第1章

第1話 実家

 高校生活初めての授業は、午前中だけで全て終わりとなった。家に帰ってからまず、サクラ様の状況を確認して執務を手伝わなければならない。あおいは今日のスケジュールを頭のなかで思い出しながら、折り目一つない教科書やノートを鞄に詰め込んだ。

 葵の肩を隣の席にいたむくがつついてくる。


「今、時間ある?」

「悪い。このあと――」

「ああ、そうか。サクラ様のもとへ行かなきゃだよね……」


 葵は鞄に荷物を詰め込む手を止めて、椋を見た。彼の表情は何かを、言いたそうだった。


「何かあったら聞くけど」

「大丈夫。僕のことは気にしないで。そんなたいしたことないから」


 そうして彼は、頭の後ろをかいた。


「――夜なら、時間とれると思う。今日は屋敷に来るんだろ?」

「うん……。母上と姉上の手伝いで。といっても、そんな大した手伝いできないけど」

「わかった。そしたら、夕飯終えた八時に屋敷内にある家に来て」

「いいの?」

「久しぶりに椋とも話したいんだ」

「うん、わかった……」


 椋はホッとため息をついて笑った。葵も彼に笑い返して、教室を出る。そのあとを椋がついていった。昇降口まで一緒に行った。


「じゃあ僕は、バスだから」

「ああ。またあとで」


 バスに乗って去る椋を見送って、葵は屋敷への道を歩く。別段急ぐ必要もなかった。サクラ様の執務の手伝いといっても、ただ傍に付き従っているだけだ。ほとんどはサクラ様と満だけで行っている。

 葵の家系は、代々サクラ様に仕える仕事を担っている。もちろんのこと、葵もその仕事をするために、サクラ様の傍に仕えている。仕事内容は、サクラ様の執務を手伝うことではない。そんなものは建前に過ぎなかった。本当の彼の役割は、サクラ様の護衛。いついかなるときでも、サクラ様を守る立場にあること。

 現代では考えられないが、大昔はサクラ様の後継者争いのために殺し屋が派遣されることが当たり前だったらしい。そのため、サクラ様の身の安全を守る仕事を任されたのが、葵の先祖だった。そこから葵の代まで受け継がれている。つまり、ボディガード。いざというときの盾役。それが葵の役割だった。

 サクラ様のために命を賭しなさい。葵は幼い頃から祖母にそう言われて育ってきた。

 櫻神之国さくらかみのくには、サクラ様の存在があるがゆえに基本的に、女性を崇める傾向にある。昔はそれでだいぶ男性が冷遇される立場にさえあったらしいが、さすがに力では男のほうが強い。いざというときの盾も、男性の方が務まりやすいということもあって、護衛の役は代々男性が担ってきた。

 だから、椋の家は大変だろうなと葵は思う。薬師家の現当主は椋の母親で、跡継ぎは椋の姉らしいが、それでも椋は本土で医師の勉強をしなければならない。もし彼が本土の人間だったらきっと出世コースまっしぐらだったろう。あちらの国は、どちらかというと女性を蔑視する傾向にあると、以前。葵は椋の姉から聞かされたことがあった。

 葵は外出したときと同じように、くぐり戸から中へ入った。屋敷へと続く道を歩いて、まずは真っすぐサクラ様のもとへと向かう。屋敷のなかはだいぶ静かだった。

 サクラ様の部屋の障子戸の前で立ち止まり、葵は声を張り上げた。


「ただいま戻りました。葵です」


 戸の向こうでわずかに音がしたのを、葵の耳はとらえる。


「お変わりないでしょうか? 着替えをしたらすぐに向かいますので、少々お待ちください」


 葵は頭をさげて、自分の部屋へと向かった。葵は部屋に入ると、まずは机の引き出しを開けて、中にあった固形物の栄養食品を手に取ると、「プレーン味」と書かれた包装を破って口にくわえた。クッキーみたいに口の中がぱさぱさしてくるので、食べ終えてからペットボトルの水を飲んで、喉にひっかかる固形物の感触も一緒に流し込む。それから制服を脱いで浄衣に着替えると部屋を出た。

