桜花爛漫の一葉

凪野海里

序章

序章

 あおいが正座の姿勢のまま、「失礼いたします」と口にして障子戸を開くと、ちょうど朝の食事の頃だったのか、白の小袖に桜色の袴を着た少女が卓の上にあった食器をひっくり返していた。

 またか、と葵は心のなかで密かにため息をつく。しかし表情までも変えることはしなかった。少女は食べかけの卵焼きの載った皿をひっくり返し、味噌汁の入った器を持って立ち上がり、葵の横を通り過ぎると中庭へと中身をぶちまけた。

 彼女のために用意されている朝、昼、夕。3食のご飯はどれも、味も栄養バランスも、しっかり考えられた上で、この国で一番の腕利きの料理人によって作られている。その料理人の料理は、この国の人間であるならば人生において一度は食べてみたいと思う逸品らしい。らしいというのは、葵にとっては食なんて腹を満たせればそれで良いという認識程度だったからだ。

 とはいえ、この国の人間が「人生において一度は食べてみたい」と思うような料理の数々を、少女は次々に中庭へとぶちまけていく。ぶちまけられたそれらの食材――味噌汁、白米、卵焼き、菜の花のお浸し、デザートのさくらんぼ――は、いつの間にか中庭の端っこで塚になっていた。


「お口に合いませんでしたか」


 念のためそう聞いた葵だったが、少女は無視して手にしていた食器を中庭にたたきつけて粉々に割ると、ついでに髪をまとめていた簪を抜いた。背中まで届く長い髪が振り乱れるのを気にも留めないで、少女は部屋へ戻ると障子戸をぴしゃりと閉めてしまった。

 葵はちょうど近くを通りかかった女中に、中庭の掃除を頼んだ。彼女は中庭のひと区画――少女が朝ご飯を捨てた場所――に目を向けると、黙ってうなずいてそのまま下がった。

 誰もいなくなったのを見はからって、葵は今度こそため息をついた。だが、少女の一連の行動は今に始まったことではない。毎朝繰り返されることだった。

 少女は国民から「サクラ様」と呼ばれている。この国で最も崇められている巫女である。



 櫻神さくらかみくには、日本の小笠原諸島よりもさらに以南に位置する、人口千人ほどの自然豊かな小さな島だ。島のちょうど中央には、大木の桜が植えられていて1年中花を咲かせていることで有名である。島の公共交通手段はバスのみ。日本本土への移動手段は船を使って行われている。住所は東京都ということになっているが、島の人間たちは「櫻神之国は一つの国で、ここに住む我々はこの国の人間である」と主張している。

 日本と袂を別ったのは第二次世界大戦後のこと。もともとは明治時代に日本側が大日本帝国の一部と主張したことによって、当時の櫻神之国の合意もあり、日本にある一つの島と数えられていた。しかし、度重なる戦争や文化の違い、果ては当時、櫻神之国で王の立場にいた者を、「日本に国王は二人といらない」という日本側の主張によって無理やり降ろされたことにより、国の人間の反感を買って西暦2000年を過ぎた今でも、この二国間では緊張が絶えなかった。しかし完全に国交を断絶したわけではなく、物資の輸出入や留学制度を設けているなど、細々とした関係は続いている。

 それでも日本と櫻神之国の、今にも切れそうな細い糸のような関係が完全に回復するわけではなかった。日本は今でも、櫻神之国の文化に異を唱え続けている。

 櫻神之国では「サクラ様」と呼ばれる巫女が20になる年に、島の中央にある桜の大木である、櫻神に生贄として奉げられる「さくら巫女みこ奉納ほうのう」と呼ばれる儀式がある。「サクラ様」と呼ばれる処女の少女を、二十一世紀の科学文明が進んでいる現代で。ましてや世界でも先進国と呼ばれている日本の一部の島で、このような文化がいまだ残っているのは世界じゅうを驚かせている。それほど、櫻神之国の文化は他に類を見ないほどの異彩を放っているのだ。

 しかし他のどの国にも文化があるように、櫻神之国にある、この櫻神信仰は二千年以上昔から続けられてきた伝統がある。だから、どんなに日本やその他各国が櫻神信仰に異を唱えようとも、決して島の人間たちはこの文化や伝統を廃れさせるわけにはいかない。

 何せ、島の人間たちは本気で櫻神の存在を信じているからだ。櫻神は二千年以上、ただの一度として枯れることのない木として有名なのだ。その長寿の大木はギネスブックに「世界で一番巨大な桜の木」として記録されていると同時に、「決して枯れることのない桜の木」としても記録されている。

 櫻神が決して枯れないのは、サクラ様と呼ばれる巫女を奉げているおかげだと、島の人間は誰もが信じている。



 時刻は八時をまわった。自室に戻った葵は高校の制服に着替えて、姿見で自身の格好をきっちり確認する。詰襟を留め忘れていることに気が付いて、それをしっかり留めた。

 制服は皺ひとつなく、まだ真新しいものだ。それもそのはず、葵が高校に入学したのはつい先週の話だった。この島に学校は1つしかなく、そこに葵は通っている。

 姿見の脇に置かれている学校指定の鞄を手にして、葵は部屋を出た。

 葵の隣の部屋はサクラ様の部屋だった。部屋の前の中庭を見ると、そこにぶちまけられていたはずの朝食は、あらかた片付けられて綺麗に掃除されていた。葵はサクラ様の部屋の前に立ち、中にいる巫女に向けて声をかけた。


