子はどうだ?」

「……えっと。母上の診断によると健康だって。姉上もそう診断してた。僕は見てるだけだったから、なんとも言えないのだけど」


 椋もペットボトルに手を伸ばし、キャップをもう片方の手でつかんだ。白衣の袖から左手首にしてある銀色の腕時計が見え隠れした。椋はその手でキャップをひねろうとした矢先、何故かその手を止めてしまう。


「開けられないのか?」

「まさか。開けられるよ」


 しかし彼は、開けようとしなかった。幼い頃は男の癖に非力で、ペットボトルのキャップを開けられるようになったのも、中学生になってからだった。だから葵は彼の代わりにいつもキャップを開けてあげていた。

 椋はキャップ側をつかんだまま、ペットボトルをちゃぶ台に戻した。それから、ちゃぶ台に身を乗りだすと、ささやくような口調でこう聞いてきた。


「ねえ、葵。キミはこの島がおかしいと思ったことはない?」


 妙な話の切り出し方に、葵は首をかしげる。いったいこいつは何を言っているのだろう。


「なんだ? 本土で変なアニメでも見たか?」


 日本はアニメの文化がめざましいと、葵は聞いたことがあった。葵は生まれてこの方、アニメなんてものを見たことはないし、まして日本にだって足を踏み入れたこともない。

 葵の言葉に椋は首を横に振った。


「違う。もっと真剣な話なんだ」


 葵は眉間に皺を寄せた。さっきから、椋が何を言いたいのかわからない。


「おかしいってなんだよ。第一、この島って何の」

「櫻神之島だよ」


 葵の言葉が全て終わらないうちに、椋が先を遮るように口にした。先ほど質問をしたときよりは若干大きな声。椋は我に返った様子で慌てて口を閉ざし、あたりをうかがった。まるでこの部屋にいる人間以外、誰にも聞いてほしくないかのように。


「サクラ様を崇めて、挙句最後は櫻神っていう枯れない桜の木に奉げる。おかしいと思わない?」

「おかしいって。んな大袈裟な。なんだ? もしかしてお前、本土に感化されすぎたんじゃないのか?」

「だから違うってば!」


 今度は声を低かったが、椋は興奮している様子だった。彼はちゃぶ台に置いたペットボトルをひったくるようにして手にすると、キャップを力任せに開けて中身をごくごくと飲んだ。いつまでも飲んだ。やがて離した頃には、ペットボトルの水は半分くらいにまで減っていた。


「僕は、おかしいと思ったよ」


 椋はペットボトルを置いてため息を吐くと、言葉の先を続けた。


「そりゃ本土でも、人を神のごとく崇拝したり、あるいは特殊な宗教文化があることは知っている。歴史でもそれは証明されている。でも、それでも現代の本土では絶対にしないことがある。キミはなんだかわかるかい?」

「さあ」


 今日の椋はよくしゃべる。普段ならばどもったり、うろたえたり、自分の気持ちをうまく言葉で表せない臆病さがある。なのに今日はどうだ。やたらしゃべるし、怒鳴るし、興奮している。葵にはわけがわからなかった。


「決して、人を殺さないことだよ」


 あたりに静寂が訪れた。ジーという耳鳴りのような音は、どこかで虫が鳴いていることを教えていた。屋敷の周囲は自然に囲まれている。というか、島は草木や虫だらけだ。


「何言ってんだよ、椋。俺たちだって別に殺してなんていないだろ。物騒だな」


 やたら真剣な面持ちで話し続けるから何かと思えば。葵は途端に馬鹿馬鹿しくなって、これまでの重い空気を打ち消すように鼻で笑った。

 椋は目を怒らせた。


「キミはそれ、本気で言っているのかい?」

「本気ってなんだよ」


 椋の声には怒気が含まれているような気がした。葵も自分では意識せずとも、声に険しさが増した。

 そのとき、障子戸が叩かれる音が聞こえた。

 戸の向こうでは、高い声で、「椋、いるんでしょう?」と中にいる人物をあてる声が聞こえた。

 椋は肩を跳ね上げて、「います!」と応えた。


「入ってください。大丈夫ですよ」


 葵は続いて口にした。すると戸が開かれてそこから椋の姉のツバメが顔をだした。


「母上が呼んでいるわ。健診も終わったのでそろそろお暇しないと」

「あ……、そうだった。ごめん」


 椋は立ち上がって、部屋を出ようとした。しかし何かを思い出したように振り返ると、戻ってちゃぶ台に置かれたままのペットボトルを手にした。


「葵、これ。もらってもいい?」

「うん、別に。椋のために出したんだから」

「ありがとう」


 さっきの険悪な雰囲気とは打って変わって、いつも通りに椋は笑うと「じゃあね」と手を振った。その際、白衣の袖が落ちて銀色の腕時計がはっきり見えた。

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