 サクラ様の部屋の障子戸を軽く叩く。向こうから「どうぞ」というアルトボイスが聞こえた。この声は満のものである。葵は戸を静かに開けた。

 部屋のなかでは、サクラ様が卓の前に座りながら書類に目を通していた。サクラ様の座っているすぐ足元の畳が黄色く変色している。周囲の畳はいつも緑色なのにだ。黄色の畳を葵はいつも気にしていたが、そこはサクラ様がいつも座っている場所ゆえにきっとお気に入りの場所なのだろうと勝手に推測した。だからあまり深く考えないようにしていた。サクラ様の背後にはみつるが控えていて、あれこれとサクラ様に教えていた。満は書類から顔をあげて、葵に向かって微笑みを浮かべた。


「お疲れさま、葵くん」

「お疲れさまです」


 そのとき、サクラ様が書類からわずかに顔をあげて、葵を見てきた。葵も思わず見返すが、サクラ様は何も言うことなく、さっさと書類に目を戻してしまった。


「まもなく桜祭りですから、その準備をしているのです」


 満がそう教えてくれた。


「そうですか。では、私は部屋の外に控えていますので、何かあったら呼んでください」

「ええ、お願いします」


 葵は頭をさげると、足を数歩後退させながら部屋をでて戸を閉めた。それから部屋に背を向けると、両手を背中で組んで仁王立ちの姿勢で待機した。

 それから夕方まで、葵は部屋の前に居続けた。



 太陽の光が西へと向かう頃、葵の背後にある戸が開いてそこから満が顔を出した。


「お疲れさま、葵くん」

「満様もお疲れさまです」


 そう返しながら、葵は戸の向こうにいるサクラ様の様子を見た。実につまらな気な表情で卓に頬杖をついてボーッとしている。いつもと変わらない。


「これから僕はサクラ様の夕食をとってくるから、しばらく彼女の話し相手になってあげて」

「わかりました」


 内心では面倒くさいと思いながらも、葵は満の言葉にうなずいた。満が部屋をでていくのと入れ替わりで、葵は「失礼します」と言いながら部屋に入る。サクラ様は葵が入ってきても、何の反応も示さない。


「今日は、どんなことをしていたのですか?」


 当たり障りのないことから聞いてみる。しかしサクラ様は答えない。しばらく待っても答えてくれなかったので、葵は仕方なく自分のことを話した。


「私は久しぶりに学友と再会しました。椋のことはご存知ですか? サクラ様の主治医である、薬師家の長男です。彼、ついこのあいだまで日本で医学を学んでいたようで、一昨日帰国したみたいで」


 そこで言葉を切った。サクラ様はやはり頬杖をついたまま、何も言わない。

 こんな一方的な、会話ともいえないやり取りに果たして何の意味があるのだろうか。これでは独り言を延々とつぶやいているのと同じである。どうせ聞いていないだろうと思ったら、何か話すことも馬鹿馬鹿しく思えて、葵は口を閉ざした。

 それからしばらくして、満がお盆を手にして部屋に戻ってきた。葵は立ち上がった。


「お待たせしました。サクラ様、今日の夕飯はサワラの煮つけがありますよ」


 サクラ様はそのとき初めて、表情をわずかに変えた。眉間にぐっと皺を寄せる。気付いた葵が見る頃には、すでに無表情に戻っていた。


「葵くん。サクラ様の話し相手になってくださってありがとうございます。あとは僕にお任せください」


「大丈夫でしょうか?」と聞きつつ、葵はすでにこの部屋から立ち去りたかった。


「ええ。先ほど廊下で、あなたの御父上にすれ違いました。『今日は家で食べるようにお伝えください』とのことでした」

「わかりました」


 満はサクラ様の目の前に夕飯を次々と並べていく。葵はその様子を見ながら「失礼します」と頭をさげて正面を向いたまま部屋から数歩さがって戸を閉めた。体の向きを変えたとき、その先にこちらに向かって歩いてくる、葵の父・木槿むくげの姿が見えた。

 彼も葵と同じように浄衣を着ている。厳つい表情と漂ってくる威圧感。葵は昔から彼が苦手だった。反射的に身構えてしまいそうになる。しかし平静を装って葵は彼を見つめ返した。木槿も気付いて葵を見てくる。彼の黒髪からはいくらか白いものが混じっているのを見て、だいぶ歳をとったことを葵に認識させた。彼に会うのは一か月ぶりだ。