「葵です。これから学校へ行ってまいります。何かあればみつる様におっしゃってください」


 葵は頭をさげて、部屋を通り過ぎた。サクラ様からの返事はないがこれもいつものことなので、彼は気にしなかった。母屋から屋敷の門までの長い距離をゆっくり歩いていると、正面から中性的な顔立ちの短髪の青年が「いってらっしゃいませ」と葵に向かって声をかけてきた。サクラ様の伯母(しかし本人は伯父を自称している)にあたる満だった。満は手に桜色の餅を載せた三方を持っていた。


「サクラ様が今日も朝食を召し上がらなかったと聞いたので。先ほど、お台所をお借りして作ったのですよ」


 そうですか、と葵は言いつつも内心であきれてしまう。周囲の人間がサクラ様をそうやって甘やかすから、彼女はますます我儘に成長していくのだ。しかし、それは自分にも言えることだと葵は同時に思う。サクラ様の我儘ぶりを注意するつもりも葵にはないのだ。


「私が留守のあいだ、サクラ様のことをよろしくお願いします。満様」

「はい、任されました」


 満は人の好い笑みを浮かべて、葵の頼みに応じてくれた。

 それから葵は、門のくぐり戸から外へと出た。屋敷から学校まで、葵は徒歩で通っている。一応、通学用のバスも運行しているが、基本的には学校への通学時間が一時間以上もかかる子どもたちのために動いているものだった。屋敷からは歩いても三十分とかからない。

 葵が学校に着いたとき、ちょうど校庭に通学用のバスが停まった。島唯一の学校ゆえに、様々な年代の子どもたちが降車してきた。

 学校全体の生徒数は50人に満たない。それに加え、学年分けとクラス分けがされている。学年はおおまかに小学、中学、高等学に分かれているが、この島の学校で特殊なのはクラス分けの方だ。華族学部と平民学部に分かれている。

 華族は主にサクラ様に仕えている一族が在籍している。葵はもちろん、華族学部だ。平民学部はそれ以外。一般の役所や公共施設で働いている人、農民などを親に持つ子どもが在籍している。

 華族と平民で分けられている学校だが、学問において身分による格差はそれほど目立たない。学校行事の運動会や文化祭では互いに協力することもあるから、諍いもない。互いの教室を行き来しあうくらいには、華族も平民も仲が良いのだ。

 ただ華族側の生徒はサクラ様に仕えているという体のため、年中行事が近づくとしばしば遅刻、早退、欠席があったりする。そうなると自然と学級閉鎖になったりするし、別の日に補講授業が設けられたりするので、平民生徒との違いはそこにあった。

 通学用バスを最後に降りた男子生徒が華族生徒用の下駄箱にやってくるのが見えた。同時に、バスが彼の後方で発車する。葵はその男子生徒に見覚えがあったから、下駄箱のあたりで彼が来るのをしばらく待っていた。


「あ、葵」

「おはよう」

「ああ、うん。おはよう」


 やってきたのは、薬師やくしむく。彼はサクラ様に代々仕えている主治医・薬師家の長男で、葵の幼馴染だった。昔はよく一緒に遊んでいたが、顔を見るのは実に約1年ぶりのことだった。


「戻ってきたんだな。連絡くらい寄こせよ」

「うん、悪い。戻ってきたのは、一昨日。でもまた来月、向こうに戻るよ」


 椋はバツが悪そうに頭の後ろをかいて、苦笑した。困ったときの彼の癖だった。

 椋は中学3年生のあいだ、本土の医療系大学に通っていた。年齢はもちろん15だから、大学へ通うには若すぎるはずだが、薬師家の人間は島唯一の医者であり、将来的にはサクラ様の主治医になるための家系でもあるため、15になる年に、必ず本土の医学学校に通うことになっている。島の学校ではどうしたって、勉強をするための環境や教育設備に限界がある。


「成績はどうだった?」

「どうって――。うん、まあ悪くないほうだよ」

「具体的には何番目くらい?」

「何番目……。えっと、うん。3月に試験やったんだ。定期試験。それだと、1番」

「悪くないほうってのは噓かよ」

「え、嘘じゃないよ。みんな、すごくて。僕、追いつくのに必死で」

「1番のどこが悪いんだよ」


 思えば、椋はいつもこんな感じだ。全体的に言うと自信がないのである。いつも「まあまあ」とか「悪くないよ」というわりに、すごくよくできるのだ。そういうところがたまに葵の癪に触ったりする。


「にしても元気ないな。来るの遅かったし。あのバス、最終だろ? いつもは朝一番のに乗ってるじゃん。時差で寝坊でもした?」

「本土とこっちに、時差なんてないよ。うん、そうだな。なんていうか。あはは」


 そう言ってまた、椋は頭の後ろをかきながら苦笑した。葵は彼の態度を不審に思ったけれど、ずっと勉強漬けで疲れているんだろうと思って、それ以上は言及しなかった。


「そういえば、弟のスズメがね。行きたいんだって、本土に。来年のうちに向こうの学校に通うらしい」

「弟って、まだ10歳だろ? 早すぎないか?」

「うん、僕もそう思ったんだけど。本人の希望もあって。早くサクラ様のお役に立ちたいって。それ聞いて、母上が同意したって感じ。今、本土の小桜家に滞在してる」


 小桜家とは、本土にある崇敬会だ。崇敬会とは、遠方で櫻神を祀っている組織のことで、いわば櫻神之国が櫻神信仰の本部だとするなら、崇敬会は支部のようなものだ。


「弟は、すごいよ」


 椋はため息まじりにつぶやく。それは憧憬というよりは弟の行動を不可解に感じているように、葵には見えた。

 椋は教室へ着くあいだ、ぼそぼそと何かを歌いだす。聞いたことのないメロディだった。


「何それ。本土で流行ってるの?」


 思わず聞くと、椋は笑って首を横に振った。


「本土の学校でたまたま聞いたんだ。日本にかなり昔からある曲だって。タイトルは『さくらさくら』」

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