 目の前に来た木槿に、葵は頭をさげた。


「お疲れ様です、父上」

「ああ」


 短く応えた木槿は、たった今、葵が出てきたサクラ様の部屋の戸に拳を置いて数度叩いた。


「木槿です」

「はい、どうぞお入りください」


 中から聞こえた満の声を合図に、木槿は障子戸を音をたてずに開いて部屋の中へと入った。

 葵は父親の姿を見送ってから、背を向けて廊下を歩いた。板張りの床はぎしぎしときしむ音が鳴る。それ以外は屋敷はとても静かだった。時折、中庭の草木が風に揺れてさわさわと音をたてる。春らしい、暖かな風だった。

 屋敷を出た葵は、門へ続く真っすぐの道を歩く。途中、タチアオイと書かれた札がたてられた花壇のある道を、左に曲がった。タチアオイの札は、葵の実家へ続く道への目印でもある。

 しかし、花壇は土が盛られているだけでそこには芽の一つも生えていない。先週、祖母や母と協力して種を植えたばかりで、まだ時期ではないからだった。

 タチアオイの花壇が続く道を、葵は歩く。その先に見える三角屋根の二階建ての家が葵の実家だった。

 葵は玄関にあがると、一つ深呼吸をしてからドアノブをつかんで引いた。


「ただいま」


 家のなかに向かって声を張り上げる。途端、懐かしい我が家の香りがした。それをかぐと、自分の家に帰って来たんだなという気持ちになる。いや、果たして自分の本当の家はどちらなのだろうと同時に思った。この家か、あるいはサクラ様の部屋の隣か。

 リビングのドアが開いて、そこから藍色の着物に薄紫の帯を締めた祖母・ワタが顔をだす。


「おかえりなさい。葵」


 ワタはそれから、葵の格好を上から下までじろじろ眺めた。


「その格好のまま来たのですか?」

「はい」

「なら、早く二階へ行って着替えてらっしゃい。その浄衣はサクラ様のために着るものでしょう。汚しては困ります」

「申し訳ありません。以後、気を付けます」


 葵は頭をさげて、靴を玄関で脱ぐとそのままの足で二階にある自分の部屋へと向かった。

 部屋に入ってまずしたことは、部屋の換気だった。きっと母である紅葉もみじがマメに掃除や換気などはしてくれているだろうが、一か月もこの部屋を留守にしていたのである。籠る空気はどこか埃っぽかった。カーテンを閉めて、あとから電気を点ける。部屋の様子に特に変わった様子はない。何も置かれていない殺風景な勉強机と、丁寧に整えられたベッドがあるだけ。それもベッドシーツしかされていなかった。

 別に今日はここに泊まるわけではないから、ベッドがどうなっていようと葵にはどうでもよいことだった。まず浄衣を脱いで丁寧に折りたたむと、クローゼットから適当なTシャツとジーンズを着た。それからベッドに倒れこんで、しばらくボーッとする。

 壁にかけられている時計は六時半を示していた。カッチコッチとリズムよく秒針が刻まれる音だけが聞こえた。その音を聞いているうちに眠気が襲ってきたとき、階下から「ご飯ですよ」というワタの声が聞こえたので葵はベッドから起き上がった。

 階段を降りてリビングへ向かうと、ワタと紅葉が手分けをして夕飯をテーブルに並べているところだった。


「おかえり、葵。一か月ぶりね」


 話しかけてきたのは、白の割烹着を着た紅葉だった。台所にいるとき、いつも彼女はああいう格好をしていて、そして背中まで伸ばしている黒髪をただの棒にも見える質素な簪で束ねている。彼女は今、白ごはんを茶碗によそっている最中だった。


「うん。一か月ぶり」


 紅葉は白米がよそられた三つの茶碗を、カウンターの上に置いた。葵はそれをテーブルへと下ろしていく。ワタはというと、味噌汁を温め直しているところだった。

 テーブルに並べられた今日の夕飯は、白米、わかめと豆腐の味噌汁、きんぴらごぼうと肉じゃがだった。

 ワタが両手を合わせて目をつぶり、葵と紅葉共に彼女にならった。


「今日の夕餉も櫻神様にお恵み頂いたことに、感謝して。いただきます」

「いただきます」


 ワタの言葉を、葵と紅葉で唱和する。それから目を開けて、葵はまず味噌汁の椀を手に取った。実に一か月ぶりの母の夕食だった。


「葵、普段は何を食べているの?」


 正面に座る紅葉がそう問いかけてきた。彼女は、同じ敷地内に暮らしているとはいえ普段離れている息子がいつも何を食べているのか、それだけが気がかりだった。それはサクラ様の護衛として仕えている身を案じて、というよりは一人の息子の生活を気にかけている様子だった。


「栄養補助食品だよ」


 葵の言葉に、紅葉は耳を疑った。


「それっていつも?」

「そうだよ」

「それだと栄養が偏って」


 紅葉が声を高くしたとき、彼女の隣の席にいたワタが「紅葉さん」と彼女の名前を呼んで言葉を遮った。紅葉は慌てて口をつぐんで、義理の母をちらりと見やる。


「食事中にお話をしてはいけません。みっともないですからね」

「はい、申し訳ございません。お義母さん」

「それから葵も。紅葉さんのおっしゃったようにそれでは栄養が偏ります。あなたはサクラ様を守る立場にいるのです。もう少し栄養のある物をいただきなさい」

「はい」


 それからは三人とも無言で食事を続けた。

 夕飯を終えると、葵は率先して後片付けを始めた。幼い頃から食事の後片付けは、葵の仕事だった。木槿は先代の頃からずっとサクラ様の護衛で家を留守にしていたし、ワタと紅葉にはいつも食事を作ってもらっている。そうなると何もしない葵を見て、ワタが食器などの片付けを命じたのだった。

 台所に立って、一人黙々とスポンジに泡をたてながら食器を洗い続ける。紅葉は洗面所にある洗濯機の様子を見に行っていた。どうやら最近、調子が悪いらしい。たしかに先月帰って来たときもゴゴゴゴという地鳴りのような音をたてていて、家の前に重機でも動いているのかと葵は思ったほどだった。

 ワタは三週間後の来月始めに控えた、桜祭りに関する資料を読み込んでいる。時折、かけている老眼鏡をあげたり、さげたりを繰り返しながら、彼女は無言で読み続けていた。葵が食器を全て片付け終えたとき、それを見越したように彼女は初めて「葵」と呼んできた。


「はい」


 ワタはかけていた眼鏡をわずかに下にさげ、薄桜色の瞳で葵のことを見つめてきた。


「あなたがちゃんと食べていないのは、何か理由があるの?」

「いえ、そういうわけでは」

「サクラ様の護衛役についているんですよ。あちらの料理番に頼めば食事くらい用意してくださるはずです」

「はい」

「嫌いな食べ物があるから嫌だとか、そんな言い訳は通用しませんよ。アレルギーがあるわけではないのだから、ちゃんと食べなさい」

「はい」


 葵は壁にある時計を見た。まもなく時刻は八時になろうとしている。そろそろ帰るべきだろうか。普段通りならば屋敷で夕飯を終えたあと、風呂に入る。そのあいだのサクラ様の護衛は木槿や満が務めているはずだ。

 果たして今日、何故自分は家に呼ばれたのだろう。同じ敷地内にあるとはいえ、実家に帰るのは半年に一度と決めている。時折、今日みたいに家に帰るよう突然言われることもあるが、そういうときに限ってあまり良い報せではない。葵は時計からワタへと視線を移した。


「ねえ。何で俺、今日呼ばれたの?」


 書類に目を戻していたワタが、再び葵を見る。見る者を委縮させるような鋭い眼光。一度見つめられたら、それだけで心臓のあたりがぞわぞわして逃げたくなる衝動に駆られてしまうが、幼い頃から一緒に住んでいたために葵は慣れていた。常に目つきが鋭いわけではなく、もとからそういう人なのだ。だから気にしない。黙ってワタの目を見て答えがくるのを待っていた。


「今年の桜祭りも、偵察のために日本から人が派遣されるそうです。おそらく毎年のようにサクラ様を引き渡すよう圧力をかけてくるつもりでしょう。――葵、あなたはサクラ様をお守りする立場にあるのだから、絶対に屈してはいけませんよ」

「うん」

「それと敬語。目上の方と話す際は、言葉遣いを丁寧にしなさい。サクラ様の前でもそのような愚行をされては、恥さらしですよ」

「はい」


 ワタは眼鏡をはずして、それを折りたたむとテーブルの上に置いた。


「全く……。この国の守り神にも等しいお方を引き渡せとは、どういった了見なのかしら。毎年毎年、あの人たちも凝りませんね」


 最後の言葉は、遠く離れた国への愚痴であるようだった。

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